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イヤ。好きな方なんだけどね。クリスマス。 melee christmas。どちらが最初に手を出したかは解らない。一触即発が文字通りであったと云うだけだろう。 合図の鐘の音を待たず振るわれた暴力は、もはやそれを振るう本人達にも押しとどめることは敵わず、怒濤となりそこに集う連中すべてを呑み込んでいく。 喧噪。怒号。肉の潰れる音。骨の砕ける音。ぶつかり合う二つの団体に明確な名は振り分けられてない。ただ「クリスマス擁護派」と「クリスマス反対派」と、交わることのない彼らの立ち位置はあまりにも明確で、名付ける必要もまたなかったのかも知れない。 判別も容易であった。 クリスマスを棄却すべく男達が例えば赤く三角をした帽子を戴くはずはなかったし、鼻に赤い玉を付けて道化るはずもない。まったく思い思いの普段着。それが故に、対刃コートに行軍用ブーツなど、或いはより場に相応しい「武装」をしていた。 一方、擁護派には少々奇妙な気色がみえる。皆一様に緑一色の服装をしているのだ。しかし、多少の疑問が起きこそすれ、対する連中にはいずれ憎むべきクリスマスカラーである。緑色をした者には躊躇わず刃を、槌を、拳を振り下ろした。 反対派の方が優勢であった。 それはそうかも知れない。 世界中が赤と緑に塗り分けられる世界において、彼らは常に孤独であった。怨みを呑んで過ごしてきた。そうして募り募らせてきた憤懣がついに捌け口を見付け一気に噴出したのだ。 守ろうとする情勢よりも、それを打ち壊そうとする力の流れこそが優位を得るのは世の習いだ。一方で、クリスマスを擁護する者には、家庭なり家族なり宗教なり店舗なり年末商戦なり在庫一斉処分なり四半期決算なりで守るべきものがあるのだろう。 反対派は何も背負うものがない。捨て身に近い。 彼らの胸には何が去来しているだろう。 街の気分にのせられてついローストチキンを購入し独り身の部屋にて孤独にむせびつつ骨までかじったあの夜だろうか? 楽しみにしていたプレゼントを開けた瞬間「これじゃないー!」と慟哭したあの朝だろうか? 彼らが望むものは何なのだろう。これまでの怨念を全て噴出しきったのち、抜け殻の如く彼らが手にするものは何なのだろう。或いは、何にも心乱されることのない平穏がこそ彼らの求めるものなのかも知れなかった。 どうあれ、反対派は優勢であったのだ。 この喧噪の最中、雪が満遍なくまぶされたすり鉢状の舞台のその中央にそびえるモミの木を、余興でもって打ち倒しさえした。しかし――。 まず、彼らは数において劣勢であった。 そして一人一人が、互いに意識せぬままに、何かに気付いたように得物を持つ手から力を失って行く。振り下ろした武器をまた再び振り上げる意気を失ったまま打ち倒される。あるいは自ら膝を落とす。武器を取り落とす。 情勢の変化はあまりに速やかで、しかし明白だった。 群衆の最小単位であるその男の目にも明らかだった。何度振るったか知れない金属バットを、尚も、腕も抜けよとばかりに振り抜きながらも、その目は複数人に囲まれ倒れ伏す同胞を映している。 同胞といえど、他人である。 彼らはみな孤独だった。それが故の蜂起である。しかし彼らは同じ目的の下に集った同志であった。もはや、二本の足で立つのは緑色をした連中ばかりだ。彼の仲間とも云える存在は、みな鮮血と泥の混じった汚らしい雪にうずくまっている。誰とも知れないその姿に同情を催し、地に吸われるばかりの流血に心痛を覚え――ふと予感が走る。 自らの手を、服を見下ろしてみれば、返り血で真っ赤に染まっている。倒れている連中も皆同様に真っ赤で、その血を受け止める雪もまた赤い。 それは、反対派である彼ら自身の血もあっただろう。そしてまた、彼らが強いた流血でもあるのだろう。 緑と赤のツートンカラー。 クリスマスカラーである。 反対派を標榜しながら、擁護派を叩き潰しながら、しかし彼らは自らの手でもまた、巨大なクリスマスを作り上げていたのだろうか。 そう気付いた男の唇が皮肉な自嘲に歪みかけたが、その形を作る前に殺到した連中により砕かれた。 イヤ。好きな方なんですよ。クリスマス。 基本ガキどものための祭りだし。ガキ連中が喜ぶなら無条件で両手を挙げて賛成ですよ。 まあ一方でそれらを厭うオタ芸も嫌いな方ではないのだけど。 うん。 「彼らの胸に去来する云々」のくだりでもうちと。他の連中が一様に休み申請してそのしわ寄せで一人やたら忙しいバイトを奇妙な衝動とともに完遂したりとか、帰ってみれば家族連中はそれぞれに別々の予定を用意してて明かりの消えてる家がやけに寒々しく感じたりとか。まあ色々。 思いつくには思いついたし。「あくまで冗談スよー」のアピールのためにもウチと紙幅を割くべきかしらとも思ったんだけどもなんか生々しくなるのでやめときましタ。 web 拍手ありがとう。 (1)春日野麗子…いわゆる典型的「ツンデレ」ヒロインを十年前(1997年)に既に使用していた古橋氏の先見性。 (2)パリング…スト3(同1997年作)の「ブロッキング」を模したシステムを早々に盛り込んでいた古橋氏の先見性。 (3)お蔵入り…物語が面白くても売れなさそうな小説は発売せず、代わって萌えやら何やらを重視した作品群を増産し結果ライトノベルのトップシェアを握った電撃文庫の先見性。 (4)EGF…まだ? ……ねえ? ……なあ? だよなあ。 いやまったく。うん。 個人的には古橋さんの根っこに「強いヒロイン」てイコンがあるのかしらてのが少々発見。 EGF はまあ儂も。完結し次第読もうと思ってるから適度に忘れた振りをしていられるのですが、 タツモリ家に関して云わせて貰えば余り穏やかな気持ちではいられません。 > EVE が一度捨てた植物を、また拾い直して「チキュウ」と呟くシーン。これはウォーリーが地球に執着してるというより、 「地球行ったらパーツあるから俺直るよ」って意味だと思いますよ。 前後で目のパーツをガチャガチャさせたのはそういう意味だと思います。 あー。まー。そうかも。 納得も行くし、破綻もなさそうな論だやねえ。 以下に並べてある儂の持論だと「なんでウォーリーが植物=地球への帰還て連想を持ててるの?」て疑問があったりするんですが、 それだと地球にあったものっつー連想からその疑問を丸め込めそう。 でも、「一度捨てたモノを」「また拾う」てシークエンスから、帰ることの意味をもうちょいと強調して受け止めたいじゃないですか。 あるいは、EVE が、ウォーリーの意図とはまた違った受け止め方をしたのかも知れないなーとか。 でも、目のパーツをがちゃがちゃさせたのは、 故障寸前てのを視覚的に表現するための意図でウォーリーの意志はあんまし絡んでなさそうな気がするスよ。 でもまあ、「追いかけてきたのではなく、連れ戻しに来た」という思いつきが我がことながら魅力的なので、もうちと持論を固持して行きたいと思いますで。 WALL・E。確か最初は宇宙が映されていたと思う。 いつも通りに青い地球は粉砂糖のようなちりをまぶされきらきらと輝かしくも美しく、 古き良きアメリカ音楽といった具合の BGM とともにズームアップしていけば、しかしそれら眩い雲母がスペースデブリと呼ばれる宇宙ゴミであると気付かされる。が、そのことには何の言及もないままさっくりとした速度で厚苦しくも重ったるい雲を抜ければ、眼下に広がるのは灰色にモノクロームのあまりにも巨大な廃墟。 空を行くカメラが映す、まるごとゴーストタウンになった摩天楼。 いや、ゴーストタウンってのは人の住んでた形跡があってこそだ。そんな気配がどこにも感じられないほどに荒漠としたその風景は、どっちかというとゴミ処理場。 大都市が丸ごとひとつ捨てられちゃったような景色に、もはや無意味に聳え立つそれらゴミみたいなビル群は丁寧に書き込まれ割れた窓ガラスの一つ一つまでみとめることができるのだけど、それが故にそうしてにょきにょき生える塔の中に変なモノがあると気付ける。 ――いや、ゴミみたいなビルではない。ゴミそのものだ。 真四角に固められたゴミのブロックが、大都市のビル群と同程度の高さにまで積み上げられている。 まるで本物のビルの真似でもしてるかのようなそれが、幾つも、幾つも、幾つも、本物に紛れて突っ立っている。 しかしカメラは相変わらず無頓着な速度でその合間を縫って進む。が、ふと映すべき対象物を見付けたように地上に寄りはじめて、静止する。 そこに映るのは、小さなショベルカーじみたロボット。 二つに分かれたショベルでゴミをかき集めお腹に入れて、ふんーっと踏ん張れば、圧縮されたゴミブロックがぽろりと出来上がる。それを持ち上げて、よいしょと、幾つも幾つも積み上げられているブロックの山に乗っけた。 負けた。 秒殺。 この三〇秒地点でもはや 「あ。ウォーリー観てきたの? どうだった?」 「趣味だった!」 「……ああ、そう。それで、面白かったの?」 「趣味だった!」 としか云えないことが決定づけられたのだわ。 ハートを射貫かれるというまこと的を射た表現があるけど、なんかもー、ノミでスコンと直にぶち込まれた感じだわー脳天にー。 そうなっちゃえばもう斜に構えた批評精神なんてのは残骸のみ残して崩壊。 もはや登場物を愛することしか出来ず、如何にもハリウッド演出なスリルとサスペンスとジョークなドタバタ脚本にまさかそんなことにはなるまいけれど「とにかくバッドエンドにだけはならないでくれええええ」と祈るような気持ちで上映時間一杯ひたすら揺さぶり続けられるばかりでした。 やー。 彼らの作る映像は何処までも「3D アニメでしか出来ないことをしてみせる」て意気地に充ち満ちていて、たいへん心地よい。 3D アニメてパッと思いつくだけでも弱点が多く存在するのだけど(人物が苦手。数をどっさり表示するのが苦手。空気や重力を表現しづらい。細部に労力がかかる等)一作ごとに乗り越えてきたそれらハンデはとっくになくなっちゃってて、彼らの中ではもう 3D アニメってのは利点しか存在してないんじゃないのかなーとさえ思えます。 要するに、ピクサーは観るモノをびびらせることしか考えてねえなあってことだ。 大事なのは「技術を見せつけるため」じゃなくて、「びびらせるため」て点ね。 なーいすエンターティナー。 彼らがどれだけエンターティナーかというと、ディズニー配給な映画にありがちなあの観客を置き去りに唐突に始まって精々が「あー。箸休めね箸休め」的な役割しか果たさない、あのダンスシーンが、なんと面白いのだ。 すげえ。ダンスシーンでちゃんと楽しめるディズニー映画なんて俺史上初めてだわ。 そんななので、これも従来作にも幾らか共通することだけど、ストーリーなんかどーでもいいです。 ゴミ処理を続け続けるロボットーなんて設定が如何にもエコロジカルでヒューマニズムで、 作品のテーマもそんなところにあるような気がしてしまいますが、 しかしそんなのは配給の重役さんを騙くらかすためのブラフに違いありません。 奴らの目論見はそんなところにゃありゃしねえ。奴らの本質は、 「目の前にある未来世紀なモニターから目を逸らしてみれば……あら、気付かなかったわ。星がこんなにもキレイ」 なーんてのじゃなく、 「せっかく! デブを! どっさり出したんだからぼてぼて落として! ゴロゴロ転がして! デブ山つくろうぜデブ山!! だって面白いじゃんデブの山!!」 だと思うぜ。絶対。 まあ。良い映画でした。ガキはもちろんのこと、たいへん甘やかなムービーでもあるのでカップルも是非。 上記ブラフから人道主義な方も喜んでくれると思うし。マルチプルな方向性に全対応なステキ娯楽映画。 そんで以下にネタバレ含む感想なのだけど。 ・人類のあのデブりっぷりが。うわーおデストピアーな感じがして好きなのだけど、人口の大半が肥満と判定されるアメリカさん本国だとまた違った皮肉として機能するのだろうな。 ・そんなデブ人類の何もしてなさがまた凄い映画でした。植物を持ってきたのも植物を運ぶのもすべてロボットの役目。画面にデブはたくさん映るけど、物語を動かすのは何処までもロボット。 ・EVE はいったん命令放棄しちゃったし。地球への帰還さえ彼らロボットの自己意志に他ならないのだな。しかも帰還後の地球では植物が自生してたし! ・あと極個人的で、趣味に寄った解釈になるけど、エンディング後に滅びるよなー人類。 ・ウォーリーが「手をにぎること」に執着してたのは、なんか幸せそうなムービーの、最後の最後にいかにも大切そうにやることだから、なんかすっげえ幸せな行為なのだと焼き付いちゃってるんだろうなー。 そのへんの細かい理詰めさが他のどの部分よりも SF 的で好きじゃ。 ・後から気が付いたのだけど、EVE が一度捨てた植物を、また拾い直して「チキュウ」と呟くシーン。 あそこで、ウォーリーがチキュウに執着する理由がわかんなくて、なんとなくご都合主義みたく思えてて、 或いは EVE に純粋一途で、EVE にとっての「メイレイ」が大切なものだと解ってたからこその献身なのかなーとか解釈してたけど。でも、きっとなによりアレは、 あんなにボロボロんなった地球でも彼にとっては「じぶんち」だったのね。 つまり帰るべき場所だったのだ。まあ寂しげではあったけど楽しそうに暮らしてたよね実際。 ・というかほぼボロボロになった地球しか知らなかったのだろうな。 つまり別に緑溢れる地球とかどーでもいいわけで、つくづくエコロジーとかとは無縁な映画! ・そこからの派出なのだけど、地球に帰ることを目的の一つとしてたってことは、 ウォーリーは EVE を「追いかけてきた」のではなく、「連れ戻しに来た」のだ。 うわあ。全然ヒーローじゃねえかウォーリー。立派だぞ。 ・それに気が付いたら、ふと「きっと CPU が貧弱だからその場その場で EVE を一途に追いかけるだけの、単細胞が故の無鉄砲さで、リスクとか危険さとか度外視になっちゃうからこそ生じるスリルとドラマよねー」なーんて思ってたけど、それが少し誤解だったが解った。 アレだ。あのシーン。 ウォーリーがロケットにひっつかまってとんでく、儂の胸を最もハラハラさせたあのシーン。 ある意味ではウォーリーが最も危険にさらされたシーンで、最もウォーリーの無鉄砲さが発揮されるしーんだけど、 でもあそこで、ウォーリーはゴキブリくんに思いっきり強く「ココにいなさい!!」て命令してるんだよね。 一刻も早く追いすがらなければ駄目なシーンで、慌てて引き返しさえして「ココにいなさい!!」と。 つまりウォーリーは、危険だとわかってたんだよ。 ……かっこええ。まじかっこええぞウォーリー。 危ないことを承知で、EVE を連れ戻すために吶喊してたんだよ。 そりゃあもう、キミにはあんだけメロメロいドラマを演じる資格が十分だわよ。 ・ところで、あの滅びた地球を帰るべき場所として、ある意味では理想の環境としてたウォーリーに、 一視聴者として同調するモノである。だってすげえ魅力的な風景だったもんあの地球。 宇宙に舞台が移っちゃうのになんかすげえもったいなさを感じたね。 なので、そこを帰るべき場所とするのにも素直に肯けた。 いや人類は適当にデストピアでのんびり暮らしてればーて思ったけど。 ・しかし怖いよなーあの世界。育児ですらロボット任せで、親の顔も知らないんだなああそこで産まれるコらは。 ・ところでピクサー映画にはずいぶんと珍しく実写映像つかってたよね。 3D は虚構で、実写を現実とするならアレは、「地球には帰らない方がいいよ」とかのメッセージもまた現実なのだよというメタ表現てことでよろしいでしょうか。 それとも、3D を表現すべき作品とするなら、実写を外部からの声で、つまり企業としての建て前と本音ってのが余計な声だとのメタ表現ってことでよろしいでしょうか。 ・メタ表現ってのでまた気になるのが、エンドクレジットが終わりきった後で唐突に挿入された、作中企業のクレジット。 あれはどんな意味があったのだろ。なんらかの意図がなければあんなタイミングで差し込んだりしないよね? この映画も作中企業のプロモーションさーみたいな? それもなんか違う気がしてよくわかんない。 ・EVE のオトコらしさが好きでした。反射だけで大火力射撃ずどーん。 やっぱ爆発はエンタテイメントよね! でも観てる最中はああああウォーリー近付くなそいつに近付かないでくれまじでえええとかハラハラしつつ。 でも EVE がヒロインな役目に目覚めておしとやかになっちゃったらばそれはそれでどこか残念だったけど、 でもウォーリーをずばばばばと治療して躊躇わず天井ブチ抜いてくれたのにはしびれた。 ・映画見終わった後に、その足でトイザらスに行ってウォーリー人形を物色したけど、 残念ながらどれもいまいちに感じた。 綺麗すぎるんだよね。どれも。やっぱ七〇〇年の重みがなー……。 ・DVD で観てたら即コメンタリーで二周目開始するところだったのにな。 ……今回はちゃんと DVD にも付けてくれるかなコメンタリー。レミーのおいしいレストランはブルーレイのにしか付いてなかったんだよ。 ・完璧に余談なんだけど。あー。吹き替えと字幕どっちで観るか悩んでたけど、吹き替えなら一〇分後だな。 じゃあそっちでいいやと。受付のおねえちゃんに「ウォーリーの吹き替え版を。オトナ一枚」つったらば思うさま虚を突かれた表情をしてくれたんだけど。 あれはなんだ。僕が何を観るだろうと予想してたのだろう。 ……プリキュアか? ソリッドファイター 完全版。アルティメイト・ソリッドってのは架空の3D格闘ゲームである。 要するにバーチャぽいの。 架空の存在らしく、多くのプレイヤーが望んだ理想型がそこにある。 メーカー主導により整えられたネットワークによってキャラクター間の対戦バランスは常に調整され続け、しかも自キャラは好みにカスタマイズ可能。経験はプレイヤーのみならずキャラクターにも蓄積されて行き、その戦略バリエーションは把握不可能。 文字通り、無限に進化して行く終わりのない奥深さが用意されており、 プレイヤーは望む限りその深みへとはまっていける。 戦って、戦って、戦って、戦い抜くことが許された世界。 そんでソリッドファイターってのは、その架空の3D格闘ゲームに興じる人々を描いた小説である。 要するに格ゲー小説。 或いは、格ゲーマー小説。 そうなのだよなー。と、先ず思う。そうなのだよ。 今でもそうかは知れないけれど、そんな時代が確かにあったのだ。 ゲームセンターのあの筐体の前の、丸椅子に腰掛けて、コインを投じる人間すべてに例外なく哲学を求められるような時代が。 確かにあったのだと思う。 格闘ゲームとは、競技である。 とするならば、それの結果には勝者と敗者しか存在しない。 そもそも勝負とは、シロクロ付けるための一番単純で原始的な手段なのである。過程をすべて経過とみなし、勝ちと負けの二次元論に落とし込むための手段である。 故に一番大事なのは結果であり、どっちが勝ったかでどっちが負けたかだ。それ以外に意味なんて無い。 まことに然り。過程なんぞに意味はないのだ。 ……本当に? 本当にそうだろうか。 格闘ゲームとは、娯楽である。 娯楽とは余興。かつかつと追われがちな学業やら仕事やらの憂さを晴らしてくれるストレス発散装置である。 故に楽しむことこそ本分。勝とうが負けようが楽しければそれでよい。むしろ神経すり減らしてシビアにストイックに結果を求めてストレス溜めちゃうようじゃ本末転倒。 だって不要不急なものだもの。っつーか格ゲでマジに勝ち負け競ってどうすんの? 役に立たないのに。 結局、理想を云うなら「お互い気持ちよくなる」のが一番で、それ以外はないと思う。 ……本当に? 本当にそうだろうか。 しかしそれらは本当にそうだったのだ。 アーケードで格ゲーに興じモニタ越しに対戦相手と向かい合うならば、 無意識にせよ意識的にせよ、必ず、そのどちらかを選択しなければならなかったのだ。 例えばあなたがコンボの練習に励んだとしよう。コンボとは相手の動きを封じ一方的にダメージを与える手段だ。コンボが始動した瞬間、そこに駆け引きという要素は掻き消え、己の技量の多寡のみが問われる。 そもそもコンボとは大元はバグにより生まれたテクニックだ。 そのときアナタは確かに、駆け引きという経過を無視し、勝利のみを求めているのだ。 例えばあなたがハメ技ばかりを多用している人間や、強キャラばかりを選んでいる人間に陰口をたたいたとしよう。 もしくは心の何処かでそんな思いを起こしたとしよう。 それは、より勝利に近い位置に陣取る事への否定に他ならない。 そのときアナタは確かに、勝敗よりも優先すべきものの存在を認めているのだ。 「ゲームに存在する方法論は全て勝つためのモノだ。それを否定してはゲームそのものを否定することになる」 「せっかくアーケードで周囲の目がある状態で遊んでるんだし。かっこよく魅せプレイで勝ちたいじゃん」 「ゲームを競技とすればプログラムはルール。そこで起きることは全てルールに認められてる。だからハメも待ちも反則ではない」 「ゲームセンターは公共の場でしょう? じゃあマナーも厳然と存在するよ。お互いオトナらしく遊びたいね」 「オレの100円と手前ェの100円じゃ価値が違う。故にオレは勝ちに行く」 「好きなキャラ選んでるんだから、好きに戦いたいし、好きな勝ち方をしたい」 まあ。誰もがそんなにきっぱりとした哲学を持っていた訳じゃあないとは思うけど。 勝ち気六割、遊び気四割とか半端にどちらも持ち合わせた人がほとんどだっただろうし。 けれど、相反してる癖にどちらももっともらしい理屈は、それが故に中途半端にまざりあい筐体の周りに渦巻いている。そんな空気を一つ一つの勝負に一喜一憂しつつ吸っていけば、頭のどこかしらに、こびりつくような形で疑問がわだかまり、蓄積されていく。 それでなくったって人が集まって、一生懸命の真剣に何かに打ち込めば、そこには必ず哲学めいたモノが生まれるのだ。 そして哲学はいつも文学たり得る。 要するにドラマがある。 ドラマがあるのだけれど。 そこは現実だ。そこに確かに介在しながらも不可視である多くのドラマは、私たちの眼前を素通りしたりすり抜けたりしていく。 ごく稀に、運が良かったり悪かったりしたプレイヤーがそうしたドラマに頭から突っ込んだりもするのだけど、残念ながら私たちは多くの有象無象の一集団。モブである。背景でしかない。 だからこそ小説は、そのへんのドラマをすくい上げる。 それでなくとも小説ってのはシミュレータとしての側面を求められたりするけど、ソリッドファイターもそうである。 架空の舞台、架空のゲーム、架空の開発者、架空のゲーマーをこしらえて、彼らに試練を与え、現実世界ではなかなかあり得ない現象や出来事をシミュレートしてみるのである。 そして彼らに与えられる試練とは、私たちの脳裏にこびりついたあれら疑問に他ならない。 だから、彼らが何かしらの問題にぶち当たる度に、乗り越えなければならない障害に阻まれる度に、なんかこー。 へんな笑いが込み上がってくるのだ。 うん。すっげー笑う。 いや私だけかも知れないけれど、涙腺に熱いモノを感じながら、血に滾るモノを感じながら、基本はげらげら笑いつつ読み進めてしまうのである。 説明が必要だろうか? 彼らに立ち塞がる問題とは、あらゆる格闘ゲーマーがいつかいずれ向き合わなければならない煩悶、疑問である。 全ての格闘ゲーマーに共通した問題。 形こそ違えど、きっと誰もがふと考え込んでしまったに違いない疑問。 勝者と敗者しかいないのなら、ゲームは誰かを不幸にすることしか出来ないのか? ゲームの中では勝敗が全てだ。では、プレイヤー間ではどうだ? プログラムをルールとして、それの破綻が誰の目に明らかになってもなおそのルールを遵守するべきなのか? 反則技と、有効な戦略の境目なんてあるのか? 無欠のゲームが出来上がったなら、それ以外の何もかもが不要になるのではないか? もしもこのまま強くなり続けて無敗に等しくなったとして、それでもゲームは楽しいままなのか? 勝って勝って勝って勝って、その挙げ句に何かあるのか? つまり我々はみな、互いにしのぎを削り勝敗を奪い合いコンパネをガコガコいわせつつ切磋琢磨にぶつかり合いながら、しかし同じ問題に立ち向かっていたとも云える。それは過言だとしても、対戦ゲーマーであるならば、どこか通底する場所が必ずあるのだな。 同じフィールドに登るのだから当然だ。 そしてそれは、架空の存在であろうとも変わりはない。 彼らはひょっとすると、私たちの分身だ。あるいは、同じ競技に臨む代表者とでも云えばいいのだろうか? つまり、彼らが障害にぶつかる度に込み上げてくるこの笑いは、追体験の懐かしさから来る笑いであり、乗り越えられるモンなら乗り越えてみろという底意地の悪い笑いであり、しかし彼らならばきっと乗り越えてくれるとの賞賛を込めた笑いであり、抱えていた疑問が解消されて行く喜びの笑いなのだ。 彼らにぶつけられる問題は、あまりに巨大で複雑で、あるいは抜本的な解決は不可能で個々人それぞれに折り合いを付けていくしかないモノであったりもする。 しかしそれでも、快感と愉悦を読者に与えながら、彼らはそれら障害を乗り越えて行く。 私たちでは乗り越えられなかった問題を、あるいは、私たちが乗り越える前に背を向けてしまった問題を。 楽しい。快い。羨ましい。 けれども、どんなモノにでもやっぱり限りはあるものらしい。 読み進めるうちに、紙幅が狭まるにつれて、それら快感を伴う「共感」が、不意に「憧憬」にすり替わる瞬間が訪れる。 問題に答えとケリを付けて行く彼らはやがて、追体験の共感から脱しきって、分岐路の先にある私らでは辿り着けなかった場所に到達してしまう。 物語であるならばエンディングが必要だ。それは必然のことだろう。 そうなってはもはや、共感は及ばない。その背中を賞賛と憧憬を持って眺めるのみである。 それにどうしても寂しさというか、痛みのような感情さえ抱いてしまうけれども。 でもまあ、なんでしょうね。 この痛みは格闘ゲームのあの勝敗しか存在しない空間から足を洗ったなら必ず負わなければならない痛みでもあり、そして憧憬と捉えるならば未だにその場所へ向かい続けなければならないてことの証明であるのでしょう。 あらゆるゲーマーの道標たり得る小説。 それこそがこの、ソリッドファイターだ。 とかで。なんだけど。 感想とも書評とも何とも着かないモノを書き連ねてみたけど。 ばかやろう。 古橋秀之の名前を知る人間にとっちゃそんなもん罰ゲームでもなんでもねえよ。 この小説に関して口を開いたならばやっぱどーしても恨み言が口を突いて出る。 こーんなに素晴らしい作品なのに、なんで一般流通してねえんだよちくしょうめ。 そもそもが十年近く前に一巻だけ出版されて以降は音沙汰ナシという不遇の作品で、 やっとこさ続編がお披露目に! て報が届いたかと思えばイベント限定のグッズ扱いだと。 後に誌上通販とアニメイトの一部店舗での限定発売など流れを経たけれども、 現在ではオークションなどの方法に頼らなければ入手不可です。 ああ。 世の中間違ってる。 「世に出してくれただけで御の字」なんてぜってーいわねえぞちくしょうめ。 とかでウチには二冊あります。 最初は誌上通販で申し込んだんだけど、 なかなか振り込み用紙が来なくてやきもきしてたところに突然のアニメイト限定発売ってな。 堪えきれずに買って、その後に通販用紙が到着して。いいよわかったよ二冊目だろうと買うよと入手して。 ウチには二冊あるんだけど。 当てつけなのか記念なのか、嫌味だとするなら誰に向けてのモノなのやら、 よく解らない複雑に絡み合った感情のままにプチプチの緩衝材でくるんで保管しておくことにしました。 バージョン9。とでも書いてやろうかと思ったけどそれはなんか違う気がしてやめといたけども。 読んだ人にしかわかんないネタ。 ところでこの作品のヒロインほど凛々しいヒロインにゃ今までお目にかかったことがございませんでした。 上記にて「障害を前にするたび大笑い」とか抜かしたけど、 一番大笑いしてしまったのは彼女が「……勝つわ」と呟いた瞬間でした。惚れるわ。 あの瞬間、彼女は「格闘ゲーム」そのものであったよ。勝利と敗北しか存在し得ないデジタルな世界。 それから影山さんのエピソードには何かしらドツボにはまるところがあったらしく、 自分でも無気味に思えるくらいグフグフ泣きながら読みました。いやあ良いエピソードではあるのだけど。 この部分は自分でもちと解釈しきれない点があるので、保留保留。 ところでぼくはストリートなんちゃらもバーチャうんたらもほとんど遊んだことが無くて。 上記の「哲学」は全て電脳戦機バーチャロンのオラトリオタングラムから学んだことでした。 でもそれの開発者の亙っておっちゃんが、とあるインタビューで 「自己表現の手段として確立した格闘ゲームには、どこかストイックな、求道者めいた面がある。バーチャ2からそれを感じ始めた」みたいなコメントを残してたりとか。 あるいは「逃げ」という手段が他のゲームに比べても圧倒的に有効であるゲーム性などから、やっぱ通底するところは大きいと思うス。 そーねー。 みんな哲学とか美学とかを抱えて戦ってたなー。 でもやっぱり、ストイックに勝ちを志向する理屈の方が、どこかスジが通ってて馴染みやすかったのはやっぱり強者には勝利という結果が残るからなのか、そもそもが競技であるからなのか。 いずれにせよ勝ちを求めた方がイバラの道よねと、「負けても楽しめればそれで」と開き直らなきゃやってらんない程度の勝率だった僕は思うのでありました。 あとは「勝ち方を決められるほど強くないしー」とかそんな姿勢でやってたス。 やっぱ繋がるところは大きいのだろうな。 でも初代バーチャの突き抜けるような青空と比較して、こっちの空は見上げると目玉のペイントがずらりと描かれた輪っかに見下ろされるばかりなのだけど! とかー、あー。あとねー、結城さんがさー。 とか。語るに語りきれない部分があるので、このへんで強制切断。 セブンスドラゴン勝手に人気投票開票ー。ほい。というわけでおよそ一週間に渡りほんのりと募集させて頂きました人気投票ですが、 このへんでしめきりと致しまして、さくさく開票の方へ移らせていただきます。 あ。勝手に実施するに至ったあらましはこのへんをご参照のこと。 ご投票いただけた方、お付き合い頂けた方、どうもありがとう。 ※:追記。 コチラ。に色々統合しました。 ついでに、新納さんの仰ってた「フロワロに関するSS」はこれ。よろしければどうぞ。 シリーズ亜阿相界(東方食事情)。その五。さらさらと音が鳴る。 雨音である。 風にそよぐ細かな雨粒。 一般に、農耕を主とした文化は季節や天気の名前を多く持っている。加えてこの国は多湿な気候ゆえ雨がよく降る。気候天候の移ろいは共に農業へ多大な影響を与える大事なものなので、細かく名前を付け区分をすることで理解を易くしておけば便利が良い。結果、この国には雨の名がやたらと多い。 とはいえ、それは必要性のみを所以とした結果ではあるまい。奇妙に遍在するアニミズム、あるいは擬人という文化の産物、対象をたなごころに乗せ、もてあそび愛でる文化。或いは枯淡の趣。 要するに、雨が嫌いではなかったのだろう。 だからもちろん、今降るこの小雨にも様々な異称がある。 少女の唇がそれを呟く。 小糠雨、軽雨、猫毛雨……。 雨粒は無数に降り落ちる。 故に無数に鳴るその雨音は、ちょいと風流な人に云わせればかえって静けさを意識させるものらしい。まあ。それはまあな。例えば。統計を取れば一メートル四方に平均で二人ずつの人間がひしめいて暮らしていることになったりするらしい場所なんてもんが仮に実在してたらば。普段の生活音が適度に上書きされて、なるほど静けさに繋がるのかも知れないけれども。さて。それは、深い緑が重なり合って、黒にまで近く塗りつぶされた森の奥であっても同じことだろうか。 その洋館の正確な所在地を知る者は案外と少なく、そしてその中で暮らす魔女の生活を知る者は恐らく皆無だろう。だから、普段その館からどのような生活音が聞こえるかは誰も知らない。 ただ、今現在と限定して云えば、割とやかましかった。 がり、ごり、ごきんぱらぱら。がが、がこ、ばきんぱらぱら。がっ、こが、がごんぱらぱら。 何の音やら。ともあれ破砕音であるのはご理解いただけたと思う。 場所は小部屋である。人形のひしめく小部屋。窓と扉と人形しかない小部屋。 壁に設えられた棚に鈴生りに腰掛ける人形はすべて少女の姿をしている。反響する破壊音にまつげさえ揺らさない。 音の発生源はクルミ割り人形である。いやクルミを割っている人形である。 窓のある壁にぴったり寄せられたテーブルの上で、小さな人形がちょこまかと立ち働いている。麻袋からクルミを抱え、ごついペンチのようなクルミ割り器にはさみ、くるりと持ち手に回ってよっこいしょと全体重をかけてクルミを破砕。すぐさま殻だけを寄りだし、机の下に口を広げて置いた袋へと蹴り落とす。そしてまたクルミを取りに向かい――。 なかなか重労働のように見える。 無論、無機質に無表情な人形は疲労とは無縁であるが、少女の外見と可愛らしいフリルの衣装がそうした労働に不似合いで、余計にそう見せるのかも知れない。しかしそれを差し引いても健気な働きっぷりといえる。 一方で、同じにテーブルに腰掛ける等身大に大きな人形は、その健気さには目もくれない人形にふさわしい冷徹さ。 頬杖に窓を眺めながら、機械的にクルミの実を口に運んでいる。 しかし、窓の外に降る雨に吸い付けられるような視線を投げているその人形の瞳を見つめたらば違和感に気付くだろう。この部屋に無数に居並ぶどの人形よりも美しく、どの人形よりも繊細で、どの人形よりも人形らしくみえる彼女はしかし人形ではない。 この館の主たる魔女である。 ポリシーだろうか。気怠げに食事を続けるその様は、何処に出かけるでも誰に会うでもなさそうなのに、服装はよそゆきのごとくきっちり着込まれ、絹の光沢の金髪はすっきり櫛を通されている。まさか急な来客を予期してのことでもあるまい。 雨を眺めながら、魔女の思考はぼんやりと流れ、知らず唇がその思考をすくい上げる。 「……小糠雨、軽雨、猫毛雨。……屑雨、膏霈、山蒸……簫雨、溟沐、門掃位」 少女の呟くそれは、すべて小雨の異称である。さすが魔女に相応しい博識でもってそらんじられるそれら細かく降る雨の名は、しかしその中に、もっと単純で、誰でも思いつくような名があるはずなのだけど、彼女の思考は意識的に、無意識下へ忘却し、巧みにその言葉を回避する。 自身の意志に気付かれないように、自身の意志でもって忘れ去る。 言葉としては矛盾している。けれど、いわゆる二重思考というやつだ。それぐらいは軽くこなす程度の意志力がなければ魔女なんてやってられない。 そう。彼女は魔女である。 しかも、職業で云うところの魔女ではなく、種族としての魔女だ。だから彼女の行う所作はもれなく魔女的である。 例えば、先ほどから続けている食事。クマの人形におがくずを詰めるが如く口に運んでいるクルミ。この食事も魔女的だ。 魔女は、己が知識とそれからなる魔力でもって自らの生体機能を調整し、老化を防ぎして不老長寿に近しい寿命を得ている。簡単なところでは各種消化器官がその調整の対象だ。人間と比べてあまり活発には動かない。 そんなもんだから、下手なモノを食っちゃうと体の中でどんどん腐ってしまう。 その点で、クルミは理想的な食物の一つだった。質量と比較して栄養価が豊富だし、腐りにくいし。 ともあれ彼女は、機械的に接種し続ける。 ……とはいえども、魔女にだって新陳代謝はあるし、消化もしようとすればできる。節度を無くして食べたとしても多少体調がおかしくなるだけで、出すモノも出せば体の中で腐ったりはしない。 しかしその辺りを徹底するのは彼女の意志であり、恐らくはポリシーであり、性根だろう。 魔女もそれなりに大変なのだ。 そう、大変なのではあるが。 自分で選んだ道だった。 魔女とは、魔法を行使する者である。魔法とは、魔の法。魔の術。 この世を律する法則に直接および間接的に手を加え、この世ならざる現象を顕現させる術である。熱量の法則を無視し中空に炎を発生させ、あるいは運動の法則おかまいなしに空を飛んだりする。 故に、「力」及び「法則」は、逆手に取れば全て魔女の味方となる。 そして、この世を動かす力のなかでも、ひときわ強力なのが「時」の力だと思う。 たとえば熱移動、物体速度、引力に斥力、生体活動、そのほかなんでもかんでも。それらこの世にある力はおしなべて時の支配下にある。 知識と力を求め続ける限り、すべての魔女はやがてそこへと辿り着く。 彼女自身も、まだ途上の自覚があるとはいえ、そうして辿り着いた魔女の一人だった。 辿り着き、そこへ踏み込んでみて、初めて気がついたことがある。 異質な、孤独である。 不老長寿を否定する言説の中で、最も多用される言葉ある。 「自分の周囲の人間が先に死んでしまう」 ふふん。 鼻で笑ってしまう。 そこへ辿り着く前の彼女はそうした反応を見せていたし、踏み込んだ後の今でも十分簡単に鼻で笑える。 バカじゃないの。と思う。 あらゆる感情はやがて忘れ去られる。たとえそれがどのような感情であってもだ。そう理解していれば、離別の悲しみなんて取るに足りない全然まったくもって些末なものだ。そもそも悲しみを厭って旅立ちをやめるような奴がいるだろうか? 居たとすればそんなのは単なる惰弱。その程度の覚悟ということだ。 むしろ彼女が欲したのは、感情なんぞというやがて流れ去るあやふやなモノに左右されない絶対的な何かだった。それこそ、時の力にさえ抗えるような何かだ。 だから、彼女の感じた異質な孤独とは、もうちょっと別物だった。 時の力は、圧倒的で、絶対的である。 この世にあるすべてのモノは、それの支配下にある。 風にそよぐだけの草花も静かに着実に生育しているし、飲み終えた後のコーヒーの染みが乾いてこびりついているマグカップも、時の支配下に置かれている限りは「動いている」のである。 もっとわかりやすい言い方をすれば、この世のあらゆるモノは確実に劣化し続けている。崩壊に向けて落下を続けている。時の支配下にある限り、不可視の力でもって動かされ続けているのだ。 「私」を置き去りにして。 あらゆるモノが異物に視え始めた。精々が無機物と有機物の差でしかなかったものが全て「自分とは違う何か」に視え始めた。マグカップを直に触れてみても、この手にあるマグカップは、一秒一秒を先に進み続けている。しかし、それを握る私の手は、時の力から解き放たれた瞬間から、ずっとその場にとどまり続けている。こうしている瞬間にも、その距離はすさまじい速度で離れ続けている。「一秒」は全てのものに等しく「一秒」だ。少しでもずれたり遅れたりすれば、その差を埋めることは最早適わない。その無機物なひんやりとした感触をこの手に感じられても、埋めることのできない距離が横たわっている。 あらゆるモノが、あまりに遠くに感じられた。 孤独ではない。 断絶だった。 ――あるいは、それこそが望むべきモノであるような気もした。 知識を望み続ける限り、やがては受け入れなければならない感触だといえる。 あらゆるモノからの断絶は、あらゆるモノからの解放だ。 より遠くに行くには、捕らわれてはならない。束縛から抜け出さなければならない。 故に、時の力への到達は、スタート地点でさえある。 そこに辿り着かないようにするためには、探求の足を止めるより他にない。 それは知識欲の放棄だ。そうした結果に訪れる退屈という名の停滞は、時の停滞よりもよほど恐ろしく感じられる。 魔女である限りは、そうなのだろう。 魔女である限りは、やがてはたどり着くのだろう。 おそらくは誰であろうとも。 と。そこで。 よどみなく、クルミをはみ続け、よどみなく小雨の異称を呟き続けてきた彼女の唇が麗しい形でぴたりととまった。 「魔女である限りは」「誰であろうとも」という連想が、意識的に無意識下に押し込んできた、あの雨の名前を刺激したからだ。 ――その雨の名は、「き」という響きで始まって、「め」という響きで終わる。 雨景を眺め続けてきた瞳が、むうー、と、不機嫌に引き絞られる。 しかしこうなってしまってはもう遅い。意識はそれを意識せずにはいられない。 キの字。 リの字。 サの字。 メの字。 ――アイツも、たどりつくのだろうか。 そういえばアイツも魔女なのだ。しかし、てんでデタラメな方法でしか知識を求められない、好きこのんで遠回りばかりをしている出来損ないの魔女だし、しかも種族的な魔女ではなく職業的な、人間風情の魔女である。 それでも、どれだけ遠回りをしても、力の究極が時である限り、やがてはそこへたどり着くのだ。 その時、奴はどうするだろう? 力を前にして背を向けるだろうか? しかしそれは魔女としての終わりも意味する。つまり、奴が魔女である限りやはり「時」が終端になるのだ。 ……いや、まあ。それ以前に、たどり着く前に寿命に追いつかれるなんてオチも考えられるけど。そもそもアイツは単なる人間風情だ。職業でいうところの魔女なのだ。 奴らがいうところの魔女とは、語源をさかのぼれば垣根を越えるモノなんて意味があるんだったっけ。 言い得て妙だ。 こちらの都合なんてお構いなしにやってきては引っかき回してまた勝手に飛んでいく。奴を動かすモノは、身勝手で傍迷惑で不愉快にも奴自身の都合だけだ。だから人と妖の間にロクな区別も付けず交流する。そんなアイツでも、この「断絶」を知ったならば、もしかすると分別というものを覚えるのかも知れない。 ……しかしそうなると、垣根を跳び越えるものではなくなるな。それはそれで魔女ではなくなるのか。でも、或いは、アイツならば、 ――この「断絶」さえも飛び越えるのだろうか。 考えすぎだと思った。 頭を振る。不愉快な気分が増してきた彼女の二重思考は、かたくなで重症だ。何故そうまでしてその名を回避し続けたか。その由縁に気付くどころか思いを傾けさえしない。そうして「奴」に向ける感情は、その感情がどのような色をしていたとしても、船がもやわれているのにも等しいまさしく束縛だといえる。 もしくは、すでに気がついていて、持て余しているのかも知れないけれど。その心の内は余人には知れない。 いずれにせよ今は胸のむかつきをクルミの食べ過ぎからなる胸焼けだと判断した。 ああもう。外出ができないとつい考えすぎちゃうし、食べ過ぎてしまう。 頬杖により凝った背筋を気怠くのばしつつ、いまだにクルミを割り続けている人形をちょいちょいと手招く。クルミを麻袋に戻して、とことこと従順に近寄ってきた人形に――ふわりとハンカチをかぶせて何処からか取り出した目に見えぬほどの細糸をぐるりと巡らし首の位置でギリリと締めてそのままスルリと中空に吊し上げた。 人形、何をされたのか理解の出来ないままに、足をバタバタ、首に絡む糸をガリガリと、足掻く仕草を少しして見せて後、ダラリと力無く垂れ下がった。 てるてる坊主のいっちょあがりである。 魔女本人は、そんな仕草を一瞥もせず背を向け扉に手をかけている。 雨は嫌いだった。 それはもう、大嫌いだった。 ケツイ デスレーベル今更所感。……ですおあどりーむ。 ですおあどりーむ。 ですおあどりーむ……。 パッケージをみたときにまず三度呟いちまったぜ。 ケツイ デスレーベル(以下ケツイ DL)とは、アーケード用シューティングゲームの、 ニンテンドー DS 移植作である。 で。その。移植元となった「ケツイ 絆地獄たち」とは、一般に高難度とされる STG の中でもなお最高峰の難度とされる STG であり、 本気の殺意を感じられる素晴らしい弾幕がいくつも込められた弾幕 STG であり、 故に好きな人はものすげえ好きで好きな奴は例外なく濃ゆめの STG 好きである弾幕 STG である。 もちろん元アーケード(ゲーセン用)のゲーム。 PS2 への移植が試みられてたけれど、ハードの限界というよりも制作者の職人魂を越えられず開発中止になったという泣くに泣けないけど泣くしかないよなあて経歴を持つ STG でもあり、360 に移植が決定されたので出来を確認次第 360 ごと買おうとおれに思わせている STG でもある。 という上記経歴から、それが NDS に移植されたて事実がどれほどに驚天動地かをひとまずはお察しいただきたい。 お察しいただけたかな。 難しいかな。 まあ、説明してみれば、弾幕 STG を携帯機に移植すると聞いた瞬間思い浮かぶ弊害はかなりの数に上る。パと思いつくモノを列挙すれば―― ・小さい携帯機の小さい画面で弾幕なんか避けられるの? ・同じく、小さい画面にどんだけ弾幕を表示できるの? ・あと液晶は遅延があるらしいけど大丈夫なの? ・画面が横長で弾幕 STG て基本縦長画面だけどどうすんの? ・PS2 ですら無理だった移植が、携帯機なりの必要最低限なスペックしか持ってない NDS で可能なの? ・つか客層あってるの? 等々なんだけど、しかしケツイ DL はそれら問題のことごとくを乗り越えて開発され、発売に至った奇跡のタイトルなのである。 ってだけだと語弊があるんだよね。 確かにケツイ DL は、それら弊害を感じさせない(ってのが言い過ぎならば十分許容できる程度に)完成度である。しかしそれはやはり完全な移植ではないのだ。 要するにアレンジ移植。 知ってる人は「デスレーベル」という言葉だけでピンと来るだろうけど「ボスとの対決だけ」をピンポイントで詰めたいかにも携帯機向けの内容になっているのである。 つまり道中ナシ。それが故にがっかりする人たちも少なくなかっただろうけど――、 と、そのへんの結論を先に差し挟んでおけば、 「ケツイ DL において、道中の不在は何ら欠点となり得ない」と、なる。 まあ有るに越したこたないなあ確かだけどさ。ま、アーケード移植は 360 で予定されてるし。 そうした結論に達した所以は後々語るとして、 しかし、そう確信したのはやはりそれなりに遊び込んだ結果のことで、さすがに発売前にはそんな達観はできなかった。 だってアーケードでワンコイン達成できてなかったもんなあ。 ボスラッシュといわれても、まだ未見のボスさえいるわけで。 360 への移植が控えてるし。買うだけ買って 360 で一周を終えてから遊ぼうかな。とか考えてた。 でもまあ私は。開発コンセプトを知ったときから「買う。」と決めてたので、それでも構わなかったのだ。 そのコンセプトに関しては、プロデューサーであるところの三原さんのブログを読んで貰えれば解る……と思ったんだけど、ログが飛んじゃってて引用できないな。 以下、記憶で要約する。ので、確かなソースだとは思わないで下さい。 要するに「携帯機でも弾幕 STG ができると証明したい」そんであわよくば「開発費が安価で新規参入しやすい(と、されている) NDS でそれを証明することで、STG 業界を活性化させたい」とのことだ。 かっこいいじゃないですか。 惚れるじゃないですか。 そりゃあもうお布施くらい払うわよと。 で。発売日、午後からバイトがあったので出勤準備を整えゲーム屋さん開店と同時に入手。そのまま遊ぶ。 最初に呟いた一言は「……デスォァドリーム」ではあったけれど、次に呟いたのは「……ほんとに動いてるよ」であった。 すげえ。 小さい携帯機の小さな画面を埋め尽くして飛ぶ弾幕は、PC から見るプロモムービーの映像以上の、 違和感と呼んでも差し支えのない迫力があったね。 だってこの両手の間にエヴァッカニアドゥーム様が羽ばたいてるのよ! 当然だけどおれアーケード実機での謁見がかなったことなんか一度もねえけど! 小さな液晶での弾幕ゲの可否に関しては、多分に主観の絡むところなので断言はできないけど、 私は問題なく感じたな。違和感はやっぱりあったけど、その辺は人類の柔軟な適応力でもってカバーできた。最近では違和感ほんとゼロ。 むしろ頻発する嘘避けが愉快ですらあります。 身近な STG 星人どもも「以外とイケる。違和感なくなってくる」と評している辺り信頼がおける。 てゆかデスレモードのエヴァッカニアをノーミスで撃破してるやつが「違和感ある」とか抜かたところでそんなもん無効です避けれてるじゃねえかてめえ。 まあ。肝心要の部分を主観による判断しか出来ない点は取り敢えずお目零しくださいだけど、 そのへんを踏まえ主観を絡ませつつ断言すれば「ケツイ DL で見切れねェやつはアーケードでも見切れねェよ」となるんだけど。 僕? 僕は見切れる弾幕とそうでない弾幕がございますハイ。 遊びつつ感心したのは ARIKA さんの手腕である。 いわゆるボスラッシュなゲームと聞いて多少の落胆はあったけれども、 いざ遊んでみると「携帯機用ゲーム」として見事に仕立て直されているのだ。 一つのモードがさっくり短く終わるのでリプレイ性がたいへん高いし、 てゆか元々一発死な STG だからさっくり終わってさっくり再開できる。 それでいて STG に特有のあの緊張感も抜群だ。 何よりもスコアアタックを重視した設計が大成功してると思う。 新たに搭載されたオートボムの仕様が素晴らしく妥当で、初心者上級者両対応を見事に確立できている。 先ずボムの仕様を紹介しよう。 ボムると、画面上の敵弾を全て得点アイテム(つか箱。)として自動回収できる。 一機毎に三発ずつ支給。また、ボスを撃破する度に三つまで補充。ボスをノーミスで撃破するとボーナスとしてもう一つ補充され、つまり最大で四つまで保有できる。 要約すれば、ボスと出会った時には必ず三つ持った状態で挑める訳である。 ボムの使い所を、ゲームを通してではなく、ボス個別で考えることが出来るのだな。なかなか優しい設計ではあるけれど、その代わりにしっかり模索しパターン構築しなさいと。 続いてオートボムのシステム。 被弾時にボムを所持していると「保有しているボム全て」を消費して自動的にボム発射。 一つだけ持ってよーが三つ持ってよーが構わず同じ効果で発動する。 つまりは残り一つだけ持った状態で発動すれば、残機の代わりにボムを一つ消費しただけで済むのでかなーり得できるわけだ。 けれども、コレはコレで難しい。 ボムの数は有限だ。使い渋るよりはマシだけど、ばんばん使ってくと途端にじり貧。 使いどころを見極めねばなりません。要するに「ボムを使わないと死ぬ場面」を見極めろ。 つまりはナイスボムれ。 パターンを構築して無理な弾幕はあらかじめボムると決めて安定クリアを目する決めボムって概念はあるけれど、 この「ナイスボム」という感覚は弾幕ゲに結構普遍的だ。 ケツイ DL。つまりポケット弾幕かーと聞いたとき、まず思い浮かべたフレーズは 「弾幕回避力向上ツール」だったけど、いざ遊んでみれば「ナイスボマー養成ギプス」て感じだったなや。 ケツイ DL で培われたナイスボム感は、きっと他の STG でも効果を発揮するだろう。 そしてこのオートボムという仕様は、スコアラーにとっては持っているボム全没収でしかも減点(つか倍率減少)されるという恐ろしいペナルティ。 要するに、ワンゲームは短いけれどもその代わり一瞬たりとも気ィ抜けない仕様にしてるよ? と。 それと、これは元々の弾幕がそう設計されてるからかな。 稼ぐシステムも大変理に適っていて、大ざっぱにいえばボスに近づけば近づくほど高得点が得られる仕様になっている。 けれど(エヴァッカニア様だと顕著なんだけど)大抵の弾幕は、楽に切り抜けようとするならば、ボスから離れて画面端に退避した方が当然安全だ。 要するにスコアラーは死線かいくぐって攻めろ! と。 もしくは無難に切り抜けるところと勝負するところとの選別に悩め! と。 そんでクリアできればそれでいい(儂みたいな)タイプはとっとと退避決め込みなさいと。 もしくはスコアに捕らわれない攻略法を探し求めなさいと。 各種難度の段階的な難度上昇も。わかりやすくさっぱりしててなるほど初心者上級者両対応。 よほど調整を重ねたのだろうなあと偲ばせます。そのへんの調整は特にドゥームモードで感じやすい。 とかでー。 総じれば、携帯弾幕 STG として見事に完成されてるのだ。 完成されてるが故に足りないところなんて感じがたく、故に道中が存在しないとしてもまったく減点材料にならないのだ。 対戦プレイに協力プレイに攻略 DVD までついて付加価値も素晴らしい。 やー。いいゲームですよほんと。 それから、これはゲームとは少しだけはずれた話になるけれど、大事な話だ。 そこに込められた魂もホンモノ感が伝わってくる。 体験版がリリースされたときに、こんなことを呟いた人がいた。 「いくらボスラッシュとはいえ、ドゥーム様を安売りするのはいただけないな……」 ……ああ。なるほど。 体験版の内容は、難度調整されたドゥーム様と三連戦するといったものだ。 これはボリューム増で製品版にも収録されている。 ここで云うドゥームとは、エヴァッカニアドゥーム様のことで、つまりはアーケード版に存在する隠しボスのことだ。 弾幕 STG として最高峰の難度であるが故に最高峰のカリスマを誇るケツイという STG の、 さらにさらに最深部に存在する、撃破どころか目撃すら困難とされる究極のラスボスである。 それが故に、半ば冗談、半ば本気で神格化されている存在である。 私はなんかもー、一生涯賭けても謁見が適わない天上の存在みたく思ってるので、 そのへんの残念さはわからなかったけど。なんとなく腑に落ちない人が居るんだろうなて気持ちは理解できた。 ケツイ DL は、初心者用としても心を砕かれたゲームである。 難度別に分けられた各種コースは、ボスを撃破する度にボムが補充されるし、 しかもプレイ回数に応じて残機設定が増えて行く。 要するに、練習はもちろん必要だけれども最終的には誰でもクリアできるよう設計されている。 しかし、ドゥームモードはその例外にあたる。 ボム数はゲームを通じて有限で一定だし、残機も初期設定のままいっさい変更は利かない。 先の呟きが頭に残っていた私は、そこからなんとなく 「ドゥーム様だけはガチ。(ハッスルハッスル)」てことなのかなと、ぼんやり妄想した。 その設計は、練習し、努力し、確かな実力を培わないとクリアできない設計だ。 つまり、常に目標となりつづける。 そして、それの裏付けとなりそうなコメントを三原さん自身の口から聞いた。 発売後、氏のブログにいくつかの質問が寄せられた。それの一つに、 「デスレをクリアしてもトレーニングでドゥームを選択できないのは仕様ですか?」 「はい、意図的です。モニタリング中も結構、賛否あったのですが・・・ ちょっとわがままさせてもらいました。やはりドゥーム様は偉大なので」 ほら。やっぱりホンモノだ。 発売後、なんとなく世間の評判を知りたくて、なによりも儂みたくにわかなヤツのではなく、 生粋のケツイプレイヤーの評価を知りたくて 2ch を覗きに行ったことがある。 そこでこのゲームに相応しい素敵表現があった。窯変を交えて、以下に並べる。 ケツイ DL のカートリッジを人差し指と親指でつまむとき、なんとなく変な気持ちになることがある。 「製品」として世界的な地位を得た「ゲーム」という物体は、より広範な需要に応えるべくその姿をゆっくり変容させて行った。 それの結果の一つに「誰でもクリアできる」という姿がある。 まあ。それはな。金だして買ったんだし。そこに納められた内容全部を見られない場合があるとなっては、もしかすると不良品呼ばわりされても仕方がないのかもしれない。 しかしそれはゲームの本質の一つであった「挑戦」をどこかに引っ込ませちゃった姿だ。 まあでも。近頃は「やっぱり挑戦は必要だよな」とツノを備えたゲームも数を増してるように思うけど。 そんで STG は、自らその姿を変えながらも、未だにどこか昔のまんまの特徴を持つジャンルである。 プレイヤー本人が、一定の技術を身につけなければ、絶対にエンディングまでたどり着けないゲーム。 未だに、プレイヤーに対して牙とツノと爪を剥き出しにしてくるゲーム。 未だに、プレイヤーにとっての敵であり続けるジャンル。 何度も繰り返してるけど、ケツイ DL は、そんな敵の中でももっとも恐ろしい部類のヤツだ。 STG のなかでそうだってことは、少し誇大表現をすれば、あらゆるゲームの中でもさえも最強ランクてことだ。 底冷えしそうなほどの、恐ろしい殺意。 それが、今こうして、指先で摘める程度の四角形に納められている。 それを DS に挿入し、起動したとき、DS は現存するあらゆるゲーム機の中で最強のゲーム機になる。 ポケットに納めたそれは、間違いなく凶器だ。 ケツイ DL に向かう限り、いつだって挑戦者になることができる。 とかで。そーんな素晴らしいゲームが恐ろしい店頭消化率でもって入手困難とは。涙を禁じ得ません。 ってのがオチになります。いや。でも惜しいよなあー。 amazon ではまだ在庫ありみたいだから欲しい人は是非確保しておくといいですよマジでーなんか STG 移植作て軒並みプレミアが付いちゃってるから。 にしても DSi の DS ウェアで販売してくれないかな。 そしたらいつでも起動できるようにしたいから改めて買い直すんだけど。 あ。それから。ケツイ DL を語るなら欠かせない点なのだけど、 「教えて! IKD さん!!」のコーナーが。なんちゅーか。白眉。 IKD さんってのはケツイを作成した CAVE て会社の偉いヒト。 わざわざ実写写真でもって登場して攻略・解説・裏話・ボケ・ツッコミ・色気担当と八面六臂の活躍っぷり。 なのはいいんだけど。 ケツイ DL を移植・開発・発売したのは ARIKA であって、 CAVE は間接的にしか関係してない(いや間接的ではありつつ深くは関係してるみたいだけど。 その割に見事な体の張りっぷりである。 最初にこのモードを選択した人は先ずびびると思う。「教えて! IKD さん!!」のロゴと共に流れるのはかのドゥーム様登場のBGMだからだ。 ……ええんかい。この BGM で。と呟いた私は、その後に展開される容赦のないいじりっぷりにもうちょっと意味を深くして「……ええんかい」と呟くことになるのだけど。 まあ。愛のなせる技でしょうか。 いずれにせよ、そんな方面でも心血を注がれて開発されたタイトルには違いないヨ! 虚構に浮かぶ舟。恐ろしい小説を読んだ。 糸井の重里さんが確かこんなことを云ってた。 曰く、本好きのひとは、にわかには信じがたい話を聞いても「嘘ォ!」とか「ほんと!?」みたいな反応をあまりしないと。 それはつまり、本が好きなひとは良くできたフィクションやノンフィクションを通じて 「世の中にはどんなことだって起こり得る」ってことを他の人よりもよく知っているからなんじゃないのかなと。 ニュアンスは全然違うけれど、たしかそんな感じの内容だったように思う。 なるほど。 本好きを自称している私なんかはそこに付け加えて「だからこそよく詐欺に遭う」なんて云いたくなるけれども。 まあそれはともかく。 ドグラ・マグラという小説の怖さは、要するにそれだと思う。 ドグラ・マグラとは夢野久作さんの手になる小説だ。 日本三大奇書の筆頭に数えられる極めつきのへんな小説で、 精神異常者の隔離病練に幽閉されている記憶喪失の青年に治療と称して様々なトンデモ理論を吹き込むお話だ。わァ。お耽美ィ。 いやまあそんなお話ではないけれど。 いわゆるキチガイさんの別称として「電波」ってのがある。近頃は意味が変わってきてる気もするけれど、コレの元は「電波によって命令を受けている」とか「電波でおれの悪口を延々垂れ流している」等の被害妄想に駆られた人を指してのことだったそうだ。最近ではあまり聞かれなくなった気もするけど。 こうした妄想の厄介なところは「立証しづらい」て点である。というか元々存在しないものなのだから存在を証明できないのは当然なのだけど、しかしそれが故に他者はそれら妄想を受け容れることが出来ず、妄想をしている本人は「自分にしかわからないのだ」と妄想の度合いを深めていく。 そもそもこの世は「有ると証明すること」よりも「無いと証明すること」のがずっと難しくできている。 要するに、否定しようとしても、否定しきれない。 ドグラ・マグラの八割はトンデモ理論で出来上がっている。しかしそれはトンデモ本ではない。 小説であり文学なのだ。 全編を貫いて恐ろしい物量でもって手を変え品を変え展開されるトンデモ理論は、しかしどれもが筋道が通っており、理路整然としていて、現実との齟齬がほとんど感じられず、それどころか現実が投射する陰影をキレイに引き写したような、偏執的なまでに巧緻に組み立てられた、要するに魅惑的なトンデモ理論なのだ。 信じるにはあまりに突飛だし、何よりもグロテスク過ぎる。 それでも、どこか否定しきれない。 興味深くさえある。 それらを物語を読み進めるという形で脳髄に浸し続けていれば、いつのまにか、それが絵空事であるとの安全弁をどこかに置き忘れて、作中にて語られる理屈に当てはまりそうな事柄を探している自分に――それを肯定したがっている自分に、気付くはずである。 それこそが、ドグラ・マグラが「読破した者は、必ず一度は精神に異常を来たす」と称される所以であり、小説の持ちうる恐ろしさであり、虚構が読者の脳髄を通じて現実を浸食し始める瞬間だ。 糸井重里の語った「世の中にはどんなことだって起こり得ると知っている」てのは、 「現実を疑う方法を手に入れる」と同じことなのだと思う。 人は脳味噌というフィルターを通してしか世界を認識できない。 ドグラ・マグラは、そのフィルターを侵す。 このドグラ・マグラという小説は、構築された虚構から真っ黒い触手を伸ばし現実への侵略を目しているのだ。 だとかなんだとか鬼面ひとを驚かすが如く修飾をしても詮無いゲロね。 まあ要するに。「こういう見方もできるよね?」と、新たな切り口を見せてくれる小説であり、そういう意味では他の小説も持ちうる普遍的な楽しさを先鋭化したに過ぎない。っちゃあ、過ぎない。 ただその切り口があまりに鋭く美しく鮮やかで、斬りつけられた現実が血ィ巻き散らかしながらのたうちまわるってだけで。ええ。 恐ろしい小説だと思う。 これほどまでに恐ろしい小説の存在を日本文壇が許して以降、 小説はどんなバケモノだって産み落とせるようになったのだ。 そんで本題に入る。 虚航船団という小説を読んだのだ。筒井康隆著。 なにかと前衛的な著作を出される筒井さんの、そのなかでもキワモノに分類される混迷の書だそうな。 表紙をめくってみれば、なるほどのっけの一文からして面白い。 >まずコンパスが登場する。彼は気が狂っていた。 既存のジャンルに当てはめるとするならば、これは SF になるのだと思う。 や。そーんな持って回った言い方をしなくてもきっぱりと SF だ。 舞台は宇宙を行く船団の中の一艘。その船は便宜上「文具船」と呼ばれている。と、先に書いておこう。 この船団はずいぶんと長いこと航行を続けているらしく、そのために文具船の乗組員誰一人として、この船が何処から来たのか、そして何処に行くのか、目的がなんなのかを全く覚えていない。いやそもそも知らされてさえいないのかも知れないけど、どちらにせよ無目的に等しい閉鎖空間。そんなでも彼らは乗組員であり船員であるので、航続のため役割を割り振られている。 宇宙には昼も夜もない。ってことは日付もあまり意味もなさない。変わり映えもなく、意義も見いだせず、与えられた仕事を繰り返す。いつ果てるともなく。 聞いただけでも気の滅入りそうな話なので、聞くどころではなく実際にそんな生活を送っている彼らは、ほんとに滅入っている。 ある者はなんとか自我を保とうとして。 ある者はどうしようもない無聊を慰めるために。 ある者は他者とのコミュニケーションを踏み外して。 それぞれの大小様々に、文具船の連中はみんなして狂っていた。 上記筋書きを一集団を閉鎖空間に放り込んだ場合の思考実験とするならば、ほら。どうしようもなく SF だ。 余談になるけど、いずれ実行されるであろう火星や木星などの長距離の星間航行をシミュレーションした場合、問題になるのは燃料や食料とかそれ以上に、宇宙船のなかで人間の精神――閉鎖空間におけるストレスの蓄積、他乗組員との不和などなど――が耐えられるかどうかなんだってさ。その意味でも SF だよな。 という訳で話を進めよう。 私は、いの一番に、この小説をキワモノ呼ばわりした。 それの例として、冒頭の文を引いてみせた。それから舞台となる船の名前もあらかじめ挙げておいた。 で、ほぼ例外なく狂っている彼らの中から、せっかく最初に登場するんだし。コンパスくんの症例を紹介しよう。 そう。 コンパスくん。 残念ながら、文房具に似た名前を持つ人間ではない。 彼は狂っていた。足の付け根が歪んでて、正確な円を描くことができないのだけれど自分ではそれを真円だと信じ込んでいた。それから、自分を指して「あれは文具でなく製図用具ではないのか?」「いや、それどころか測量器具だろ?」という陰口を聞いて以来、自分が謂われ無き差別を受けていると強迫観念に絶えず襲われていた。それのせいだろうか、自分をスマートにみせることに異様なまでの執心を見せていて、例えばコンパスの中折れ部分をいっさい曲げぬように歩行していた。それのせいでギクシャクした歩行法になるから、傍目から見れば余計に無様だったのだけど。 そんでその癖を発揮した用便時の所作がまた奇妙なのだけど、まあそれは作中から見出していただくとして。 うん。擬人化という言葉が浮かんだ人もいるだろう。 でも違うのだ。むしろ擬人化で済んでくれたならどれだけ良かったか……。 話は深刻なのだ。 上述した例から、いくつかの矛盾というか、破綻が読みとれないだろうか? 彼は悩んでいる。それはもう深刻に悩んでいる。余人の目を気にして、気にしすぎている。人間的な悩みといえるだろう。 しかしそれは同時に文具であるが故の悩みなのだ。てゆか人間が真円を描けずに悩むか? 測量器具だと云われてショックを受けるか? コンパスくんは冒頭に登場する。いわばジャブである。要するにまだマシな方なのだ。 まだ微かな破綻は、話の進行に応じ、既読ページの量に比例して、それこそページをめくる音のような静けさでもってにゆっくりとほころびを大きくしていく。内面の描写で済ませてくれたなら全然擬人化の範疇に収まっただろう。しかしこの後、まったく文房具的な外見の描写と、どうしようもなく人間的な外見の描写とが、まったく平行に書かれたりするのだ。 例えば糊チューブだ。黄色いボディをしてて、それだけを聞けば手も足もなさそうなのに、彼は色情狂でなんだかんだあって女性を見つけて鬱憤を晴らし体液を全部出し尽くして気絶する。頭部のふたから全部しぼりだして。 破綻しているのだ。 人間的な描写が行われたかと思えば、間髪入れず文房具でしかあり得ない描写が差し挟まれる。まるで前述に示した内容を否定するかのように、あるいは、読者の脳裏に明確な像が結ばれるのを拒むかのように。 それが延々続く。 破綻は破綻のままに、まるでそれが自然であるように、きっぱりと放置されて話は進んでいく。 破綻を――構造の破壊を是とした小説はすでに存在しているのだ。 一般にノンセンス文学と呼ばれる。代表例は不思議の国のアリス。 教養主義が全盛の時代、それの反動として子供たちがもっと単純に物語と戯れることができるようにと、ドジスン教授が愛を込めて語ったのがそれの始まりで、要するに、「面白けりゃなんだっていーじゃねーかよー面白いっつー至上目的をさえ達成できれば他のなんもかんもは些末なことだ知ったこったねえー」と、小説や物語に求められる定石や作法、順序だった進行や論理的な帰結などを擲っちゃった結果に産まれた作品群だ。 あるいは、虚航船団もそれに分類されるかも知れない。 なるほど、目に分かる破綻を内包するこの小説は、そう呼ばれるに相応しいかも知れない。 うん。分類できたなら安心だ。 しかしそうもいかないのだ。 ノンセンス文学とは破壊の結果に生まれる文学である。故に、小説から逸脱しなければそれはノンセンスではない。ノンセンスは小説ではない。小説である限り、それはノンセンスではない。 そう。先に示したとおり、一方で、虚航船団はどうしようもなく小説なのだ。 彼らは文具のような人間でなく人間のような文具でなく、文具であり同時に人間なのだ。 矛盾している。 しかしそれには意義がある。コンパスの悩みを鑑みれば明らかだろう、彼らの悩みはおしなべて「文具であるが故の悩み」なのだ。我々人間は、無目的に弱い。自己の存在意義を取り上げられたとき、誰もが戸惑い立ちすくむ。では彼ら文具はどうだろう? 文房具は、生まれた瞬間その形状と性質に従い意義を与えられる。はさみはその形状でもって紙を裁つ役割を。鉛筆はその性質でもって筆記の役割を。 そしてコンパスはその形状でもって円を描く役割を。 その形状が変質した際に奪われる「存在意義」の消失感は、我ら人間のそれを圧して巨大なはずだ。 その消失が故に狂う。言い方は悪いけども、狂わなければ物語は動かない。故に、彼らは文具であり同時に人間である「必然」がある。 素晴らしく SF であるのだ。 そしてその必然から破綻が生じる。 SF として理想的な構造を持つ故に、破壊を是としたノンセンス文学ではあり得ない。なのに、その構造に納められたそれは、明らかに破綻しており、小説と呼ぶにはほころびが多すぎる。 ならば、これはなんなのか。 虚構だ。 もはや、そう呼ぶことしかできない。 とかでまー。もー。すげえ面白くてさあー。奇妙な酩酊にも似た目眩をぐんらぐんら起こしつつ読んだねー。 そして同時に大変ユーモラス。ヒトが悩んでる姿ってのは、申し訳ないけれども時としてすげえ笑えてしまう。筒井康隆さんはブラックユーモアの大家だ。その手腕が過剰なまでに振るわれている。 そんで読者の目眩をよそに話は進む。 目的無き宙空を行く文具船に、船団から一つの指令が与えられる。 そう。この物語を虚構たらしめ、登場物のすべてから正気を奪っていた所以である「空虚」が、指令という目的を与えられ、満たされ、取り払われるのだ。一大事である。 その指令とは、惑星クォールの全住民を殲滅であった。 惑星クォールてのは、かつて流刑に処された種族が流れ着いた星であるらしい。 戦争である。しかも無謀だ。科学力にすさまじい差が望めるとはいえ、一つの船で惑星すべてを制服できるはずがない。 しかしそれは確かな「目的」だった。 それを前にして、あるモノは正気を取り戻し、あるモノはより狂い、あるモノはまた別の方向に発狂した。 悲壮な決意と必然の混乱の中、文具船は惑星クォールへと突撃する。 第二部、神話。 そう大書されたページを二枚めくれば、そこに記されていたのは地図であった。 ほら。 あのー、児童向けファンタジーにまったくありがちな、妙な擬人化が施されてる、つまり笑顔な太陽が浮かんでるあんな感じの地図。地方名がちゃんと流書体で書かれててさ。 それが見開きのページにどーんと。 どーんと。 意識せず僕の口からこぼれ出た言葉をありのままに記そう。 「なめとんのかい」 以降は趣をガラリと変えて惑星クォールの歴史が延々延々延々々々記される。 それはちょうど地球の史実を引き写したかのようで、文明の発達する速度は地球の西暦になおせば大体二倍ほど。 都市を築いては征服され、つかの間の平和に文化を育み、そしてまた戦火に燃やし尽くされる。人類の歴史は戦争の歴史だなんつった皮肉好きな歴史家さんがいたかどうかは知らないけれど、クォールもだいたいそんな感じでのべつまもなく争ってる。 ああそうそう。言い忘れてた。 流刑に処された種族ってのは、イタチなんだって。イタチ。文具の次はイタチかよ。まあ文具よりかは擬人化に易いかなあ。 それのせいかどうかは知らないけれど、彼らはやたらと共食いをする(イタチってそうなの? あるいは人類史の醍醐味かも知らないけれど、この戦争や革命による各種処刑の方法がいちいちバリエーションに富んでてそれに共食いが加わり大変愉快。 私のお気に入りは、皇族が火刑に処される際、ときの執政者が、臣民に無様な姿を晒しつつ死にたくはないだろうと人道面に配慮して四方を壁で囲んだ納屋に火を放つという方法をとったのだけど、燃える火に逃げ場を求めて喚きあがき放屁(ほら。イタチだから)をしまくったあげく密室に溜まったガスが引火して大爆発四散ーわははは。 あっはっはっはっは。 やっとわかった。 筒井康隆。 てめェふざけてただけだろ。 ところでこの人類史のなぞり方も面白くて、たとえばクォールの地では工業革命はあまり歴史に効果を及ぼさなかったんだって。っつーのも彼らは天然で毛皮を被ってるから、装飾を別にして服を着るて文化がなかったため紡績効率が向上したところであまり効果を及ぼさなかったーっつってうるせえよ何を今更 SF 作家ヅラして細かくもリアルな設定を付け加えてんだよ。 惑星クォールの歴史はちょうど一〇〇〇年のあたりで途切れることとなる。 地球人類の西暦になおして二倍。つまり儂らの二〇〇〇年あたり。 クォールは世界大戦を終え、各国ごとに報復核を抱えあってにらみ合う冷戦時代に突入していた。 しかし、人類の歴史に酷似しているからといって、それが万事同様とは限らない。 当然のことだろう。 我らの星では回避できた終末、報復核の発射による核戦争が、ついに勃発してしまう。 そして、文具船が飛来したのはまさしくその瞬間だった。 第三部に入った後、この物語の破綻は、もはや目に余るほどとなる。 イタチの視界からみた情景、文具の行う思考、誰のモノとも知れない迷妄、第三者による俯瞰、それどころか時系列さえ平気で前後させながら、文中の最中に、句読点だとか改行だとかお構いなしに脈絡無く切り替わり、千々に乱れながら話は進んでゆく。 イタチ達のか細い抵抗や、滅び行く種族の哀切劇。文具達の狂気、あるいは立ち返ることのできた正気、そして私情を挟んだ謀略……そうした要素だけであれば、どれほど入り乱れても、或いは一つの手法として物語としての体裁を保つことが出来ただろう。 しかし筒井康隆はここにメタフィクションまでをブチ込む。 おそらくは筒井本人のものであろう大変生活臭の漂う作家の日常が断片的に書き表されるのである。 ほころびはもはや極まった。 混乱のままに小説という構造からもついにこぼれ始めた物語は――不思議なことに、読み勧めることに開放感にも似た快さがともなうのだ。 確かに、構造に収まる限りそれは束縛されているに等しいのかも知れない。小説という構造から脱落したその物語は、ノンセンスにも似た自由を手に入れて落下して行く。 自由落下に例えるのが適切だろう。 上から下に向かう重力のように、ただ最後のページに向かい右から左へ進んでいく物語の流れにだけ従い落下し、そしてひたすらに加速してゆく。 奇妙な疾走感があった。 破綻した文脈は逸脱を続け、紙面を埋めるのはもはや筒井康隆の繰り言ばかりだ。 作家という職業のストレスや軋轢を基本に延々とダダ漏らしされ続け――それが、急に止まり、急制動のような衝撃をともない、残りごく僅かとなったページの上に「小説」が帰ってくる。 読者はきっと、安堵の吐息を漏らすだろう。 ――ああ、やっとマトモになった。 しかし自らのその思考に微かな違和感を覚えるはずである。だが、視界からは物語は絶え間なく流れ込み微かな感覚はおぼろげなままに流され、そして行数は残り少なく、読み終えるまでその違和感の正体に気付けない。 いや、あるいはその構造が持つ皮肉に気付き苦笑いを浮かべる人もいるかもしれない。 「生活感」あふれる「現実」をだらだらと書き並べたそれよりも、この「虚構」の方がマトモなのか。 確かに皮肉である。 そしてこの物語の最後に登場するのは、まさしくオオトリに相応しい、記されただけの描写ではどうしたって像を結びがたい異形の姿を持つ者だ。 しかし彼は、小説として正しいドラマが故に、物語としての必然が故に産み落とされたのだ。 描写をするにも想像をするにもあまりに困難なその姿は、小説という存在を否定している。 しかし物語としての必然をも内包した、体現された虚構である青年は。灯りの点いていないガラス玉のような目で呟く。「ぼくかい。ぼくなら何もしないよ」 その呟きこそ、その呟きが生む波紋こそ、この虚構が目していた到達点だ。 「ぼくはこれから夢を見るんだよ」 物語に幕を告げる一言が脳裏に再生された時。恐らくは誰もがそのカタルシスを受け容れることが出来ず、ただ呆然と打ちのめされるだろう。 ――ああ、やっとマトモになった。 読者はそう思った瞬間に現実を捨てさせられる。虚構の方がマトモであると選択をさせられる。そして最後に振り下ろされる鉄槌は虚空に精緻に組み立てられた虚構を粉々に打ち砕く。 砕かれた虚構を探し求めても、それは元より虚ろなものなのだ。欠片さえ存在しない。 ただ、現実に取り残されて所在をなくす自分を見出すだけだ。 恐ろしい小説を読んだ。 もはやナナドラファンサイト。悩ましい問題があるんですよ。 深刻で、根深い話ですよこれは。 解決が難しい。 遡れば、この問題意識を植え付けられたのは世界樹の2になるのかなあ。 世界樹の1では金髪パラディン♀さんに主人公を張って貰いました。 既に何度か述べてますが、彼女のその立ち姿があたかもゲーム全体を象徴しているかのように思えたからです。 で。 2。 取り敢えず新職業は全て使うことと決定しました。何よりも続編だし。 前作と似たパーティ構成で遊んでも遊び心に欠けるじゃないですか。その新職業三種を編入したパーティでバランスが悪くなろうともそれはそれで本望とすれば、ここで問題になるのはその中で主人公を張れそげな居姿のコはいてくれるかどうかでした。 結論から言えば、素敵デザインではあったけど、こー。「ああ。主人公だ」とピンと来るコが不在だったんだよね。 まあそれはそれで結果として、「前作エトリアの世界樹を制覇したギルド。の、偽物ギルド」で「そんな偽物が集まるんだからスネにキズ持ってるような連中ばっかのいうなれば 2P カラーばっか」て妄想設定に繋がったから、かえって良かったようなもんですが。 いや良かったなら良かったで。クリアせんと。クリア。 うん。 でー。 何の話だっけ。 ああ、そうそう。 その妄想には弊害が御座いましてね。 2P カラーな日陰者ばっか集めた結果、要するにメディア露出の少ないキャラ絵ばかりを選択したて事になるので。それのせいか、ウチのコらと同じ姿を描いたイラストがさーっぱり見なくてさ。 うん。 微妙に寂しかったんですよ。 ええ。 微妙に。 まあ、描かれていたらば描かれていたで、そのキャラは、似た姿であっても、その絵を描いたご本人のパーティメンバーでありウチのコらとはまた違うのよなんて解釈が無意識下の自動的に行われるので。 変わりないっちゃ、変わりないだけどさ。 うん。 で。 えーと、何の話だっけ。 ああいや、話の筋にはあってますよ。脱線は別にしてないです。 で。今回の(と、延長線上に語るのはやっぱ多少筋違いな気がしてしまうけども)セブンスドラゴン。 ナナドラ。 なんだけどさ。 ……なんかどーにも。 自意識過剰なところがあるからさあ儂。 儂の「あ。このコ使いてェ」て思ったキャラ絵と、世間の評価がほぼ一致してるような気がしちゃうんだよね。 ん。 それのどこが問題なの? と首を傾げたあなた。 真っ直ぐな精神をお持ちだ。ちょっと分けてくれ。 まあ要するに、人気が少なければ少ないなりに微妙な気分になるけれど、人気だったら人気だったでなんとなく嫉妬ぽい感情が浮かんでくるという一部オタには不変的と云っても構わない例の心持ちが沸々と込み上げてくるわけですよ。 まあ、たくさんの人のパーティの中にいようが、そのキャラは、似た姿であっても、そのパーティを指揮するご本人のパーティメンバーでありウチのコらとはまた違うのよなんて解釈が無意識下の自動的に行われるので。 変わりないっちゃ、変わりないだけどさ。 そもそもほんとに人気あんのかなー。 どうなのかなー。 そんなで人気投票。 ファイター: ![]() ヒーラー: ナイト: メイジ: プリンセス: ローグ: チャックノリス: てゆかファイル名をコピペするだけで力尽きたので細かい項目名は省略させていただきます。 ので。獣耳ファイターとか帽子被ったメイジとかなんかダウナーなドレスの娘とか右から2番目下から4番目とか適当に書き込んだってください。 ものぐさに自由入力としましたから、もちろん思いの丈やら選出理由なんかを付記するのも歓迎で「今のところ買う気ないけど!」て方の投票もウェルカム。 ついでに複数投票化。とりあえず書かれた順に好きなのだと解釈させていただきます。このパーティで行く予定ーと4人書き込んでくれても全二十八枚を好きな順に並べるという気合いを発揮してくれても可。例によって投票締め切りは適当に決めさせて頂きま。 ああそうそう。画像は全てセブンスドラゴン公式サイトのファンサイトキットから利用させて頂いとります。のでご安心を。 だから先ずはおまえの頭をだな。まだナナドラのお話。 そんなで。既に決定してしまったファイターとメイジ。 ナナドラのパーティは四人一組だそうなので。あと二人。 あと二人なんだけど。 ここで大事なのは、ナナドラというかセブンスドラゴンはあくまでゲームであるてことです。 キャラ絵と設定の妄想用素材寄せ集めではありません。 RPG においてキャラクターを選択するってのは見た目を選ぶことのみならず、 「職業」を選択するってことでもあるのです。 そうだと考えれば、先の二人の設定には各職業である必然が含まれておらずして、要するに、後々に設定そのままで職業だけをすり替えるてことも可能でありつまりはまだ一人も決まってないのに等しくはあります。 まあ嘘だけどな。 先の獣耳ファイターはワオこのコまじ可愛ェ何よ使いたいじゃない選びたいじゃない。てことで。 風貌に惹かれての先走り妄想でありもはや他の姿は考えづらいのです。業界用語で云えばアテ書きだな。 じゃあメイジはというと、これも見た目先行の妄想でした。 獣耳メイジ。おそらくは制作サイドに看板娘を任されたのでしょう。 メディア露出が多くて、実際に現時点で散見される(たとえば pixiv)ナナドラ絵ってったら彼女のものがほとんどだ。 じゃあ主人公的な立ち位置になるのかしら。でも主人公というと、その立ち姿だけでゲーム全体を象徴してるのが理想であり(まだナナドラがどんなゲームなのか理解してないて点も大きかろうけど)彼女からはあんまりそういったモノを感じない。 でもまあ、さしあたっては、気弱げな、物憂げな表情が気になった。 常時泣きそうな顔。 その理由。 んー。 ホームシック。じゃあ帰ればいいじゃん旅なんて出てんなよ。帰れない理由があるのか。ファイター娘が引きずり回してんのか。いやそれはないなあのコの性格的に。じゃあ迷子。ならなおさら旅なんかしてんなよ出会った場所から移動してんなよ。世界規模な迷子。故郷を探す旅のついでに世界中歩いてみたい欲のあるファイター娘と同行。てゆかどんなに遠かろうとも故郷が何処にあるか分かってんならまっすぐそっちに向かえばいいべ。じゃあ記憶喪失。記憶喪失で迷子でホームシック。うっわタチ悪ィ。でもまーファイター娘もある意味迷子だしなー親御さんとはぐれててー。寂しいモン同士かー。 慰め合うのか。 女の子同士慰め合うのか。 よしそれダ。 それダじゃねえよ。 まあ多少冷静に考えましょうよ。例えばファイター娘がさ。宿屋のベッドでさ。見慣れないことに慣れている天井を眺めながら布団をかぶればまだ冷たくて、それでふと両親のぬくもりを思い出して泣きたくなるかも知れないじゃない? 耐えられずすすり泣きを始めるかも知れないじゃない? そうとなれば人肌恋しくなってメイジ娘の布団にもぐりこんだりするかも知れないじゃいですか。泣きながら。するとかたっぽの涙が呼び水になって二人して泣くかも知れないじゃないですか。そうして泣きながらすり寄りあうかも知れないじゃないですか。 いや知らねェよ。 人の泣いている情景が好きで好きでしょうがねえらしい私の眉間に釘を打ち込んでください誰か。五寸釘の。根本まで。九十九里浜は九十九里ありませんが五寸釘はちゃんと 15cm ございます。 とかで。残り二人なんだけど。 もう一度繰り返せば、いやまあ。妄文だけでここまで持たせた口で言い直せば。そもそも。 それがゲームである以上は、ゲーム本意の選択を為した後、その上に妄想をひっかぶせてこそ至上である。 主人公らの性格や人格は、ゲーム中での決定に後々から意味を付ける形で追従していくのがよろしい。 そうなればこそ、それは妄想はその RPG を通じてしか産み出せ得ぬモノとなり、わざわざ RPG を遊ぶ甲斐がでてくるし、 その覚悟で望めばこそ、「このキャラはなぜこのような選択をしたのか?」「この決定をした主人公の性格たるや如何に?」と。ゲーム中の行動や決断の一つ一つが己の妄想力を問い、試す、試練の場となるのである。 妄想力(笑) まあ割とほんとにね。 で。迂闊に設定とか考えちゃうと、それに愛着が沸いてしまい変更が利かなくなっちゃうので、 後の二人はもっと情報がでてくるまで大切にとっておこうと。 思うんだけどさ。 プリンセスって職業があるんだって。 プリンセス。 まあ目を剥くほど突飛ではありませんやな。前例もいくつかあるし。例えばオウガバトル。例えば DQ4。例えばまあ色々な。 中身の方も、要するに補助職であるらしくさして特色たる訳でもなさそうなんだけど。でもまあ。 珍しいには珍しいので。せっかくだから使ってみたいなとは思うんだけど。 んー。 まあ後衛だよなプリンセス。となれば後は前衛で、自動的に候補は限られてくるか。 でもローグとかヒーラーとかに「うわなにそれ使ってみたいじゃん」てスキルがあるかも知れないので、迂闊には考えないでおこう。 うん。 ところでナイトの情報が公開されましたね。 「プリンセスと組むことで特殊な力を得ることもある」だって。 ふむ。 じゃあプリンセスを登用するならナイトもほぼ確定ってことか。 アレ。 埋まっちゃったじゃん。 いやいやいや。まあまだ保留を続けよう。 うん。ゲームプレイの内容に沿って妄想を働かせてこその RPG だ。うん。 ところでナイトの紹介文に気になる一節があって。 「私の姫」とか「城を飛び出して」とか書いてるのね。 あれ。プリンセスっていわゆる「歌姫」とか「お嬢さま」とかの愛称めいた姫様じゃなくて、 王侯貴族の娘としてそのまんまの「姫」なのか。 まあそのへんは幾らでもプレイヤー側が補完すれば良いんだろうけどー……。 それともアレかね。 ナイトの方がドンキホーテ的狂人さんで、一般市井の娘さんを「守護すべき我が姫」みたいな妄想に取り憑かれてるんだろうか。 電波さんか。電波さんだね。前世少女みたいな。 なんだけど、同行を許されているとすればそのへんの社会性の欠落を人格で補ってるんだろうなあ。いいひとだ。電波さんでさえなければいい人なのに系の性格か。 そんで。そんなのとわざわざ旅してるってことはプリンセスの方は中々に肝が据わってて神経も太い娘さんてことになるかな。 旅の一座から独立した歌うたいだけども女の身一人で旅するのも何かと危険だしーと便利に使ってるみたいに。 そんな不便に身を晒すくらいだから、その歌姫は集団生活不適合者でワガママさんなのかねーえーと。 ちょっと待て。 はいストップストップ。 ゲームを通じて考えましょう。そういったのは自分ですね。はい。 いやでもほんと、迂闊に思考すすめちまうと感情移入しちゃってもう他のに変えられなくなるんだよね。 ファイター設定の終盤の下りなんて気の毒過ぎて胃を痛めながら書いてやがんのよコイツ。 だからまあ。繰り返すけど。まだプリンセスを使うと決定した訳じゃないのだよ。 プリンセスの登用に関して問題が一つあってさ。性別のバランスが偏っちゃうんだよな。 既におんなのこが二人揃ってて、そこにプリンセスというともう女子三人。オタクのみとしてはそれでも別に問題はないのだけど、でも娘さんは少数派だからこそ物語に添える花となり得るのであって。ついでに云えば世界樹では女所帯になっちゃったのでそろそろムサいパーティで遊びたいというか、やっぱ RPG には必要だろォマッチョメンが。バケツヘルムが。 せめて男:女で2:2にしたいじゃないですかせめて。 でもまあ。 そのへんはプレイヤーの裁量次第だからさ。別にプリンセスを女装の男子としても構わないわけだよな。 発想としては安直な部類に入るとは思うけども。 元プリンスなプリンセスなー。 男装の姫様となるとつまり元々は王子なんだよな。 王子てのは王位の継承権を持つ存在なのだから、それがおんなのこになっちゃうなんて一大事だ。 そうしなければならなかった理由な。単なる趣味かそれとも権力闘争のごたごたか。 しかも姫様が野良にふらふら世直し道中だなんて許されるはずもそんなないだろうから恐らくは出奔。 それに付き従うナイトってのはどんな心持ちなんだろうね? 城内脱出に付いてきてるってことは、それの手助けをしているのか。まあ帰郷の説得に当たってるのかも知れないけどさ。 手助けをしていると仮定すれば、じゃあ、女装もまた容認してるってことになるんかなー。 どんな関係だそれ。王子の生きたいように生きて欲しい的な? いやそれとも、年齢もそう遠くはないだろうから、むしろ兄貴分? まあ無難に親友として? 女装のことを苦々しく思いながら? ところでまた妄想が進んでますよ? 己の首筋にセルフチョップ。 ああでも。さー。 ファイターとメイジがなんか既に百合百合としているからナイトとプリンセスで薔薇薔薇してくれてもバランスがーとかうるさい。うるさい! オレにそんな趣味はない! 確か! とかで実際に、プリンセスてのは他職業と比較してもなかなか妄想のし甲斐がある職業ではあるので、 大変危険です。 まあなんつったって姫様でお世継ぎだもんな。それがわざわざ黄門様よろしく諸国漫遊で世直しだからさ。 それだけで「なんで?」なんて疑問は幾らでも沸いてくるよなー。疑問とは妄想の大きな糧なのです。そんでその疑問を糧に妄想すればいくらでもさー。 ……駆け落ち? ナイトと? ああ、故郷を捨てた連中と、故郷が愛しくてしょうがないメイジとの組み合わせはなかなかー。 と。勝手に妄想が働いてしまいそれを押さえつけるのがたまに大変! ああ! 春って遠いな! 「国にゃー」に萌えた。「サカナうまいにゃ」 「サカナうまいにゃ」 「一匹あまったにゃ」 「クロネコのにゃ」 「あ。ずるいにゃ」 「にゃー」 「にゃー」 「こらこら。なにをケンカしてるにゃ」 「クロネコがシロネコのサカナとったにゃ」 「ちがうにゃ。クロネコのサカナにゃ」 「にゃ?」 シロネコ……1匹。 クロネコ……2匹。 トラネコ……0匹。 「トラネコのさかなにゃー!!」 「ごめんにゃ」 「ごめんにゃ」 というのを思い出しました(C)アランジアロンゾ。 見損なった! 猫耳が三匹しかいないなんて誰が決めたの! ぐ。の妄想力はその程度なの!?あー。たしかに帽子メイジ少年の中身とかそれっぽいですねー恥ずかしくて隠してる系ー。 ところでおとこ獣耳はおらんのかねーそれとも種族的に女しか産まれないのかしら三毛猫みたくー。 |
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