病棟の人たち 人生の分水嶺 -1-

 あわただしく書類を書いた後、少し落ち着いてきた。病棟の人々の様子も分かるようになってきた。ベットの鏡をくるくる回して病室を見るのだ。

 「分水嶺」という言葉がある。たとえば日本の山の頂で、雨が降ったとき頂上の1ミリ右に降った雨は太平洋に、1ミリ左に降った雨は日本海へ流れるといった水を分ける頂がある、それを分水嶺という。人生にもいくつもの分水嶺があって、たった1ミリが、わずか一瞬が、人生を大きく変えてしまう時がある。この病棟にいる人は皆、一瞬で人生を分けた人たちだった。この病棟にいるのは、一瞬で頸椎損傷、腰椎損傷になった人たち。腰椎の神経を損傷すると、腰から下が動かない半身麻痺になる。頸椎の神経を損傷すると首から下が動かなくなる全身麻痺である。

 隣のベットの中学2年生の男子

 彼は、半身麻痺である。腰から下が一生動かない。ずっと前に他の病院から転院をしてきた。原因は医療ミスだった。テニスの好きだった彼はテニス部で、毎日のように練習をしていた。ある日練習で腰を痛めて病院に行った。そこの医師は、彼の腰に注射を打った。その注射は彼の腰椎の神経を傷つけ、たった1本の注射で一生歩けない身体になった。歩けないだけでなく彼の足は麻痺をしていて、自分ではもう二度と動かすことが出来なくなった。もし、病院に行かず家で寝て直していれば、こんなこともなかっただろう。明るく、とても性格のいい中学生で、お母さんがいつも付き添っていた。仲のいい母子で、いつも楽しい話をしていた。そんなある日、夜寝る前にお母さんが子どもにゆっくりと話しかけた。「お母さん、あの病院にあなたを連れていったことを、何度も悔やんだわ。それから注射をしたお医者さんを、とても恨んだわ。医療の裁判をすることも何度も考えたわ。でもね....今はもう誰も恨んでいないよ。お医者さんに責任があるとも考えなくなったわ。人間の運命だったと思い始めたわ、神様が決めた運命だったのよ。あなたとお母さんがこうやって病院でいるのも、運命なんだって、最近そう考えだしたのよ。だから、あなたも誰も恨んじゃダメよ、いい。」「うん。」そんな会話が聞こえてきた。聞きながら目頭が熱くなった。彼は、いつも学校にとても行きたがった、学校のこと、学校に行ける日のことをお母さんと考えていた。その頃、岡山の中学校には車椅子用のトイレはなかった、階段もどうしよう。いろいろ考えて学校に相談に行った。何ヶ月かたって学校が障害者用のトイレをつくってくれることになった。岡山県の学校では初めてのことだといっていた。その学校に行くために毎日リハビリを欠かさず、新しい車椅子の練習を始めた。

車にはねられた人

 交通事故で、腰椎・頸椎損傷になる人も多い。向こう側のベットに寝ているのは、若い女の人の車にはねられたおじさんだ。腰椎損傷で半身麻痺。とても陽気な奥さんが付き添っていて、この病室のムードメーカーになっていた。「おとーさん、リハビリ行くで」と、よいしょ、よいしょと抱えて車椅子に乗せる。おじさんは、「あー、腰の神経どっか落ちてねえかなあ」といいながら、車椅子を押されて部屋を出ていく。このおばさんも、中学生の母親も、家族のベットの横にサマーベットを置いて寝泊まりしている。この人達の家庭はどうなったのだろう。中学生の家には、妹と父親が2人で暮らしているそうだ。おじさん達の子どもは他で働いているので、二人だけの家は空き家になっているそうだ。

屋根から落ちたおじさんたち

 屋根や高い所から落ちた人も何人かいた。この人達は、ほとんどが大工さんである。腰椎損傷や、手や足の複雑骨折。屋根から落ちて頸椎損傷の大工の棟梁は、入院中に娘さんの結婚式があった。父親なのにひとり娘の結婚式に出席することが出来ないもどかしさがあったのだろう。その日の朝食が喉を通らず、じっとうつむいていた。声をかけると、腹立たしく誰にも八つ当たりをした。気持ちは分かるんだけど、もうちょっと落ち着いてほしい。でも、この人達は一度屋根から落ちただけで、もとの大工には戻れない。退院してもどうやって食べていけばいいのか途方に暮れるのみだった。

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