花山法皇出家の地
 番外札所 ・ 京都市山科区

華頂山 元慶寺 (がんけいじ)●
Kachouzan G a n k e i j i - T e m p l e
● 御 詠 歌 ●

『 待てといはば いとも畏し花山に しばしと啼 かん鳥の音もがな 』



■ 本尊 ■ 開基
薬師如来像 ( 秘仏 ) 遍昭僧正
■ 宗派 ■ 創建
天台宗 貞観11年 ( 869年)
■ 住所 ■ 交通
京 都 市 山 科 区 北 花 山 河 原 町 13 京阪京津線御陵駅から徒歩約20分。
または三条京阪から市バス北花山下車。
■ 電話 ■ 車
075−581−0183 国道1号線の川田道交差点から北へ約
800m、北花山で右折。
■ 拝観料 ■ 駐車場
無料、 8〜17時 山門前に約10台。無料。

白壁竜宮造りの山門 山門から境内を見る

西国巡礼の再興者の花山法皇が、この寺に入り出家されたことから番外札所になりました。

思い出に残る元慶寺

車で参拝した場合駐車場が何台分かはあるのですが、わかりにくくしかも狭いときています。竜宮造りの山門が見える参道の途中にあります。

元慶寺は、思い出に残るお寺です。といいますのも、お参りをした後いつものように「御朱印」をいただいたのですが、記帳していただいた住職?の方に、巡礼についていろいろ説明していただけたことです。

その時、私たちだけだったこともあるのですが、住職の人柄がしのばれてほのぼのとした気分で帰ることができました。

花山法皇出家の原因

ところで元慶寺については、西国巡礼中興の祖である花山天皇が関係していますから、詳しく書いてみることにしましょう。

話はさかのぼり十世紀の後半に他の貴族たちをおさえて政権をにぎった藤原氏は、摂政・関白をめぐって一族で争うようになりました。
その中で有名なのが兼通・兼家の兄弟間の争いです。その争いで負けてしまった弟の兼家はいったん左遷されますが、兄の死後は右大臣までのぼり、さらに、天皇家の外戚となって摂政に就任する機会をうかがっていました。

しかし、それには大きな障壁がありました。
外戚関係のない花山天皇が即位していたのです。
この頃は末法思想がしだいに広まり、人々はこの世に不安を感じるようになりました
釈迦の教えがおとろえ、戦乱・疫病や天災が起こると人々は信じていたのです。

比叡山で修行をしていた源信は、『往生要集』(おうじょうようしゅう)を著して、穢土(えど)…つまり、けがれたこの世を離れ、浄土(じょうど、=極楽)に往生(生まれかわること)する方法を説きました。

源信が『往生要集』を著した翌年のことです。花山天皇は最愛の妃が子を身ごもったまま亡くなったのをひどく悲しんでいました。そして、はかないこの世を厭(いと)って出家することを考えるようになりました。

なげき悲しむ花山天皇の側に仕えていた藤原道兼(兼家の息子)は、ともに出家することを約束しました。そして、夜中にきびしい監視の目をぬすんで道兼は天皇を宮中から連れ出します。これは花山天皇を退位させようとする兼家(道兼の父)のはかりごとだったのです。

道兼と花山天皇が出家のために元慶寺へ行く途中、天皇は大切にしていた最愛の妃の手紙のことを思い出して取りに帰ろうとしました。そこで道兼は『なんと未練がましい!この機会をのがすと、せっかくの出家もできなくなりますぞ!』と言って、うそ泣きをしたとも言われています。そして天皇の落飾(剃髪)が終わると道兼は都へ帰ってしまいました。
こうして兼家のはかりごとは、まんまと成功したのです。

この話は『 栄華物語 』や『 大鏡』に詳しく紹介されているそうです。

四十一歳で不遇な一生を終えた花山法皇を偲ぶ寺として、静かな元慶寺はふさわしい場所のように思われます。
どの建物も小さく、こじんまりとしており、また時々行きたくなる雰囲気を持ったお寺です。
● 一口 メ モ

『 護摩法とは 』

密教の修法の代表といえるものが護摩法である。

護摩法は息災法、増益法、敬愛法、調伏法など目的によって分類され、炉の形や護摩木の積み方などが詳細に定められている。

行者は護摩木や供物を火に投じ、真言・陀羅尼を唱えて本尊と一体になり、個人存在と大宇宙とが本来的にひとつであることを体験する。

元慶寺の主な行事
◆ 毎月8日 ・・・・・・・・・・薬師如来縁日
写経会
9〜16時30分 、 当日受付可


『 合 掌 』