甘霖



      霖は三日以上続く長雨の意。
      恵みの雨とは良く聞く言葉だけど、
      それを『甘い』と読んでみせる。素敵な見方。

      ――どんな感性があれば、そんな呼び方が出来るのだろう。
    

    

    

    

    

    
 身体が、重い。
 そりゃそうだ。と思う。
 あれだけ全力疾走した後だし、服、ずぶ濡れで水吸ってるし。
 ……でも、それだけじゃないとちゃんと解ってる。
 お腹の真ん中あたりの、多分、ちょうど心が納まってるあたりが重かった。
 濡れ濡れだから今更なんだけど、でもせっかく貰ったんだからと傘を差して、とぼとぼと家路を目指しながら。自分が先程感じていた、違和感の正体がなんとなく理解出来た気分になっている。
 ――淋しいなあ。
 と。唐突に感じた。そしてそれは、タチの悪い寒気のように全身を包み始める。
 ……うん。淋しい。淋しいな。なんて云うか、実際に、雨で寒いし。
 温もりが欲しい。
 優しく、包んでくれるような。安心して目を瞑れるような。
 そんな温もりが。
 なんて事をぶつぶつ思いながらとぼとぼ歩いていると。行く手ちょっと先にあるコンビニの自動ドアが開いて。
 そこから出てきた人物に運命を感じた。


 さて。話を少しばかり戻して。


 コンビニで立ち読みしてた本戻して「ありがとうございました」で外に出て湖の底みたいで。
 妖怪・雨乙女思いだして。自分で苦笑いして。
 まさかね。
 そうしてくるりと進行方向に翻った、
 その背中を襲われた。 

「ソールトっ!!」
「わ、わああ!?」
 がばあ。と、突然身長が伸びたような、目線がぐんと高くなる錯覚とともにすごく柔らかな感触にがんじがらめにされる。
「いやーんもうなーんてナイスタイミングっ」
 などと一瞬混乱しかけたけれど、
「そうよ温もりよっ 私はこの温もりが欲しかったのよー!」
 と、ぐりぐりぐり。耳の傍から聞こえてくるその声から急速に冷静さを取り戻す。
 ああ。なんてことはない。と云うかこんな事は珍しくない。ワッフルと云う女のヒトに抱きすくめられてるのだ。自分と彼女の下校時刻は、小学生と高校生だからかなり違うはずだけど。でも自分は寄り道しちゃったしなあ。その上で、ワッフルさんが急いで帰ってたらこんな鉢合わせも十分に有り得るだろう。などと冷静に状況分析。
「……今度から寄り道は控えよ」
「ん? 何が? 何で?」
「別に……」
「なによー。そんなことよりもこの運命的な出会いをもっと喜びなさいよ」
 ぐりぐりされる。
 その、凄く暖かくて、驚くほど柔らかいその感触に抵抗しつつも。なんかもう慣れ始めている自分になんとなく危機感を感じる。

 で。結局相合い傘で帰ることになった。
「ほら、もっとくっつきなさいってば。濡れちゃうわよ?」
「雨に濡れる方がまだマシかも」
「うわ。可愛くないわねー」
 更に云えば妖怪雨乙女の方がマシだったかも。とは思ったけれど、しかし彼女もまた妖怪みたいなモノなのだと云う事をソルト少年は知っている。
 さらりと揺れる金髪の両側面から覗く、茶色くて、ふさふさして大きく垂れてる犬みたいな耳と、同じくふさふさなしっぽ。それをまったく隠さずあんまりにも明け透けにしてるもんだから他の人たちはアクセサリーだと勘違いしてるみたいだけど、でも引っ張れば痛がると云うことを少年は知っている。あと、今の女子高生っぽい姿は仮のモノで、本性は猫とも犬ともウサギともネズミとも知れない動物だて事も。
 まあそんな事はともかく。
 執拗に傘にちゃんと入るよう強要してくるもんだから、自然と身体はべたべたと触れ合う。だからソルト少年。ふと、彼女が傘を持ってる割にはずぶ濡れなのに気が付く。それから見上げた傘が、なんて云うか、サラリーマンのおじさんでも今時持ってないような真っ黒い傘だったのにも疑問を覚える。
 だから素直に訊く。
「どうしたの? この傘?」
「え?」
 ギクリ。とワッフルさんの動きが止まる。
 ソルト少年。だから傘から二、三歩先行してしまい、おっとっとと傘の中に戻って、彼女のその反応が余りにも顕著だったから。
「……盗ってきちゃったの?」
「誰がするのよ。そんなこと」
 じゃあなんでそんな反応するのさ。と云う眼での問いかけに、自分の信頼の低さみたいなものを感じ取ったワッフルさんはうわー心外だわーとちょっぴり傷付きつつ。
 溜息ついて。
 先程出会って、別れたばかりの不思議な少女について、話して聞かせた。
 表情が人形みたいに少なくて、真っ黒い姿で、鞄ぶっつけられても平然としてるおんなのこの話
 ……但し、彼女の持つ、暗いだけでは説明の付かない独特の雰囲気とか。なんとなく話したくない事柄が幾つかあったせいで結局、『傘を持ってるのにそれを使わずずぶ濡れになって、挙げ句その傘を通りすがりのヒトにあげちゃう変な少女』と云った伝わり方しか、しなかった。
「ふーん」
 と。ソルト。それは妖怪・雨乙女だ。と真っ直ぐに思ったけれど。
「変なヒトだね」
「……すいぶんと率直な意見ね」
「うん」
 雨乙女だー。みたいな事を云ったらまた子供扱いされるだろうし。とは思いつつも。やっぱり謎めいた話に少年は聞こえたので、興味のまま話し掛ける。
「結局、なんでそのヒトはワッフルさんなんかに傘渡したんだろうね」
「なんか。って何よ」
 反論すべき処はきっちりしておいて。それはともかく。
「ソルトは、なんでだと思う?」
「え? うーん。なんでだろ」
 一応、考えてみる仕種の少年を直ぐ隣に、……でも、ワッフルさんには、なんとなく。彼女が自分に傘を渡した理由みたいなものに、見当は付いていた。

 あのおんなのこは……無関心だったのだ。あまりにも。ひょっとすると、何もかもにも。

 そう思う根拠は、希薄だった。自分がずぶ濡れてるのにまったく頓着してない様と、鞄をぶつけられたのに、鼻血まで出たのに、泣いたりも痛がりもせずに、その眼はなんだか遠くを見てた。それはつまり、自分の身体なんてどうでもいい。みたく、思ってるから。なんじゃないのかな。だから、ずぶ濡れになったって構わないから、この雨の中でも簡単に傘を他人に渡せたんじゃないのかな。
 そして、あの空っぽの瞳。
 それはまるでこの雨雲のような、柔らかな拒絶を感じた。私のことなんて何とも思ってないプラスマイナスゼロの厳しさ。
 その雰囲気。
 真っ直ぐに見詰められて、思わず怖気だってしまったあの雰囲気。
 彼女が持っていたそれは。
 ……空っぽの、雰囲気だったのかも知れない。
 何をされても特に何も思わない。何をしても特に何も感じない。痛くても、寂しくても、寒くても、悲しくても、あらゆる物事を、もしかすると自分が生きてるって事でさえ素通りしてしまう痛々しいまでの無関心。どんなに手を伸ばして探しても、何処にも何もない真っ暗闇の無感動。
 暗闇は怖い。私のような人間には。だから、彼女の雰囲気は、少しだけ、怖かった。
 ……彼女は、何であんなに空っぽだったのだろう。
 空っぽの人間なんて、存在するはずがないのに。
 私たちは色んな経験と、沢山の記憶から出来上がってる。外見も、内面も、とてもたくさんの何かから影響を受けて今のこの形を作ってる。だからただぼんやりとそこに居るだけでも、その人の中身はパンパンに何かが詰まっているはずで……産まれたばかりの赤ん坊でさえもあの可愛い笑顔、すごくうるさい鳴き声か、とてもとても沢山のものを持ってるのに。
 あのこには何もなかったような気がする。
 なんで何も無かったんだろう? 自分で捨てちゃったのかな。それとも誰かに捨てられたのかな。それとも、最初から何も貰っていなかったのかな。
 ……私が、いまいち何も話し掛けられなかったのは、それを確認するのが怖かったからなのかな。
 私が、あんなに。

 雨に関して色々思いついて、それを彼女に伝えたかったのは。彼女に何か持って欲しかったから……贈り物をしたかったからなのかな。

 どうなんだろう。
 わかんないわね。
 でも。
 まだ雨は降ってるのに、この傘を私に渡したってことは、ええと、つまり、自分はずぶ濡れても全然構わない。てことを私に伝えるためだったりとか、しないかな。つまりそれは、『自分は空っぽでも構わないからちょっかい出さないでくれ』みたいな事を云われちゃったってことになるのかな。
 だとすると。悲しいな。
 とても――すっごく、可愛いおんなのこだったのに。
 膝の上に、とても素直にことんと頭をのっけてくれた彼女は、なんていうかとても可愛かったのだ。
 そんな彼女が、自分自身にさえ無関心で、何もかもを諦めてて、笑ったりとか泣いたりとか全然しないなんて。
 凄く、悲しい。
 我慢できないほど、悲しい。
 そこに出し抜けに。

「傘持ってるのを、忘れてたとか」

 ソルト少年の脳天気な声が響いた。
「……誰がよ」
「え、そのヒトが」
 ああ。あのおんなのこが、傘を使わなかった理由。
 まだ考えてたんだ。と云うか。
「あのねー。こんなに大雨なのにそれはないって思わない?」
「じゃあ、傘の使い方を知らなかったとか」
「猿じゃないんだから。可愛いおんなのこだったわよ?」
「じゃあ、傘をもう一本持ってた」
「だから一本は私にくれても良いって? ていうかそれじゃ傘を使わなかった理由になんないじゃない」
「この傘、みっともなく感じてて使いたくなかった」
「……あんまりな理由ねー。それじゃ、今使ってる私たちはどうなんのよ」
 うーん。と。これでも一応考えているらしいソルト少年は、またも思索の森に踏み居る。
 その様を見て、ワッフルさんはくすりと微笑む。なんて云うか、彼は、こっちがべたべたとくっついたら執拗にいやがって見せるし、考えてみてって云われたらとても素直に考え込むし。色々とぎゅうぎゅうに、ちょっかいをだしたら出しただけ反応できる程度に、彼なりのプライドとか、自我とか、自意識とか? が、詰まってるのだ。
 それに、なんとなく救われる。
 それと同じくらい、彼女のことを哀しく思う。……例えば彼女にも、何か好きなものがあればいいな。とか思う。
 そこに。

「雨が好きだった」

 と。その言葉に目を見張らされる。
「とかは?」
 くるりとした目で解答を求めるソルト。その無邪気な瞳と、彼女の無関心の瞳とが不思議と重なって見えた。
 どうだろう。
 有り得ないことも、ないのかも知れない。
 雨にずぶ濡れて歩いていたのは、雨を満喫するため?
 私に傘を渡したのも、自分は濡れても構わないから?
「……いいセン行ってるかも」
 と云うよりも、そうであって欲しかった。
 あの黒い服の袖を、一杯に伸ばして、空を抱きしめるように、雨を受ける少女。
 そんな光景が、勝手に浮かんできた。なんだか、ずぶ濡れになってるのがとても似合うおんなのこだったから。
「ソルト、天才かも」
 と、抱きつく。
「うわ。くっつかないでってば」
 雨が降ってて、あんまり暴れると傘から外れて思いっきり濡れちゃうので思い切った抵抗の出来ない少年に、そりゃーもう思う様に抱きつきつつ。
 ――でも、だとすれば。
 私のしたことって。雨についてたくさん並べて見せたあれは、お節介だったのかな?
 なによそれ。
 等と思いつつも、浮かび上がってくる微笑みを抑えられない。
 是非、そうであって欲しい。私があんなことしなくたって、全っ然、雨のことを大好きであって欲しい。
 バスに乗って雨雲と一緒に、それが連れてくる影と一緒に隣街へ移動して、時間が遅くて闇が濃くなって、色の無くなった街を静かに歩く少女。雨露さえもその化粧。無表情に見えたその白い顔の、白い瞼をおろして。雲を貫いてきた月光と、それが溶け込んだ雨で呼吸をするように、胸を深く上下させる。
 そんな光景。
 そうであって欲しいな。
 祈るように、そう思う。










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