あの日の不動院

昭和20年8月6日の朝

       被爆建物である不動堂の屋根の葺き替えをするにあたり、
              8月6日の不動院を知る。

(原爆被災史 広島市発行)

不動院は爆心地から3.9キロメートル、市の中心部からかなり離れた山麓に位置しているため爆風による被害以外、大きな被害を受けることは無かった。

8月5日から6日朝にかけても、特に変わったこともなく関龍暁住職夫妻と子供ひとりが住んでいたが、幸いにも原爆による負傷者も出ず、火災も発生しなかった。

しかし市の中心部で被爆した人達が郊外へ逃れる道筋であったために、次々と続く無惨な姿の被災者の死の行列は北へ北へと続き、力尽きた人々は死体となって、道路といわず川土手といわず、埋めていったという。不動院の境内には被爆者があふれ、修羅場と化した。

山門前では衛生兵が出て被爆者救護のためドラム缶入りの大豆油を用意して火傷の治療を開始したが、順番待ちの列の中で治療を待ち切れず息絶えた人も多かった。

被爆後、市中から親類縁者及び檀信徒をはじめ、一般の罹災者が避難して来て、庫裡・不動堂に充満し、ついに境内にはみ出し、暫らく起居していたが、中には、広島陸軍病院関係の軍医なども負傷して避難して来ていた。 

被害状況
〇金堂   大柱が4本が折損したが、仏像などの被害はなかった。
〇鐘樓   柿葺き屋根のため雨漏りが激しくなり、白壁がほとんと゛落ちた。
〇不動堂  屋根瓦の破損があったが、仏像などの被害は無かった。
〇山門   屋根瓦の破損
〇庫裡   瓦屋根、天井 建具などの破損
                              抜粋


牛田新町3丁目被爆記(不動院町内会)       W・Sさん

あの日の8時15分 空を見上げていた主人が「あっ何やら落とした。逃げぇ」私は炊事場の土間へ走りこんだ。爆風で父は庭にはね飛ばされていたが無傷でした。県道に遠足のような怪我人の行列が見えました。軍刀を杖に歩く将校さんの顔は灰色で火傷ではれ上がったいるのが遠目にも解ります。大事が起こった。

当時牛田新町三丁目にも、有事にそなえて救急隊が結成されていました。すぐ不動院の前の県道まで走っていった。救急隊へは5、6人の女性が集まっていました。集合したが薬も無い包帯も無い。てんでに蒲団の裏地、カバー、油の一升瓶等を持ち寄りました。全裸の兵もいるので関住職は上着をぬいで着せてあげられた。他の者は褌をしてあげた。水を飲ませたら死ぬと思い、兵隊さんに「うがいだけ」と言って水をあげる。「うがいだけ」と言って兵は水を吐き出しました。

一人の兵が西本家 (不動院山門の前の家) の塀にもたれてへたりこみました。なぜだか無傷で外套を着ている下士官が「こら立て」と叱咤しました。兵は紫色の顔の眼を一杯に見開き、ブルブルとこまかにふるえだしました。異境の路傍の衆人環視の中で一言の抗弁も出来ず死んで行こうとしている兵。「動けないんです。担架で運んでください」わたしは叫んでしまいました。

火傷に塗る油はすぐ無くなりました。誰かの知恵でキュウリもおろして塗りました。「お姉さん僕にも塗ってください」振り向くと、はだしの中学生は足の裏がはじけて皮が飛び出していました。平時なら一歩も歩けぬ重傷なのに幼顔の中学生は泣きもうめきもしませんでした。倒れる人は戸板で天水の救急隊にリレーします。関住職は負傷者を不動院へ連れて帰り、谷川の水を腹一杯飲ませました。


当時の不動院の金堂には、軍事物資の新品の自転車、傷痍軍人の白の寝巻き、乾燥醤油、乾燥味噌、一斗缶入りの食用油、トランスオイル、馬の蹄鉄、木箱入りの牛缶、鐘樓のほうには医薬品がぎっしり詰まっていましたが、被爆の瞬間金堂南側の丸い大柱二、三本に亀裂が入りカトウ窓が壊れただけですみました。油缶の一杯詰まった不動院は残りました。

そして敗戦後、金堂めがけてトラックを乗りつける者までいて、その上、関龍暁住職の名をかたって油を売り歩くものまで出ました。

関住職は明治21年のお生まれ。酷寒の満蒙を日露戦争の従軍僧として踏破され、後に檀家の少ない名刹不動院を生涯掛けて守り抜かれた方でした。

以下略
(〔牛田の被爆 牛田ニュース発行〕不動院の部分を抜粋して掲載しました。)


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