くびのほね日記

2000年 ミレニアム 特集

2000.2.7

人生の中で風化しそうな記憶を、もう一度よみがえらせるための

「くびのほね日記」

第一章

かなる地平、遙かなる病院を求めて


1.「人生の中で、たった3秒間の間違い、なぜ.....」

 あれは、確か27才の夏、西暦1981年7月8日頃の出来事だった。とある、きっかけでプールに飛び込んだ。なぜ飛び込むようになったかは、直接会った時に、そのことを聞かれたときだけ説明している。だから、ここでは説明はしない。この1回プールに飛び込んだことで、全県下で同じ業種の人には、「どこの誰だか知らないけれど、誰もがみんな知っている」有名人になった。

 プールに鋭角に飛び込んだ瞬間、確かプールの底に手が着いた時、足の先はまだ空気中に出ていたのを今も覚えている。プールの底から、すごい衝撃が全身を伝わった。はじめに手の先がボキボキと突き指をした。同時に肱が「く」の時に曲ったと思った瞬間、頭のてっぺんを強打した。首筋に重く鈍い衝撃と痛みが走った。「なぜ?」「なぜ?」「なぜなの....?」最初に頭に浮かんだのは、こんな言葉だった。「なぜ、こんなにも痛い目をしないといけないの....」「なぜ、ぼくだけが、こんなめにあうの.....」「なぜ、こうなったの.....」「なぜ、なぜ、なぜ.........」おそらく交通事故などで、死ぬ予定がないのに突然死んでいく人も、きっと「なぜ、なぜ」を連発して死んでいくに違いない。後に、よくこんなことを聞かれた「なぜ、頭を打つ前に手をださなかつたの」と、しかし勢いよく落下する大人の身体は手などで支えられないのだ。

2.数秒のなかの人生

 そして次の瞬間、自分の人生が、赤ん坊の時から現在まで、映画のフィルムを早送り再生をするように、鮮やかに蘇ってきた。よく死ぬ直前、人間は自分一生を一瞬のうちにかいま見ると言われるが、それは本当である。もうすっかり忘れてしまっていた、赤ん坊の頃、子どもの頃、大人になるまでが、映画のように鮮やかに思い出される。その一瞬一瞬の風景が自分の原風景であった。いまでも、その風景をはっきりと覚えているのは、流れる水の場面だった。夏の暑い頃、小学生の自分が、毎日通っていた八百屋兼雑貨屋の店の横に、冷たい水が流れていた風景。当時、クーラーとか電気の冷蔵庫などあまりなく、井戸水を電動ポンプで汲み上げ、大きな樽の中に貯めてスイカなどを冷やしていた。その汲み上げた水が朝から夜まで流れ続けていた。夏の暑さの中で、通りがかりに冷たい水に手をつけては帰っていた。この些細な記憶は、子どもの頃に体験したきり、一度も思い出すことはなかったが、プールの水の中で鮮やかに思い出した。この不思議な記憶は、子どもから大人まで、次から次へと心地よく思い出していった。もう十分味わった、水の中で何時間もの長い時間がたったような気がした。現在まで記憶をたどったとき、水面に顔が上がった。飛び込んで、水面に顔が出るまで一体何秒だったのだろう。ほんの数秒の間に夢のように過去27年を振り返ったことになる。 

 水から顔が上がった瞬間、一気に現実にもどった。背骨から頭まで、鉄棒を差したように、首がピクリとも動かない。病院は大嫌いだったけど、「いだぁ〜 っ!! 病院、病院に行かなくては...。」と、初めて思った。プールサイドに、うつ伏せになって、痛みと身体の異状に耐えていた。

3.「お願い!! だれか、病院に連れていって....」

 ここにいては、ダメだ。誰かに助けてもらわなくては、とやっと立ち上がって、プールを出て最初に会った医務室の頼りになりそうな人に、「くびが、くびが、うごかんのよお」と訴えたら、「あとで、サロンパスはったげる」と言ってくれた。その後、仕事で予定されていた会議があって、無理矢理連れて行かれた。会議に来ている人に「くびが、うごかんのよお」と訴えるが、誰も耳をかしてくれない。そのうち私は存在を忘れられた。オレの頭ってこんなに重かったっけと思うほど、頭が重量感がある。身体と両手で、やっと支えることができた。1時間以上かかって、会議が終わって周りの人が落ち着いたところで、「あのお〜、くびが、うごかんのよお」と訴えると、やっとかわいそうに思ってくれる人が現れた。「何でそんなこと、はよ言わんのや。そりゃ、はよう帰って病院いけや」と言ってくれた。私のけがは、ここで初めて人に認知されたので、とてもうれしかった。

4.やっと近くの病院に着いた! 「ムチ打ちですね」

 一番近くの小さな病院にかかった。首の状態をどうにか説明し、その後レントゲンを撮ってくれた。「くび、どうかなってますか」と聞くと「うむ、ムチ打ちみたいなもんや。家で2〜3日寝とったらええ。」と言ってくれた。どうにか、家まで帰って、2〜3日仕事を休むことにした。次の日、目が覚めて驚いた。頭が重く自分の力では持ち上がらないので、家の人に頭を持ってもらい「よいしょ」と起きないと、自分では起きられないことに気が付いた。くびもピクリとも動かない。首が動かないのは不便である。後ろや横に向くときは、ラジオ体操の左右に身体を曲げる運動のように、身体をねじらないと向けない。首以外には、指の突き指と頭のてっぺんにタンコブが出来ている以外、とくに何もなかった。3日間寝たけど状況は変わらない。もう一度、病院に行って見てもらおうと電話をかけたら「近くに病院いっぱいあるやろ、そこで見てもろたらええ。うちまで来んでもええで...」と言われた。何と無責任な医者であろう。しかし、この町医者より近所にある岡山市立妹尾病院の方が大きいから、その方がいいなあと思って納得した。

5.岡山市立妹尾病院に行く、「首の骨が折れています」

 妹尾病院は大きそうだから、ちょっと安心。ここでも事情を話して、レントゲンを撮る。レントゲンを見ながら医者が「首の骨が折れてますねえ」と静かに言った。びっくりして「エッ! 。クッ、クッ、首の骨が折れたら死ぬんじゃないですか?」と尋ねた。「うーーん。どうですかねえ、まあ、ほかの所に異状はありますか」と聞くので「いえ、ありません首だけです」と答えた。「そうですか、じゃ1週間ほど様子を見てみましょう。首を支える補助具をあげますから、これをして安静にしておいてください」と言って、むち打ちの人がよくしている首のワッカをくれた。そして、また治療もなく1週間安静に過ごすことになった。しかし首の骨が折れていることだけは分かり「首の骨の骨折」で診断書が出た。このことで、「首の骨を折った」情報は、家族から親戚、職場から知人に一気に広がっていった。ある日見舞いに来てくれた親戚の人がほつんと「首の骨って、安静にしてたら直るんか?」と母親に尋ねた。「うーん、直らんような気がする」と母親が答えた。その通り「安静にしていても、首の骨は治らない」こんな当たり前のことに初めて気が付いた。「もっと、大きな病院に行こう」これが結論である。見たこともない遠い親戚に内科の医者がいたので、この人に紹介状を書いてもらって国立岡大病院に行くことになった。

6.国立岡山病院に行く、「今すぐ手術をするぞ」

 国立の病院で、また同じような説明をしてレントゲンを撮ってもらった。しかし、ここのレントゲンは今までのレントゲンの撮り方と違った、あらゆる角度から撮った。ここの医者は、レントゲンを見たとたんキッパリと診断した。「あなたは、第5頸椎圧迫骨折です。」今まで知らなかった病名をはっきりと聞いた。そして「手遅れにならないよう、今すぐ、頭蓋牽引という手術をします。」といいきった。「ええっー、手術ですか、そんな、こまるなあー」とうろたえている私の横で、看護婦さんに指示を出し始めた「入院用ベットの空きを確認しなさい」「手術室のスケジュールを確認して、手術できる時間があったら確保しなさい。」と、瞬く間に看護婦さんたちが動き始めた。「どぉ〜しょう」と思っていたら、看護婦さんが帰ってきた「ベットは、いっぱいです収容できません」というと、「治療できる医師のいる他の病院に転送するぞ」と医者が叫ぶ。なんか自分って、ひょっとして「急患なの」と聞くと、「当たり前だろ、首の骨が折れてんだから」と言われた。なんか初めてけが人のように扱われて、ちょっとうれしかった。「労災病院に送るからな、電話して頼んでやる」といって電話をかけ始めた。「労災病院、整形外科の医者を頼む。えっ、お前だれ、○○医師?。ダメだ、ダメだ、整形外科部長は、今誰がいる?部長を出せ。..........おお安田部長、頸椎損傷で第5頸椎圧迫骨折の患者、今そっちに送るから、頭蓋牽引を頼むよ、20〜30分で着くからな、よろしく。」と言うことで、労災病院が受け入れてくれることになった。労災病院では、急患としてもう入院手続きもしてくれているそうだ。「あんた、ここまでどうやって来た」と聞くので「車で来ました、自分で運転して.....」と答えた。ちよっとびっくりして「そうか、気をつけていけよ」と言われて別れた。

6.労災病院に行く、「足を切断した男性より、頸椎骨折が優先」

 労災病院についた。この病院は救急病院でもあり、労災事故やけが人を受け入れる。玄関の前には急患が来るのだろう、救急車の到着を待つ医師と看護婦さんたちがストレッチャー(救急車の中によくある、けが人を乗せて運ぶコマ付き担架みたいなやつ)を用意し、物々しく待機していた。その間を抜けて「入院手続き」のカウンターに行く。ここは、とても混雑していて待っている人も多く40分ほど待たないと順番が来ないと言われた。待合室にしばらく座っていたものの退屈なので、病院内を探検することにした。珍しいことに、ここにはちょっとしたコンビニ程度の売店もあるし、軽食喫茶も病院の中にあった。ここでコーヒーでも飲んで40分を待つことにした。週刊誌を読んで、コーヒーを飲み、たばこを吸ってヒマをつぶした。首の骨を折っても、たばこだけはいつものように吸っていた。その時、館内放送が流れた「やぶき○○さん、やぶき○○さんね病院内におられましたら、至急玄関までお越しください」えっ、それって私なのと思って、コーヒーを急いで飲んで玄関へ向かう。でも、玄関には、さっきの救急車を待つ看護婦さんやお医者さんしかいない。しかたなく「あの、さっき放送で玄関までって放送されたんですけど、どこに行けばいいのですか」と聞いてみた。すると、看護婦さんが「あなた、頸椎損傷で岡大から来た、やぶき○○さん?」と聞くので、「はい、そうです」と答えた。「え〜っ、ここでみんな待ってたのよ、首の骨が折れてるのでしょ。」とか言われた。「あなた、歩けるの?」と聞くので、もちろん歩けますと答えた。頸椎損傷で首の骨の骨折から考えて、どうも重度の障害を持ち、救急車でやって来ると思っていたようだ。順番待ちで預けていた入院手続きの書類を見て、びっくりして放送してくれたらしい。

 しかし、この瞬間から私は、まさしく急患として扱われだした。喫茶店でのんきにコーヒーなど飲んでいてはいけないらしい。たくさんの順番待ちの外来の診察も、順番無視で真っ先に診察をしてくれた。急いで医師が岡大からの書類に目を通す。「すぐ、レントゲンだ」と言われ、またレントゲンを写すことになった。レントゲンも全ての待っている人を無視して一番である。それが、どれぐらい凄いことかと言うと、私の後に救急車が着いて若い男性が足首切断で、ちぎれた足といっしょに病院に運ばれてきていた。レントゲンを撮れと言うことで、すでにレントゲン室に入って撮る寸前のところに、私と私のレントゲンを撮ってくれる技師の人が入っていった。私のレントゲンを撮ってくれる人が「ちょっと待って、こっちの人先に撮すからどけてよ」といった。「何いってんの、こっちが先、足首切断だよ」と向こうが言う。「こっちは、首の骨の骨折!!」と技師が言うと、向こうは黙ってしまった。あっという間に「足を切断したお兄さん」は、レントゲン室の床に降ろされてしまった。床の上に、たお兄さんが寝かされ、足下に包まれた血だらけの足首がある。苦痛に耐え顔をゆがませながらも、あっけにとられている。「ぼく、後でいいから、先に撮ってあげて」というと、技師の人が「足首は生死に関わらないから後、首の骨折は生死に関わるからね、先だよ」と言って、私を先に撮り始めた。この言葉を聞いてこのお兄さんは、苦痛に耐えながら確かに苦笑いした。しかし、このレントゲンが、ていねいで、前、後、右、左、斜めと、あらゆる角度から撮影する。その間、足を切断した人は、痛みに耐え情けなさそうに、私をジッと見ていた。「こいつ、ホントに首の骨折ってるの?」「ちゃんと歩けるじゃん?」「ちゃんとしゃべってるじゃん」「あんまり痛そうじゃないじゃん?」「なんで、オレが後なの.....」と言いたそうに。

                       

第2章につづく サーチライトをクリック