・ 宵待月黒猫塔。
 
 

・ 今週の死んだ後の世界でもなお先輩風びゅーびゅーな人通信。


 んー。
だから、こー。
因果ってのは文字通り、原因と結果とが一つの繋がりとして存在している状態を指す概念なんだと思うんですよ。
原因がなくなれば結果も消失する。結果そのものが原因を定める。両者が強く結びついて一つの物体になってるよーな?
何が言いたいかというとつまり、希望はいずれ絶望へと変じるーという因果の、そこから絶望を取り除いたらば希望もまた消滅してしまうのだと思うのよね。
希望だけが残るなんて都合の良い話はきっと無く。
もしくは、そうして残った希望とは、時系列の変遷を受け付けない宙ぶらりんの、何の意味もなさなくなった概念としてのみ存在することとなる。
それが因果ってもんだと思うんですよ。インガオホー。
もしくは円環の理。


何の話かというと魔法少女まどか☆マギカの最終回近辺の最初の感想。
やぁ。全12話を通じてずっと私個人の問題として偏在していた「で、さて。私はこの物語のどこに感情移入をすればいいのだろう」って問題が最終回にいたってそれこそワルプルギスの夜的なラスボスとなって僕の前にこれまでにない威圧感と目を逸らせない存在感でもって再浮上ーという具合に変な方向でエキサイトしつつ視聴してたりしましたがええと。
助けてマミ先輩! それなら死ぬしかないじゃない! はいそうですね!(バキューン。


 概念の話だけしてもしょうがないから、実際の物語に当てはめてみますがそれでもなんというか。
あの物語において魔法少女の何が悲惨だったかというと、色々悲惨ポイントがありはするけれどももっとも問題点として語られていたのは、彼女たちは契約をして魔法少女となった時点でもうその未来はなくなったも同然だったーというあたりでしょう。
その願いはいずれ呪いとなり、希望は絶望へと変じ魔法少女は魔女へと転生する。
なるほど悲惨である。
 それが確定された因果であるのならば、それこそ作中の台詞通り「願いを抱くことそのものが間違い」であるようにさえ思える。
まどかはその悲惨さを許すことができず、故して神のごとき存在として顕現なされたわけでまあそれもむべなるかな。はたして神はその威光でもって絶望を取り除かれたわけだけども−。

 希望と絶望とが因果によって結ばれているのなら、絶望を消してしまえば希望もまた存在の意味が変わる。
事実として、まどか神アフターな世界でもやっぱり魔法少女には未来がない。
やはり、願いの代償に戦いの日々を送らねばならず。
本体はソウルジェムのまんまなのでやっぱりゾンビも同然のままであり。
インキュベーターに搾取され続ける現実にも変わりはない。

仮に、まどか神アフターな世界にさやかちゃんが居て魔法少女になったとしたらば、それでもやっぱり「騙してたのね。私達を」とか「こんな身体で抱き締めてなんて言えない……!」とか嘆く結果となるじゃろなや。
彼女の薄幸少女強度も相当なモンである(そんな話はしてない。


んだけども。
何も変わってないかというとそうでもない。
むしろそれどころではない。


 希望が絶望へ変じるのは単純に時系列の問題に直すことができるよな。
それこそきゅうべえの主張する宇宙の熱量的滅亡と同じことで、エントロピーの進行は時間軸の前進によって進行のと同じく。
 生まれた人が老いてやがて死ぬのと同じく。
まどか神の行った絶望の除去ってのはそーいう、時間が経過すれば必ず訪れる結末を、ゴール地点を撤去しっちゃったってこととなる。

 それまでの魔法少女は『抱いた希望がやがて絶望へと変じることが約束された存在』であって、結末が約束されているってことは要するに魔法少女となり願いを叶えたその瞬間に存在としての意義は完結しているわけです。
今日死んでも、明日死んでもそんなに変わりがない。
だから死んだも同然なのがこれまでの魔法少女。

で、まどか神アフターな魔法少女はどうなったかというと。さしづめ
「永遠に完結せずに未成熟なままを強制される存在」
「成熟してしまえば存在意義を失う存在」
「希望 or DIE という実にストロンゲストな存在」
 
と、なるわけで。
うーん。


 そもそも「希望が絶望へと変じること」そのものが本当に悪いことだったのか。
と考えることもできる。
なんちゅーかざっくり言っちゃえば世の中ってそんなもんじゃーん? 世の中の輪転はあまねく「前の世代の尻ぬぐい」の繰り返しだったりもするじゃないですか。
戦国時代で疲弊したから鎖国をした。鎖国をしたから西洋列強から取り残されたので急成長を目し植民地を増やそうとしたら世界大戦に発展した。敗戦国になっちゃったので復興のため高度成長。高度成長で豊かになったけど人同士の繋がりが希薄になったりなんだり。
そんな感じに因果は巡るよ糸車。
何かを叶えるための希望と、叶えた結果に生まれてしまった絶望との繰り返しは世の中の仕組みそのものでもあるわけで、前世代の残した酸いも甘いもまるごと受け継いで、そしてそれを次世代につないでを延々と繰り返していくのが生命っちゅーものの営みなわけです。
そのスケールで考えるならばなるほど魔法少女がやがて絶望して魔女となるのも自然なことであって、例えなにかこー過剰に可愛らしい衣装に身を包んだり切り絵チックな化け物になったりだのと規格外なところはあるけれどもそれはそれとして世界の理の範疇に含まれちゃいるわけです。

しかしまどか神の願いはそこからの逸脱を意味する。


希望とは願いであって、願望とは行動を強く規定する道しるべ。
魔法少女は自らが希望と等しくなり、希望が道しるべであるが故にいずこかへ強く導かれながらも、しかし何処かへたどり着くことは決してない。
それはさながら「永遠の迷路」であって。

(同じ時間を何度も巡りたった一つの出口を探る。あなたを絶望の運命から救い出す道を。
 あなたの為なら、私は永遠の迷路に閉じ込められても構わない)


 斯様に。ほむらさんは自らが望んだ通り、まどかの願いを叶えるため、
 永遠の迷路にその身をおきつづけるわけです。


……最後に囁かれる一言が大丈夫だよとか、ありがとうとかじゃあなくて「がんばって」というあたりが実に象徴的だよな。
まどかを助ける為に永遠の迷路をさまよい続けているほむらさんに対して、「私はもう大丈夫だからこの迷路から一緒にでよう?」みたく主人公的な台詞じゃあなくて「がんばってそのまんまずっと迷路ん中にいてね!」つってるのに等しく。
思えば。10話。
まどかの「キュゥべえに騙される前のバカな私を、助けてあげてくれないかな?」って台詞の、美談にみせかけたエゴ剥き出しのお願いに少しばかりぞっとしたのだ。
その時点でまどかは、魔法少女が魔女になるという結末を知っているはず。それを差しひいて考えると――ほむらに魔法少女としての存在を押しつけて、自分は魔法少女となる以前の少女に留まろうとしている。
 しかも直前にほむらさんの「このまま一緒に魔女になっちゃうのも、いいと思わない?」という台詞を拒絶した上での、いわゆる完・全・救・済を望むお願いなのである。
……怖ぇー。
「それでも私は魔法少女だから。みんなのこと、守らなきゃいけないから」とまで宣言して、物語全編にわたって常に良い娘であり続けてきたまどかのそれとは思えないほどにどす黒い台詞に思えるんだけども……まあその一方で、だからこそ、それまで滅私奉公な良い娘だったからこそ、最期の最期くらいそれだけ強烈なエゴに捕らわれた言葉を吐きたくもなるだろうーとの解釈も通る気がする。
実際のところはどうあれ、「一緒に魔女になるのもいいと思わない?」という、「結果」もしくは未来を受け入れようとしたほむらさんを真っ向から否定したその言葉は、強烈な呪縛となって、それまで以上にほむらさんに未来を否定させることとなる。

 ……ほんとまー。
作中を通じて一度たりとも「おとなになること」を肯定しないまんまで終わった作品だったね。
まどかのママさんでさえ大人になることは「上手に間違えること」で、要するにおとなになることって間違いなのねあの作品世界のなかでは。
いっそ天晴れである。


 その辺含めて。ほんとに。最終回を迎えたまどか☆マギカという作品の、
何の問題も解決してないっぷりがすごくてさ。
まどかの願いのしかし何の解決も為してないっぷりがもう要するに「わー。まどかちゃんってやっぱおばかさんなんだーそのおばかさんしか実行できなさそげなフラットにソリッドな問題解決意識っぷりは伝説ののびた神にさえ匹敵するほどな気がするぜー」という具合で。ええまあ。自己満足気味にしかし自身が希望そのものという存在になっちゃったからたぶん「あ。やべこれ何も解決してないわ」とか気がつくことさえできないんだろうなーというおおらかさまで含めてまさしく神のごとき存在なのだろうけどというかかマミ先輩も止めてやってくださいよ……そんな神の如く存在にさえも先輩風ふかせてる場合じゃないですよ……そりゃまあ貴女はナチュラルに正義の味方だから平気かも知れないけどさ……。
とかで。
作中において唯一の目的達成者(勝者)と呼びうるほむらさんでさえ、まどか神誕生前と誕生後の境遇の不幸っぷりにまったく変わりがないわけです。

まどか神ビフォアー。
→まどかを助けるために同じ一ヶ月を延々繰り返しながら一人で戦い続ける。

まどか神アフタ−。
→まどかの存在を証明し続けるため、宇宙が存在する限り(人類が死滅してたった一人の魔法少女となろうとも)戦い続ける。


 まあもちろん。境遇が一緒でもその内容は大違い。彼女の目的は「永遠の迷路に身を置いても構わないからまどかを絶望から救うこと」なので。それはもう大・達・成ですわな。
最後に描かれたあの荒野は、おそらく遙かな未来で人類とかがだいぶ死滅しちゃって荒廃してる地球なのでしょう。
もともとほむらさんは世界がどうなろうとも魔法少女がどうであろうとも「まどかさえ助けられればそれでいい」という人だったので。世界も人類も滅ぶだけ滅んじゃってもはや戦うことに何の意味もなくなってさえ、「希望という概念になったまどかの存在を証明するためだけ」に、空虚もいいところな戦闘を続け続けているのであろうその姿。

「それでもどうか、お願いだから、あなたを私に守らせて」

 その執念。妄執。
物語が終わる数十秒前。
そこに至って始めて、感情移入の対象を見いだせたような気がしました。



 そのほか最終回近辺の雑感としましては。

・どうでもいいけどほむらさんそのリボン似合わねェー。

・この期に及んでさえ先輩風びゅーびゅーなマミ先輩のぶれなさがステキです。
 どこにも導かれることのない希望を抱き続けて戦うさだめーっつっても、マミ先輩ならばまどか神ビフォアーでもアフターでもあんま無関係にミタキハラ市の平和を守り続けられそうだよな。
他の魔法少女らがその無為さに打ちのめされる形で消滅してったとしても、マミ先輩だけはなんとうかこー、通りすがりのジャリガキを助けるため身を挺してー、とか、未熟な後輩魔法少女をかばってーとか、他魔法少女の退路を確保するためたった一人で魔獣の前に立ちはだかってーとかで要するに、最後の最後まで正義の味方として生きてそう。

・宇宙の法則を歪めた神の如く存在でさえも「ごめん。全部なかったことにしないとムリ」とさじを投げた凄まじい因果律強度のさやかちゃんの初恋。
 11話冒頭の葬式シーンで盛大に吹き出してしもーた人間は私だけではないと思う。


 等々等々で、そのほか細かく気になるポイントはあるけれどもひとまずはこの辺で切り上げておきましょう。






・ 今週の最初に死んだ人通信。



 なんだけど、ぼんやりしている間に最終回を迎えました魔法少女まどか☆マギカ。
 中途で色々と漏れでた感想を今更開陳したところでもはや不良在庫もええとこなんだけど(てゆか放映延期からあんだけ時間的猶予があったのに)でもまあ、貧乏性故の今更気味に少しばかり脳内から漏洩させてみますよ。


・9話の青いコと赤いコのロマーンス。

 作品の大半を消費して描かれてきたさやかちゃんの悲恋物語は、悲恋ではありながらも展開の中心にあるが故の大事な焦点で、その境遇はともかくとしても物語的にはさやかちゃん優遇だよねーという見方はあったわけだけども、10話の「どんだけ繰り返しても魔女化確定っぽいさやかちゃん」という展開と演出でもって作品世界からさえも「単なる通過点」として遇されたさやかちゃんほんとまじ不憫。

という話はともかくとしても、アレだよな。
9話の「一緒にいてやるよ。ひとりぼっちは寂しいもんな」という男気にあふれたキョウコちゃんの特攻っぷりにいわゆる「さや×杏」な構図を思い浮かべてそうしたくなる視聴者諸君のファン心理は理解できるし、そのあたりを補完することこそが二次創作の醍醐味だよねーではあるので、表だって否定するものじゃあないけども。

 でもアレって何も救われてないのだと思う。
キョウコちゃんの「ひとりぼっちは寂しいもんな」は、さやかちゃんを救うための言葉
ではなく、ついにたどり着いてしまった彼女の絶望からきた言葉なのだと思う。

 作中人物の心理の動かし方に何かと細かい気配りが散見されるまギカという作品は、それもそのはず。提示された展開のほとんどは「まどかをゆっくりと八方ふさがりな絶望に追いやるため」のお話なわけです。
そのへんの詳述はいったん置くとして、今回はキョウコちゃんの絶望へのプロセスをば適当に書き並べますで以下にー。


・肉親のために祈ったが、それは最悪の形で否定された。
・だから自分自身の為だけに生きると決意した。しかしそれも、魔法少女に未来などない(ゾンビみたいなもんじゃねーか!)という形で否定された。
・それでもそれを自業自得という形で受け入れようとした。しかしそれを否定する言葉「この力は、他の誰かを幸せにすることもできるはずだよ」に揺らいでしまった。
・しかし、そう宣言した本人が魔女になるーという形で否定されてしまった。


 という展開を経て、キョウコちゃんの発案した「魔女から元に戻す」という方法は、他の誰かを救うことと、そして(同じく、いつか魔女になることが確約されている魔法少女である)自分自身を救うこと、両方を叶えられる最後の切り札的な希望だったわけです。
しかしそれも不可能だと思い知らされてしまう。
そうして至る一言。
「一緒にいてやるよ。ひとりぼっちは寂しいもんな」
 とは、誰かの為に生きて、それを否定されたさやかに向けた慈悲の言葉であると同時に、
誰のためでもなく唯一人で生きることをあきらめた一言であり。
もしくはそれら以上に、
誰かの為にも生きられず、自分自身の為にも生きられないという、その事実を受け入れたが故の絶望に屈したからこその独白であるわけです。

そして彼女は自害をする。
 その最後の決意には、救いと呼びうるような要素は一片たりとて存在しない。
そーいうどーしようもない諦めの境地っておれなんか大好きー(うわー。



・10話視聴後の晴れやかさ。

 マミ先輩! 絶・好・調! マミ先輩が絶好調!
わー過去話だからマミ先輩復活だーってまた死ぬのはええええええー!!
という体を張ったサービス満点っぷりのみならず、やっぱり悲恋なさやかちゃん・結局さやかちゃんに靡いてるキョウコちゃん・お話の中心に据えられたほむらさんは当然としても、ノルマ達成したからとっとと帰るね発言のキュウベエ等々。
これまで蓄積されてきたキャラクター像が一気に昇華された何かと見所の多い回ではありましたが。うん。やあ。
この回を迎えるよりも先に「……ああ。この作品はシナリオの展開がどうのこうのというよりも登場人物それぞれの心証にフォーカスを合わせてみる作品なのだろうな」とか看破できてて良かった!


 等々ではありますがこう。
重火器というソリッドな選択に至る前のほむらさんのマジカル☆鈍器が気にかかりますわねートップにウェイトを集中させた遠心力で粉砕する造形は実行破壊力の具現そのもの。
納得しか沸いてこない合理的選択に、彼女が「目の前で爆発とかマジ勘弁」と嫌味を言われずともいずれ遠からず重火器を選択したであろうことは疑いを差し挟む余地寸毫もなしだわー。

とかなんだけど、それ以上に納得が先行した場面はやっぱマミ先輩の「みんな死ぬしかないじゃない!!」て絶叫−。
あのシーンをして意外性だとか驚きが先に立った人々には僭越ながらも何様気味に理解が足りてないと宣告せざるを得ません。


マミ先輩は要するに、仮面ライダーになろうと志していた魔法少女だったわけです。
多くの魔法少女が自分自身の希望を叶えるため願ったのとは異なり、
マミ先輩は選択の余地なく命を危険にさらす日々に身を投じねばなりませんでした。
恐怖と隣り合わせの日常。その悲運を誰にも明かすことはできず、孤独のままに、何にも報われることのない毎日。
自分自身の願いを叶えたのならば、その代償としての戦いの日々を受け入れることもできたかもしれません。しかし彼女は、自分の意志とはほぼ無関係に、それまで送っていた日常の意味がすげ替えられてしまった。

その孤独と恐怖と、何よりもそのむなしさを埋め合わせるために、おそらく彼女は自分の戦いを「正義の戦い」として肯定したのでしょう。
自分が戦わねば見知らぬ誰かが犠牲になる。
自分が戦い続けていれば、見知らぬ誰かを助けることができる。
多くの人が何の疑いもなく受け入れ続けている日常という名の平和を、この光景を、私が守っているのだと。
魔女は断罪すべく悪であり、その執行者である自分こそがこの世界に必要な存在なのだと。
そう強く念じながら無為の戦いの日々を過ごしてきたのでしょう。

だからこそ、我利の為だけに戦う他の魔法少女を許すことができなかった。
境遇を同じくする魔法少女ならば孤独を埋め合わせることもできたかもしれませんが、しかしその多くとは価値観を共にすることができず、ますます孤独は深まっていった。

孤立が深まるたびに、孤独に苛まれるたびに、恐怖に震えるたびに、
彼女は自分自身が魔法少女であることをより肯定しなおさなければならなかった。
 それこそ自分の存在意義を賭して。
そうした肯定の繰り返しが、虚飾にさえ発展するのもそう不自然な話ではありますまい。
うん。
だからこそ彼女は必殺技を叫んだりするのよそんな必要もないのに。
きっと真夜中でひとりぼっちで誰も観る人間がいなくてもやっぱりトドメは高らかにティロ・フィナってたに違いないのよ。

だからこそキュウベエを「大切なともだち」呼ばわりしてたのだろうし、
だからこそ、魔法少女候補の後輩に出会ったとき、危険な日々であることを実感しているのにも関わらず、彼女たちが魔法少女になるのを強く止めることができなかったのだろう。それを止めてしまったら魔法少女である自身の否定につながってしまうから。
だからこそ、ソウルジェムが魔女を生むなら――それまで正義だと言い聞かせていたはずの自分自身が、それを行い続けてきた魔法がやがて悪となる存在そのものであるならば。

「みんな死ぬしかないじゃない! 貴女も、私も!!」

 という結論まで一足飛びにワープしてしまうのも。
至極自然のしょうがないことだと思うのよね。

 とか思ってたらばついったの方で。
「時間操作を行えるほむらを捕縛・無効化。然る後にもっとも戦闘能力の高いであろう杏子を狙撃。という冷静さから察するに、もしかするとあのマミさんの行動は友情よりも魔法少女としての責任が勝ったが故の行動なのでは。
 だとすると豆腐メンタルどころか軍人並のメンタル強度ってことに」
との意見をみかけて。うわーおなにその説ちょう魅力的ぃーと思っちゃって。上記だらだら書いた仮説ともあんまし矛盾するところがないのでこれを採用したいと思います。
うん。イイネ。

それはそれとして。同場面。
ひとまず諍いを止める目的ならマミ先輩の銃を撃っとけばいいものをまっすぐにソウルジェムを吹き飛ばすあたりまどかちゃんもなかなか面白い娘よね。



・「勉強会をしない?」と提案しているマミ先輩を観たい。

 魔法少女モノとしてこのアニメを観るにつけて、障害となるのは私自身の魔法少女モノへの知識の少なさであった。
 なのでー。だからー。そのへんを包括的に語ってくれる文献とかないかしらと少し探してたのだけども、
 世の中の需要と供給は上手に成り立ってるモンですね。
 世間的にも、まギカは魔法少女モノとして(作品が終わらなければ結論は下せまいが)特殊な位置付けとして観られる場合が多く、なので、儂個人のこのニッチな要求に丁度良く当てはまるような、60年代は魔法使いサリーからざっくりと00年代も終わった今現在に至るまでの『魔法少女』の概略を語ってくれた文章の2・3点が新たに書き起こされたタイミングで読むことができた。

 ま。概略は概略なので。
 ほんとの知識とするには体感を経なければ(つまりは実際に作品を観なければ)あんま意味はないのだろうけど、
「魔法少女はその歴史の始めの方で早くも現実の壁にぶつかっていた」だとか、「当時のアイドルブームと習合する形で世に受け容れられた」だとか、なるほどほほうと興味深い指摘も多く、勉強になった。気がした。

 で。そういう体験を経て頭に浮かんだのは。

「今度、みんなで魔法少女の勉強会をしない?」と提案しているマミ先輩であった。

「勉強会……?」
「うえー。ついに来たかって感じですよ。実践あるのみじゃダメなんですかー?」
「ああ、誤解しないで。魔法少女といってもフィクションの方よ」
「フィクション……アニメってことですか?」
「それって、日曜の朝にやってるような?」
「そう。でも、日曜日の朝にだけ限定するのはちょっと違うし、放映された時間帯もまた大事な要素になるのだけど……あら。それはまあ置いておいて。
 創作作品としての魔法少女の成立は今から遡ること1960年代と言われているの。ちょっとした歴史よね。その年月のなかで、ジャンル全体を通じて熟成され続けた等身大の少女という人格や、彼女たちが直面した問題。魔法と日常との両面性と両立は、きっと私たちの生活にも参考になる部分が多いと思うの。
 ……もちろん、現実とフィクションを混同している訳じゃないわよ?」
「ははぁー。……やっぱりなんだか、難しそうスね」
「そうかな。私は面白そうだなって思うけど」
「そうね。難しく構えるよりも気楽に考えて欲しいわ。要するに、みんなでアニメーションでもみて気晴らししましょうってことなの。勉強はそのついでにちょっとって感じかしらね」
「気晴らし。気晴らしかぁー。そうよねー日頃の魔女退治に加えて、最近あの目的のわかんない転校生だとか、キョウコとかいうわけわかんないヤツまで出てきてごたごたしてるもんなー」
「いいんじゃないかな。私は魔法少女アニメ、観てみたいし」
「まどかはそういうの好きよね。私は日曜の朝とか起きてらんなかったしなー。でもま、いいっスね。やりましょっか!」
「それじゃあ決まりね。会場は私の部屋で、日時は今週末でいいかしら?」
「うわ早速っスね。準備とか大丈夫ですか? アニメとかもレンタルしないとダメだろうし」
「その点に関しては心配ご無用よ。魔法少女入門に最適そうな作品はもうピックアップしてあるの。それにー」
(レンタルとかしなくてもウチにコレクションがどっさりあるしという言葉は呑み込みつつ)
「それに、なんですか?」
「ううん、なんでもないの。とにかく準備は私が引き受けるから、任せておいて?」
「さすがマミ先輩はそういうところまで抜かりがないなあ」


 とかそんな妄想で。要するに。
 実は魔法少女オタで、自分の好きな作品群を人にみせたくてみせたくてどうしようもないオタクの基本的精神構造かつ勉強会という口実で用意してお家に友達を招きたいマミ先輩という構図がみたくてみたくてどうしようもないというだけの話でした。
 はい。
 そんな出だしで始まる魔法少女の歴史解説かつまギカ二次創作本とか書いてみたくなりましたが実際にやるとしても私自身が知識を蓄えるのに必要な時間の捻出がさすがにアレだし文章でだけやったってどうにもなーという感じが。


「何してんのよ、アンタ。ここはマミさんの家だぞ、帰りなさいよ!」
「ふん。テメェの家でもないくせに何を偉そうにしてるんだか。それに(持参したケーキの包みをぶらぶらさせて)、
 お茶会にお呼ばれしてんのに手ぶらでノコノコあがるようなヤツに帰れとか言われたくはねーなあ?」
「こっの……食べ物に関しては妙に気が回るんだから!」
「あの、ほむらちゃんも、そんなベランダのすみっことかじゃなくてちゃんとあがらせてもらおうよ」
「構わないで。私は貴方達を監視したいだけなの」
「同じ監視なら、せめてモニターがみえる位置にいらっしゃい?
 ほら、今日のためにティーセットを新調したの。あなたの分のカップもちゃんとあるわよ?」
「……おかまいなく」


 とかでうふふふ目指すは定期開催よォーとかほくそ笑むマミ先輩だとか、ミンキーモモの魔法少女が事故死という最終回に「これは……どういうことなの、巴マミ!」と血相を変えるほむらさんに「制作者本人の証言も含めて、この展開が選ばれた理由は諸説あるわ。もっとも妥当だと言われているのは、番組のスポンサーが手を引いから、という理由ね。……魔法少女も、後ろ盾が無ければ戦えない。そういうことかも知れないわ」だのと諭してみたり、マジカルエミとかおじゃ魔女どれみとかの魔法が登場しない場面とかで「なんだろ……作り事のお話でも、魔法が必要ないって証明されちゃうと、なんだかへこむんじゃね」「そうだね……」とかで図らずもしんみりした雰囲気になったりとかそういう場面をみたい。

あ。キュウベエの出番ねえなコレ。





・ 個人的ななにやらかにやらはひとまずおいておいて。何よりも先に。


 この度の東北地方太平洋沖地震の被災下にある方々に、謹んでお見舞い申し上げます。
 自らの生活の維持さえ困難な不肖の身ではありますが、出来うる範囲でご助力を差し上げていきたい所存にございます。
 まずは献血から。うむ。






・ そういう日!


 アイレムさんのエイプリルフール自粛が割と素でショックだったりしつつ。
 それでなくとも販売寸前まで開発していた新作ゲーを自粛で中止で大変な時分だろうに、
 それでもあるいはとアクセスしてみた公式サイトの、いつも通りであろう情報の最初が「どきどきすいこでん」という嘘から出たまことな元エイプリルフールネタなあたりが余計に涙を誘われます。

 まあそれはそれとして。






・ 今週のまだ死んでないひと通信。


(我ながらひどい題名)
 それはそうと7話と8話の感想なのでネタバレを忌避したい方などは適当な処置をどうぞ。


▽今んところの雑感。


・少女マンガそのものが内包する矛盾として。

 恋愛はやがて性愛に正着する。そうとなると、「少女」は己の性と向き合わざるを得ず、つまり「女性」となるわけで。
 少女マンガにこそ特有な恋愛というテーマを深く深く掘り下げるならば、いつか必ず少女マンガを逸脱してしまい、
 少女は少女でなくなってしまう。まあそれを一概に悲劇だとするのは認識が甘すぎるだろうけど、
 でも少年マンガはいつまでも少年のまんまで許されるのにな。

 それじゃあ魔法少女はどうだろう。
 曖昧な物言いになるけれど、少女マンガにおける少女がいつか女性と向き合わなければならなくなるのと同じように、
 たぶん魔法少女は、いつか現実と向き合わなければならないのだろう。
 そもそもが変身モノの魔法少女って、魔法少女としての側面と、いつも通りの生活という現実との二面性に別たれて存在しているわけで、
 教養に乏しいのでちょいと実例に弱いけど、サリーちゃんは正体がばれて現実から去っていった。アッコちゃんもテクマクマヤコンテクマクマヤコンなんて合い言葉を言わずともいつか大人のまんまになる。おジャ魔女も最終回では卒業するんだよなたしか。

 んだから要するに、願いを元に魔法少女となった彼女らが、現実に直面し、魔女となるのはそうした摂理なのであって、
 きゅうべえの言った「いずれ魔女となる君たちのことは、魔法少女と呼ぶべきだよね」というのはそういうこったろう。
 
 その解釈に基づくなら、
 魔法少女として願いを叶えるための戦いを続けているほむらさんが、
 魔法少女であり続けるために、時を止めるという力を駆使しているのはメタな構図として正しくもわかりやすい。
 まあメタとしてスッキリしてるからっつってお話としても面白いかどうかはまったく別問題なんだけどさ。

 そのへんのメタ解釈の延長線上にあるであろう結末は、
 まどかが、大人になるということを肯定するーというあたり。このへんに落ち着きそうな予感はあるけど。
(作中に何度か繰り返された「わたしは自分なんて何の取り柄もない人間だと思ってた。ずっとこのまま、誰のためになる事も、何の役に立つ事もできずに、最後まで ただなんとなく生きていくだけなのかなって。それは悔しいし、寂しいことだけど、でも仕方ないよねって、思ってたの」という台詞を想起せよ)

 でもなあ。そのへんの展開はあくまで妥当であって。妥当じゃ面白くないんだけどなー……さて。


・そういえば。

 きゅうべえを悪役に仕立ててサンドバッグにするー的な二次創作上のネタ展開にいまいち乗れないのが。
 理由を探したところで詮の無い話じゃーけども考えてみれば、なんかこう、笑うせえるすまんに登場する顧客は基本どれも悲劇的結末を迎えて破らざるを得ない約束を取り付ける喪黒さんまじ外道的な構造はわかるけどもだからっつって喪黒さんを悪役として憎めるかどうかとはまた別問題だよなーというか。

 あるいは、きゅうべえが諸悪の根源的立ち回りを求められているのは4話くらいには視聴者に十分察知できる程度には提示されてた訳で(四話における学校屋上でのシーン・「まどかは、今でも魔法少女になりたいって思う?」からずっときゅうべえが「見てるー」て感じの視線を送り続けているシーンを想起せよ)、
 実際、7話でそれは明確に示された。な、もんだからきゅうべえ=悪というイメージは脚本上の既定路線であり、
 つまるところが、きゅうべえを悪役に仕立てたところで別段意外性はなく、意外性がないということはパロディとしての魅力に欠けているってことで。

 魔法少女ものにおける、少女が苦難に遭うきっかけを作った小動物的存在こそが諸悪の根源ーという指摘は、
 過去多くのパロディで、そして原作そのものでさえ自覚するところであった。
 それはあくまでも小動物が魔法少女に最も近い味方であるという構造が存在するからこそ、別の角度から見得る面白味なわけであって。
 どうたらこうたら。


 だから個人的には妙に常識人な感性になるきゅうべえネタが好きです。
 pixiv からの引用で恐縮じゃが、例えばこの方とこの方の各作品が好き。

 




▽七話雑感。

・登場人物のモノローグだけで話を進めることにそんな抵抗がなさげなのはノベルゲー作家だからですか。
 まあ全12話でいちいちそのあたりを書き込むほどの紙幅がないのだろうなーと解釈しつつ。

 各登場人物の啖呵は部分的部分的に好きなものが多いのだけどね。
 まどかの「マミさんはどうなるの?」「あの世界で死んだら屍体もあそこに置き去りにされる。誰も気付かれることなく忘れられていくわ」「そんなのって酷い。たった一人で戦ってたのに」「魔法少女ってそういうものよ」「なら、私が忘れない……絶対忘れない、ずっと覚えてる……!」とか。
 さやかちゃんの「私は大切な人を守るために魔法少女になった。だから、大切な人を傷つける可能性があるなら誰であろうとも戦う。それが魔法少女でも」とか。
 合理的な感情論で、それを納得させる場面作りが巧みよねー的な。
 このへんはノベルゲー作家だからですか。

・お話の開始数話までは「親友その2の存在意義が分かんないなーお嬢さまキャラで無暗にキャラが目立ってるのに」とか思ってて、
 4話の「ステキな世界ですわー」であーれぇー身近な友人に火の粉が及んでそれを払って変身の動機付けーてのは納得が行く役目だけどもこのコもしかしてこれの為だけの存在なのー? とか思ってたのが。
 今話の「わたくし、上条くんをお慕いしておりますの」でええええ成る程この役目なのねそれにしてもあんまりなあああと小刻みに震える等。

・存在理由でいうなら、キョウコちゃんはマッハで役割が終わっちゃったね。
 アウトロー(いやむしろ利己的なのが一般的らしいけど)な魔法少女の実例を引いて視聴者に提示するーというそれで、
 ほむらさんのワルプルギス退治に付き合うという動機はあるけどもそれは受動的なモノであって。
 主人公から微妙に縁遠い存在て意味では噛ませ犬的ヤムチャさんとして収まりの良い位置にいるのは確かだけど。


・立ち位置をニュートラルに保つ脚本的必要性故に基本受動的な主人公(=まどか。つまり彼女がとっとと魔法少女になっちゃったら話が終わるしその為の動機が揃いすぎても困るので主人公という立ち位置にありながら話の中核には触れられないという)の代わりに物語を動かすための能動性を与えられて結果(まるで主人公の身代わりの如く)どんどん不幸になってく親友キャラって何かすげー少女マンガぽいよさやかちゃん!
 少女コミックとかあのへんの! これでレイプとかされたらもう完璧その立ち位置だよさやかちゃん!

 魔法少女のリスクを具体的に提示する役割がさやかちゃんだろうなとか思ってたけども、
 想像よりもずいぶんとお話の中核にきたなあ……。でもなんかこう、妥当な展開が続くよなあ……。



▽八話雑感。


・安い。安いー。

「そもそもこの世界って救うだけの価値があるのかな」にまで落ち込んじゃうダメ押しがホストさんの見栄付き与太話だなんて精神的にも物語的にも演出的にも安すぎやしないかいさやかちゃんとか思うんだけどどんなもんだろう。
 ホストさんもああして露悪的にでもお仕事上の愚痴を吐き出しておかないと色々辛い面もあるのだろうなーという第三者な姿勢を維持して受け流すには現役中学生女子のメンタリティはウブに純粋に過ぎてモロに被っちゃうのだよーという解釈で、それでもって少女のまだオトナでない感情を取り扱ったこの作品が魔法少女モノである根拠がココさ! とでもいえばいいのかなああ的な。
 なあ。
 それはいくらなんでもなあ。
 んん。
 こんな些細なことで崩れ落ちちゃうほどにさやかの精神はもう限界寸前だったんだよ例えば表面張力漲ったコップに落ちた最後の一滴ーという解釈が妥当であるようには思いますが、
 それでも見せ場的な意味合いもうちょっと他に何かあったんじゃねえかなあーとか思ってしまいます。

 どうなんでしょね。
 あんまし絶望的で決定的だと、視聴者的にも「ああ。こりゃもうダメだな……」と刻み込まれてしまうので、そうさせないための、
「いやまだなんとかなるんじゃね?」と希望をまだ持たせるために敢えて安めの演出なのでありましょうか。
 どうなんだろなあ。

 その理屈でいうなら、上条くんとの関係はまだ可能性が残ってるて事にもなりましょうか。
 彼女にとって、この世を恨むほんとの決定打があるとすればソレだろうし。まあ先の予測を云々するのはなんとなく不毛なのでパス。


・さやかちゃんの鬱屈を軸にお話が進んできたわけだけど。

 ここんとこの展開を振り返るに、なんかこう……さやかちゃんてどしても短絡的な少女て結論になるよなあ。
 一つ一つの選択に必ず後悔がついてきてる感じで。

 幼なじみの怪我を治すため魔法少女に。→自分を振り返ってくれなくて後悔。
 それでも身近な人々を守るために戦う。→身近な人々まで呪ってしまって後悔。
 魔女と戦うことが自分の存在意義。→そもそもこの世界って救う価値があるのかなと後悔。

 んん。つまりこう。
『魔法少女という存在そのものが内包する不幸』ではなく、彼女の選択が裏目裏目にでてばっかな点こそ諸悪の根源になってる感じで。
 つまり魔法少女を描くストーリーの軸として果たして正しいのかどうかというか。
 なんかさやかちゃんて魔法少女モノの登場人物でなくとも、きゅうべえがいなくとも場面場面の選択ミスで薄幸な目にあいそうだしなあというか。これは言い過ぎか。

 作中人物の行動に妥当性を求めても愚かしくはあるけども。
 うーん。


・ほむらちゃんが近代兵器使ったのには何か合理性という文字が示すとおりの納得があるよ。
 ソウルジェムを消耗せずに済む手段として選んだのだろうけど、三話で魔女ぶっとばしてたのも単なる爆弾なのだろうな。
 しかも魔法力とかで生成したんじゃなくてわざわざ盾から四次元ポケット的に取り出す説明的シーンを数フレームで細かく入れるとかいっそコミカルな律儀さやね。

 簡素な魔法少女服といい、ただ服を変えただけとでも言いたげな変身シーンといい、武器選択といい、あとこないだの仮説に基づくなら潔くぺったんこな特定部位といい色んな面でキャラが立ちまくってるほむらさんである。

 それはそうと彼女もついにデレちゃって、微妙に残念な思いを抱いたぼくではありますが、
 彼女の取り乱しっぷりに少々の唐突さを感じたのはたぶん正しい反応。
 それをぶつけられたまどかも微妙に理解してなかった感じだし、微妙に泳いでいた彼女の目から

「……ああ、いつかさやかちゃんが言ってた『電波』ってこういうことなのかな」

 という思考が漏れて見えたように思うのはボクの気のせいでしょうか。
 うん。気のせいだと思う。

・それにしても、ほむらさんがやたらニュートラルな魔法少女服だったり現代兵器取り出してみたり魔法少女の現実を熟知してたりする部分が明かされる度に「あそこまで一本気に魔法少女やってたマミ先輩」の面白さがどんどんどんどん増してくるのがなんというか感に堪えません。

 あんだけ先輩風ふかしておきながら何も判ってなかったっぷりがすごくなってきましたマミ先輩だけど、
 まあ、キョウコちゃんの反応も似たり寄ったりだから、彼女の知識が足りなかったわけではなく、
 むしろほむらさんが分かりすぎてるだけなんだろうな。


・インベーダーじゃないよインキュベーターだよ。
 てゆかそういう誇大広告じみた勧誘がアリならもうちと早い段階で契約できたんじゃないですかきゅうべえさん(神のような存在ときたもんだ)とか思うけど、
 契約を急ぐ必要性がきゅうべえにはなくて、結果的にさやかちゃんを魔女にできたのだからきゅうべえ的には勝者(まあ正体はともかくとして目的まで明かされた訳ではないので微妙だが。

・次回はキョウコちゃんの噛ませ犬っぷりに期待するところなのかしら。






・ ぐしゃさんがこんだけアニメに夢中になってるのも珍しいと思いつつ更新頻度があがってるのでなんでもいいや。

 ……。
 ……いや、べつに?(微妙な顔で)>こんだけ夢中。

 知人にも似たような「感想を書かざるを得ないほどはまってますね」的コメントを頂いて、
 そんときにも似たような「……うん、まあ」という反応でしたというか、大体どんな作品でも儂の反応ってこんなよというか逆に云えばむしろ感想を書きたくもならないような作品ってどんなのよというか。

 週報アニメをリアルタイムで観るのってそんなにない機会だから、せっかくなのでアウトプット多めにしてるのは確かではあります。
 





・ 学校行く時だけ縦ロールってのもおかしな話ではないか?(逸れた話に食いつく

 いわれてみればそれもそうか。
 縦ロール→手間がかかる→休日でも手間暇惜しまないマミ先輩マジゴージャス(文脈が謎)という連想だったのだけど、
 パーマ的な方法であの髪型を再現してるなら毎日維持してないとかえって手間になりそうよねーて話かも知れず。

 4話開始の朝ご飯シーンで、お皿に乗ってたのがチョココロネだったりすれば微妙に爆笑だったりしませんか。
 あの巻き具合から先輩の縦ロールを思い出してむせび泣くまどかさん。
 もしくは、めだまやきの黄身をみて→黄色い→マミさん……という連想だったりすれば(それには及ばないわ。







・
今週のもう死んだ人通信。







 いやまギカの話なんだけどさ。
 6話だったかしらね。魔法少女の肉体が「ゾンビになったも同然じゃねーかよ!」というお話が出てきまして。
 以降、特にさやかちゃんがその点を深く気にかける描写が続きに続いて続きまくるので、
 触発されてふと『成長も止まるのかしら』という疑問が浮かんだ。

 戦闘という観点からみれば肉体とは弱点の塊のようなものなので存在の核とでもいうべき魂を抜き取りどれだけ肉体が傷付こうとも戦闘の続行を可能とした合理的判断。
 という理屈はさておいて。
 気になるのは『抜け殻』とさえ称された肉体が、その後どれだけの生態機能を有しているかという点である。
 早い話が、比喩として用いられた『ゾンビ』そのものであるならば成長が止まっちゃってもおかしくはないよなーってことでさ。
 しかも中学生という成長期真っ盛りな大事な時期にである。

 この時点でもうすでに我ながら気色悪い文章を書いてるよなという自覚が沸いてくるけども怯まずに続ければ。
 成長がとまる、と仮定した場合、いくつかの疑問がでてくる。その点で最大のモノは無論。

 マミ先輩のお胸の正体ってなんなのかしらね。である。
 成長がとまるのではーという疑問が真であるならば、やはりまず何よりもに気に掛かるのはあの先輩らしくもあり母性を象徴しているようでもあるあのお胸をマミ先輩は如何にして育んだかという点であろうことは「マミマミ」という語句を口にするなり文字として発言するなりしたことのある諸兄にも異論はなかろうことと思われる。思う。思うんだけども。
 問題点を整理してみよう。


・マミ先輩は中学三年生である。
・しかし、魔法少女としてはベテランであるらしい。
・どのくらいの時期を魔法少女として過ごしたのだろう? → いつから魔法少女だったのだろう?
・中学二年時から? 中学一年から? それとも小学生の時点ですでに?
・そんな早くに成長がとまってるのにあの戦闘力なの?


 で。
 立ち止まると微妙に生きていることそのものが恥ずかしくなってくるような気もするのでとっとと話を進めれば、
 上述した疑問を解消できる仮説が二つほどある。順に説明を試みよう。


1.マミ先輩は魔法少女になった頃からもうご立派だったよ説。

 最も手っ取り早く、最も矛盾の生じない仮説である。
 これであるならば何の問題もない。要するにマミ先輩はかつてロリ巨にゅ(それには及ばないわ。


 ……そういえば実際の画面で検証できるよな。回想シーンがあったし。


 んー……。


 ……先輩。オフんときでも縦ロールっスか。
 そういえば、願い事を決めかねる後輩二人にきゅうべえが「意外だな。みんな二つ返事で決めたりするのに」的な台詞をいってたけどこういう場面ばっか選んで登場してそうだね。

 話が逸れた。
 ともかく、年齢も肉体的特徴もちょいと判じかねる画像である。確証とするには足りないか。
 
 矛盾の生じにくい仮説と書いたけど、でも反証の材料は一応なくもない。
 キョウコちゃんの存在がそれである。
 彼女は彼女でベテランの魔法少女っぽくある一方でまどか達よりも年下っぽい風貌で年齢を順に推定するなら下手すると小学生? そうと仮定すれば、そんな時分に契約しているのにも関わらず、その後の期間で自分に身体的成長がみられないあたりに疑問に感じてきゅうべえに問いただすなりしそう……ああ、いや彼女は彼女でそもそもが身体的特徴とも要するにつるぺ(それには及ばないわ。
 
 ……脱線を承知で話を続けてみれば、疑問に思ってたとしてそれはそれで色々とドラマが生じそうだよな。思いつくのは。

A.「まあ魔法少女っつーくらいなんだし、体もずっと少女のまんまなのかもな」とか間違った方向に自己解決。
B.「……食いもんが悪いのかな。もうちょっと栄養バランスってものに気を使ってみるか?」とか考えはしたけども自堕落に今のまんま。
C.己の発育に関しては契約時点でとっくに諦めたりしてたので成長しなくとも今さら疑問に思わない。
  つまり見た目よりの年齢は上で実はもう高校生(か、それ以上。

 ……。
 ……Cがいい。……ような気がしませんか。そうでもない? あ、そう? ……ああそう。
 まあいいや。本題である豊かなお胸の話に戻りましょう。
 てゆか本当に話したかったのはこっから先と、先の先なのよ。


2.魔法によって自律的に新陳代謝など生理機能を補完してるよ説。

 マミ先輩は自分の本体がソウルジェムに変えられた事を気付いてなかったそうだ。
 きゅうべえが「マミでさえ気付かなかったくらいだからね」と言及しているので(一応)確かである。

 どういう事かというと、要するに、
(マミ先輩のように)魔法少女としてそれなりに長く過ごしていても、疑問に思わない程度に、ソウルジェムが勝手かつ自動的に体を動かしていたーって説である。
 仮説に仮説を重ね合わせるような仮説だけども、これはこれで理屈が通ってると思う。
そんな大仰に言うようなモンでもねえけど)

 魔法少女になったらば心臓を動かす必要はもはや無くなるのだけど、
 ソウルジェムが自律的に魔力によって各種器官を動かし、
 魔法少女になる以前となんら変わりのない形で身体機能を維持していた。と。もちろん成長もすれば老廃物だって出ます。
 これならばマミ先輩も疑問に思う余地がなく、機会さえない。

 魔法少女の肉体が文字通りのゾンビであるなら、例えばお腹さえ空かないわけだよね。
 そんなだったらばさすがに疑問に思ってきゅうべえを問いただしたりするだろう(訊かれたところで本当のところはぼかしたかも知れないけど。
 まあ、アイドルはトイレにいかないそうなので(昭和の価値観)、魔法少女だってそのへんの生理現象がなくったって納得が行くひとは行くかも知れません。
 

 ソウルジェムが本体ってことは肉体は遠隔操作に近い。それはそれで魔力が必要そうだ。
 魔力を使うとソウルジェムが摩耗してしまうので、それを節約する意味もあって物理的熱量力学的な方法ー、つまりカロリーを消費するまったく一般的な方法でも体を動かしていたーという電力と燃料とを両方使ってエコに経済的なハイブリッドカーみたいな話でもあるか知れないけどもその点を探求するのは今回の目的ではない。
 じゃあ目的は何なのかというと、散々紙幅を浪費しながらやっとここからこそが本題なのだけど――。

 まどか☆マギカにおける魔法とは、希望の力である。願いであり、祈りである。
 そして魔法少女の血肉が魔力によって補われるのだとすれば、彼女たち少女は、
 彼女たち自身が持つ願いの力によって成長を遂げているのである。つまり――マミ先輩のお胸は魔法で出来ているのであり――


 ――マミ先輩。
 あなた衣装のみならずそのお胸のサイズまで自己申告ですか。



 という一言だけのためにここまで引っ張ったのでした。
 つまりマミ先輩のお胸には魔法がつまってるのだよー。わー。
 ……いや。まあ。
 マミ先輩のコスチューム自己申告論は、ほむらさんの衣装の簡素簡潔っぷりから対比(魔法少女に関して熟知しているので希望を見出せずそれだけ簡素な衣装のほむらさん ⇔ 選択の余地無く魔法少女になってしまい、であるがこそ自身が魔法少女であることを一途に肯定し希望を抱き続けなくてはならないマミ先輩)して推論しただけなんだけど。
 で。その。
 ここまで引っ張ってきた仮説に従うなら自己申告というのは正しくなく、あのご立派さ無意識のうちの願望が表層してるーってことになるんだけど、それはそれで。……な!

 やはり色々と面白いお方であるなマミ先輩は(正しい反応は「お前の中でだけな」かも知れません。
 ほむらさんの部分的な平坦さもあわせて(=やはり実用性一点張りなほむらさんと)連想したいところですね。しなくていいよ。もうそのまましねよ。
(現時点で最新の八話を参照するに、ほむらさんの簡素な変身シーンといい、かたやマスケット銃大量に呼び出して乱射乱射で、かたや恐らくはソウルジェムの摩耗を厭って現代兵器なオートマチック銃、等々)


 もののついでにもうちょっと引っ張るのだけど、
 マミ先輩のお胸が彼女の願望による魔法的効果になるものだとしても、
 それって魔法少女的にはけっこー正統なのだ。
 何故かというと、手っ取り早く例を引けば、『ふしぎなメルモ』等がそれである。

 少々雲を掴むような話になるが、
 魔法少女もしくは魔女っ子ものがかつて少女マンガとしてのバリエーションとして描いていた根源的なテーマは、
「少女らの変身願望」なのだそうだ。
 少年マンガが例えば無窮に繰り返されるバトルものなりスポーツものだったりと実に無邪気に「男性らしさ」を求める一方で、
 少女マンガが描く「女性らしさ」社会性でジェンダー観なども絡んできてナカナカに複雑なんだけども、その多様性のひとつとして「自立した女性像」があるのだな。
 それをして変身願望と決めつけるのはやや短絡ではあるが、しかし現に、先に挙げた「ふしぎなメルモ」といい、あるいは「ひみつのアッコちゃん」等で元祖と呼びうる魔法少女ものからしてそうであるし、近代では「姫ちゃんのリボン」等を引き合いに出せるし、更に更に現代では「おしゃれ魔女ラブ&ベリー」にもそれらテーマを求めることができて実例に事欠かないのだ。
 
 そんな具合に、マミ先輩が無意識下にせよ己の将来像を魔力によって実現させていたーというのは、
 魔法少女として実に正統なことであるのだ。
 あの世界観において、正統魔法少女として生きたマミ先輩。
 そんな彼女がぱくりと行かれて以降、お話が急転直下に加速していくあたり実に象徴的ですねとかメタ気味な解釈の一つや二つ言ってみたくもなろうってもんですが、
 いややっぱ面白いひとですね彼女は(お前のなかだけでな。
 

 あああと、別のオチとしては「女性の第二次性徴のピークって一般に11歳くらいだから中学生くらいで成長が止まってても実はそんなに」というこれまでの全部台無しじゃんという話も。






・ まギカの折り返し地点(6話)あたりまで視聴した上での感想。


 興味はいくつかの項目でまとめることが出来そうなのでそうしてみれば。


・平成ライダーとの類似の指摘をよくみる気がするけども、
 でもその指摘が真だとすれば、結局のところは旧態依然ってことだよな。
 変身への葛藤やら戦うことそのものへの疑問だとかに悩むのがアニメ絵美少女ーだというダケでは皮を剥ぎ変えたのみの問題に過ぎず、なのでどうせならば少女がそれを行う意味だとか意義だとか必然性だとかが欲しく。
 しかし、今のところそうしたエポックは示されていないように思う。
 葛藤の中心が恋愛話だからーというのでは如何にも弱いし。んー。

 そもそも私にその辺の教養が乏しいからなあ。
 魔法少女の、魔法少女たる由縁。
 魔法少女を用いて始めて描きうるテーゼとはなにか。例えば過去の作品で何があったのか。そのへんがいまいちこー。

 そのあたりの欠落を自覚した上で、六話まで視聴した時点で魔法少女という構造が活きそうな点を探してみれば、
「主人公少女の度を外した博愛主義(よい子ちゃんっぷり)が"才能"という一語によって物語に肯定される」という一点かしら。
 でもこのへんも作品の進行次第では勘違いの不発に終わる可能性もありつつ。
 もちろん、既に完成された構造の中で新しい組み合わせを提示するのも意義あることと理解しつつ。


・ボクの中ではもうマミ先輩は面白キャラだ。

 作中の人物描写で割と印象的だった、まどかの「衣装だけでも考えておいたほうがいいかなと思って……」という話。
 それを踏まえるならば、変身後の魔法少女服って自己申告制なのかしらねーという疑問が浮かぶ。
 だとするならば、ほむらちゃんの「以前着ていた学校制服を黒くしただけです」的ニュートラルな魔法少女服がなかなかキャラの立ちっぷりを思わせてステキな一方で、
 胸部を強調して臨戦態勢で気合い十分ないっちょやったらー的勝負服気味魔法少女服マミ先輩との温度差の激しさに興味をそそられますな。

 とか思うと何か。どんどんマミ先輩の人物像が。なんというか。
 そう思い始めればあの、


『こんな幸せな気持ちで戦うなんてはじめて!(両手にキャノンをバンザイポーズでどかーん)』


『もう何も怖くない!(注射器の上で決めマドロス)』



 とかの諸ポーズが面白く思えてしょうがないというかだめだもうボクの中でマミ先輩はもう面白キャラだ。
 しかもこの人、変身シーン含む決めポーズさえ持ってるんですよほむらちゃんなんか全くのニュートラルかつシームレスに変身したり解除したりしてるからそんな必要がないのは視聴者にさえ提示されてるのに。
 しかもライダーキックですとかセラムンの何だかとかに相当するトドメの必殺技も持ってるんですよねもちろん自発的に考案したに違いないヤツ。
 それから学校で後輩二人のテレパシーに割り込んでくるタイミングの鮮やかさとかもうずっと聞き耳たててないと出来ない芸当だよねその後のほむらちゃんが手出しできないようにとの監視っぷりを見ても何かこうひしひしと伝わってくる「ああ……マミ先輩友達いないんだ……」感の切実さたるや!
 そしてあの生き生きと楽しそげな先輩風の吹きさらしっぷりが!
 更に言えば「マミさん、本当に優しい人だったんだ……戦うためにどういう覚悟がいるのか、私たちに思い知らせるために……!」とかの、いやいや誰もそんな話はしてねえーむしろ戦友ができて喜んでましたよォー? 的な勘違いのされっぷりまで含めて!
 ああ。面白いよマミ先輩。あなた面白いよ。 


 まあ、そんなマミ先輩も死んじゃったんだけどね(伊集院光風に再生してください。


 ところで、ファン層の一部でマミ先輩の復活が待望(切望?)されてるみたいだけど、
 いやそんな話じゃねえよな感が先ずありつつも、しかし、そうした彼ら純粋な望みとは別に、
 この上でしかも復活までしてくれればもうボクの中のマミ先輩像は完全無欠の黄金スタチューだわー……て具合になるのでついついボクも期待してしまいます。


 真顔でそのへんを解釈するなら、上記面白さは全部、魔法少女としての孤独と表裏一体ではある。
 命を張って、無償の奉仕を続け続けている少女が、さて普通に日常へとけ込めるでしょうか(さやかちゃんがゆーとったけども文字通り違う世界の住人なのな。
 つまり友達なんぞ作れるはずもあるまいて話でー。
 ほむらちゃんに対してガンガン当たってったのもシマの秩序を守るために必要なことだったろう。
 彼女みたく、他者の救済を視野に入れた魔法少女が例外だというのならば(杏子のような存在を寄せ付けないため)縄張り維持のために尚のこと孤立してっただろうし、
「ホンマ者の」魔法少女みたく自己プロデュースも、「孤独に苛まれながらも魔法少女である自分を肯定し続けた結果の」自己陶酔を承知して飲み下したうえでの自己欺瞞であったかも知れない。



・ほむらちゃんの啖呵が活きた話が良い話だ。

 物語の謎の相当部分を担当するほむらちゃん。
 その一方で、主人公であるまどかが、魔法少女になろうかどうしようかの煩悶の、ならない方への抑止力としても存在感を発揮していたりなので、ストーリーの要点の大半をがっちり担っているステキ魔法少女がほむらちゃんである。
 なので、彼女が存在感を発揮する話が物語を追う上で興味深いものとなるのは当然なのだけど、
 そんなのとは関係があんまなく、彼女の切る啖呵は切れ味のステキなものが多くて良いですな。

 特に、
「度を越した優しさは甘さに繋がるし、蛮勇は油断になる。
 そして――どんな献身にも見返りはない。それを弁えていなければ魔法少女は勤まらない」
 という一言はあらゆる魔法少女物をメタ気味に貫通する名台詞のように思えちゃうぜ。

 多くの女児向け魔法少女アニメを想起し、彼女らの無償にして無垢たる献身っぷり・よい子っぷりを想起せよ。
 それらを踏まえた上で「百戦錬磨なベテラン魔法少女」のほむらちゃんがそれを言うてるのだと思うと味わいがより深まりますな。
 加えて同シーンの。

「私は嘘はつきたくないし、出来ない約束はしない。だから美樹さやかのことは諦めて」
「責任を認めた上で言わせて貰うわ。今となっては、どうやっても償いきれない失敗なの」

 という切りくだしっぷりも近年稀に見る鋭さですわー。
 結局その後の……えーと、都合何回さやかちゃんを助けましたっけほむらさんっぷりもまたよろしございますが。
(加えて「さやかちゃんは元の暮らしには戻れないの……?」「前にもいったわよね。美樹さやかのことは諦めてって」という台詞で言明された「身の危険を何度救っても本質的な救済になんてなってない」という思想も、また)

 あと素朴な興味なのだけど。
 6話で「食うかい?」と差し出されたポッキーもどきをほむらちゃんが食べたのかどうなのか気になります(ああそうですか。



・等々ではあるけれども結局のところ未だに作品そのものへの感情および興味の置き所が見付からずして。

 それでも、作品に対して現状でもっとも興味を寄せることが出来るのはさやかちゃんの恋路の行方かも知らん。
 さやかちゃんの恋愛話は要するに、彼氏の腕を治してして始めて彼と対等に向き合うことが出来るわけで、
 つまりは多くの代償を払ってやっとこそスタート地点。
 けども、そこに辿り着くまでの支払いが必ず後々にまで響いてくるだろうねや。
 単純に「腕が動かない間もずっと支えてくれていたから」という理由でゴールインできるのならば、
 物語的な見知からして「そんならわざわざ魔法少女になった理由がないじゃん」となってしまうので、
 要するに障害の発生が強く予想されます。
 そんでその障害こそがきっと、死と隣り合わせというある意味では抽象的なそれではなく、
(物語の展開次第では始めて)具体的に提示される「魔法少女であることの代償」であるのでしょう。
 とかなんとかなんだけど、
 でもアレだな。
 こういう形の興味って何かこー、既知のもので類似した作品がなにかあったよなーとか脳内検索してみて出てきた答えは「笑うせえるすまん」だったりするドーン。
 きゅうべえがドーンつってるところを想像すれば良いのか喪黒さんが「魔法少女になってくださいよお」と迫ってるところを想像すればいいのかどーん。

(……というのを6話あたりで書いてて、書いた当初は「まあ正道から外れた興味だろうけどね」
 とか思ってたのに、七話をみるとなんというかそのものずばりそっちが正規進行ルートだったようだ。
 んん)






・ 魔法少女まどか☆マギカを観てるんだけどさ。


 色々と提示される略称の中では「まギカ」が好きですね。
 なのでそれを用いようと思いますという一番どうでもいいところから話に入りまして、
 次にするのは2番目くらいにどうでもいい「この作品を視聴するきっかけ」のお話。

 どうでも良いことはどうでも良いことなんだけど、アニメの視聴を習慣としていない私にとって、
 その習慣の外になるきっかけってのは何かしら意味のあることであり、感想に付随して記憶されて然るべき事柄ではあるのです。
 なんだけどもその理由ってのも有り体に言えば「世間で評判になってたから」という以上のモノではないあたりがやっぱりどうでもよさ準優勝。
 twitter で話題を散見してさ。
 何やら、魔法少女という物語の定石に、魔法という並外れた力を用いることの代償、それに伴う人の生き死にというリアルスケールを用いたのが画期的とされるお話らしいのだけども、しかし、さて。

 人の死も、脚本という価値観の上で観るならば悲劇というカテゴリに納められる記号表現の一種に過ぎません。
 例えば、流血という人体において重篤な異常も、格闘マンガにおいてはダメージ表現の一種であるのと同様に、
(汗<流血<心臓停止 といった具合に表現の度合いが強まっていくのね)

 魔法少女物における人死にというものも、悲劇としての表現がインフレ気味に(そして安易に)そこへ到達しただけだったりするのではなかろうか。
 ドラマを描くための記号表現を分かりやすく誇張した結果だけだったりはすまいか。
 だとすればガッカリだよなー等とぼんやりしたのが最初の興味だけど、
 そうした疑問も興味は興味であったらしく。
 普段は自分の進路にはまったく交わらないものとして平坦な目で眺めるのみであったアニメ感想の中で、「まギカ」にまつわるモノだけが、眺めて濾された後も小石のように興味としてひっかかり続けて、何周か越しに蓄積してったその重みがどうやら決壊したらしく。
 膝を屈するような心持ちでもって、視聴を開始したのでありました。

 で。話を順序正しく進めれば次は三番目程度にどうでもいい話。
 そろそろお気付きだろうけどもどうでもよくない話はそもそもここにはそんなに存在しない。

 人の話題に動かされてーという興味はなかなかにスカスカなものであって、
 能動でもって件のアニメを観ようと思い立ったはいいけれども、さて。
 何を理由でもって視聴を継続すべきなのだろう。


 魔法少女にリアルスケールのリスクや葛藤を持ち込んだとしても、
 それはかつて多くの(変身)ヒーローモノがその文化的土壌でもって追求してきた話題である。
 初代の仮面ライダーでさえ、怪物として生まれ変わった我が身を呪いつつ戦ってたし、サイボーグ戦士もたがーためにーたたかうーなんて歌ってた。
 ついでに言えば、魔法少女というカテゴリの中においてさえそうしたシビアさを盛り込んだ作品は私が知らないだけですでに存在していそうな予感がある(意味合いがちょっと違うけども例えば「真実の魔法少女」とか)
 だからその点を期待してみるのも少々今さらなので、きっかけとしては弱い。
 そんでそのあたりが物語の中核だとするならば、そのへんに期待を持たないってのはなかなか深刻でつまりは積極的に物語を追うつもりはないと言うことで。
 並ぶクリエイター諸氏にも、寡聞にも、勉強不足なもので、既知の方はいらっしゃらずしてそうした興味も持てず。
 ……じゃああとは、なんだ。キャラ萌えとかかしら。……それに関しては間に合ってますと戸口で宣言しておきたいしなあ。
 んん。
 
 このへんの動機の弱さは、視聴を開始してもなお微妙について回ることとなる。
 とかで、四番目あたりになる物語そのものへの感想は長くなってきたのでまた今度。






・ え?


 ああ、あけましておめでとうございます(真顔。






・ もはや旧聞ではあるけども。


 google のロゴがジュール・ヴェルヌの海底二万マイル仕様になっていた。
 ロゴを潜水艇の窓に見立てて、小脇に設えられたレバーを上下左右に操作すれば、それに伴い窓越しに見える景色がスクロールしていく。
 つまり探索が可能というなかなか凝った仕様で、
 その凝った仕様がなおさら儂の「モチーフが月世界旅行でないのが残念ねー」という感想を引き起こしたりしつつ。

 ヴェルヌ作品で通読したのが月世界旅行の一冊しかないというのが理由として最大のものではあるけれど、
 もう一つ、つい最近、的川先生の「月をめざした二人の科学者―アポロとスプートニクの軌跡」を読み終えたばかりで、こー、宇宙欲が高まっていたというか。

「月世界旅行」は、オーベルト・ゴダート・ツィオルコフスキーというロケット工学の父親達に影響を与えたとゆー、
 いうなれば宇宙開発におけるモノリス……いや、2001年宇宙の旅シリーズは未読だから変な例えは使うまい。
 何にせよ、世界を変えた架空作品としても知られている。
 
 月世界旅行。読んでみた当時は、月まで砲弾をぶち込むコロンビヤード砲だとか、
 作中人物の朗らかフランス人ミシェルだとかの影響も強く、大らかな作品であるように感じてたけれども、
 アポロ計画のプランの中にも「月まで直接ロケットを到達させる」てのが含まれていたそうだし、
 地球の重力を振り切るためのいわゆる脱出速度などの計算も十分に正しかったそうなのでイメージを改める必要があるかも知れない。
 何にせよ、ロケットのお父様方の心を動かすのに十分な考証と、想像力と、確かな筆致で画かれた物語は、
 その大らかなイメージとは裏腹に人類を月へ到達させる目的意識というか、「未知の世界を画ききってやる」という気迫に充ち満ちていたように記憶に残っている。

 そうまで書いてみれば時代背景が気になってくる。
 例えばこの、未知の世界に到達してやるぜどりゃーという気迫は、ヴェルヌさん個人によるものではなく、
 もしかすると社会的な背景があったのではなかろうかーとか思いついたんだけど。どうだろ。
 例えば、工業の発達によって人類はもはや技術の力で何事でさえも克服できるぜーしてやれー未踏地域を足跡で塗り潰しちまえー的気風が巻き起こってたとかさ。
 どうなんだろね。
 
 歴史オンチを自認するモノにとって google 先生の検索結果は神託そのものである。とかで素直に検索を重ねてみたところ、
 月世界旅行が刊行されたのは1865年のことだそうで19世紀……えーと、世界大戦はまだ起きておらず、それにいたるきっかけが積み上がっている頃合い。
 工業の成長・植民地の争奪戦・肥大していく「経済力」の価値等々で、要するにまだまだ近代化の途上。
 例えば黒船が日本にやってきたのが1853年。
 そして決定的なのが、ライト兄弟が初飛行に成功したのが1903年のことで。……すげえなー。
 月世界旅行は、人類がまだ空さえ飛んでない時代に、あれほどの確信を持って画かれたのだな。
 どれほど先見の明にビカビカしていたかが分かる感じではあるけれど、
 何よりもヴェルヌさん御本人が「八十日間世界一周」という冒険小説を上梓しているあたりに証明を求められそう。
 つまり、世界一周旅行がまだまだ「冒険」であった時代であると。ふむむ。まあ八十日間でーという価値も付加されてるけどね。

 更に言えば、宇宙開発ふくむ人類の未踏地域の探査は技術的困難を克服しつつ今現在も進歩してるのだけど、
 それに触れていわれることが「深海は、火星よりも謎が多い」という比喩ですわな。
 深海探査は水圧の関係などなどでやたらと困難で、火星よりもずっと近いはずなのに、
 画像データなどを比率で比べると、未調査域が火星よりも多くなるというお話。
 儂らの足下には、火星よりも多くの異世界が広がっている。そう考えればなかなか愉快じゃあるけども、
 ここで実に象徴的なのは、ジュール・ヴェルヌという作家は
「月世界旅行」で宇宙を、「海底二万マイル」で深海をも制覇しているという点だ。

 ついでには世界一周もしちゃってるし。八十日で。
 ここまでくれば、時代背景とかそんなもんぶち抜いて、ヴェルヌという一個人の執念をこそ賛美して構わないと思う。






・ そんな師走。


「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら。という本が今年のベストセラーだったそうで」
「ふむ」
「それはそれとして、今年のベストセラーランキングのトップ10のうち三冊がダイエット本だったそうで、
 マジ出版不況感が煽られますね」
「煽られるというか……本の売り上げの順位なんて毎年そんなもんだった気がするが」
「そうだったかも。まあ思いつきで言っただけで、三冊がダイエット本だったのに関しては

『そうか……世界は肉に厳しいな……』

 という太ましいイラストばかり描いてらっしゃるお方の一言が実に印象的だったのでそれで覚えてただけで。
 で。
 もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら。
 高校野球の女子マネなんて割と実在するんだから、むしろそうした女子マネに件の本を読んでみて貰いたい。
 ドラッカーのマネジメントじゃなくて。そしてタイトルは

『もし高校野球の女子マネージャーがもし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだらを読んだら』

「読んだらを読んだら」
「読んだらを読んだら」
「……どっかのボンクラがもうやってそうな気もするけどね。
 新書の市場はフォロワー上等な世界だから」


「つっても日本の場合は、海外で言うところの、ハリーポッターに対するハニータッカーとか、
 チーズはどこに消えたに対するバターはどこに消えたとか……なんかもうチーズとバターってどっちが先かわかんないな。
 昔の話だし。同じ乳製品同士仲良くしろよと言うか。
 まあなんかそんな露骨なまでの二匹目の土壌狙いが横行したりはしないよね」
「目立たないだけな気もするが。でもそのへんを考えるにゃ人口の比率を勘案しないとダメだわ。
 日本の一億人に対してアメリカは三億人。同じ比率だけ売れても向こうのが三倍の数になる。
 おこぼれを拾いやすいというかね。
 中国やなんかでも、模造品市場が育ってるのはそのへんの人口の多さが絶対影響してるはずだし」

「アイマスに対するドリクラみたいな」
「アレはもう、ドリクラ独自のニッチ層を見出してる感じがする」

「誰かが言ってたことだけど、フォロワーとは少し違うけども
 大体その辺の、萌えの文脈で読み解く新書ーみたいなのの表紙は、
『目前にアニメ調の美少女・背景にとりあえず青い空ー』みたいなテンプレートがもう出来上がってて、
 書店に行けばそんな具合のがわらわら確認できるらしいけどね」
「そのへんもなー。もしドラがパイオニアというわけではなくて、
 既にそうした書籍群があって、その中から何らかの理由で、もしドラがぽっと突出して目立っただけでもあるんだろうし。
 最初の例というか。
 だから文脈や作品としての目新しさはないんだよなー」


「萌えを交えて分かりやすく解説というと、それこそ『萌えたん』あたりまで遡るしね」
「萌えたんもな。同じ事が云えると思う。
 萌えたんが登場した時点で、もう萌えたんは珍しいものではなかった」

「……それは……そうだっけ?
 萌えたんそのものはあくまで参考書の体をなしたネタ本であって、
 中身もガンダムの名台詞の英訳だったりとかで終始実用度外視だった。
 なのに見た目から取り繕うとしてたギャグが結構な完成度だったわけで、
 で、なのに、以降のフォロワーは割と真面目に萌えかつ学術書みたいなのが多かったというか。
 少し悪い言い方をすれば『真に受けちゃった』みたいな?

 てゆか、萌えを交えて分かりやすく説明ーという文脈でいうなら、
 とっくの昔っから『マンガで分かりやすく説明』という解説書が定着してた。
『マンガで分かる株式投機!』とか『マンガで学ぶ蟷螂拳点穴法』とかね」
「てんけつ……ん、なに?」
「だから、萌え新書は別段目新しいものではなくて、マンガ学術書の延長線上で、
 順当な経過によって生じたものだと解釈するのが正しいのだと思う。
 っつーか、このへんも日本のマンガ文化に数えてええのかな。
 マンガの文脈・文法をそんだけ広く日本人が理解してるというか……」
「何にせよ日本のモノの作り方ってそういうところがある。
 自分から相手の目線にまで降りていかないと相手が乗ってくれないと勘違いしてるというか、
 むしろ踏みつけやすい位置まで降りていかないと誰も乗ってくれないというか。
 学術書を萌えでカモフラージュするのもそれの一環だろう、つまり。
 こっちの水は甘いぞー。萌え萌えだぞー」

「既存の競合作と違う魅力でアプローチするのはある意味正攻法だとは思うけど。
 しかし、『お客様は神様ですー』が絶対的な真実としてまかり通ってるというかねえ。良くも悪くも。
 もしかすると、マンガの文脈を理解してる人が多いからマンガ解説書が広まるーという話じゃあなくて、
 分かりやすく噛み砕いていった先にあるモノとしてのマンガの活用、もしくは萌え新書なのだとすれば、
 それはマンガ文化じゃあなくて、日本人の気質や国柄に理由があるのかも知れないね。
 だとすればなかなか根が深いなあ」
「深い気もするが、あまり興味の向かない話題だな」
「ああそうですか」






・ 東京都青少年健全育成条例改正案。



・ヤな時代になったもんですね。と思う。

 儂は基本的に政治オンチじゃきに、
 そのへんの具体例だとか前例だとかが浮かばないから単なる類推なんだけど、
 表現そのものへ規制が入るーってのは殊の外に大変なことで、ひとたび制定されたらば以降、
 キツくなることは有り得ても緩くなるなんてのは国体がひっくり返らない限りまああり得ないのではなかろうか。

 その理由はだな。仮に考えてみるに、どこぞの政治家さんが
「青少年を健全に育成するための条例を少し緩めましょう。
 もうちょっとエロとか書いてもOKにしようぜ表現の自由のためにさ」

 なんぞと発言したところで民意を得られるはずがありますまい。
 もしそんな民衆だらけの国があるとすればぼくはそこに移住したい。
 いややっぱあんましそうでもない。

・(今さら)反対する理由をあげるならば。
 結局んとこ、「現行法でダメな理由がさっぱりわからん」という点がいちばん強い。
 不健全図書が青少年に影響を及ぼす客観的根拠――という遠大な根拠ではなくて、
 もうちょっと身近なヤツ。
 有害図書の指定は各自治体ごとにけっこー違ってて
(個別に見てってコレはダメ。コレはセーフと判断する個別指定だとか、
 一つの話のウチに何割ほど露出度の高いページがあったらダメー等の包括指定だとかで県毎にそれぞれ)
 東京都は確か個別指定に近い方法だったと思うんだけど、それの適用範囲をわざわざ広げる理由ってなんだろう。
「不健全図書の青少年閲覧防止」は今まででも十分できていただろう。と思うんだけど。

 不健全なものの規制は一度取り締まったらば改訂が難しく、
 そんで表現ってのは社会を形作るものでさえある。
 だからこそ為政者はこぞって制限を加えてコントロールしやすくしようとするわけだけど、
 それが文化面に与える影響の大きさを、そして制定されて後の時間軸まで考慮に入れた影響のどでかさを考えれば、
 明確な理由の提示もナシな不用意にやって良いこっちゃねえと思うんだけども。思うんだけどさ。



・で。私個人の話をすると。

 おれ人間のどうしようもないところって好きだしなあ。

 生きることに意味はなく、人一人の命は思いのほか安い。
 ぼんやりと座ってるだけでもコンベア式でなんとはなしに生きて行けちゃう先進国な環境にあれば、
 大抵の人間はそーした事実に思春期あたりで気が付くのだと思う。
 けども、事実は単なる事実であってさしたる意味はない。
 ないんだけども、そのへんの事実の受け止め方に失敗して変な具合に思春期をこじらせちゃうと、
 どうにも生きていくのが苦手になっちゃうんだよね。

 私たちの活動のほぼ全ては、生きていくためのものである。
 快楽に直結してる三大欲求はもちろんのこと、毎日のお仕事だって生活のために他ならず、
 趣味やなんやかんやもストレスの発散だとか考えればそれも生きるためー等々で、
 生きていくのが苦手ってことは、
 このへんの活動全部が苦手って事だったりもする。
 だから、ものの弾みで我に返るのだ。
「こんなことまでして生きる意味ってあったっけ」とかなんとか。

 例えばお仕事に行くのがめんどくさくてしょうがないときとか、
 朝起きるのが辛かったりする程度のことでも。
「生きるのに意味がないのならこんな苦労もする意味なくね?」
 なんぞと考えて動きがとまってしまう。
 毎日の積み重ねで蓄積していく重圧に抗する力が萎えていく。
 要するに社会生活不適合者。ドロップアウトしてる落伍者さん。
 はい。
 全部わたしのことですが。


 そんなだから。
 人様の強い目的意識に興味を引かれたりする。
 例えばアスリート。

 自分自身を、単一の目的に向けて、
 人間が持ちうる一生単位の時間を費やして、鋭く、鋭く、脆くさえあるほどに錬磨する。
 自意識を有するが故にわりと好きに生きられて、
 他の生物にはないぐらいの選択肢と自由度を持っている人間という生物が、
 その自意識でもって多くの物事を擲ち自分自身にただ一つの目的を科す。

 価値というモノは比較の中から生まれる。そんで人類は60億人いるから、
 だからどうしたって「人一人の命なんて軽い」て言葉が事実となるわけですけど、
 そうして己に強く目的を科した人々は、他の多くとは違う存在価値に向かって突き進むわけで、
 要するに比較を絶した場所にいるのだな。
 んだから、六〇億に埋没した「生きる意味なんて無い」とかいう薄っぺらい言葉は塵芥同然に吹き飛んじゃうわけだけど、その吹き飛ばされっぷりがまた痛快。
 実に心地よい。

 これが一例として、もう一例。
 同列に並べるのもどうかとは思うが、似たような理由で変態さんにも興味をひかれる。

 人は群れて暮らす生物で、社会というコミュニティに所属して、
「人は一人じゃ生きられない」という言葉にまとわりつくセンチメンタリズムを台無しにするほど額面通りに「少数派は死ね」な生態を構築してる。
 だから、社会性とか社交力とかはそのまんま生きていくうえで大事なスキルなんだけども、
 群体にはどうしても例外的な少数派が生まれちゃうわけでさ。
 世の中には、どうしても、自分の意志とは無関係に(もしくはむしろアグレッシブに)、
 そのへんの「生きていくのに必要なこと」を投げ捨ててしまう人々がいたりする。
 水平線の果てにある太陽でもって焼却するかのよーに猛然とした勢いで投擲する人もいれば、
 部屋の隅に転がしてカビ生すままにしておくーという捨て方の人も居たりでそのへんは色々なのだけど、
 ともかく。
 運だとか何だとかの巡りが良いと、そうした人々の創作物を目の当たりに出来たりする。

 そうした人間の創作物ってのは、大抵の場合、生きるという行為の代替物だ。

 生きるという行為の枷になってしまうような趣味やら疑問やら人間性やらを抱えてしまった人間。
 アウトサイダー。反社会的もしくは非社交的な連中。
 つまりは、表現したいものの為に、生きていくのに必要な行為を代償にしてしまう者ども。
 しかし、代償というからには一応、そうして生まれた空白の埋め合わせとして手に入るモノもある。
 それは「表現」だとか「創作意欲」だとか、もっと単純には「生き甲斐」と呼ばれる類のものだ。

「それ」があるからこそ生きるのが苦手だったはずなのに、
 いつのまにか「それそのもの」が「生きる」という意味を上書きする形で乗っ取ってしまう。
 それは、逆説的ではあるけれども、「これがあるから生きている」という意味が生じるのとほぼ同義だ。
 多分な。


 そんなだから、私は人の持ってる「どうしようもなさ」が好きなんだよな。
 なんつったって生きるのがどうにも苦手な人間ですから、「生きている理由」のようなモノとして提示されるそれら作品は、
 作品本来が持ってる面ではないけれども、しかし別の側面ではつまる「生きるお手本」であるのだ。


 だからー。
 そうした作品を規制するような法案は「かんべんしてくれ」なんだけど、
 しかしこのへんの感情はもちろん反社会的なものでもあったりするので、
 これは規制反対の本来的な理由にはできないのです。あくまで個人的なな。


 シンタローは「別にそういうモノを描くな、と言っているわけではない。
 子供の目に届かないようにしただけだ」つってて、それを信頼したいところではあるんだけど、
 どうにも具体例がなあ……。角川さんとかはまだまだ根強く反対を続けてくみたいだし、どうなるんだろね。






・ 課題がむつかしいよせんせー。

 ん? 課題って下の質問のことかしら。
 だとしたらそんな難しく考えず思いついたモンで結構スよー。
 例えば「倒立」とか。「ただし江頭2:50の」






・ 変で唐突な質問。


 変な質問ではあるけども唐突ではない質問ってあるんですかね。
 唐突ではあるが妥当な質問はなんとなくありそうですが。
 ……そのへん考えるのも面白そう。
 でもそれの考案は通勤電車の揺れに脳味噌をちゃぷちゃぷさせるついでに行うことと致しまして。で。


「決めポーズといえばコレだ」
「こんなポーズを人体がとっているのをみたい」
「この格好はまさしく芸術を体現してると思うのよね」


 等の意見をお持ちの方はございませんでしょうか。

 居るのか? いやまあともかく。
 我々は案外と自分自身の肉体には(体型を別として)無関心で過ごしてる。
 だからー、人体をモデルにして写真を撮る際に、棒立ちじゃつまんないので何かしらのポーズを取らせようと思っても、
 かっこいいポーズ然り(ジャキーン)、
 おもしろいポーズ然り(がちょーん)、
 可愛らしいポーズ然り(ぽわわーん)、
 あまり思いつけない人のが多い。ような気がする。
 というか単に私がそうなだけかしら。そんな気もしてきた。

 例えば、私がもうちょっと特撮文化とかアニメ文化に触れていたならばさ、
 あのライダーのあの変身ポーズを取らせてみたいだとか、
 あのアニメのあのシーンであの登場人物があのシチュエーションであんなポーズを取った思い出を再現してみたいだとか、
 色々と思いつけもしようものですが、そのへんとはやや疎遠に過ごして参りましたから、
「ポーズのネタのストック」が実に乏しいんですよね。

 なので、そのへんを認めた上で、こうなったらそうしたネタを公募してみよう。と。
 思いましての質問です。
 もしよろしければ適当になんか考案してみつつこちらに投げてくれれば嬉しいです。
 息が切れない程度の歩調でキャッチに向かいますので。


 適当なガイドライン。
・かっこよしも面白しも可愛らしもどんな雰囲気でも歓迎。
・モデルは基本的に一人だけですがでもまあ二人以上必要なポーズでも大丈夫な場合は大丈夫でしょう。
・人体の構造的に無理なポーズであってもそれなりに頑張りますが無理なものは無理で無理でもネタにはなるかも知れません。
・画像で例示してくれれば嬉しいですがなくても検索したりして探してみたりはします。
・小道具が必要なものでもそれなりになんとかしますがなんともならない場合もあります。
・ポーズ取るのは私じゃないです。

 等々です。
 例としては「ジョン・クリーズのシリーウォーク」だとか「オラタン勝ちポーズの中ではテムの通常のがいちばんかっこええと思う」だとか「流行でいえばマイケルのTHIS IS IT のポーズかしらね」だとか「荒ぶる鷹のポーズて元ネタなんだっけ」だとか「地獄の門の上で熟考してみるとか」だとか「レイクエンジェルって昔いたよね」だとかまあそんな具合に。
 以下のメールフォームに投げてみてください。


お名前(無記名可):


こんなポーズ:

ポーズの説明とか選んだ理由とかその他コメントとか:


あなたのお部屋の室内気温と防寒方法:



 等々で。よろしければおつきあいくださいませ。
 あ、そうそう上記メールフォームはCGI RESCUE さんの提供により成り立っております。






・ 人心事故。


 現在、警察と消防による現場検証と安全確認が行われております。復旧の目途は現在立っておりません。
 ××時××分より運行を予定しておりましたどこそこ行き何々線の運行は本日休止されました。
 お客様におかれましては大変ご迷惑をおかけいたします。何とぞご理解の程をお願いします。


 人身事故という字面だけでは何が起こったのやら判別は出来ないけれども、
 ともあれそうして止まったのは一番太めの路線。そして学生さんと会社勤めさんの帰宅時分ばっちりに直撃。
 人口過密状態のホーム人々の頭上にはある種の感情が渦を巻いてて、空気がなんだか生ぬるいのは所謂ひといきれな温室ガス効果だけではないような気がする。
 実際、駅員さんに食ってかかってるエントロピー増大目なおじさんもいらっしゃるところで。

 現実として。
 私は私を被害者として計上しても構わないのだろう。
 既に三時間も足止めを食わされてる。
 帰宅の後にやりたいこともそれなりに山積してるし、寒空にいや増す肩こりなんかも換算すれば、結構なモノだ。
 そうした認識にも関わらずまったく被害者意識が沸いてこずにさっぱり平常運行のこの私の薄ぼんやりっぷり。
 まあ読む本さえあれば何処にいようと自室で座臥しとんのとそんな変わりないスよ。

 けれども。関心を奪われる事柄が一つだけあって。
 仮の話として、仮の話ではあるけれども。
 駅員さんの説明する人身事故が、投身自殺だとするならば。
 人一人が、命をなげうった結果が、この程度の事なのだろうかと思う。
 いつもよりも駅のホームに多く人が並んで、みんなして多少イライラ気味にケータイで連絡を取り合う。
 人一人の命で起こし得るのは、この程度の光景なのかね。
 まあ。自殺者数は年間でおよそ三万人。一日百人だと考えれば、あと99回ほどどこかで似た光景が散見されるのだろう。
 そう思えばなるほど、こんなもんか。

 いや、案外と大それた事でもあるのだろうか。
 正確な数は計上できないけれども、4つとか6つとか繋がった車両を二度も三度も満杯に出来る量の人間の時間を数時間奪う。
 合計すればそれは何十時間になるのだろうな。
 ただ一人にその影響を絞ってみても、例えば、その数時間の遅延によって観る予定だったテレビ番組の視聴を逃して溜まった不満を恋人にぶちまけちゃって別れ話にまで発展しちまう男女がいるかも知れない。そんでそうして二人の間に産まれるはずであった赤ん坊は生を受けず、そうして産まれた子がもしかすると選ばれし七人の勇者の一人で来たるべく暗黒に払暁の如く立ち向かうべくSADAMEをどうたらこうたら。

 バカほど極端な例えを好むそうですね。

 だからまあ、三時間の遅れは、多くの人々に多かれ少なかれ影響を及ぼすのであって。その波紋の大きさを合算して総量として思うならば――。
 ま。それによって起きたことが大きいか小さいかは個々人の主観による判断へ帰しましょう。
 ともあれ影響という意味では、なかなかに。
 ふむ。人一人の命な。
 

 仏教の基本は因果応報。この世の中は因果律で運行されていると説く。
 というよりもむしろこの、因果の流れこそが本質だと捕らえるらしい。
 相互に影響を与えあって、ドミノ倒しのように関係を連続させていくこの運動こそが世界の正体であって、私の持ってる自我なんてェものはドミノの板が倒れる際に鳴らす「パタリ」という音の如く、運動の結果に一瞬だけともなう付属物程度のモノであって全然本質ではない、と。
 そうしてみりゃ過激な論旨である。

 その上で更に過激なのは。仏教の最終目標とはこの因果律からの解脱だ、と、しているところ。
 ドミノ倒しの輪から抜け出てしまう。つまりは何でもなくなっちゃう。
 それを「悟りを得て涅槃に入る」というけども、つまりは死んで「無」になるって事なのよな。

 宗教に無関心な人のウチで、死後の世界を否定して「死んだら何もなくなるじゃんー」と言う人がいたりするけども、
 それこそが仏教の最終目標に他なりません。
 仏教徒な人々は、その「死んで何もなくなるために」、輪廻転生を、死んで生まれ変わって死んで生まれ変わってを繰り返して繰り返して繰り返してたりするんだな。
 お釈迦様なんかはその境地に達したのだけども、「居なくなる前に我らをその境地にまで連れてってください」と希われたから今も天上にいらっしゃるのだそうな。


 そうした理解で。運行再開を待つ人々に紛れてぼんやりしてみれば。
 投身自殺による運行ダイヤの乱れ。そうして世の中に与えて広がってく波紋。
 否応なく押し寄せる因果の波。
 なるほど。自死なんていう短絡な方法じゃあ、無なんて境地には酷く遠い。


 ああそうだ。そういえばアレだ。
 仏教の最終目標は無になることだけど、キリスト教の最も重い罪ってのも無になることなんだってね。
 キリスト教の伝える終末観は「最後の審判」。
 その日、あらゆる死者は蘇って、神様の国に入れるかどうかの裁判が行われるらしいんだけど、ここで不合格喰らっちゃうと本当の死が訪れて、つまるところが「無」になるんだと。
 この価値観の丸違いっぷりが面白いですね。
 つまり仏教徒を極めるにはキリスト教徒になるのが手っ取り早いってことかしら(いやいや。






・ 各種割引はありましたでしょうか

 各種割引コメントを頂いた時にはもう購入済みという話でした。
 ところで「もうこうにゅうずみ」と書いたらば「猛攻乳済み」というイメージの想起が全く不可能な文字列に変換されて軽めに沈思黙考。



・ 予備はあった方が良いですよ。眼鏡を壊したときに、買いに行くのも大変でした。

 それはぼくもバッチリ経験ーなんつったってその日のウチのお仕事にモロ影響がでたもんねー。
 となると、室内用のメガネで外出時には使わないからーつってややはっちゃけ気味な面白メガネを購入したらば予備として運用する際にそれを装着して衆目に晒されねばならんわけか。
 なるほど。よし無難なのにしよう。



・ レンズが基本特注だからか、眼鏡の人って本当大変そうですね…ウチの母親は老眼鏡を5パターンくらい買ってきてバラしては自分に最適なレンズを組み合わせてました。 

 やあ、特注つってもお店で三十分ほどまてばさっくり用意して貰えますよ。
 むしろご母堂のカスタマイズ心というか、ホームメイド魂に敬服するところ。






・ 眼前すりーえむえむ。


 そもそも論。
 メガネを買う必要が出来て、もちろん私の選択基準第一位はお値段である。
 できれば三千円くらいで済ませたい(実際の値段をだすと途端に生々しくなるね。

 値段を限ればとたんに選択肢も狭くなる。その乏しさがかえって好都合だったりもするのだけど、
 しかし好みを言えば、同じメガネであるならば例えば薄型フレームとか縁なしレンズとかよりも、
 如何にも「近視でござい」然とした縁の太いやつが面白くも好ましい。
 等と。店頭に並ぶ二つの楕円を、それらしく、ためすがめつ試着してみては鏡を覗き込めば。

 どんどんどうでもよくなってくるネ。

 っつーか(仮初めにも)似合うメガネを探して試着を繰り返すーという行為には、
 この、自前のしょぼくれフェイスと幾たびもツラを付き合わせるーという行為が必然的に伴う。
 伊達レンズ越しに、近眼ゆえに細めた眼と繰り返し繰り返し目を合わせる。
 自虐に等しい。うるせえこっちみんなと言いたくなる。
 しかも、こー。プラスチックに厚いフレームというと形態の違いもそんなにないし、あるのは楕円の角度が上向きか水平か、色だって、日常にもフォーマルな場面にも共有で着た切り雀よろしく一つしか用意しないとなれば黄色だとか緑だとかのやや奇抜めなモノは選べずして。
 つまり何を付けたって一緒なのだ。二重の意味で。

 ややウンザリ。
 
 等と内向的にまごまごとしていれば、店員さんが
「本日はどのようなメガネをお求めですかー?」と営業スマイルで接近してくるので、
 半分くらいの素直さで「急にメガネが壊れちゃったので、安価なのを探してるんですが」と応える。
 安価なのをの部分を強調しつつ。あと急でなくとも安物以外を買うつもりはありませんというのが隠れた半分。

 そうして相談して貰った結果に出た結論が、儂くらいの度の強い近眼用レンズは在庫が切れてるので一番安いモノの用意は入荷に数日かかる。
 つきましては、こちらの薄型レンズや遠近両用のUVカット加工レンズでしたらばお値段が上乗せされる形にはなりますが即日ご用意できますが――。

 薄笑いで店を変えた。

 そうして幾つか回ったお店の先に、アラいいじゃないという感じのメガネがあった。
 金属フレームではあるが細くなく、平ために厚くメガネを覆っている形状。色はベージュで落ち着いている。
 つまり地味だ。もうこれでいいよな。いいよね。
 と落ち着きかけたんだけども、値段が当初想定していたモノの倍以上。ふむ。
 あとコレ伊達レンズだからわかんないけど、ド近眼用で薄型加工もしていないレンズをくっつけると見た目がだいぶ変わっちゃうよなー……どうなるか予想も付きづらいし。
 あと金属フレームって耐久力の面でどうなのかしら。歪んだらば困るよな。その点でもプラスチックのは無難だよなー……あと多少オサレめのメガネを購入したところでそれだけしか持ってなかったらば片手落ちにお笑いぐさだし、例えば極論ではあるが身近な問題として葬式にだって着用していけるようなモノでなくば一本しか持たない人間の日常用途には耐えづらく……。

 そんな風に悩むのであれば、簡単な解決法はある。
 二本買えばいい。日常用のと、あるいは非常用のと。
 つまりスペア。
 しかし私にはそんな経済的余裕もなく。
 となれば、やっぱり選択肢は限られる。
 貧すれば鈍するってのはまったくもって反論の余地のない事実でありますな。ちくしょうめ。

 しかしそこまでくれば、悩む気力もいい加減尽きてて、
 他に気に入るメガネが見付かる公算もなく半ば投げやり気味にそれを購入した。
 薄型レンズへの加工を執拗に勧めてくる店員さんを半笑いで躱しつつ。

 そんで。退店後、購入したメガネを改めて改めてみれば、
 オサレめに照明を落としたお店ん中ではわかんなかった具合に、
 平たい金属フレームは光を反射してびかびかと自己主張をされてらっしゃった。
 ……むう。






・ ソフトコンタクトは眼球傷つけるのでよくないということと、ハードコンタクトを目に入れる厳しさはソフトの比じゃないということを知っておいた方がいい・・・・ 
 あとソフトコンタクト入れたまま寝ると翌朝目にはりつくんだぞ! 無理矢理剥がすと角膜も一緒にはがれちゃうんだぞ!
 取るときは目薬でやさしくはがしてね・・・


 コンタクトレンズとの距離がいっそう隔たりました。
 居眠りに寝落ち上等な私としては想像するだに恐ろしい現象だぜ眼球貼り付き。
 あとアレよね! 目に強烈な光の照射を受けると蒸着しちゃったりするのよね!(それは都市伝説だ。


・ 初めて(或いは久々に触れたであろう)3DSTGがHalf-lifeみたいなシングルゲームに主軸を置いたゲームでよかった・・・ のか。
 是非1の方も触れたってください。


 良かったと思うよー実際。
 ほぼ一本道なシナリオ重視型の展開は日本人にも受け容れやすく御座いましょう(エスニックな偏見。
 それに、最近遊んだ CO-OP 上等なマルチプレイなり対戦なりが本編な HALO 3 を一人でオフラインに遊んでたらば口がなんだか三角形になってたもん。
 そのへんはまた後日機会があれば書いておこう。

(積みゲーならぬ、積み感想というのも何か)



・ クラブの先輩が眼球をぐるんぐるん回してて何事かと思ったらぺろりとコンタクトが剥離してきてちょうびびった夏の思い出。

 あらステキな剥がし方。
 マスターすればちびっ子どもをきゃーきゃー言わせられるわね!






・ 眼玉機関。


 目玉を撫ですさる経験。

 メガネが砕けた(いや砕けてない)話は先日したけれども、
 その際に、コンタクトレンズの着用を試行してみた話。

 家人がまちがえて購入していた、やたらと度数のキツい使い捨てコンタクトレンズ一ヶ月分が転がってたので、しかすると砕けた(砕けてない)メガネの代用に丁度いいかも知れないと試してみたのだけれども。
 これがなかなか装着できない。
 小一時間ほど粘ったけども装着できない。
 いやいや昨今のコンタクトレンズ需要を思うに、こんな手間取るほどの難度であるはずがない。
 何か付け方を間違ってるんだろうか。
 それともアレか。コンタクトレンズというと用途はほぼオシャレに限定されてて、なるべくそうした行為や心象から遠離るよう迂回して迂回して迂回して生きてきたこれまでの生涯が意志を越えた習慣としてあまりに深く私の内面にまで働き、いっそそれをして「魂」と呼ぶべき無意識下の作用が私の指先を、まぶたを、眼球を、知らず動かしているのだろうかー
 とか考えてしまうほどに装着できない。

 とはいえ。
 メガネが砕け散り次第即座に代替を用意する程度の経済力さえ持ち合わせてない私にとって一ヶ月の延命処置は魅力的なのだ。
 視力ないと現実的に困るし。
 なので地道な試行を繰り返す。まぶたをこじあけて、人差し指でコンタクト越しに眼球に直接触れる。
 触れ続ける。
 そのうちにやっと嵌った。

 はまったは良いけれど。どうにも具合が良くない。
 装着の出来た片目だけで世界をみれば、焦点はきっちり合っているように思えるけどもしかし、何もかもが二重写しに分身している。
 なんだこれ。
 つまり度が合ってないということなのか。
 でもこれはこれで何だか面白いなと思いつつ。あ。もしかしたら、両目にはめたらばちゃんとした像が結ばれるんじゃねと、ちょっと頑張って両目に装着したらば。
 別に何のこともない。それまでは、コンタクトレンズの嵌った目が見ていた二重写しの世界が、両目ともに見えるようになっただけだ。
 ふむ。
 これはコンタクトは諦めざるを得まいなと、外すべく眼球に触れるけども。

 ……しまった。
 両目共に異常な視界になってるから、ものすごく外しずらい。
 てゆかそもそもコンタクトレンズってどうやって外すんだろう。
 たすけて google 先生ーとか言おうとしても文字さえ読めない視界では先生の声さえ届かないよ温もりさえ感じられないよああこれが人が生を受けたらば永劫に付き合い続けなければならない孤独の冷たさ。

 少し考えた結果に思いついたのは、両手人差し指を眼球の両端に据えて、挟むこむように動かすという手法。
 そうすりゃ、ソフトタイプに柔らかいレンズは人差し指に押されて折れ、眼球から浮くはず。

 試す。
 試す。
 試す。

 取れない。
 あんまりにも取れないので、ふと「そもそも、ほんとにコンタクトは装着できているのか?」という疑念に覆われる。
 だとしたら今の僕がしているこの眼球撫ですさり行為はなんなんだ。
 そういう趣味の人か。
 この二重写しの異常視界が、コンタクトを嵌めたのではなく他の原因によって生じたものだとして。
 しかし私の頭のなかには、この視界を正常に戻す方法はこうして目玉を撫ですさる他に無く。
 どれだけまぶたに人差し指を潜らせても治らないのにも関わらず、延々と続け続けているというこの状態。
 わあ。猟奇的。

 原因とその解決法が食い違ってるってのは、それだけで狂気に近い。嫌な寒さを催すものであるな。


 とか変な妄想をしているうちに取れた。
 しょうがないので、メガネはアロンアルファでくっつけて、それで給料日まで粘ることとした。






・ 0.01以下って、、視覚障害1級ですね。各種割引があると思いますが、、
 私は0.03で近視・乱視なのですが普段は眼鏡をかけていません。
 音とぼやけたものを感覚で捉えているので特に不自由はないですね。。
 2〜3mぐらい近くに寄らないと人の顔は認識できないですが、それも全体の雰囲気で把握している感じです。


 まじで。今何か聞き捨てならないことを聞いたのでもれなく拾いますがまじで。>割引
 てゆかそこまで悪いのか私の視力は。

 私も、自分の目が酷く悪いーてのに気付かず中学生まで過ごしてたなあ。
 メガネ屋さんで驚かれたというか、「今まで怖かったでしょう」と言われて曖昧に頷いた記憶。
 だって他の視界を知らんかったしなあー。

 その状態ですでに古本巡りを趣味にしてたんだけども、思いっきり本棚に近寄ってたなー背表紙が読めなくて。
 でも確かに、輪郭のぼやけた状態の方が、色や音には敏感になれるかも知らんスね。

 その頃の記憶を思い起こすに、私もそんなだったかな。
 人は雰囲気で把握するというか。だから人様の年齢を予想するのがすげー苦手だったりしたなあいや今も不得手だけど。




・ 本を読んでいたら近視になっていた。

 ある意味じゃ最適化よな。
 私も今のメガネにしてから、それまで普通にしていた本読み姿勢の変更が必要になったり。
 いつも通りに読んだらなんか近すぎて目が疲れるというか。
 もう、視力というか、ピント調節の機能は戻ってこないだろうからいっそ普段用と読書用とで用途別にメガネを揃えるかしらねえ。






・ おと も なく くだけちった!


 メガネが。
 いや砕け散りはしなかったけども。フレームの真ん中からキレイな線対称に分割されてしまった。
 昼頃に目覚めた寝惚けヅラを熱湯で消毒して、装着すべくメガネを眼前まで運べばレンズの汚れが目に付いた。
 何の気なしに、いつも通りの所作で冷たくも柔らかくもないそのレンズを拭えば、いつのまにか、右手と左手のそれぞれに分割されたメガネを持っていた。

 うおわ。

 そのサイレントっぷり。
 かつて一つだったものが二つに分かれたならばそれは要するに破損である。
 その気になれば単眼メガネのモノクルっぽく活用できそうな気もしたけどもその気にはなりそうもないので、
 この瞬間にこのメガネは道具としての役目を終えたこととなる。

 目覚めて数分の出来事で。
 私が寝床から這いだしたならばそれはお手伝いの予定が約束の時刻ギリギリにまで控えているということなので、それなりに慌てる。
 家人が間違えて購入していたやたらと度の強いコンタクトレンズを使用してみるが私の魂が拒否をしてかさっぱりはまってくれない等の寸劇を挟みつつ遅刻寸前。
 止むなく、姉の所有するウチ最も強い度のメガネを借用。
 滲んで曖昧さを増した世の中を掻き分けるようにして図書館にまで到着。
 極度の眼精疲労を代償に滞りなく業務を終えて帰路。
 あんまりにも目が疲れたし。更には狂った遠近感で走り回ったモンだから三半規管が異常を主張。
 気分が悪い。
 なので、裸眼のまんまで家路を辿ることとした。

 視力 0.01 以下の世界観って、そうでないひとには想像が難しいかも知れない。
 近眼によって焦点を無くし、境界をなくしてひたすらぼやけて滲む世の中。
 色彩だけが曖昧な大きさでうごめく世界。
 なんだけど、期待してみたよりかは面白くはなく。案外といつも通りの日常。
 脳味噌が備える補完・処理能力が見事に私の期待を裏切ったらしく、四角いものさえ丸く見える世界にあっても、
「正体不明の存在」に遭遇することはなく。
 アレは軽自動車。こっちのは制服女子。
 緑色に毛深くも見える浮遊したぼんぼりは信号だろうし、ならば辿るべき道もいつも通りだ。

 記憶に従った認識のみの帰り路なので、逆に云えば記憶にない事物は存在しない。
 つまり例外はなく、そんなもんだから風景にぼんやりする機会もなく、帰宅までの所要時間はかえって短くなった。
 なんだつまらん。

 それでも面白かったのは、遠くに見える大病院の夜景である。
 輪郭をなくした灯りは、ほぼ例外なく二回りも三周りも巨大な輪っかを描く。
 信号なんかが顕著で、上述した通り、赤信号なら赤の青信号ならば緑のぼんぼりが脈絡なく中空に浮かんで見える。
 加えて特徴的なのが、遠近感が消失していることである。
 光が持つ特質なのか、かなりの遠くに輝く色彩であっても、他の景色と違って色褪せることなくみえる。
 つまり、今渡っている最中の信号の色味と、国道の彼方の端っこにある信号の色味とが変わりが無く見える。

 それらを踏まえた上で想像して欲しいのは、
 大病院の八階建てだか十何階建てだかの窓明かりが遠くに立ちはだかっている様である。
 ぼんぼりがどっさり。奇妙な規則正しさで、距離感を無くして。
 なんかこー。
 いつもの風景に突如としてでっかい真四角の壁がどすんと降り落ちてきて、それに蛍光塗料を真円をしたスタンプでぽんぽんぽんと飾り付けたような風景なのだな。

 やや面白い。

 そんな遠近感をぶち壊す風景を面白がって眺めつつ歩けばそりゃ吐き気も催しますわな。
 覚束ない足取りのままに、なんとか無事故で帰宅の次第。






・ バールライクヒア。


 とあるゲームの体験版を遊んだらばそこそこ面白く。
 面白くは感じたのだけれどもしかし。それのジャンルは TPS だったのでどのくらい面白いのかがいまいち判断できなくて。
 その点がやや気にかかった。

 TPS とはサードパーソンシューティングの略称であって、三人称視点射撃のことである。
 つまり自分が操作しているキャラクターの背中に視点を置いて遊ぶゲームで、独立したジャンルというよりかは FPS というジャンルの中の小カテゴリと解釈した方が理解はしやすい。
 FPSとは、ファーストパーソンシューティングのこと。
 プレイヤーキャラの視界を再現したゲーム画面が特徴なゲームで、日本ではやや馴染みが薄い。
 視界を直接操作するゲームなので、必然的に「狙いを定める」という行為がプレイ中の操作の主たるモノとなり、(シューティングという名の通り)銃撃なり狙撃なりがゲームの大半を占める内容の物が多く、
 なのでそのゲームの世界観も必然的に銃撃戦が行われるに相応しい舞台が多かったりする。
 兵隊さんの一人になって戦争を体験してみたりギャングの構成員の一人になって任侠の世界に生きてみたりな。

 で。そうしたジャンルの中の一カテゴリとして見た TPS とは。
 自分の姿を見ることが出来ない FPS と比較して、操作しているキャラの姿を目視できるので、
 その効果でもって跳んだり跳ねたり避けたりが求められるアクション要素多めのゲームが多い。一般的に。

 と概略だけは知っているけども。
 比較基準として用いることのできる題材がいまいち浮かばない程度に、TPS のみならず FPS というジャンルそのものへの馴染みが薄く。
 それがなんとなく気になった。
 いやまあ、ジャンルにのみ限って言えばそうしたゲームは何作かは遊んでますよ例えば初代プレステん時からキングスフィールドが好きだったし、メトロイドプライムですとか、TPS であればむしろ近頃のアクションゲはほとんどが 3D で描かれたゲームだしね。
 で。ここでいう FPS ってのは、そういうんじゃなくて。
 要するに洋ゲーですよ。
 洋ゲーバンザイ・ハラショー銃社会なゲームですよ。
 何故ならばボクは Xbox 360 を所有しているんですよ。
 米国で2500万台に対して日本での普及台数はやっと130万台な軸足は圧倒的にアメリケェンな向こうさんの味付けべったりなゲームを遊べる環境があるのだから、やっぱその面白さには触れておきたいですよな。
 と思ったのが、コントローラーを握ってばっかだった一月の端緒であった。


・Half-Life 2

 2の episode1 と 2 まで含めて。

 何のかは知らないけれどもとにかく学者先生であるゴードン・フリーマンを操作して、実験事故により開いてしまった異次元扉より侵入してきてあっという間にアメリカを制圧してしまったエイリアンをなんとか撃退しましょうゲーム。
 上記の如く動機を得た私の手元に、折良く人様から借用していたこのゲームがあったのだ。
 じゃあせっかくなのでと遊んでみたらば。
 なんというか。
 期待してたのと違った。

 楽しかったので何の問題もないんだけどさ。
 なんかこー。私が期待してたのはさ。
 要するにぱっぱらーぱーぱーぱーぱっぱらーぱーぱーぱーん(アメリカ国歌)な、
 さすが銃による年間死亡者数が次席から二桁差を付けて世界第一位な国のメインストリームたるに相応しい要するにドンパチするゲームだったんだけど。
 そうした期待に反するかなりの地味派手ゲーだった。


 動き回る敵を正確に照準へおさめ、素早く撃ち抜く。
 FPS に求められるこうした技能全般を「エイミング」と呼ぶのだけども、このゲームにゃそうしたスキルはあんまし求められない。
 なんつったって、我が地球最大の軍事国家でもあるアメリカさんを瞬く間に制圧してしまったほどに武力・科学力に秀でたエイリアン連中に対して(ほとんどの場合において)たった一人で立ち向かうのだ。
 ワンマンアーミー気取って敵の前に躍り出ちゃ的を選ばぬ大量銃撃によってあっという間にヘルスは枯渇。
 リスタート地点へ巻戻りである。

 そもそも、結構な頻度において「倒そうと望むこと自体無謀」て敵が出てくるのよな。
 見上げるほどにどでかい三脚多関節な砲台。何やら有機的に青空を自由自在に飛び回る巨大ヘリ等々。

 要するに、主人公であるゴードン・フリーマンの選べる抵抗運動は単独行動による隠密破壊工作。
 とっくに遺棄された地下鉄を、クリーチャーの徘徊する下水溝を、ゾンビが群れなす廃墟を、
 エイリアンさえ恐れる原生生物だらけの海岸線を、なんか凶悪なアリのバケモノが作り上げた巣の中を、
 つまりは敵本陣を迂回する形で地道に地道に突き進んで行くのである。バールのようなものを振り回しながら。

 そのゲームの実態は、伝わるかどうか分からない比喩を用いれば「品と素行の悪いゼルダの伝説」。
 ゲーム時間の半分はそれなりにドンパチしての銃撃戦を楽しめるけれども、
 その半分は「どうやったら先に進めるだろう」もしくは「どの道を選べば目的地にたどり着けるだろう」という試行錯誤に費やされる。

 具体的には、通路がふさがっちゃってるどうしようおお通気口があるじゃん。だとか、
 浸水して高圧電流が漏電してるこのまま進んでは感電死するけどどうしよう。ああそのへんにタンスだのなんだのあるからコレを蹴倒して橋にするかー等。

 やることはけっこー地味で地道。
 とはいえ「活路を見出すための試行錯誤」はパズルライクで如何にもゲームゲームしててそれは追体験という意味では真逆ではあるのだけども、
 しかし主観視点も相俟って没入感は結構なもの。
 階上に向かうためのハシゴが朽ち落ちてるのでそのへんのガレキを積んで足場を作っている最中にふと我に返って……なんでおれこんな地味なことやってんだろ。と、ゲーム中の視点を空に向けてぼんやりしてみるのもそれはそれで面白い体験。
 下の階に行きたいんだけどもリフトが故障してて動かないや。そのへんの重そうなモノを載っけて無理やり動かしてみるかーというシーンでドラム缶なり鉄骨なり集めてたらばそれを眺める NPC が

「おお……ゴードン・フリーマンお得意の謎解き的シチュエーションというわけだな……。お手並み拝見といこう」

 等と発言してなんだろうコイツ気の利いたこといってるつもりなんだろうかとか思いつつ重量のありげなものをえっちらおっちら。


 そんな感じの意味で。このゲームを特に評価したいのは、
 意地を賭けて(いるかのように)ムービーの挿入を排斥しているあたりである。
 およそどんな場面でもプレイヤーの意志はある程度反映されてて、コントロールを奪われることは極々限られた場面をのぞいて本当にない。
 例えば、登場人物 A が登場人物 B とが会話でもってストーリーの中核を説明するシーン、
 つまりプレイヤーの役目は交わされる会話に目を通すだけーというような状況においても操作権は剥奪されず、その周りを自由にうろちょろできる。
 普通のゲームならばムービーで説明されるような、敵から爆撃を受けて逃げまどうシーンだとか、「ここは俺に任せろ! お前は先に行くんだ! 俺に構うな、早く、早く逃げるんだ! 早く!!」的なシーンだとか、エレベーターが割と遠い目的階に付くまでの密室でウィーンという音だけが響いているシーンなんかでも、プレイヤーがコントローラーを手放す暇なんか全く無くシームレスに行われる。
 素晴らしい。
 とあるシーンで。がんじがらめに束縛されてプレイヤーキャラの行動の自由が奪われ手も足も動かせないような場面でさえ「視点だけ」は動かすことが出来て、思わず笑いつつ拍手しちゃったね。


 先に進む。人の話を聞く。倒すべき相手を定めてそして対決する。
 それら全て、プレイヤーキャラが意志決定権は全てプレイヤー本人に委ねられ続けている。
 いいですね。
 このインタラクティブさこそがビデオゲームですね。
 まあ、ゲーム上の展開は割と一本道で、決められた道に進む以外の選択肢は用意されてないんだけどさ。

 けれどもそのへんで少々気にかかったのが。
 謎解きが中心となる進行なのはいいんだけど、プレイヤーが割と「ん? こっちでいいのかな?」と迷いつつ進んじゃう場面も頻出すること。
 足場の危うい崖を飛びおりつつ進むシーンは「ほんとにこっちでいいの?」と疑問に思いつつ飛びおり続けてみたり、
 敵本拠地に侵入して、何やら輸送コンテナっぽいものがあるのでそれの中に入ってみたいんだけどもこれでいいのかしらと悩んでみたり、
 行き詰まって、「あれ? こっちは不正解なルートなの? 引き返すべき?」と右往左往してみたり。
 疑い半分で進んでみてたらばやっぱり正解だったーというシーンがほとんどではあるのだけども、何かこー。
 恐らくは一方通行に違いない引き返し不可能な高低差などにおりゃあと突っ込んでいくモーガン・フリーマン博士に

「お前実はなんも考えてないだろ」

 と声を掛けたくなるシーンが一度や二度じゃ済まずしてむしろエンディングまでずっとついて回ります。
 それはそれで面白いんだけどさ。なんかこー。
 この無鉄砲な。夢を詰め込めそうな程に頭カラッポな向こう見ずっぷりじゃあどうしてもシリアスなストーリー展開には出来ないよねという演出的不具合がべっとりと貼り付いちゃう感じ。
 その「やっぱお前なんも考えてない! やっぱお前なんも考えてないー!!」なドタバタとした展開も面白くはあるので現状何の問題もないし、
 ほんとにシリアスな物語を描きたいのであれば、そのへんにも根本的に手を入れてくるだろうから、そもそもこれはそういうゲームではないのだろうな。
 でなければ、主人公のメインウェポンがバールであるはずはない。


 そのへんの話で連想するのは、同 valve 社のリリースした Portal っちゅーゲームの演出的巧みさなんだけどね。
 Portal でも同様に、道無き道に活路を見出して「ホントにこっちの道で合ってるの?」という疑問を持ちつつ進んじゃうゲームなんだけど、
 しかしこちらは、ゲームの展開的に、極めて予定外なハプニングを乗り越えて無理やり視線をかいくぐるような展開なので、
「……こっちの道で正解なんかな。やっぱさっきのポイントに引き返して考え直すべきでは」だの
「わかんない。次はどう進めばいいのかがさっぱりわかんない」
「やべ。もしかして行き詰まった? 戻れないし勧めない。進退窮まってる?」
 という疑問のうずまく展開は極自然で起こって当然で、むしろゲームに没入できる素晴らしいスパイスだった。

 Portal というゲームは、自由設置できる二つの出入り口に物理演算を活かしまくった高低差ゲーというエポックが良く取り沙汰されるけども、
 私はそのシナリオ的手腕をこそ褒めたいのだよなー 3D 空間を活かした脱出パズルー的な評価はまだまだ活かすべき部分が散見されるからそれこそ今度発売される Portal2 まで取っておくべきだと思うのよね。
 うん。


 話が逸れた。
 とかで。
 episode 3 はまだですか valve さんと呟きつつ。
 もうちょっと FPS を遊んでみたくなったので引き続き別の FPS ゲーを模索した話は次の機会に。






・ 「田中さん見てごらんよ、あそこに青年がいるよ」
「ほんとうだね吉田さん。それじゃあひとつ、からかってやろうかね」
「おお、久しぶりにやるのかい、宇宙人ごっこ?」

 こんなかんじでどうでしょう


 遊びだったのねー私との間柄は遊びだったのねーでもまあそれだとしてもなんかステキげなおっさん達だったという解釈には揺らぎがないのでまあいいやー遊んだってーてのひらで転がしたってー。


・ ものすごくあてずっぽになりますが、信号のご老人、
 何らかの理由(移民or終戦後に帰国できなかった等)で長く海外に居たその地域出身の方という可能性があるようなないような・・・

 言語的にはいわゆる県人会的なものがあれば使い続けることもあるでしょうし、
 中央アジア〜東南アジア圏やまたは中南米等なら都市部以外では信号がほとんどないような国も多いんじゃないでしょうか。

 とはいえ、この予想が違っているにせよ合ってるにせよ、真実はそのご老人に聞いてみねば分かりません。
 世の中にはまだまだ不思議が一杯なのです(無理矢理


 あー。あー。あー。なるほど。納得できる。
 戦争で帰ってこられなかったーというのはまあ今時分でちょっとどうなのか疑問はあるけども、
 例えばアジアの辺境に移ってった人の二世さんが、言葉だけ日本語知っててそのままおっさんまで育ってから父親の故郷探訪ーとか。
 牽強附会の感は拭い去れないけども割と納得はできるセンですなー。
 スゲエ。
 あの奇妙な空間にそれなりの整合性を持たせられるとは。




 
 

・ アスファルトの空隙。


・街をばでれでれ歩いてたら。

 なんでもない交差点にさしかかり、進行方向の信号が赤く変わるのが目に入ったので歩調を緩めに接近。
 したらば、禿頭にゆたかなお腹という中年男性に相応しい体格を備えた初老入り口のおじさんが、歩行者用信号の縦に並んだ赤緑を指しつつ一緒に歩いていたおじさんに訊ねていた。曰く。

「アレはー、アレかい。こっちにはもう歩いちゃいかんぞというサインかい」

 応えておじさん。

「そうそう。あっち側には一時的に渡れんのじゃ。北南が一時的に渡れんくなったその代わりに、ホレ。
 こんどは東西が渡ってええようになる。こっちがわの信号が変わったじゃろ」
「あー。なるほどなあ。それでこう、車の流れが……よー出来とる、よー出来とる」
 と、変わったこっちがわの信号に向かってお二人並んで渡っていく。

 ……なんだろうコレ。

 みた感じ(失礼な物言いになるかもしれないけれど)おじさんは矍鑠とされててボケにも遠いようにみえたし。
 信号のない国の外人さんというにはこの辺りの方言が流暢だったし、あと、外人の可能性にも言えることだけど、信号のないド田舎が存在するとしてそれは日本国土でどれだけの狭い文化圏なのだろうか。
 それに、今どきあのくらいのご年齢になられるまで信号という概念に触れず生きていくことなんて可能なのだろうか。


 なんでもない週末の昼日中に相応しいひねもすのたり感漂う日常に、さして違和感なく挿入された二人連れの会話ではあるのだけども、その内容の異物感のすごさ。
 どんな可能性を考えてもなんかしっくり来ない。
 唯一納得できそうなのが、私もたまにやる「宇宙人ごっこ」なんだけど。
 この地球に初めてやってきた異星人の振りを(脳内で)行いつつ散歩をして、見慣れたものを初めてみるような視点で見てみるーという「お前今年で何歳になった?」という一人遊びなんだけど。
 こんな感じの遊びを、あのおじさん二人組がやっているのだと仮定すれば場面上のどこにも矛盾なく納まるのだけど……これが真だとすれば、ずいぶんとステキなおっさんだったのだな。


・外資系食料品店を物色していれば。

 ハニーローストピーナッツを山盛り大量何ヶ月分ですかそれという勢いで購入している、
 雄鳥を連想させる風貌の、脂肪が見事に削ぎ落とされている感じの女性がいた。

 儂もなんか「豆食いたい。豆。種。種子。植物性蛋白質」という気分だったので、同じ棚に用があり図らずも観察する機会が生じたのだけど。外国産らしい実写のピーナッツがラベリングされた缶を無造作に掴むその手首は、腕の骨のまんなかに空いている隙間が確認できるくらいにほそく、頬骨も顎も、頸椎まで突き出てみえる。
 拒食症、という言葉が浮かんだけど、でもそれにまつわるような病弱さはさっぱりと感じられず。

 これはただそれだけの話。






・ はやぶさ見てきましたよー展示の他にも物販とか充実してて良いかんじでした

 物販充実はいいですやねー良い具合に利益を出して欲しい。
 その利益が展示したところに行くのかどうかはわかんないけど、
 JAXA は公益機関だから全国行脚つってもあんまし予算が降りてなくて最初に期待してたほどには色んな所に巡らない感じなのかしらと今さら不安に。

 今はまた、東京に戻ってるんだっけ。


・ 箸使いよりも、肘ついてもの食べるとか、口開けながらくちゃくちゃ音たてるとか、どんぶりに顔突っ込んでがっついて食べるとか、、
 外食するときちんとした食べ方できてる人にまず会ったことがないのですが、いや私が気にしすぎなんでしょうけど、でもねぇ。。('A`)


 おじさんは食事マナーにはそれなりの自負がありますよただし和食限定。
 なんつったって、食事最中に正座を崩したらば即座に太股へピシャリと平手が飛んでくる祖母に教育を受けましたからねー晩ご飯ってもうちょっと楽しいモンでも良いような気もしつつー。

 そんな僕も今ではパソコンをぼへらと眺めつつのながら食いです。


・ はやぶさ巡業なかなかよかったです。展示の他にDVDやプラモ、宇宙食の販売なんかもあって満足

 巡業という表現が何か素敵な響き。
 はやぶさのプラモデルは確か、特別メッキ版が出たんですっけ。
 耐熱いっそそちらを購入するのもアリかなあー断熱材むきだしの塗装無しな金色ー。






・ 箸文化って案外滅びないね。


 別に滅んで欲しいわけではなくむしろ逆なのだけど、何やら唐突にだけどそう思った。
 私が小学生時分なんかは割と声高に「今時は箸を使えない子供が増えている!」と警鐘がガンガン鳴り響いていた記憶があるんだけど、そこからそれなりの未来となった今時分、世間を見廻すに。
 別段そんな風にはなってなさそうというか。
 箸を使えない子供警告もほとんど聞かないなというか。
 警告がついに現実の物となったのかもわかんないけど。

 とはいえ、「箸を使えない子供が増えている」と言うイメージ先行の説得力は今の時代にも有効っぽい。
 年かさの警告者はとかく世の中が悪い方向に進んでいると考えたがりがちだけど、
 現実としてこの世は易きに流れやすい構造になっている。
 だから、箸よりも、フォークやスプーンという簡単で手っ取り早い手段のが多数派になりそうーという主張はいつの世だろうと納得できる。

 んだけど。あんましそんなことにもなってなさそう。
 ということは、逆説的に、箸が今の世にも存続するだけの社会的合理性・価値が存在してるってことである。
 その価値ってなんじゃろな。


・便利だから?
 箸って案外と便利な道具で、二本そろいさえすれば「刺す・切る・別ける・掬う」というおよそ食事に求められる動作のほぼ全てをたったの一種で済ませられる。しかも片手で。
 余った手で皿をつかみ、口へ近づけて動作を行えば運搬効率の安全性も安定性も向上。良いことずくめ。
 使用には多少の習熟が求められるけれど、しかし合理的であるには違いない。


・食卓が箸に最適化されてるから?
 箸は確かに多少の向き不向きは突破できる汎用性を持ってるけども、それでもやっぱり不向きは存在する。
 スープメインの献立だったり、パスタを主食としている人々は相応の装備に持ち替えるだろう。
 ぼくはスパゲティも箸で食うけど。ずるずる。それはともかく。
 先入観も強く作用してるだろうけど、和食ってほとんどが箸の選択が最適な性質をしてるよな。
 白米しかり、焼き魚しかり、煮物しかり。

 つまり、食文化の変化が未だ箸を捨てさせるほどには進んでないーとか?
 でもその辺の因果関係はちょっとわかんないな。
「箸文化があるから、食事もいまだに箸に最適化されたものが作成される」のか、
「和食は箸で食べるのが最適であり、だから未だに箸が選ばれ続けている」のか。
 どっちが先なのやら。

 でも、箸文化だから箸で食べるのに最適なモノをーってのは実際にありそうな気がする。
 一部冷凍食品なんかはそのへんのユーザビリティは絶対に考えられているはずだと思うというか、
 まあこれも、「弁当での使用を主目的とした製品だから箸で持ちやすいサイズ=小さいのは当然」とか「箸で持ちやすければフォークなりスプーンなりでも持ちやすくね?」とか色々でてくるけどさ。


・箸の持つイメージが社会的に好ましいから?
「婚約の決め手は?」
「一緒に食事に行ったときに……ああ、食事といっても、気楽な居酒屋なんですが、そこで彼女が、たのんでいたホッケをそれはもう綺麗に食べてたんですよね。そうやって残されてた美しい骨をみたときに、ああなんて家庭的な女性なんだろうと思いまして……でもまあ、その後、その骨も一緒にばりばり食べ始めたときはちょっとやりすぎかなって思いましたけど(笑」

 なにそれ。


 後は何か携帯性がーとか安価だからーとか色々思いつきはするけども主要因にはならなさそうなので省略しつつ。
 でもまーくり返しになるけども箸文化が存続してるのか滅亡カウントダウンなのかはやっぱ分かんないけどね。






・ ねー17日からようやっと西日本にはやぶさ来るってさー大阪だけど。見に行こうよ


 あー。いいスねえ。はやぶさが(現状)目的の大多数を実現したその中の一つだよね。
 旅歩きとずいぶんご無沙汰だし、大阪くらいなら18切符があろうが無かろうが一緒だし、いいなあ。

 全国巡業決定ーて聞きましたけど、でも最初がちょっと飛んで大阪なあたり、そんな詳細には津々浦々しないのかな。
 これを逃すと一気に九州あたりまで行っちゃいそうだし。いいかもス。






・ 日記を中断したらば一週間がやたらと短く感じられた。



 というのは主観よりかはもうちょっと根拠のある話のように思う。
 私らは、時間の経過をどうやって感じてるかというと、特定時点からの経過秒数ではなく、
 特定期間内の記憶をどれだけ呼び出せるか、その密度である。

 日記を書くて行為は、記憶を文字媒体に留めるのみならず、
 文章にするため記憶を反芻することによって、体験をより強く脳みそに定着させているのだな。

 その結果、思い出せる事柄が増えて、体験した時間の密度が増しているように思える、と。


 時間経過の密度が増すーと書けば、なんだか同じ時間を過ごすのでも特をしているように感じるけれども、
 そう解釈するのは案外安易なのかもな。過ごした時間の内容に変化はなく、結局は錯覚なのであるし。
 んん。
 しかしー。
 人格を形成するのは体験であって、体験とは主に記憶に蓄積される。その密度が増すならば悪くはないのか?
 いやでもなー。密度の増加した結果に作られる人格が良い物かどうかなんて判断できねーだろーしなー。
 まあいいや。


・姉に。


 愛知に車で行くのだけども一緒に乗っていくかと誘われて、私の腹中の歩行神さまがむくりと目を覚ました。


 私の腹の中には歩行神さまがいらっさって、
 不定期な頻度で私をやたらと散歩に行かせたがるのだけど、
 夏の期間中は、至極勝手に「暇」の看板をさげてずっと眠り続けてたりする。
 まあ暑いしね。こちらとしても文句はない。

 しかし腹の中に居ても夜風の涼しさは感じ取れるものらしい。
 いつのまにやら夏の終わりの予感と共に目を覚まして居たらしい歩行神さまが、姉の提案を聞きつけにわかに元気を

発揮して存在を主張。
 儂の腹を通じて足の裏をもぞもぞとさせるけれど、あいにくとその日は図書館のお手伝いが予定されていた。
 こちらとしても残念でしょうがなかったけども、残念でしょうがなかったなで済ませられる程度と言える。

 とはいえ、その日一日が大変だった。
 愛知。あんまし歩いたことのない町。
 その先になにがあるやら分からない坂道。曲がり角。偶然遭遇する神社。
 無目的な散策。迷子のスリル。
 見知らぬ土地なので具体的な想像は働かないけれど、それ故に、憧れる心は下手な望郷の念よりもよほど募るもの

らしく、歩行神さまの発熱がなかなか恐ろしい。
 久々のお目覚めにうってつけの舞台を逸失を諦めきれない。というよりかは、
 それによる埋め合わせを私に強要してるような熱気で胃の裏側をじりじりと灼かれる。

 つまりこれは怨嗟の熱かしら。


 私の趣味と合致してはいるので、これまでないがしろに扱ったことはないつもりだけど。
 祟りとかあるんだろうか。
 仮にも神様であらせられるし、実際にこの胃のそばでめらめらと燃える何やらを感じてみれば、このまま募らせるとただごとならぬことになりそうではある。
 くわばら。


 等と呑気に構えていたその日は、九月に入った癖に各地で観測史上最高気温を叩き出す猛暑日であったそうで。気温の上昇に弱い生態が確認される僕としてはなるべく日影でじっとりとしておきたい日だった様子だけど。
 留まれば祟り。進めば熱中症。
 ううむ。





 
・ 元気出た?(内臓の。

 ご親切なお心遣いには快い返事でもって返礼をしたいところですがーあー週間天気予報の予想最高気温が30度下回り上等になってのち再びお尋ね頂ければ幸いでゲフ。

 ……それでなくとも血の巡りが悪いのにさー。ちょっと下品な話になりますけど、トイレに籠もって下腹に力いれてると血流が腹部に取られちゃって、結果なんか薄ら寒くなるのに冷や汗はだらだらといううう。


・ レモンとしょうがとドライイースト買ってきた!

 よーしそれをこの硝酸と混ぜて爆弾にするんだ。
 適当に思いついたまんま書きましたがけっこう爆弾として行けそうですが檸檬爆弾は京都の丸善においといてください。


・ うひー、苦いからい甘い美味いですー

 こう書くと、ポケモンにあげると良さそうな味よね(?
 レシピは人様の考案なので儂の手柄じゃござんせんが、どうぞご堪能あれ。
 材料が切れてちょいとご無沙汰だけども儂もまた大量生産に移ろう。






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