楼門と金堂

鐘楼と楼門

瓦葺の金堂
120年前の不動院の伽藍
不動院の歴史を知る上で、貴重な記録である江戸時代の「新山雑記」では、 当寺の開基は僧空窓であると伝えられています。 又、「当山記」には行基が開基とも伝えられていますが 創建年代や由緒については判然としていません。 只、金堂内に安置されている本尊薬師如来像が定朝様式であることから、 当寺は平安時代には創建されていたと推察されています。
現在、当寺が安国寺不動院とよばれる由縁は、 南北朝の戦乱で散った武士達の霊をなぐさめるため、 足利尊氏、直義公兄弟が日本六十余州に設立した安国寺の一寺であっとことに由来します。 以後、安芸安国寺として、又、安芸安国寺守護武田氏の菩提寺として繁栄しました。 しかし、戦国時代の大永年間(1521〜27)、 武田氏と大内氏の戦いにより安国寺の伽藍は焼け落ちてしまいました。 その後五十年は藁屋に本尊薬師如来を安置する有様であったと記録されています。
戦火で荒れはてた当寺を復興したのが、戦国大名、毛利氏の外交僧として、 又、豊臣秀吉公の直臣大名として戦国の世に名高い安国寺恵瓊です。 天下人となった豊臣秀吉公は、 恵瓊が住持を務める当安国寺に寺領として一万千五百石を与えました。 このような石高寺領は当時の中央社寺に比較しても破格の規模であるといわれています。 恵瓊はこの間当寺の伽藍復興に努め、金堂、楼門、鐘楼、方丈、塔頭十二院などを復興整備し、 寺運は隆盛を極めました。
しかし、関が原の合戦で西軍に組した恵瓊は非業の死をとげ、 毛利氏も防長二国に国替となりました。恵瓊なき後、寺領は没収となり、 寺運は次第に衰えてゆきました。毛利氏が去った後、 福島正則が芸備両国四十九万石の大名として入国しました。 当寺には正則公の祈祷僧である宥珍が入り、住持となりました。 この時、宗派を禅宗から真言宗に改め、不動明王を本坊に移して本尊とし、 本坊を不動院と称しました。
後に当寺院全体を不動院と称するようになりました。 正則公の治世は二十年足らずで終り、浅野氏が新しい国主として広島に入りました。 以後、藩政時代を通じて浅野家歴代藩主の保護を受け、概ね安定した時期が続きました。
やがて明治に至り、当寺は時代の権力者の手から離れ、庶民の信仰の場となりました。 昭和二十年八月六日の原子爆弾投下に際しても山麓という地理的条件が幸いして災禍を免れ、 一瞬にして多くの文化財を失った広島にとって、当寺は幾世紀にも及ぶ風雪に耐え、 昔の栄華を今も留める極めて貴重な存在となっています。


トップへ戻る