西国巡礼を始めた動機


はじめに
1995年〜1996年にかけて、第一回目の『 西国巡礼三十三所観音めぐり 』をしました。
このホームページは、その時の各寺の印象とエピソードをベースに霊場の案内・紹介
をしております。

これから西国巡礼を始めようとされる方の参考になれば幸いです。

また、それ以降も二回・三回とお参りしたお寺があります。
そのときの新たな感想等も加筆し、内容を更新しています。

その後、2001年に故郷鳥取県に「Uターン」しました。
ですから、多少書き込みが陳腐化した箇所もあるやも知れませんが、ご容赦ください。

もし出来ましたなら、その陳腐化した箇所をy-tanaka@ms10.megaegg.ne.jpまでご連絡
いただくと非常に嬉しいです。


1996年10月26日読売新聞・朝刊( 読者投稿欄 『 気流 』 )に『西国巡礼で感じたこと』を投稿しましたところ、その記事が掲載されました。
−西国巡礼の動機−
西国三十三所観音巡礼を始めようとしたのは、ちょっとしたきっかけでした。

独身のころから今日にいたるまでハイキングが大好きで、その延長線に寺社巡りが
ありました。

若かりし頃は無神論者などと自称し、お寺に参拝してもまともに手を合わせることな
どなかったように思います。

それが齢を重ねるとともに『 手を合わせる 』ことに抵抗感がなくなり、『お寺のことを
もう少し知らないとダメだな』と感じ始めた矢先でした。

そんな私が、京都・東山の泉涌寺(せんにゅうじ)に行った時のことです。

泉涌寺から裏道を抜けて、出てきたところが西国三十三所観音巡礼・第十五番札
所 『 今熊野観音寺 』 だったのです。

『 西国巡礼・・・ 』の何も知らないまま、平日で参詣する人も少なくなにするということ
はなく、巡礼の方を見ておりましたが、何か『 興味といいますか導かれる
ものがあり 』その巡礼の方のそばに寄っていきました。

その方は西国巡礼にとても熱心な方で、いろいろなお話を伺いました。
また、『記帳されたもの(御朱印帳)』をありがたそうに、大事そうにされていました。

お話を聞いたりそれを見ていて、『 やってみるかッ 』となった次第です。
動機は単純で、スタンプ・ラリー(御朱印)でもやる気分でした。

しかし、お参りを重ねるごとに仏教とは何なのかわかり始めると、自分が少しづつ変
わっていくのがわかってきました。 その辺のところは、お寺の紹介の部分で書いて
おりますので、読んでみてやってください。


◆ 西国巡礼のこころ◆

手甲、脚絆に白装束を着て、すげ笠をかぶり、金剛杖を持つという巡礼の正装は、
仏の前ではいっさい平等であるということを示すものだったそうです。
また金剛杖は、弘法大師の分身であるともいいます。

しかし昨今は、このような正装での参詣客は、まれにしか見ることが出来ません。

ご多分にもれず、私たちも普段着でのお参りでした。 巡拝の順序にもこだわりま
せんでした。 結局のところ、『 信仰心 』につきると思います。

信仰心といっても、わかり易く言えば 『辛い時は、観音さまに助けていただこう!
という気持ち 』だと言えます。

巡礼では、行き交う人に挨拶を交わし ( 山登り等をすると、皆さん挨拶を交わしま
すね、あれです・・・)謙虚になり、心を開放することだと思います。

それさえあれば、あなたはもう充分、『 巡礼のこころ 』があります。

さあ、あなたもとりあえずインターネットで『 西国巡礼三十三所観音めぐり 』をして
みましょう。
◆ 西国観音巡礼とは◆
−日本の観音巡礼−

聖地・霊地としての社寺等を順々に参拝して巡ることを巡礼と言います。

古来より行われている宗教的行事で、日本で有名な『 巡礼 』としては、この西国
三十三所観音巡礼と四国八十八ヵ所遍路、そして観音巡礼に関しては坂東三十
三所観音巡礼・秩父三十四所観音巡礼があります。

観音巡礼としてはこの三つの巡礼を合わせ、巡礼百観音として有名です。

その他全国の観音巡礼には、奥州三十三所、最上川流域の最上川三十三所、
中国地方を網羅する中国三十三所、信濃三十三所、津軽三十三所、出雲三十三
所等々があるようです。

そして更に忘れてはならないのが、過去に非常に盛んであった熊野詣の熊野三山
とそれに至る道中の九十九王子の巡礼があります。

−巡礼と遍路の違い−

観音札所をめぐることを巡礼といい、四国霊場をめぐることを遍路といいます。

巡礼は、観音との出会いの中で『 自分を知るこころの旅 』です。
遍路は、弘法大師と共に歩み『 過去のいやな自分に別れを告げて、これからの幸
せを得るための旅 』です。

−なぜ三十三ヵ所なのか?−

それは観音さまが三十三の姿に身を代えて人々を救うことからきているようです。

−西国巡礼の起源は?−

西国巡礼に関しては、その起源や信仰の歴史は諸説入り乱れ本当のところは断
定出来ないように思われますが、いずれにしても近畿地方が古くより西国と呼ばれ
観音さまが三十三の姿に身を代えて人々を救うということから、観音菩薩を本尊と
する三十三ヵ寺をめぐるものです。

伝説のひとつとしてあるのは、奈良時代に、長谷寺に徳道上人という人がいたが
病がもとで亡くなられた。しかし上人は、数日後に息を吹き返しました。

上人は、息を吹き返すまでの数日の間に地獄に行き、閻魔大王に会った。
すると閻魔大王は、『 まだお前は死期に達していないから帰るが良い。 帰ったら
三十三ヵ所の霊験あらたかな観音堂があるから、これを知らせるように! 』と命じ、
三十三ヵ所の印を、徳道上人に授けられてのです。

生き返った徳道上人は、そのことを人々に聞かせたが、当時の人たちの間には信
ずるものがいなかったので、いろいろ悩んだ末にその印を中山寺に納めたという。
三十三ヵ所の札所には、平安時代創建の寺も多いので、この話が物語りに過ぎな
いように思われます。

しかしはっきりとしているのは、『西国札所巡礼 』が、これほどまでに盛んになった
中興の祖は、花山法皇に違いありません。
その根拠は、花山法皇に由緒のある元慶寺と花山院が観音菩薩を本尊としない
にもかかわらず番外に加えられていることから容易に想像できます。

花山法皇は、十九歳の時に出家されたが、その後比叡山に登って修行を行い、書
写山に性空(しょうくう)上人を訪ね、熊野那智にも度々参詣し、粉河寺にも足を運
ばれたのです。

その遍歴は法皇のさまざまな現世的な悩みに直面しながら名僧の教えを受け、霊
験あらたかな仏を訪ね、自らの修行の場を求めるためであったと想像されます。

日本の仏教の歴史をながめてみると、山岳修験者、天台・真言の高僧のあいだに
は、諸地方に散在する修行の場所を求めて遍歴する人たちが多かったのに気付き
ますが、花山法皇もそのひとりであったと言っていいでしょう。

室町時代以後、一般にも観音信仰が浸透し盛んになって今日に至ったと聞きます。


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