不空羂索観音が待つ
 第九番札所 ・ 奈良県奈良市 

第九番札所 興福寺 南 円 堂
こうふくじ なんえんどう )
#9 Koufukuji - N a n e n d o - T e m p l e
● 御詠歌 ●

『 春の日は 南円堂にかがやきて 三笠の山に晴る うす雲 』


本尊 不空羂索観音菩薩 開基 藤原 冬嗣
宗派 法相宗 創建 弘仁4年 ( 813年 )
住所 奈良県 奈 良 市 登 大 路町48 交通
近鉄奈良駅から徒歩5分。
JR奈良駅から徒歩約15分。
電話 0742−22−7755
西名阪道の天理ICから国道169号線を
北へ約8kmで県庁前。
阪神高速からは阪奈道路経由で約25km。
拝観料 無料 駐車場
県庁東に県営の登大路駐車場。
約300台。

猿沢池と五重塔 大修理を終えた南円堂

八世紀初めに建てられた、古都奈良を代表する大寺です。
興福寺の境内の一角に、第9番札所南円堂があります。
『七つに奈良の南円堂・・・』と、数え歌にも歌われているように、昔から南円堂は広く人々に親しまれてきました。
興福寺には、門もなければ塀もありません。

興福寺の歴史

興福寺は、もともと山階寺(やましなでら)といい、藤原鎌足により、京都・山城に建てられました。その山階寺を藤原不比等によって移築されたのが藤原氏の氏寺・厩坂(うまやさかでら)のこと。
当時、厩坂寺は飛鳥の浄御原(きよみがはら)にあったのですが、それを奈良に移したものといわれます。

厩坂寺は藤原鎌足の夫人の鏡女王(かがみのみこ)が、藤原鎌足の遺志を継ぎ釈迦三尊像を安置。結局、変遷の歴史は、山階寺→厩坂寺→興福寺となったようです。

その後、興福寺は次々と伽藍が揃い、元明天皇・元正天皇が北円堂、聖武天皇が東金堂、光明皇后が五重塔と西金堂を建立していきます。

奈良・平安の時代に最も権勢を誇った藤原氏の氏寺として、一族の盛衰と運命を共にしてきました。
平安時代には、藤原氏の氏神・春日大社と共に空前の繁栄を誇り、170もの堂塔を持つ、壮大な大伽藍だったといいます。
そしてとうとう南都七大寺の一つに数えられていき、多くの優秀な僧たちが生まれました。

しかし、南円堂のキーワードは『火災』で、たびたび火災に遭い、その都度復興の歴史を繰り返してきました。江戸時代には、中心伽藍のほとんどが焼失し、現在は東金堂、五重塔、北円堂、三重塔、中金堂そして南円堂が主だった伽藍として再建されています。

しかし明治初期の廃仏毀釈によって次々と伽藍は消え、奈良公園の一角となっていきました。

南円堂は奈良公園の一角

南円堂は、伽藍の西南方向の端に位置し、猿沢池のすぐそばにあります。

南円堂は、藤原冬嗣が父の遺志を継いで建て、弘法大師から与えられたという観音像を本尊にしたといいます。堂の下に白銀の小観音像1000体を埋めたと伝えられ、一族の繁栄を祈願し、観音の仏徳を広く一般の人々にも分かち合おうとして建てた堂だったそうです。

三十三所の中で不空絹索観音菩薩を本尊とするのはここだけで、絹は獣を捕まえる罠、索は魚を釣り上げる糸で、苦しみうめく人々を救い上げ、全ての願いを空しくせずに叶えてくださるという意味のこの観音さまは、運慶の父「康慶」と一門の作といわれ、国宝です。

守りを固める四天王像

もろもろの願いを空しくすることなく、全ての人々をもれなく救う不空羂索観音を守るのは、高さ2メートルの広目天、多聞天、持国天そして増長天の四天王像です。

南円堂という八角形の堂内に並ぶ本尊をはじめとする数々の仏像。
調和のとれた空間が広がっています。

平成大修理を終える

『秋風や 囲いもなしに 興福寺』と正岡子規が詠んだように、塀で囲まれない境内はどこからでも入れ、庶民の寺として親しまれていることが感じられました。

南円堂は一昨年、5年がかりの解体修理を終えました。
東大寺、奈良国立博物館も近く、ブラブラと一日がかりで訪れるのがよいでしょう。
毎年10月恒例の正倉院展見学を兼ねて行かれるのもいいかもしれません。

とにかく一帯は奈良公園、何を踏んでもあわてないこと。そうでなければ奈良公園は歩けません。足元には、おびただしい数の? 黒豆状の物体が・・・・・・。
● 一口メ モ

『 菩薩とは 』

菩薩は如来の教えの実践者である、と考えることが出来ます。
解りやすく言えば、如来になるために修行中であるといえます。
修行中の菩薩が、正しい実践を示すことによって、私たちも成長して清浄な世界に進めると信じることが出来るようになります。


『 合 掌 』