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東方の緋想天と東方の地霊殿を遊ぶだけで一日が終わっていきます助けて。 おめでとうと云われて素直にありがとうと返して。するとまあ、当然(というのも少々おこがましいが)連鎖反応でおめでとうコールが続きますわな。 それにいちいち(というのも少々おこがましいが)ありがとうと返していれば、 ゲシュタルト崩壊でもあるまいが、妙な気分になってくる。 なんつったって、私は何もしていないのである。 その意識でもってすれば、「おめでとう」と云われることと、「ありがとう」と云うことの、なんと滑稽なることか。 そもそもが定期的に息を吸って吐いてするのをなるべく忘れず過ごしていただけの日々がぐるりと一周年経過しただけで。 さて。めでたいと云えるのかどうか。 何かをした記念日とするなら、それこそ父と母に感謝する日にでもすれば良いのだよな。 その日に私がしたことと云えば、引っ張り出された後に深呼吸を繰り返しただけなのだし。 その日に始めた呼吸がなんとか今の今まで続いているだけと云えば、まあその通りだ。 とはいえ誕生日のめでたさを疑問視する声などさんざっぱら世にありふれているだろう。 私個人で云えば、もはや消化するだけに等しい日々の残り少なさを報される日というのが近く、 棺桶に釘を打たれるのが或いはゴール地点とするならば、 この日の「おめでとう!」は「あと少しだよがんばって!」に置換すればいいのかしらとぼんやり思った。 それでもおめでとうの言葉に返すありがとうはそれなりに真剣なつもりで云っているつもりだ。 そうして頂くおめでとうの文字の中に、 *おたんじょうび おめでとう!* というものが含まれていて。それが妙に、嬉しかった。 シリーズ亜阿相界(東方食事情)。その三。満月ならいざ知らず、三日月の明かりは読書灯とするには頼りない。それでも彼女は最後の行までたどり着き、満足の吐息と共にその書を伏せた。 月明かりと云うことはもちろん夜で屋外だ。何処にあるとも知れない広大にして瀟洒なそのテラスには、パラソルのついた小さなチェアセットがただ一組だけぽつんとある。贅沢な空間の使い方がいかにも貴族趣味だけれど、やはり実用性には少々問題があるらしく、その小さなテーブルにはところ狭しと崩れ落ちんばかりに本が積み上げられている。 冒険活劇の大長編である。 彼女が不死の活力の任せるままに三つの夜を徹し今し方読み終えたそれは、だが名著と呼ぶには頼りない。むしろどちらかと云えば……多くの書評家に『子供だまし』の判を捺された結果、時の流れによる自然淘汰に抗いきれず、歴史の一塵と化した、今の我らにはその名さえ伝わらない駄作である。 とはいえ。そもそも。運命を見通し操るとされる彼女にとっては、それが如何な大活劇であれ退屈なものなのではなかろうか。たとえば犯人とトリックと次の被害者とをあらかじめ知らされた推理小説ではスリルとサスペンスの居場所はない。 それでもその物語は吸血鬼の目を引きつけたのだ。その理由は――あるいは、その物語に散見される死の存在だったかも知れない。 迫る死からの逃避、抵抗、そして避けがたい物となった一刹那に生じる無限の葛藤。それらは、彼女には決して訪れることのないモノである。それが故に彼女の興味を惹きつけて止まないのかも知れない。そしてまた、書き手が筆を置いたその瞬間に、あらゆる可能性が途絶え表紙の内にすべてを封印さるる書物というその存在は、見ようによっては死と等しくある。 ただまあ。そんなことを云えば。彼女の友人である愛書狂から。 ――見当違いね。書物から得られる感動が個々人それぞれに異なるように、感想が知識や経験によって左右されるのは自明の理よ。一度読んだ経験が再読時の感想を変えることも少なくはない。感想とは読了にともなう結果。結果が異なっているのに、はたしてそれは同一の本だと云えるかしら? つまり私たちは二度と同じ本を読むことはできないのよ。書物は常に新たな可能性や新たな解釈の余地を投げかけている。その意味から、書物の可能性が途絶してるだなんて――。 等とへの字の口で不平を述べられるかも知れないけれども。まあ余談である。 ついでに。意図的に排除した可能性ではあるが。吸血鬼が未だに『子供だまし』に騙される程度に子供であるだけなんて可能性も。ないではない。 ともあれ彼女はそれを読み終えたのだ。 胸にくすぶる余韻をもてあそびながら、ティーカップに手を伸ばす。注がれた液体の紅さを際立たせる脆い白さのそれを、血の気のないわりに艶やかな唇で受けて――小さく吹き出して、悲鳴をあげる代わりに反射的にティーカップを投げ出した。 高貴なカップは砕け散る音さえ慎ましい。ほのかな月明かりの下に一瞬だけ咲いて散った赤と白の花を愛でる余裕もなく、吸血鬼は口を覆って微かに震える。涙をにじませ、真っ赤な舌をつきだしそれをつまんで……要するに、紅茶が予想外に熱かったのだ。 「ああもう、まったく! 咲夜ったら!」 従者の名を叫びつつ、牙を剥き出しにした空恐ろしい表情。普段の幼い印象を粉みじんに吹き飛ばすその形相に居合わせる者がなかったのは僥倖である。誰にともなく当てつけるように行儀悪く足を組んで、紅茶と共に用意されたマフィンを不機嫌にほおばる。 もぐもぐ。ごくん。 うん。 こちらは冷めてかちこちになっているでもなく、作りたてのようにふんわり柔らかだ。その美味しさにほだされて、あっさり機嫌を直した結果。ふと気が付く。 このティーセットは、読書を始めた時からずっとある(今し方砕け散ったけど)。読み進みながら何度も無意識に口にしたはずだ。けれども自分で注ぎなおした記憶はないし、いつも適度な温度であり適度な濃さだったように思う。 読書に夢中な吸血鬼の邪魔にならないよう、こっそりと、尚かつこまめに淹れ替え続けてくれたのだろう。 冒険譚に心奪われていたのを差し引いてもなお鋭敏な吸血鬼の感覚をかいくぐり、お茶を淹れ直す。それこそ時を止めるぐらいでなければ不可能な芸当だ。 それにかかる手間。そこからほのみえる心遣い。 「……まったく。咲夜ったら」 ごくろうなことだ。と思う。苦笑いにも似たほほえみが浮かんでくる。 「そうね。貴女はきっとこんなものは求めてないのでしょうけど――感謝してるわ」 もちろんその声は、誰にも聞かれないまま、夜風にまぎれた。 シリーズ亜阿相界(東方食事情)。その二。……なんで肩に石が入ってるんだろう。 とは、目覚めに霧雨魔理沙が呟いた一言だ。開けたとの意識も無しに瞼を開けば、その瞳に映るのは怪しげな実験器具に怪しげな薬剤が怪しげな感じで散乱した机の上。ちょろちょろと火を放ちっぱなしの八卦炉が少々危なっかしい。何の気なしに首を傾げれば、盛大に骨が鳴り響き、ちょいと驚いた。 少し面白かった。 全身から快音を鳴り響かせつつ身体を伸ばし、ついでにあくびをして椅子の上にあぐらを掻く様はなんとなく猫を連想させる。とすれば、金色に肌色にブラウスの白にで三毛猫だろうか。普段は魔女らしい黒の装いがみられるが、実験をするのにスカートなんて穿いてられないらしく、現在は白衣代わりのドロワーズいっちょ。 そう。白衣姿。実験をしていたのだ。 湿度の具合で勝手気ままにカールを作る金髪にくるまれるよう猫背になりつつ、実験器具を眺めつつ、さて何を何処までやったのかと途切れた記憶をたぐり寄せれば……不意に唇を尖らせる。 なんのことはない。上手く行かない実験は、上手く行かないままで中座している。 失敗続きだ。 いやいや。なんのその。試したい事柄がある限りは実験は愉快なものだ。 先ほどの質問に答えよう。 魔理沙さんの肩には石など入っていない。机の上に突っ伏して寝た結果、肩の血流が阻害されて循環障害を起こしただけなのだけど、少女の特殊な言語野には「肩こり」なんて言葉は入ってないらしい。 ベッドは机・椅子の背後すぐそばにある。とはいえ、昨晩の彼女は寝るつもりなんてなかっただろうし、どうせ寝ようにも、ベッドの上はこの度の実験に用いる文献やら薬品やら、あまり枕を共にしたくない物で占められている。 水が欲しくなった。 お腹に石を詰められたオオカミは井戸に落ちても浮かんでこられないんだっけか。 けれども霧雨邸私用の井戸は手押しポンプ式なので落ちる心配もない。ちょいと昔に、水が必要になる度にわざわざ勝手口をくぐるのが面倒に感じられたので、少々大掛かりな改装でもって沸き水を台所で循環させてみたけれど、苔が生したり虫が這ったり、湿度の関係かやたらと色んな物がカビ始めたりでそれら対策が余計に面倒になったので止めてしまった。 彼女にとって「面倒」とは常に物事の正当な理由たり得る。怠惰は魔女の美徳だ。不便の払拭は新たな技術を生むからである。面倒は発明の義母とでもいうか。 おなじく、一般には悪徳とされている飽食もまた、彼女たちにとっては美徳たり得る。新たな食材や調味料、もしくは保存法の探求は知識欲のなせる技。あらゆる魔術は台所より生ずるなんて言葉もあるとかないとか。 さて。それらを踏まえた上で。 「食事」が「面倒」である場合は、どう対処するのが魔女的なのであろうか。 当然、魔理沙さんはそれの答えを知っている。 煤で真っ黒く染まっている寸胴鍋にがぶがぶと水をつっこんで鎖に釣るし、底にお手製固形燃料を設置しマッチでもって火を付ける。八卦炉は実験に使ってるからね。で、干してあるタマネギとショウガとニンニクに手を伸ばして大きさなんか気にせずズタズタにみじん切りにして鍋に放り投げて、瓶詰めにしていたカリフラワーも逆さにして塩水ごとどぼどぼ。ついでに食用キノコ。じゃがいもでも入れるかと探せば、芽がにょきにょきと元気に育ってたのでやめた。後は、根っこやらタネやらをすり潰して作り溜めておいたスパイスを数種類。大さじのスプーンでどっさどっさ入れて、ぐるぐるかき混ぜて、ハイお終い。 ふとトマトが目に入ったので、ヘタだけ取って投げ入れれば、どぶんといい音がした。 あとは煮込むだけである。 要するに。煮込んでやわらかくすればなんでも食えるようになるし、臭いのキツイ調味料でもってすれば多少の味はごまかせる。まさしく、魔女的な料理である。 とはいえコレが意外とおいしい。嘘だと思うなら泡立つ鍋より醸しだされる香辛料の香りを嗅いでみると良い。違わず食欲を刺激されるはずである。そのへんも含めて魔女的。 スパイスの色彩的に黄土色にぐつぐつ泡を立てる鍋の中身をみたらその食欲も再び減退するかも知れないけど。そのへんも含めて魔女的。 どっかりと食卓(椅子ではなく、卓)に腰をおろして頬杖をついて。固形燃料の不可思議な炎色反応の揺らめきを目に映せば、頭の中身は自然と実験にむかって傾いて行く。 ――鍋に熱を与える火。熱の移動。水から湯気への循環。おっと、水の前に氷があるか。氷、水、お湯、湯気。熱はもっとも単純な力の形な気がする。空気を媒介として世界に充満している。それを取り出す方法があれば。でもどうやって? ほっといても沸騰する水? そういえば氷は勝手に水になる。それはつまり勝手に空気から熱を奪っているからか? もはや少女の目は自分の内側にしか向いていない。炎色反応よりも不可思議にゆらぐその瞳の炎は、少女の原動力たる好奇心を燃焼させて揺らめいている。 無言で、ポンと手のひらを叩く。 なにやら思いついたらしく、くるりと反転して再び実験机に向かう魔理沙さんには、魔女的な鍋がぐつぐつと不満を漏らそうとも聞こえやしない。 つまり、今の魔理沙さんなら空腹だって戦が出来るのだ。 その結果に、大鍋を一つ失うことになるけども。 崖の上の。・ガキ共がわんさか居るであろうお昼過ぎを目して映画館へ。 ・いざ付いてみたらば一七時まで満席。 ・しょうはないので都合の良い日付のお昼過ぎのチケットを購入。 ・そのまんま古本巡りに移行。 ・その最中に。ふと、STG の品揃えがよいゲーセンがあるらしいと聞いていたので、 それを確かめるために自転車で片道一時間。 ・後、日付の変わる少し前に帰宅。 と云うのを中学二年生の末弟を引き連れてやったりした。 いや同じ引き回すならもう少し良い思いをさせてやればいいのにとは自分でも感じておりますハイ。 一回目は普通に観て。そんでガキ共の反応をみたいなあと思ったので、 末弟を観につれてってやるという建前でもっておかわりに行ったのでありました。 そんなで。以下ネタバレ注意で観て参りました崖の上のポニョ。 相変わらず宮崎駿は「面白かった!」以外の感想を許さない映画をつくるなあとは思えども、 作品を視るという行為がその創作物の投影であるならばやはり雑感はいくらでも浮かんでくるモノ。 スクリーンに半ば圧倒されながら、自らの震えをこらえるようにしてみていた私の胸に去来していた思いは 「連れて帰りてえ……!」 でした。 いや。ポニョちゃんを。まじで。 より事実に即した言い方をするなら、連れさらいたかったね。 私は私が変態だと云う自覚がしっかりあるから、敢えて何の臆面もなく云うけれど、 睡魔に敗退し幼児らしい痛快さで寝扱ける彼女の、 そのぐったりとした体を抱き上げた重みと暖かさがこの両腕に生々しく想像できたね。 ガキって頭が妙に暖かいのよね。 ホラそこのあなた、引いてる暇があるなら世のガキの安全を少しでも高めるためにとっとと通報なさい。 いやほんと。宮崎駿は相変わらず素晴らしいロリコンであるなと。 とはいえ個人的に大好きな人物はフジモトさんなのでありました。 愛すべきフリークスであり愛すべき父親ですよ。そーすけくんがあっさりとポニョのことを受け入れ、 ギャラリーのお婆さま連中が彼に殺到する中で、一人遠くぽつんと見守るフジモトさんの哀愁ね。 「ポニョ」はガキの視点で描かれた映画なのだと思う。 それ故に、あの世界でどれほど大事件が起きようとも、ガキがそれを大事件だと思えなければ、 それはストーリーの中核からはずれた辺りをするすると流れていってしまう。 世界の法則をまるごと歪め、町一つ海に沈め、 おそらくはスクリーンに映らなかった世界にまでも大変な損害を与えたであろうポニョの行為も、 結局は「そーすけのところにいくー」という単なるガキのワガママだった。 スクリーンを眺める大人の多くは彼女のしでかしたことに、あの荒れ狂う海に総毛だったのではあるまいか(おれは立ったぞ。 「ポニョ」を批判する意見に「試練の不在」や「真剣さの欠落」なんてのが散見される。 しかしそれはしょうがないのだ。あの映画の中では、試練や真剣さはガキの等身大でしか存在し得ない。 その試練を受けるべき主人公にとっては、町が一つ塩水漬けになってしまったことよりも、 お母さんがどこかへ行ってしまうことのほうが遙かに大事件だったのだ。 事件は(大人からみた)ガキのスケールでのみ描かれ、(大人からみた)ガキの目で選別される。 それ故に大人の丈には合わないこともあるし、大人の目にはいかにも小さく見えたりもするのだろう。 大人が欲した大事件と、ポニョとそーすけ君にとっての大事件のミスマッチは観客と作品の間のみならず、 作中にも散見されるしなー。 最もわかりやすいのはそーすけ君に迫られた最後の選択だろう。 その選択を前に、周りの大人は口々に「リサさん、辛いでしょうね……」「何があっても、私たちはそーすけちゃんとポニョの味方よ!」等と口にする。 ポニョとは、願望のままに世界を滅ぼしかねない恐ろしい爆弾だが、 しかしそーすけ君からすれば単なるガールフレンドなのだし。 金魚とも半魚人とも人間ともつかない存在を生涯の伴侶として選ぶことの重大さも多分わかっちゃいねえのだろう。 だからこそ周りの大人の心痛をよそに、彼はその存在をあっさり受け入れてしまうのだ。 無意識かつ無邪気に行われた世界の救済。事の重大さや、自身の限界に無頓着であったからこそ成しえた偉業。 そこからガキの持つ可能性の真意をくみ取ることもでき、 それこそ宮崎駿が今回の映画で表現したかったこととも受け取れるのだ。 なんつーのはまあ冗談である。書いてたらそんな気分になってきたってだけで。 「ポニョ」を、ガキの視点で描かれたものだと解釈すれば個人的にスッキリするのはその通りなんだけどね。 とはいえ、宮崎駿はロリコンではあるけれどガキではないし。本質的にガキの目線に立つことは不可能である。 なので、大人にとってのガキ視点で描かれたその話が、ほんとにガキ共に受け入れられるのかどうなのか気になって。 要するに宮崎駿のガキ視点ははたして本職のガキ共に通用するのかと。 そこんとこを確かめようとわざわざ家族連れの多そうな時間帯を選んでもう一度行ったんだけどなー。 上映後、幼女が「自分からキスしたね!」と興奮気味に語ってたのがせめてもの救いであった。いやそれ以上の救いであった。 勝手な憶測を重ねれば。宮崎駿が、先ずはガキの為に描いて。 ついでに、ガキの視点で描いた作品であっても、その中でガキが生き生きと暴れ回る映画たれば、 大人にとっても十分なエンターテイメントたり得るだろうと、そう信じて描ききったような、そんな妄想を抱いてしまう。 まあなんにせよ。 巧みなシナリオ展開や奇抜なストーリーと同等かそれ以上に、 ガキのガキらしい挙動がエンタテイメントな儂からすれば、「ポニョ」はほんと無条件で名作だと断定できる作品なのでありました。 でさ。そうした観点でみれば、海を案じ、世界を案じ、愛娘を案じながらも、 その懸念をおおむね不意にされちゃうフジモトさんは「ポニョ」っつー作品の裏主役のように感じられるのよねー。 海からヌルーっと顔だけ出して移動するところか。ぶつぶつ独り言ぐあいとか。本人の真剣さに反比例して生じるおかしみとか。 「だってあの子はまだ五歳だぞ!」が妙に名台詞として残った。 でさ。余談なんだけど。宮崎駿映画の「おもしれーとしか云えないっぷり」は、 「言語を絶した動画力で散々見せつけられる」てのがその理由の大部分だけど、 小部分として「どこからどこまで狙ってやってるのかわかんない」て不透明さがあるんだよな。 たとえばハウルなんかは「オレの描きたいモンだけ描いたぜどりゃー」な雰囲気がするし。 今作の、上記した「試練や真剣さの不在」てのも狙ってやったのか結果的にそうなったのか気にしてなかったのか、 やっぱよくわかんないしな。 面白いのでそのへんは別にどうでもいいというのもそれなりにありつつ。 なんだけど。「ポニョ」は駿の描きたかったモノが妙にくっきりと見える作品でもあるよう思いましたで。 何よりも波の描写をあげたいな。まるで生き物のように満ちては引いてうねる波。 てゆか生き物に代入してそれを描ききってたみたいなのだけど。 それからドッグ入りした船がなによりも目立つ町並みに、海と暮らす町と台風と。 そのほか細々とした点としては、そーすけ君のあの女難の相の出っぷりは不思議なリアリティーがあるよねーとか。 いるよね幼稚園とか小学生とかで妙に女子にもてる男子。もしくは女友達中心の男子。 リサさんの微妙な無鉄砲ぽさとか無教養っぷりもカリカチュアライズされてるなあ感じるけどもなんとなくリアリティ。 とはいえ一児の母にしては育児ズレしすぎじゃねーのとは少し思ったけど末弟からの「老人ホームで仕事してるからじゃない?」て意見にやや納得。 どうでもいいけどかーちゃん背泳ぎなんだなあとか。 相変わらず駿はいいババアを描くなあとか。 そういえば。 ガキ共どっさりの時間帯に突入して反応観察してうはうは作戦は何か半分ほど空席という状態だったので玉砕気味。 なんだよう。もう一回見に行かないとだめなのかよう。 連れてった末弟ももう中二で。ガキの感性とは顕著なずれを生じ始める頃合いだからなー。あー。 いいオモチャなのに。もったいない。 タマゴとハムを浮かべたチキンラーメンでも食って己を慰めよう。 宵待月黒猫塔は。コミケにて委託参加とお店番とをさせてくださる心優しいサークルさんを常時募集しております。 厚顔無恥。 シリーズ亜阿相界(東方食事情)。その一。朝靄に遮られながらも、曙光が玉砂利を暖めている。その合間を山鳥が何を探しているのやらちーちーぱっぱとクチバシでほじくり返す。 さして珍しくもない早朝の風景である。欠けているものと云えば、玉砂利を竹箒でもって掃き清める緋袴くらいだ。 ところで、大抵の神社には、その境内や参拝道に玉砂利が敷いてある。 これにはそれなりの謂われがある。 白く穢れのないそれを敷き詰めた庭は神域に相応しい清浄さを持つし、玉砂利の玉は御霊(ミタマ)にも通じる。踏みしめた時に鳴る独特の音はお祓いにも似た効能があるとされているし、参拝道を歩くウチに土足の汚れを落としたりも出来るという機能的な話なんかもあったりする。 だから、それを掃き清め、掃き均すのは巫女として欠かしてはならない行状であり精神修養である。のだ。けれど。……今朝は件の巫女の姿が見えない。 サボりだと決めつけるのは早計である。 彼女は確かにものぐさ巫女ではあるけれど、それ以上にいつ如何なる時も自然体で生きている。彼女にとって日々の行状とはまさしく自然体の内であり、やってみれば恐ろしく面倒な境内のお掃除も、さしたる疑問もなくちゃっちゃと済ませてしまうのが常のこと。 修養でさえ極めて自然にこなしてしまうのが彼女の才能の一つと云えた。 巫女は今、鳥居の外の離れにて朝食を摂っている。 博麗神社は神殿のみならず住居としての機能も備えているが、彼女は月に一度、そこを離れて三日ほどをここで過ごす。 ちゃぶ台の前には、いつもの襦袢ではなく西洋寝間着で正座する巫女。 ちゃぶ台の上には、白米と、大根の葉を浮かべた味噌汁と、タクアン。それから、梅酒から取り出した大粒の梅を一つ。 米と味噌は毎年の奉納品で十分な量がまかなえる。ついでに醤油も。巫女という職業も傍目から見れば普段何をして生計としているものやらさっぱりわからないものであるが、少なくとも飢えて死ぬことだけはなさそうだ。 お櫃に残った白米をお茶漬けにしてさらさらとかき込んで、ふうと一息を付いて。 ――せっかくだから今晩は肉食でもしようかしら。 などと。朝食の茶碗も置かぬ間に、夕餉の献立を考えはじめている。 とはいえ、紅葉も牡丹も季節には遠い。 神道が肉食についてどう捉えていたか。その諸説は千々に入り乱れているようだ。 確かに神道は古来から穢れを忌避している。特に死は穢れそのものであるからして、彼らが肉食を禁忌とするのも自然なことである。けれども、山間部における肉食は貴重なタンパク源であったはずなので、狩りの成功を神に祈り、その成果物として神前に獣を供する文化もあっただろう。その他にもそもそも穢れへの忌避は大陸文化からの影響であるとするものや、神仏和合の結果入り乱れているのも確かだろうし、肉食を禁忌とみなしたのは平安は京都でありその周辺にしか効力は及んでいなかった等々で――。 正直、よくわからん。 とはいえ、神道が穢れを忌避する文化であるのは確かである。巫の仕事とは神との仲介だと一般に云われているが、その実体は村落という集団の中で、穢れを予防し、穢れを見出し、穢れを祓い、集団を維持することにこそあるのだな。 そうして清浄を維持した人々さればこそ、神の謁見に適い、神の加護を得られる訳である。 故に博麗霊夢は今、巫女としての資格を失っている。 穢れとは具体的に何を指すか。それは観念的な不浄を意味し、より狭義では死を意味するが、その他にも疫病・犯罪・出産、それから月経などでも犯されると考えられている。 巫女の緋袴は、急な月経による経血を隠すためとの話もあるけれど、これはきっと、俗説の類。 ・思いつき書き殴り。「ぴぴぴぴ」 ……。 「ぴぴぴぴ。ぴぴぴぴ。ぴぴぴぴ」 何が。 「何がって、何さ」 いやこっちが訊いてる。何ですか急にそのぴぴぴぴって。 「あれ。聞こえない? なんか鳴ってるじゃん」 いや聞こえないけど。……疲れてる? 「夏バテはしてるけども。何で正気を疑われるのさ」 想像してみなさい。電車で知らない奴と隣り合わせている。レールの音以外は聞こえない。すると突然そいつが『ピピピピ』 「……あー」 思わず殴り倒すだろ。 「いや殴り倒しはしない。いやいやいや、っていうか聞こえてるって。さっきから。はっきり」 ケータイか? 「そんな感じじゃなくて、電子音で、キッチンタイマーみたいな」 あ? ああ、ほんとだ。なんか急に聞こえ始めたな。 「でしょ? ね? リズムよくぴぴぴぴって……あれ? 音が変わったね。ピ――って伸びて」 がつん。 と、唐突に言葉を切って、ものすごく痛そうな音とともにテーブルへ頭を落として。動かなくなった。 しばし呆然。静けさに響くピピピピ、ピピピピ、ピピピピ。我に返って、おい大丈夫かどうしたんだ等と口にだしかけながら手を伸ばす合間にも聞こえるピピピピ、ピピピピ、ピピピピ、 ピ――。 超下世話。何故ビアガーデンには白米がないのかしらね。 と思いつつひらすら食った。 図書館のアルバイトがハケて、とっとと飯買って帰ろうと自転車にまたがれば、 古本屋さんの店長から「食い放題飲み放題のチケットが余ってるんだけど」とお電話を頂いた。 食べにだけ来ればいいとのことなので、本当にその通りで食べてだけいた。 一流と呼んでも差し支えのないホテルが主催しているビアガーデンでもやはりビアガーデンはビアガーデンだ。 まずい飯にぬるいビールにやすい酒。要するに雰囲気を楽しむものよねと、 小皿の限界積載量へ挑みつつがつがつ食えば、ソーセージに唐揚げに焼き鳥にサーモンに……。 土いじりなんて生まれてこのかた一度もしたことはないけれど、我が身に脈打つ農耕民族の血を意識せざるを得ない。 蛋白質を主食とすることなんてできないのだ。胃と舌が切実に炭水化物を欲している。 要するに白米がほしいのだ。白米が。ライスが。 米くいてえ。という思いは真実切実なものではあったけれど、 しかしみんながジョッキ傾けてる中にひとりどんぶり飯をモリモリ食ってる様はさすがに面白すぎてはいる。 しょうがないのでフライドポテトで代用した。 あー。イモうめえ。 孤独のグルメという名マンガがあるけれど、 あれ一番の名台詞は「これでライスが無いなんて……残酷すぎる」だと思うんだよな、と、 これは思い出しただけ。 とはいえおじさま連中との雑談も面白くはあった。 年代が離れていれば趣味も共有しがたい。そんな少々埋めがたく離れている間柄で、 男同士ができる話と云えばカネの話かエロの話なのだろう。 夫婦間で月何度営んでいるか等の話はなかなか想像もつかない話なのでなんとなく勉強になった。 「それで、(人名)は何回?」 「何回? それは年で?」 「月で聞いてるんだよ。っていうか年単位なのかよ」 「ウチはかみさんが子供が居るといやがるから……」 「外でするよりは金がかからないっていうけど、ゴムとか含めればけっこう、なあ?」 「タバコと同じくらいは確かにね」 要するにご家庭で様々みたい(そりゃそうだ。 「一人でするのがやっぱ一番いいね。金も手間も相手も場所も必要ない」 「そうかなあ。オレはやっぱ一人ですんのはイメージトレーニングだぜ」 「イメージトレーニング。その呼び方いいスね」 「イメトレ? なるほどイメクラに似てるな」 「自家発電って言い方もあるよな」 「シュッシュッポッポシュッシュッポッポ?」 「劇団ひとりとかな」 「劇団ひとり!」 「劇団ひとり!」 鼻血とともに生きる。冥利に尽きる。 私が小説を読むのは、文字を脳内にて映像に変換する作業が楽しいからってのもあって。 なので、儂が書く際はそのへんの楽しみをなるべく活かせるよう木ばかりを見て森をみないような描写をつい多めにしてしまうのですな。 読み手に好き勝手に想像して欲しいと。 このへんは書く人間のエゴかしらと矯正の必要も部分的に感じているのだけれども、 いやしかし。ほんとに。嬉しいモノです。 世界樹の王虎を大陸風に「わんこ」と読むのはどうか(拍手ログが切れたので意釈)猫なのに(いやトラだ)犬というアイロニーですな。 いや中国風に読むとわんふーだろう。やや。下手にわんこよりもアイロニカル(あるのかこんな言葉)だぞ。 ねこじゃらしは俗称であり、学名的にはエノコログサと呼ぶそうで。 このエノコログサを漢字に直すと狗尾草。つまり犬の尻尾ですね。 あのふさふさが微妙なカールを描く犬の尻尾を思わせるかららしいけれど、 つまりねこじゃらしにじゃれる猫は犬の尾にじゃらされているというアイロニーが成立するわけです。 なんて与太話を思い出しました。 日本に生まれて良かったという台詞は他国の文化に触れてこそ価値の出てくるモノだぞと。思うので特に云うつもりはないのだけどもとにかくやたらとマンガを読んだ。 計七三冊かな? とはいっても三作品。うる星やつらと、めぞん一刻と、二〇世紀少年。 いずれも面白かった。素晴らしかった。 とかで感想をだら書きしてたらばうる星やつらだけ妙に長くなったので、後ろ二作品は他の機会に回して。 ・うる星やつら。 ・私にとって「高橋留美子」と云う作家はうる星やつらとか犬夜叉とかの人ではなく、 人魚シリーズを描いた人なのだよね。 人魚シリーズとは、不老不死となった男女が共に元の身体に戻る方法を探して旅をするというお話なのだけど、 私はやたらと不老不死が好きで、相思相愛っつー前提で描かれる話が好きでさ。 しかもうる星やつらというとオタクカルチャーとしてみても根っこ近くに位置する作品であるし。 私自身の(趣味の)起原はもしかするとそのへんに転がっているのでは無かろうかと、ずっと疑ってたのだけど。 要は、先の「綿の国星」から続く先祖返りの一環で。 ・実際に読んでみたらとくにそんなこともなかったと云う話。 トラウマめいた部分に引っかかることもなく、惜しみつつも全三四巻。つるりと読み終えてしまった。 大変満足。 最初から初めてしかる後に読み終えたならば誰もか感じる感慨だろうけれど、 そうかー。うる星やつらは鬼ごっこの話であったのだな。あたる君とラムちゃんのおいかけっこであったのだよ。 総計三四巻の見事に長丁場な鬼ごっこだったけどな。 ・読んでてぼんやり感じたのは、 この作品を開く時はいつも「期待の水準をずいぶんと低く設定できる」て事だった。 期待のハードルを低くすることができるから、作中に描かれる細かな、 あるいは大掛かりなギャグがぴょんぴょんそれを飛び越えて行く。 なので端々で気易く笑うことが出来る。 途中まではそれがこの作品の特色めいた特徴にも感じられたのだけれど、 でもこのへんの心構えはギャグマンガを読むなら平素備えて然るべき姿勢だよなとも思ったので。さて。 特色と呼べるかどうかは解らない。 でも何処か、地に足の付いたギャグが多かったような気がする。 確認のためにページをぺらぺらとめくり返せば、改めて感じたのは、目の前で起こることの不思議な他人事具合。 多少表現が過ぎる気もするけれど、作者から突き放されているようにも感じられる。 或いは、読者には第三者的視点しか与えられてないように感じるというか――。 彼らがどんなことをしでかしても、うる星やつらという世界には何処かしら常に日常の気配が漂っていられるよう感じられる。 それはもしかすると、物語における「読者の共感者」が不在だったおかげかも知れない。 常識人が何処にもおらず、どっちかというと常軌を逸した変態ばかりが存在するマンガである。 そして描かれるのはその変態達が変態達なりに地に足を付けた日常だ。 或いは、変態は変態のままに理解を求めようとしてない、とも言い換えられるだろうか。 客観的な描写を中心に、不用意にキャラクターの内面へ立ち入らないよう描かれているような気がするし。 共感を寄せられる相手が不在であるならば第三者の視点でしか見られないのは当然のこと。 なのかなあと思うんだけど……このへんは、やっぱりうる星やつらに限った特徴ではなく、 他のギャグマンガにいくらでも類例があるところなのだよな。 ギャグマンガとしてのひな形にさえされる存在だからこその無特徴。とも云えようか。 いずれにせよ抽象的な物言いしかできないけれど、その全体を通じてどこか平坦な印象が、 観客に徹することを許してくれて、とても居心地が良かった。 ・近頃はギャグマンガっつったら変に押しつけがましいモノがおおいからなあとかなんとか。 ・高橋留美子作品全般に云えることっぽいけど。 好きなキャラクターはしのぶちゃんと竜之介くん。彼女らに関しては後述にまわすとして。 好きとは別に、得難い存在として評価したいのが面堂くんだった。 古今様々なマンガを付き合わせてみても、彼ほどに得難いキャラクター性を持ったキャラはそう居ないと思う。 何処がというと、容姿端麗で品行方正で武芸達者で学業優秀。おまけに金持ちでおんなのこにばかり優しいという、 モノの見事に、読者から目の敵にされるためだけに存在するようなキャラクターである。 なのに嫌味さがまったく感じられない不思議さ。 その個性を存分に活かして、登場人物のほとんどから邪険に扱われるほどの存在感を放ちつつも、 読者の中にはその嫌味っぷりが染み渡ってこない。サラリと自然に嫌な奴なのである。 得難いなあ。 もちろんその印象には、その完璧っぷりをほころばせる部分的なバカさ加減や閉所暗所恐怖症にタコ好きと、 所々にみせる愛嬌が少なからず影響しているだろうし、 もう少し云えば、(読者にとっても外道に映る)あたる君をばっさり断罪してみたり、 (読者にとっても保護対象である)美女を守る立場に必ず立ってみたり等、彼に与えられた立場も影響しているだろう。 その上に、前述した「共感の不在」や「客観中心の描写」や「地に足の付いた日常」などこの作品の特徴が絡み合って出来た、 他作品では滅多にみることが出来ない面白キャラクターだと思う。 思うんだけどなあ。 作品そのものからは恩恵をさっぱり受けなかったよね。 しのぶちゃんも竜之介くんもしっかり「お手つき」になったのに。彼だけは最後の最後まで脇役のまんまだったねえ。 思えば、彼と美女が絡む話はいくつかの例外を除いて、面堂くん自身が美女に向かう話ではなく、 美女に向かったあたる君を成敗するために追いかけるって立場ばっかりだったし。 美味しい話も巡って来にくかろうな。哀れだぜ。 ・しのぶちゃんは。 連載当初から人気キャラだったろーなあと思うのは単に私が好き故の贔屓目でしょうか。 このコも割と得難いキャラに数えられると思う。 彼女の(当時の)清純派女子としての常識的価値観と、女子らしい人間的な嫌味さは 変態だらけに浮つきがちになる世界をどっしりと押さえつける重石の役割を担ってました。 あたるくんの浮気性を真っ向から否定できるのは彼女だけだったし、いい男がでればそちらに靡くし、 連載当初から彼女に与えられた役割は、あたるくんがラムちゃんから逃げる理由でもあった。 といいつつもそのへんの変態と真っ向から渡り合えるパーソナリティも有していたしな。 「女の子って弱いものよ。男が守ってくるからそのぶんやさしくなれるんじゃない」と云いつつ握力計を握りつぶす姿が何よりも雄弁に彼女の個性を物語っていましょう。 あと個人的に好きなのは暴力に及ぶ時は先ず何処からか学習机を取りだしてぶん殴るorぶん投げるところ。 永遠の女学生やね(なんだそれ。 連載後半になるとほとんど取り出してくれなくなるけれど、ある格闘シーンの大ゴマで、 うずたかく学習机が積み上がっていたのにはつい大爆笑してしまった。 要するに彼女は、物語にはたまに彩りを添える程度の存在だったけれど、 それでもうる星やつらという作品の中でいつもひっそりと、欠かせない存在として中心近くに存在したのだ。 んだから、そんな彼女が話の中心になったからこそ、 三一巻の「扉」のお話は全三十四巻中でも出色の完成度を持ったと思うのだよね。 あまり理想的ではない未来をまざまざと見せつけられて、 しのぶちゃんだからこそ描ける「今と余り変わらない未来」を、それでもやんわりと否定して。 そのプロセスを経たからこそあたるとラムの結ばれる未来をなんとか守ろうとしたあたるくんの姿が妙に感動を呼ぶのであるよ。 あとはごく稀によりを戻しそうになるあたるくんとか竜之介くんとかきつねくんとか番長とか。 誰とくっつくやら浮動要素の多い娘さんであったが、最終的には因幡くんとお手つきになったのが。やれめでたや。 三十三巻あたりの、そのへんの浮動層の回収具合は見事なものがありましたやね。 竜之介くんもまたクラマ様とかえーとあの電気の野生児とかで、しのぶちゃんに優るとも劣らない浮動層でしたが、 しかし渚さんとの手打ちっぷりがお見事でした。何か途中でらんま1/2になってたけど。 ともあれ、渚さんの「あなた……女の子を殴れる? 相手が好きな女の子ならなおさらよ」との台詞の前に、 竜之介くんは男としても女としても敗北を喫したのでありますな。 そのへんの回収の見事さを顧みるに、つくづく面堂くんの報われなさが惜しいのです。 せめて最終回周辺に「ラムさんを幸せに出来るのは貴様しかいないだろーが!」的決別のシーンが欲しかった……。 とはいえ、彼のラムちゃんへの入れ込みっぷりもその他大勢のクラスメイトとそう大差がないように思えるし、どうだろうな。 じゃあトンちゃんの妹の飛鳥ちゃんとでも良かったんじゃねえかなあとしみじみ思うのでありましたが。 それはそれとして竜之介くんのあの「海が好き」Tシャツが欲しい。 売ってないのか。ないのか。じゃあ自分で作るかなあ。 あとは梅雨も明けようとしているのに未だこたつをだしている私の部屋は十分にこたつねこを迎え入れる資格があると思うんですけどダメなんですか。 後は。 アニメ劇場版のビューティフルドリーマーを観たのだけれども。 んー。アニメ作品としてはたしかに優れた出来ではあるけれど、 うる星やつら好きとしては必ずしも通らなければならない道ではないように感じた。 そのへんの違和感をまとめれば、相対的に私がうる星やつらに感じている特徴めいた部分を割り出せるように感じたけれども、 ちと長くなりすぎたので後の機会に譲りましょう。 猫耳の起源。『綿の国星』を読み終えた後、少々ぼにゃりと考えてみた。 綿の国星における須和野チビ猫ちゃんは確かに、世に大きな影響を与えた最初に近い存在て意味では、 猫耳の始祖と読んで差し支えのない存在ではあるけれども、 それ以前に人類補完機構という SF で存在が確認されてるのだから、まあ「元祖」と呼ぶことの誤謬はどうしてもあるのだろう。 人類補完機構のク・メルよりも先に遡ることは可能なのだろうかね。と。当てずっぽうを投げつける先を考えれば、 例えばミュージカルのキャッツなんかはいつ頃に書かれた脚本なのだろう。 でもアレは擬人化だよな。猫耳と呼ぶに相応しいのかどうか。 いやでも猫耳を記号として捉えて、その役割で考えるならば擬人化とまったく同一であるのだし。 含めても良いか。 じゃあもっと遡れるよな。日本は擬人化の国です付喪神。つまり化け猫・猫又・猫娘。 これは江戸時代とかの文化か。 んーでも……日本における猫は大陸さんからの渡来なんじゃなかったっけ。 大陸さんが日本に来る際、ネズミなどの駆除のため船に猫をのっけて、それがやがて日本に根を下ろしたとか聞いたことがある。 じゃあ中国文化で、金華猫か。 金華さんは夢魔の類でもあるし。昨今の萌えカルチャーにおける猫耳とそう大差はあるめえ。 とはいえ中国さんの猫耳妖怪は金華猫ってだけでもあるまいし……。野生の猫とどれだけ親交があったのかなあ中国文化。妖怪とかそのへんの概念が認知されるには文章化が一番なのだろうけど。印刷が始まったのは紀元後の一〇〇〇年くらいからだったっけ。 どうでもいいけど猫てずいぶん昔から女性に例えられてきたのな。 バステトさんもたしか女神だったよな。 て。そうか。エジプトがあったじゃん。エジプト神話は古いなあ。あっという間に紀元前三〇〇〇年じゃんか。 そういえば、猫の玩畜家に成功したのも彼の国だったっけ。 猫は元々一匹で狩りをする生き物だからどうやったってヒトの傍に居着くはずはないのだけど、 でもエジプトさんの熱心なラブコールでついにヒトに飼われるようになったとかそんな話を聞いたことがある。 そこから先に遡るのは難しいなあ。 じゃあバステトさんが猫耳の始祖なのか。 そうなのか。 あらゆる猫耳は神の系譜に連なるのだな。 その名前を初めて聞いた時から。ずっと覚えていたのだ。 その少女の名前はホワイトフィールドという。 厳密に云えば、きっといつかそう呼ばれるであろう名前であり、現在は須和野チビ猫と呼ばれている。 なぜ覚えていたのかというと、彼女は要するに猫耳少女だからだ。 萌えという概念を語る際、人は多く記号論にも似た解釈でそれを締めくくる。 そりゃあそうだ。そもそも萌えという言葉自体が、言葉として表現しにくい感情を、 それでも共有せんがためにオタク共がひねり出した共有概念であり要するに記号だからである。 (大雑把に言えばね) 記号とは要素の簡略化。説明を最小限に抑え、一目で概念を伝えるための手法。 用いるに易いそれは、多くの手に触れられて、創意工夫を加えられつつも世に氾濫していく。 なので、猫耳も世に溢れている。 だから、その少女が猫耳であろうとも特別に記憶するには当たらないはずなのだけど、 須和野チビ猫はそんじょそこらの猫耳とは格が違う。 なにせ原初に位置する猫耳少女だからだ。 とは云うても別に。多くの魔物を産み落としたティアマトとかエキドナみたくあらゆる猫耳の母たる存在とか。そんなではない。 猫耳というカルチャーの発生を遡っていけば、その根本に近い位置に彼女が居て、 そんで多くのヒトに影響を与えた存在であるらしいのだな。 始原の猫耳と呼んでも差し支えはあるまい。読まねば。いつか読まねば。そう念じて、自然と記憶に残っていたのだ。 で。彼女の登場する作品はかの二四年組のお一人たる大島弓子さんの代表作『綿の国星』だ。 読んだ。 素晴らしかった。 猫耳少女は単に猫耳少女としてそこにあるのではなく、創作における重大な発明の一つであったのだ。 単なる偏向した趣味である萌え記号と同一視なんぞ非礼・無理解の極みであった。 大島弓子さんは少女マンガが詩情と云うものを取り込み始めた、その過渡期と成立とに立ち会った方だとか聞いていたけれど、 頷かされる。 須和野チビ猫という少女の頭に尖るあの猫の耳は、仔猫と少女という二つの要素から近似部分を抽出し結晶化した、 純粋たる少女性なのだ。 等と鼻血をぼたぼた垂らしながら読み終えたんだけど。 ちとこの辺は整理がおいついてないのだよね。 要するに、須和野チビ猫は猫ではあるし、物語の役割としてもまた仔猫以上のモノは任されてないのだけれども、 しかし物語の原動力たるのはその仔猫の中に宿る少女としての感性なのだ。 いつか人間になれると信じ、飼い主に恋慕し、そしてその夢を破る現実と直面し苦悩する彼女は、 どうしようもなく猫でありつつ、どうしようもなく少女なのだ。 故に。物語における役割として言及するなら、ネコアレルギーの二三子さんが彼女を抱いた時、 彼女における猫という要素は役割を終えて霧消し、そして少女のみが残り、あの、 少女にしか為しえない美しいモノローグが始まるのだな。 仔猫と少女性とには多くの類似が見られる。 無知からくる無垢、旺盛な好奇心、純粋で無邪気な憧憬、無償で与えられる未来、無鉄砲な行動力、その他諸々。 しかし仔猫は仔猫であり少女ではない。少女は少女であり仔猫ではない。 しかし、須和野チビ猫にあの猫耳が揺れている限り、彼女は仔猫であり少女であり続けるのだ。 つまり。彼女の中には、少女という名の野性が宿っている。 ……鼻息荒いなあ。 興奮してるとまた鼻血でますよおじいちゃん。しかも何か書き殴りに過ぎて微妙に整理できてませんわよ。 とかなんだけど。 無欠に少女たる須和野チビ猫ちゃんが主人公のお話なのだから綿の国星はほんと完膚無きまでに少女マンガだった。 素晴らしい。 詩情が濃ゆ過ぎる少女マンガはその香りにやられてつい敬遠しちゃうんだけど、 でも圧倒的に少女マンガだった綿の国星にそれを嗅ぎ取らなかったのは、 詩情を通り越して文学趣味となったからでしょうか。すごく読みやすかった。 とか書きながらも。最初のお話から以降のチビちゃんは仔猫としての役割に比重が傾いてるね。 それはそれでよきかな。最初のお話で発揮したチビちゃんのあの少女性はやはり特別なモノであって欲しいし。 あとまったく関係ないけど二三子さんとかひっつめ三つ編みさんとかが女性の手によって描かれると 男性本位に傾きがちな女性像ばかりを描いてしまうオタクの身としては大変救われるね(なんだそれ。 いずれにせよ始原の猫耳は素晴らしかったというお話。 次はク・メルに会いに行くゼ! 猫の声が響いているのだ。こんだけナーオナーオナーオと続けて鳴くのは大体オス。 鳴き続けるとなると仔猫を連想するけれど、声の張りからは老猫しか浮かんでこない。 反響がやたらと跳ね回る如何にも近代建築なその吹き抜けは、打ちっぱなしコンクリートの壁に青いタイルの床。 古本祭り会場でのことである。 古本祭のお店番てアルバイトはそれなりに愉快なお仕事ではあるのだけど何よりも早起きの強制が私には辛い。 とは云っても開場は十時からなんだけどな。 その声は、堅いベンチに腰を落ち着けたときからお昼を過ぎた今の今まで定期的に届いてくる。 何処にいるんですかね? と、同じくお店番をしている店主さんに尋ねてみれば、 「そこに中華屋があるでしょう。あそこに止めてある自転車に繋がれてるんだわ」 驚いた。 つい先日も、おじいさんが猫に首輪を付けて散歩に同伴させているところを見かけたからだ。 流行ってんのかななどと思いつつ話題の種にとそれを店主さんに云ってみれば。 「それと同じネコが繋がれてるのかね」 や。どうなんでしょ。私はまだ見てませんし。 「でも、中華屋の店先に動物を繋ぐのって昔は風が悪いって断ってたもんなんだけどね」 あー。もしかして食材ですか。繋いでるんじゃなくて干してたりするんですかアレ。 「そうそう。猿とかね。そうでなくても中国は犬を食用にするって云われてるしねえ」 実は猫によく似た犬だったりしませんかね。 「それなら繋がれてても違和感はないね。明らかにニャオニャオ鳴いてるけど」 等と人の悪い雑談の後に、もちろん確認に行く。 林立する違法駐輪の群れに探してもすぐには見つからず、もう飼い主が連れて帰ったのかと、 それはそれで安心しかけた途端、わかりづらいところに、飼い主が置いていったのだろう水飲み皿を枕に寝そべってたのを見付けた。 猫の品種には残念ながらあまり明るくない。貧困な知識で例えれば、長毛種のシャム猫みたいな風貌をしていた。 白い毛皮に、鼻面や耳、尻尾や手足などをピンポイントに黒く染めている。 その黒い部分に抜け毛ではない白いスジが走っているのは、きっと白髪だろう。 老猫だろうという推測で正解だったようだ。 (検索してみたらバーマンと云う品種にそっくりだった) その年齢に相応しげに怠惰な寝そべり姿へ猫の声真似で話しかければ、気怠そげにこちらをみやり、 迎えが来たのかと一層鳴いてみせる。 ここでも度々話題にだしているけれど、一説によると、猫は人間に飼われるための進化をしてきたのだそうな。 穿った言い方をすれば、猫は人間に寄生する道を選んだのである。 けれども、多くの猫に共通するその勝手気ままに自分本位な性格を思いつつ、 首輪に縛られヒモに結わえられている姿を二日も連続で見れば、その選択は正解だったのかなと、 彼ら自身に尋ねてみたくなる。 けれども昨日にみた猫は、横断歩道を渡る際に爺さんに担ぎ上げられたその肩で、 馴れた様子でしがみつき居心地よさげだったし。 鳴き続ける彼に、わざと掌を見せながら、頭を撫でるべく手を近付ける。 こうすると、ヒトに飼われている猫でもよほど撫でられ馴れていない限り、打たれるのかと勘違いして身をすくませる。 けれども、その猫はあっさりと鼻面を寄せてきた。 愛されているという自覚があり、敵意というモノを知らなければ出来ない真似。 そうしてなで続けて、背中にも手を這わせてみれば、長毛種でありこの季節でもあるにも関わらず、抜け毛が一切手にひっついてこなかった。 きっと、非常に丁寧なブラッシングをもらっているのだろう。 形はどうあれ、愛されているというのには違いがないのかも知れない。 だから取り敢えず、考えるのはやめた。 ただ気になったのは、 あの猫、自転車に結わえられてたって事は、移動は自転車の籠の中なのかしらね。 それはちょっと。見てみたい。 たぶん私だけしか面白くない。![]() 東方ソートというものが流行ってみたみたいで。なんとなくやってみましたよの巻。 さしあたっては探さなければ見つからない位置にいる博麗さんが注目ポイントでしょうか。 いや。だって。主人公と準主人公はコインの表裏。 魔理沙さんばっか使ってたらそれだけ博麗さんの存在がちと希薄になるのはしょうがないじゃない。 上位1・2・3は至極当然の結果。なんだけど、 私にしかわからないだろうけどメイドのひとがその自席についてるのがすげえ意外。 二次創作をしてみたキャラは、自然とゲームで触れる以上に愛着が沸いて、結果お気に入りになるんだけど、 私てメイドさんに関する話を考えたことて多分一度もねえんだよなあ。 それなのになんでこの位置にいるんだろ。 あ。その理屈で云うと小野塚さんが三位に居るのも妙なんだけど、単純に花映塚で自キャラとして使ってたからです。 あとそのうち彼女のお話も発表できればなと(これは壁に向かって発言。 鬼の子は「めるくまある」さんの影響。 諏訪子さんを始め風のボス勢は弾幕かっこよかったし、キャラクター的にも好きだからだろうね。 でも私の中の位置的には他ボス勢とそう代わりはないと思うんだけどな。 ただこの中で一番面白いのは他姉妹が四五位に並んでるというのに 一人だけ一五位にランクインしてるルナサ姉さんでしょうか。 いやだって妖だと彼女の弾幕ばっか選んでたし。好きなんですよ低気圧さん。 ちなんで、二回やってみたけれど、 二度目の結果よりも最初の結果のが深層心理をすくい上げられてそげなのでそちらを採用しました。 あと十回くらいやって平均でもとってみるかとか思ったんですが、面倒過ぎるので断念しました。 私は、アレだ。読みかけの小説を無くす病だ。 きっとそうだ。そうでなければ説明がつかない。 そもそも読みかけの小説なんてどうやれば無くすことが出来るのか。 小説の用法とは1.手にとって。2.目を近付ける。これしかあるまい。 だから、読みかけである限りずっと手元にあるはずだし、 どこかに置き忘れるにしたってその場所は限られているはずだろう。 だからこれはもう病気に違いないのだ。 でなければ、立て続けに三度もなくすはずがない。 一度目はアーサー・ビナードの「出世ミミズ」をなくした。 二度目は、夢野久作の「ドグラ・マグラ(上)」で、 三度目はなんとか見付けたドグラ・マグラをもう一度なくしたのだ。 朝早いアルバイトへの出立前、遅刻ギリギリまで探したけれど結局見つからず、上巻は捨てたモノと諦めることにした。 幸いにもドグラ・マグラは青空文庫に載ってるはずだし、これから向かうバイト先は図書館の書庫だ。 上巻に収められた分をさえ読み終えてしまえば、問題はない。 地味にプレミアがついてる角川文庫版ではあるのだけど。 表紙絵がステキでさ(ここには貼らないけど興味のある人は検索してみよう!) 書庫に納められていたのは夢野久作全集全十一巻。 そのうちドグラ・マグラがまるまる納められている第四巻だけ、 他のものと比べ目に見えてへたっているのが少し面白い。 それだけ多くの人の手に触れられたと云うことなのだろうけど……。 ドグラ・マグラは日本三大奇書の筆頭に数えられる書物であり、 それが語られる時は必ずと言っていいほど『読み終えた者は必ず一度、発狂する』との風聞が付される。 それを意識しながら、この本をへたらせた手の多さを思うと、余り穏やかではない。 のだけど。 それは「途中で読むのをやめちゃうヒトが多いから」との暗喩もまた含まれているのだそうな。 はてさて。 バイト中にも読んで。昼ご飯中にも読んだ。 昼飯は図書館の庭で読んだのだけど、これは風流を気取ってのことではなく、 節電に励む県立図書館の職員控え室は冷房控えめで蒸し暑いのだな。 ふと書面から目をあげれば、やたらとスタイルの良い雀が居た。 普通の雀はまんじゅうよろしく(いや、今思い浮かべたのはヒヨコまんじゅうだったけど)ずんぐりむっくりだけれども、それのクチバシをつまんで無理に引っ張ったかのようなすらりとした居姿。 別段、エサをねだる様子もなくとっとと飛んでいった。 そういえば、この図書館にはハトの姿が少ない。その代わりに、居るのは大抵決まった三羽だ。 勝手に名前を付けた。 シトロエン・サイトロン・セオデンの三匹。 名前を付けただけで、区別を付けるつもりは毛頭無い。 どうあれ、今日はそのハトの姿が見えないなと視線を彷徨わせれば、 屋根の上のやたらと高い位置からこちらを見下ろしていたのと目があった。 帰宅ついでに、古本祭会場へ寄って本の補充を自主的に行うという勤労っぷりを発揮。 補充は主に三〇〇円均一の棚。 まずテーブルに棚を置いてそれに詰め込んで、棚の上にだってずらりと並べて、テーブルにももちろん背表紙を空に向けてみっちり並べて、そしてその本を土台にしてまた積み上げる。当然、テーブルの下にだってぎっしりと並べる。 ここまでしちゃうと本が本を隠してしまい背表紙が確認しづらくなる。なので、何かしら欲しい本を探す場合にはこれら山を右にやったり左にやったりする必要が出てきて、良さげな本を見出してもそこからまた掘り出さねばならなくなる。 反面教師的に、ユーザビリティとかアクセシビリティなんて言葉を思い知らされる。 のだけど。 補充と点検とをしにこの棚の前に戻ったときは大抵それら本の山がしっちゃかめっちゃかに掻き回されていて、 古本好きの探索根性に敬意と畏れとを抱くのである。 ダンボール丸々三箱を新たに棚に出せた。なかなかの戦果のようだ。 その足で丸善さんに寄る。 紛失してしまったアーサー・ビナードさんの本を再び購入するためだ。 アーサー・ビナードさんというと、要するに、一言でいうと変な外人さんだ。 日本語に惚れて来日、現地で本物に触れながら勉強をして詩作を開始。 後にたったの数年で中原中也賞を受賞というすげえひと。 そのエッセイ集である「出世ミミズ」を読み始めてほんの数行時点で「行きつけの豆腐屋」なんて言葉をさらりと言ってのけるんだけどあんた今の日本人でさえ行きつけの豆腐屋を持ってるヤツなんぞきっと数えるぐらいしか居ないぞ。 なんだけど「日本フリークなガイジン」みたく捉え方をしては氏に失礼だ。 言葉に対してずいぶんと真摯で、その意味や来歴にも敏感で、和と洋との表現の違いから感動をすくい上げる感性を持っている。 お気に入りのコタツにもぐっては甲羅干しをしているガラパゴスゾウガメになった幻想に耽り、そういえば昔は暖かいソファーにへばりついて岩肌に貼り付くトカゲを連想したことがあったなと思い出し、さて。トカゲからカメになったのは進化と呼べるのかななんて惚けてみたりする。 まさしく詩人。 尊敬すべき日本語使いさんである。 のだけど無くしたんだよな。まあ二冊あったって構わない名著だ。 近頃の大型書店はどこも検索機能を備えてくれるから嬉しい。 検索してみれば、在庫僅少だけど指定の本棚にありますよとのことだ。やれありがたや。 勇んでそちらに向かうけれども――赤川次郎、阿刀田高、浅田次郎……の、次あたりにあってもおかしくないアーサーさんの本がない。 んー? 集英社文庫の国内で……、いや、海外と誤配されている場合もあり得るか。とそちらを探すがやはり見つからず。 在庫僅少てことで、書庫にでも納められてるのかな。 店員さんに訊いてみようか。でももうちょっと探してからだな……。 と、本格的にかがみ込んだ所でふと思い出した。 既にアーサー・ビナードの名を知る人間との、氏に関する雑談である。 「アーサーっつーんだからイギリス人だよね? てか帰化はしてないんだよね?」 「してないよ。外人さんのまんま。というか名前の当て字がまたすごくてね。ビナードだから」 『美納豆。』 正解。 「ひ」の欄にあった。 本好きを自称してる癖に、外人さんの本はファーストネームで探せばいいのか ファミリーネームで探せばいいのか未だに悩むんだよな。 というかそれで良いんですかアーサー・ビナードさん。朝美納豆でいいんですか。 レジに持って行けば、そこには海外産であろうポテトチップスが「世界で一番美味しい!?」と煽り分を添えられて並んでいた。 五〇〇円という割高さに逆に興味をそそられたのと、 「ごろ寝でポテチほおばりつつ読め」というスタイルの提案が何か美しかったので購入した。 まあ指に油の残るポテチなんぞと一緒に読んだりすると激怒される向きもあろうけれど、 その瞋恚は本のためのモノなので概ね許容します。 結局、帰り道の最中にぼりぼり食べてた。 感想としては。んー。堅ポテトのが美味いな。 芋か油のか知らないけれど中途半端に残る甘ったるさがいまいち。 やや分厚いポテトも食感をいまいちにしてて。食べてて幸福を感じない。 或いは塩味を選んだのが悪かったのかも知れないけれど、五〇〇円て値段を思うと他の味もちょいと試しづらいなあ。 やっぱ駄菓子は日本製ですよ。 外人さんが日本のコンビニでその駄菓子の多さと美味しさに狂喜したって話を聞いたことがあるんだけどアレは本当なのかしらね。 そのまんま帰り道をてれてれ歩けば、 アスファルトに隣接した石畳の上に、足跡型の土が苔生して突然おちていた。 ミステリーを感じたけれど、すぐ傍にある植え込みを不届きモノが踏み越えたのだろう。 それから、猫に首輪を付けて散歩に同伴させている爺様をみかけた。 それはどうなんだろうと思ったけれど、横断歩道を渡る際、ひょいと方に担ぎ上げて。 そこに載せられた猫が馴れた様子で居心地よさげな姿勢を取っていたので、 まあ本人らが幸せならそれが一番だろうと思った。 晩ご飯は土鍋で煮込んだ肉じゃが。美味かった。 SFとの距離。今日も今日とて古本市のお手伝い。およそ十時間延々座りっぱなしというそれなりの重労働。 古本屋さんでアルバイトを初めてちょうど一年くらい。その間ほぼ毎月のようにこうして座りっぱなしのお仕事を賜っているけれど、 それでもやり飽きない、適度に幸福なお仕事でもあるにはある。 それでもやりきれない退屈を感じたならば、石になったつもりで過ごせばよろしい。 それでも生理活動までは止められないので、居眠りもするし、トイレにも行きたくなる。 個室に入り、便座に腰掛けて、長期戦になるような気がしたので、ケータイを開いて twitter でものぞいてみる。 タイムラインは、野田昌宏さんの訃報に占められていた。 残念なことに――そう、まさしく残念なことに。私はその訃報に特別感慨のようなものは抱けなかった。 氏への思いでは、残念なことに、ほとんどない。 日本にSFを連れてきた一人で、元帥と呼ばれ、多くのSFびとに敬愛されてたヒト。 私の氏に対する知識はほとんどこれで全部だったけれど、それだけで十分尊敬に値するヒトであった。 そういえば、アーサー・C・クラーク氏も今年逝去されたのだった。 SFと現実の距離は今現在、昔と比べて、近くなってるのだろうか。遠くなってるのだろうか。 主語不在でそんなことを思う。 その距離は何を表した距離なのか。遠いのと近いの、どちらが好ましいのか。 自分でもよくわからない。 でもヒトが光の速度を出すことが出来ればどんな距離でも一瞬だよな等と何の答えにもならない妄想をかき混ぜながら。 レジの前に戻って。また少しぼんやりすれば。 その古本市は八軒の古本屋さんが共同出店している。だから、どんな本が並んでいるのか把握は難しい。だから驚いたのだけど。 その直後。 何処かのお店の出した、SFマガジン創刊号〜18号までのセット(二万円)を、お客さんが買っていった。 ……二万円かー。 悩むだろうけどさ。 お客さんよりも先に気付けていたならば、絶対買ってたよ。ちくしょう。 その本、すごく読んでみたいです。しかしイベントには行けなかった…どうすれば読めますか?取り敢えず返信用メールアドレスをもいちど拍手で送ってくれればもしかすると幸せになれるかも知れないよー。 東の方の、緋く想る天。ここでおれの右手を天に向かい高々と突き上げる晴れやかな勝利ポーズ。 何が? 何がっつって。ぱゆりさん参戦についてに決まっとろうが。 黄昏フロンティアさんの日記で相変わらず血色の悪いご尊顔を拝んだその日から私はずっとこのポーズですよ。 いやまあ流石にそれは嘘だけど。 続けざまに小野塚さん参戦決定で両手を掲げるポーズに移行してからずっとそのまんまね。わー。 やあ。萃夢想および緋想天はあくまでキャラゲー以前に格ゲであるが故に、 参戦キャラはどうあれ二の次さーなーんて虚構があっさり崩れてしまいました。 東方で好きなキャラを思いついた順に云えばちょん・ちょん・ちょん・が見事に揃い踏み。嬉しいモンだ。 事前に行ってた予想ではぱゆりさん参戦は絶望的じゃのと勝手に達観してたからその嬉しさもひとしお。 小野塚さんも位置的に微妙だったからなあ。やれ嬉しや。 で。肝心のゲーム評なんだけど。 「楽しいよ。買え。」てことで。下の方に押しやっておきましょう。 ところで。以前に登場キャラ予想をしたついでにボスキャラ予想として、 当てる気もない当てずっぽうで「ラスボスは乙姫さまじゃね?」と呟いてみたらば、 乙姫さまじゃなくて「竜宮の使い」が、しかも中ボスという立場で登場とたいへん微妙なグレイズっぷりで私一人だけ愉快でした。 一通りストーリーを遊んでみたところ、 ラスボスさんは身体能力はさしたるもんじゃないけれど強力な神器の威光を笠に着っぱなしの力押しスタイルで、 要するに「ナントカにハサミ」なお人なのかしらねー打撃モーションもそんな感じだし。 A連打のコンビネーションの二発目の「てりゃ」て感じの踏みつけが大変愛らしいですな。 等と思いつつストーリーを進めればあっさり「天人食は食べてるだけで身体が丈夫になる」だの「今までわざと負けてあげてたの」だのと仰るので、 後出しじゃんけんで負かされた気分です。 てゆかこれまで散々苦労して撃破してきたキャラにあっさり「わざと負けてたの」と宣言させるのはどないなもんなんでしょうか! でもそのへんの一直線なワガママ放題っぷりが変化球だらけの既存キャラん中で異彩を放っててそこそこ素敵。 あと妄想的に気になったのは、「おや。ぱゆりさんと萃香ちゃんてもしかして仲良い?」てあたりでした。 ぱゆりさんと萃香の関係は。萃夢想では割と「異変の調査をしてたら最後に出てきたのでもののついでに撃破しただけ」みたく印象を持ってたんだけど、 今回は誰よりも早く異変に気付いたぱゆりさんは誰よりも早く出掛けて、今回のボスキャラをふんじばり尚かつどうでもいい扱いをして、 結局その背後にいた萃香ちゃんをまっすぐに目指してやってきてたとオチがつくんだよね。 仲良いのかな。 まあ。知識の娘で、その知識を実践することにもまた喜びを見出してそげなぱゆりさんだから。 対鬼対策を色々と講じてみて、それをとっとと試したくて試したくてうずうずしてたってだけな気もするけれど。 幻想郷から姿を消して、文献にもほとんど残っていない存在だから知識を得るため積極的に近付いてるてのもあり得るだろうし。 ヒトは強すぎる鬼に恐れをなして、鬼は卑怯な策ばかりを弄するヒトに愛想を尽かして姿を消した。 てのは幻想郷での出来事を指してるのだろうかね。だろうかな。 とすれば、鬼の強さをモノともせず、真っ向からその勝負を受け止められる存在が幻想郷にあれば、鬼は相変わらずそこにいられるのかも知れない。 ぱゆりさんが萃香に近付く所以が、単なる異変解決を目的とするモノだけでなく先に書いたどれかを含んでいるのなら、 その目的がどうあれ、萃香にとってぱゆりさんて得難い存在なのかも知らんですな。 とかで。ゲームの話もしておこう。 持ちキャラはもちろん筆頭に魔理沙さんでぱゆりさんで小野塚さんです。大喜びした手前、選ばないわけには参りません。 どのキャラも適度に癖があって楽しいです。以下攻略記事! 魔理沙さん: 全体的に素敵ではあれど、他二名と比べて突出した素敵絵がないのも確か。 ジャンプ→くるりと回転してスカート抑えつつ着地というモーションが滑らかかつ心地よい速度であり、尚彼女らしさを体現できている気がするので、 開幕前は取り敢えずバックジャンプ→前ジャンプだ。 ラウンド終了時は位置によって三連続でバックジャンプを行うスペースもあったりするので臨機応変に対応したい。 ぱゆりさん: 前作から引き継いだ素敵しゃがみ入力は未だ衰えず素敵威光。 開幕前、ラウンド終了時はしゃがみ入力で正座が鉄板。対戦中の小休止などでも隙を見付けては正座をしよう。 しかも今作ではぬるぬると飛ぶ素敵飛翔が加わったので、特にラウンド終了時などは無意味に空中で円を描くのもオススメだ。 小野塚さん: 機体の新鋭は全キャラ屈指の素敵ドット! あらゆる挙動が芍薬・牡丹・百合の花! 私としては特に前方向への歩き入力をプッシュしたい。鎌を担いで如何にも退屈げに歩く姿がちょー素敵。 特に揺れる下駄まで含めたおみ足の滑らかなアニメーションはドット絵師さんの魂を見る思いがするぜ。超注目。 ただ、ヒトによっては後ろ方向への歩き姿の方を好む場合もあるのでその辺も考慮に入れて、 ラウンド終了時、ダウンした相手に前歩きで近付き、それをジャンプで飛び越して後ろ方向歩きに移行するのが上級テクニックだ。是非マスターしたい。 また、しゃがみ入力をゆっくりニュートラルに戻せば鎌をくるりと回転させたようにも見える。 立ち位置的に歩行の難しい開幕シーンや、上級テクニックはまだ気後れするという初心者はこちらを使っていこう。 とかそんな! で。以下に押しやっていたゲームへの所感を並べておくと、 いざ触れてみると萃夢想での慣れが脚を引っ張ってなかなか馴染めずに居ましたが、 それも払拭されると、事前に感じたとおり何よりも先ず立ち回りの上手さが要求される、 コンボゲーでも固めゲーでもない格闘ゲーになっててたいへんありがたい。 他の格ゲの定石が通用しない場面も多々あるので、ある程度初心者さんが入りやすいんじゃないかな。 カードゲームとしては、やや調整不足の所為かそれともプレイヤーの研究不足の所為か、まだ十分に機能していない箇所も見受けられますが、 カードの選択は必殺技の取捨選択であり、間接的ではあれキャラクターの性能を自分好みなプレイスタイルに調整できる幅が用意されているてこと。 まあ現時点だと上述したとおり十分に機能してないよう感じられるのでちょいと残念ですが、まあ今後の煮詰まり具合に期待しましょう。 難点としては。萃夢想が最終的には固めゲーでそうだったからつい比較してしまうんだけど、 格ゲにおけるコンボや固めってのは案外なかったらなかったで寂しいモノだと云うこと。まあこのへんはトレードオフか。 でも緋想天でも「不可欠な要素ではない」ってだけで相変わらずコンボ使えれば勝率あがるし固められると不利でそのへんはなんとも。 あとゲームにゃ直接関係ないけど、「カードを集める」及び「カードで従来の必殺技を上書きする」とか、 そのへんの要素に対するゲーム側からのフォローが一切ないのが個人的にいまいち美しく感じられない。 なんのことやらわかんないと思うんだけど、このゲームにおけるカード蒐集ってほんとに集めるだけなのね。 ・ストーリーでエンディングまで行ったら数枚貰える。 ・アーケードモードをクリアすれば数枚貰える。 ・対戦すればちょろちょろ貰える。 てだけで、簡単に云えばゲーム内でカードに対する言及が一言もない。 例えば原作なんかだと、神様を相手取るときにはスコアシステムが「信仰ポイント」になってるし、 人妖ともに戦う時はヒトに傾いているか妖怪に傾いているかが表示されましたわな。 そんなふうに、カードを集めるという行為の居場所がゲーム内のどこにも設定されてないのね。それがなーんか。宙ぶらりんに感じてさあ。 と云うか。 なんか付けなくても良いいちゃもん付けてるような気分になってきたのでこのへんでやめておこう。 カードもまあ、少なくとも使用キャラであればゲーム初めて一日や二日で全部揃うしな。 他、持ちキャラの使用感を書いておこうー。 魔理沙さん: 無限射程で一気に伸びるレーザーは射撃に強く、機動力を活かして一気にインファイトにも持ち込めるし、 彼女の代名詞たるマスタースパークはじめ効果力技は相変わらず健在で戦局を一気にひっくり返せる。 なんだけど、レーザーはそれだけを頼りとするには火力不足だし、他射撃も弾数控えめなので弾幕を張れるほどの量はない。 接近しても打撃リーチはやや短めだし、きっちりコンボを決めないとダメージ不足と、 直情型に最短距離を歩むキャラかと思いきやそれなりに工夫が求められるという性能がなんとなく私の描く魔理沙さん像にぴったりで嬉しい。 速度を活かして厚い弾幕をかいくぐっていると如何にも主人公キャラみたく感じられます。 素直な性能の技が多く、それだけ直感的かつ感覚頼りに、ほんと思った通りに動かせる素敵な娘。 単純に使ってて楽しい。 ぱゆりさん: 萃時代の「おいおい喘息は大丈夫なのかよお嬢ちゃん」っぷりは今作ではナリを潜めて正直いうと寂しい。 けれども、相手が射撃をガードした途端に元気になるのは相変わらずで基本はやっぱり割キャラみたい。 取り敢えずはぐにぐに飛び回れる飛翔で相手のグレイズが届かない位置へ逃げたり有利な位置から射撃を開始。 とりあえずはC射撃を何処かで見たような武器であるオータムブレードでごりごりキャンセルして動き回っては喘息気味に霊力切らすのがマイブーム。 JAが攻撃の持続が異様に長く素敵攻撃な気がするし、ノエキアンデリュージュがガードさせると霊力玉をもりもり削れるので上手に使っていきたい。 魔理沙さんみたく高速攻めキャラと丁度相反した位置にいるのでほどよく補完できて楽しい感じ。 小野塚さん: コンボも苦手で固めも苦手でしかも切り返す手段がほとんどないという、ほんとに立ち回りだけで勝ち星を取りに行かないとダメな超玄人キャラ。 みたく思える。持ち技もとことんトリッキーなものを取り揃って扱いこなすのには相当な慣れが必要っぽいけれど、 各技の使い道を色々と研究するだけでも楽しめるといえば楽しめる。 無間は相手を画面端に置いて使えば端攻めを継続できそうで面白そうだし、 お迎え体験版という名前からして素敵な技は相手の起き上がりにしつこく見せておけば行動を抑止できそう。 地縛霊を出して射撃を防ぎつつお迎えするなんて手も悪く無さそうだ。 使いこなせればかっこいいキャラなので頑張っていきたいぜ。 田草月楽歩。・承前。 それでも同人誌即売会は魅力ではあるのだ。 しめきりに日数を限られるのと、「せっかく本として形にするのだから」という貧乏性が重なると、 短期決戦一気呵成型でしか本を作れず、勢い、企画めいたモノしか用意できずに、 結果としてとっとと修めておくべき「長編」をモノにできない原因に繋がってしまうのだ。 もちろん言い訳である。 しかも苦しいな。 ともあれ、同人用の本を書いていては長編を上梓しづらくなっちゃうのは事実なので。 何にせよしばらくは同人誌製作からは遠離っていようと思っていたのだけれども。 それでも同人誌即売会への参加は魅力ではあるのだ。 結果、あっさりと年に一度のペースくらいなら参加しても問題はないのではなかろうかと結論してみて。 で。さて。 夏のコミケは参加費用や参加のための抽選など考えればやや重たいし。冬のコミケには未だ遠い。 何度か参加してみた地方イベントもピンとこないとなれば、 ゴールデンウィークにあるコミティアというイベントは丁度良い着地地点なのであった。 何よりも、そのコミティアには出張編集部という、アマチュアの原稿持ち込みを受け付けているブースがある。 色々と、丁度良い。 ・出発前。 さて。 私の二月と三月と四月は何処へ消えたのだろう。 申し込みから今まで期日はずいぶんと余ってたはずなんだけど、気が付けばもう二週間程度しか時間がない。 なんでだろうと悩めばそれなりに有益な答えがでてきそうだけど、その深淵はあまりに暗く深い。 目を閉じた闇と変わらぬそこから流れてくる風の音が、「な」「ま」「け」「ぐ」「せ」……というよくわかんない五つの音を運んできたあたりで、 変に悩むのは時間がもったいないなと思考停止。 そう。問題はおよそ二週間で何を書くかだ。 プロの編集さんに診て(誤字ではない。)もらうとなれば、中途半端なモノは持って行きづらい。 ので、必然的に未発表のモノの書き直しをする方向に舵を取った。 なにせ、母体は既に書き上がっている。これならば例年になく多少の余裕と共に準備が出来るはずなのだ。 なのだけど。 夜行バスの出る三〇分前。私はいつも通り大慌てで鞄に荷物を詰め込んでいた。 暗い玄関から飛び出して、しばらく自転車を飛ばしたあたりで弟の靴を履いてきているのに気が付いて苦笑いし、それどころじゃなくてサークル入場のチケットを置きっぱなしだった時が付いて急転換。 おかしい。おかしいなあ。なんでいつもこうなのだろう。 運命論者というわけではないけれども、神の意志というモノを感じざるを得ない。 おかげで晩飯を食い損ねた。ついでに車中のおやつも携帯し損ねた。 空腹に寝不足が重なって、滅多にしない車酔いを体験しつつ岡山・品川間深夜バス。地獄の片道一二時間。 『水曜どうでしょう』という番組の、濃ゆいファンならば「ああ、ルブラン号ね」と即答できるんじゃねえかな。 どうしようもない。対策も施せない。 カーテンをおろした座席の中で、変な風に丸まったり変な風に伸びたり、 なんとか快適に眠れるような姿勢を探して、見付けられないままに品川へ到着してた。 ・到着。 と、同時に目に付いた吉野屋に飛び込んで豚丼特盛と豚汁でカロリー補給。 空腹とは胃にモノを詰めたいという衝動に他なりません。 で。車酔いの代わりに胃もたれをぶらさえげて、探すのは品川にあるはずのキンコーズ。 旅は手ぶらに限る。印刷と製本を済ませて、ほとんど衣類しかない荷物とともにコインロッカーに預け手ぶらで観光してしまおうと云う企みのもとてれてれと歩き回れば、地図をみる能力に不自由なおかげで品川駅周辺を無益無体に観光してやっとこさ発見。 入店してみれば、明らかに勤めビトではない風貌の皆様方。店内を占領しているのはご同類さんと一目でわかる人々。 あー。そうだよな。前日だもんなあ。 私がキンコーズを利用する場面は、日頃の無精が足を引っ張りおおむね日付がイベント当日になった辺りや、 もっと悪ければサークル入場の数時間前。 そんな絶望的に逼迫したタイミングで印刷を始める人間なんて、そりゃ少数派に決まっている。 どんだけ手間取っても遅刻の心配がないこの時間帯にモノクロコピー機へ向かう人々は、どこか和やかで朗らかだ。 そーなんだよなー。そうなんだよ。 イベント開催までぎりぎりのスケジュールでの製本作業はそりゃーもう色々なモノが渦巻いている。 そもそもが焦燥感、そして締め切りを守れない社会性の低さに対する自責の念、 普段は暇なはずの勤務時間帯に店員さんをちょくちょく呼ぶのも申し訳ないし、睡眠不足や空腹を抱えている場合も珍しくないし、 いかにもオフィスの延長線上な雰囲気の店内で同人誌を延々刷り続けることへの妙な後ろめたさもある。 そんな風に、一人で作業してても自意識と被害妄想のちくちくと刺激される環境なのだ。 そこに同業者がいたとしても、あるのは相哀れむ気配か、薄く広がる同族嫌悪。居合わせた人々は皆、『修羅場』の意味を知ることになるだろう。 けどもまあ今(だけ)はそんな環境とも疎遠だ。二四時間の違いが大きな違い。 コピー機が満席なのを店員さんに確かめて、余裕を持って回れ右。 折良くスタバを見つけたのでそちらに着席。 てゆか。こーいういわゆるシアトル系の喫茶にくる度思うけど、 程良い混み具合の店内に、他人同士互いに気を使いあって、適度に距離を取り合っているその等間隔がなんとなく植物っぽい。 頭の賢い人が人間を芦呼ばわりしてたのも納得がいきます(いくか? 等と優雅に第三者の目を気取るでなくもちろん私のその芦の一本になって、 ついでに最後の校正でもしておくかしらと製本用の原稿をぺろぺろとめくればたちまちページの重複を見つけて泡食ったりした。 いざ製本をする段にあたっても、のんびりだらだらと作業できたおかげで色々と気づけた。以下メモ。 ・文字のサイズは 8pt でも結構十分。ただし文字幅は最小だとややきつい。 ・表紙はやっぱマット紙の方が素敵。光沢紙だと何か手触りがべとつくしな。 ただし、マット紙は光沢紙に比べて薄手なのでちゃんと厚手なのを選ばないとわざわざ別の紙にする甲斐がないぞ。 でも光沢紙のが基本的に見栄えがするんだよなー。 ・両面印刷するときは印刷濃度を少し薄めよう。そうすれば裏に透けて見えるなんてことがなくなるし、 アンチエイリアスに似た効果があるのか、かえって読みやすくなる。 ・A4 を A3 に二枚印刷してなおかつ両面印刷。これで印刷コスト大幅減。 印刷されたモノを分断する必要があるから、文字が斜めに傾いで読みづらくなりそうだと危惧してたけど、 仕上がりは従来のとさしたる遜色もなし。ついでに、A3 に印刷しなおさなければならず、手間と時間が余計にかかるだろうなと思ってたけど、印刷枚数が少なくなるってことはつまり印刷時間が短縮されるってことだ。手際さえよければむしろ早く済ませられそう。 ・表紙をくっつける両面テープは、幅の小さい奴のが素敵ぽい。 幅が広いと、余計な部分までくっつけちゃって表紙を開きづらくなる。 余裕って大事だねー。とはいえ、こうして書き並べてみると何かすごい基本的なことぽい。 まあたった三〇部でさえ余らせて持って帰る程度の需要としては、今後も同人誌制作はコピ本一本だろう。 こうしてコピー本制作ばかりが上達していくのね。 ・旅。 本当は有名民芸品店をぶらぶら巡りたかったのだけどもそれらは軒並み休みなのでしょうがない。 てゆか、民芸品はイコールで土産物だったりもするのにゴールデンウィークに堂々と休みとは何という商売っ気のなさだろう。 さすが金持ちの経営する店は違うな。 なので、上野に進路を取った。あそこは国立の美術館やら博物館やらがごろごろしてるし、何より上野動物園にはハシビロコウがいるし。 不忍池のほとりでヘルン先生ごっこをするのもよろしかろう。宿無しさんの間に座りうわあオレすげえ馴染むと確認してくるのもよかろう。 時間をつぶすのにはまったく不自由しないはずだ。 と云う算段で上野駅は公園前改札口。ゴールデンウィークに渦巻く行列をやりすごせば上野恩寵公園という仰々しいお名前の一帯。 さて。お昼時ではある。 屋台の威勢のいい呼び声「さーあ動物園内に入るとあとは高いお店しかないですよー!!」にふらふらと誘われれば、 そちらもどちらかといえば高めの価格設定なお弁当。 コンビニでいいや。とハンドルを切る。 児童図書の青空市を冷やかし、精養軒の前を通り過ぎ、上野のお稲荷さんにお参りし、 行きすがった親子連れのあとをそれとなくついて回りつつすれば、不忍池までたどり着いた。 先に不忍池を訪れた知人の弁によると 「大切にされてて、釣りさえできなくて、結果として誰も手入れしてないんだろうね。蓮の葉で埋め尽くされてて風情もなんもあったもんじゃなかったよ」 「忍びまくり?」 「忍びまくり」 とのことだったけど、それもまだ恵まれた季節だったのではなかろうか。 五月の不忍池は、その葉さえ枯れ落ちて暗い池に褐色の棒が幾本か尽き立っているだけの、心の荒ぶような殺風景。 しかも春の午後とも思えない薄暗さ。のし掛かってくる鉛色。花曇とでも呼べばある程度は格好は付くだろうけど、 適当に視線を泳がせれば葬儀の列でも幻視してしまいそうな日和である。 しかもそれを眺めつつの昼飯はおいしいはずもないお好み焼きだ。 屋台がたくさん出ていたので、つい見た目のボリュームに負けてそれを選んじゃったけど。 ……豚玉のがよかったかな。 あ。でもこのイカ焼きはうめえや。 ![]() や。 旅・満喫(超本音。 ところで上野は。 親子連れを一番多く目にする。 儂みたいな一人で散歩という風情の人はかなりの少数派ぽい。 だから二番手は当然カップルなのだけれど、それと同じくらい男同士を多く見かけるのはどういった理由だろう。 詰め襟の学生服をすげー見事に着こなしたにーちゃんとの男同士とすれ違ったときは何かもうまんま三島由紀夫の世界で。 吹き出すのをこらえつつすれ違った。 で。上野動物園に至る。 以下はだらだらと写真を撮り捨てつつ歩いたので、そちらに譲る。 ・合流。 上野公園を退いたあとは手近なところということで国立科学博物館に向かった。 軽い気持ちで特別展示のダーウィン展にお邪魔すれば、これが大当たり。面白かった。 気がついたのは中に入ってからだったけど、そういえば wired news さんの記事で、 キリスト教の未だの地に根付くアメリカさんでダーウィンの進化論は教育的見地からして青少年の精神的成長を阻害するおそれがあるとか何とかで評判の良い展覧会がガンガンクレームを入れられてるとかなんとか聞いたけど。 そうか。 それがコレのことだったのだな。 や。来てよかった。 だけじゃなくて内容も面白かった。 当時、世界を動かす法律でさえあったキリスト教の価値観に亀裂を入れる理論と、それの証明のため続けられる検証。 それは神による恩寵を拒絶することだった。 たとえば、奥さんから宛てられた手紙の一文。記憶に頼った意訳で。 「確認できる事象をのみ信じるという科学的態度が、そういう方法では確認の出来ないもの、人智を越えて存在するより大きな物への懐疑とならないよう望みます」 奥さんは敬虔なクリスチャンだった。彼女の云いたかったことはきっと、来世のことや魂の救済も含まれていただろう。 夫の進む道の先にある孤立は、今生きている世界だけに留まらず、ひょっとすると死後も永遠に続くかも知れないのだ。 その手紙には、ダーウィン自身の走り書きが残されていた。 「ぼくが死ぬとき、この手紙に何度もキスをして涙したことがわかるはず」 愛娘の死でもそうだった。奥さんは悲しみに暮れた後、娘の魂は神の御下に召されたのだと自らを慰めることができたけれど、 ダーウィンはただ悲嘆に暮れるしかなく、そしてその悲しみを生涯抱え続けて行かなければならないのだとも自覚していた。 その業の深さがね。彼の為した功績の大きさ、それを為すための意志などを何より端的に表している気がする。 展示物も順序よく丁寧で。 こりゃゴールデンウィークの子持ちはダーウィン展に上野動物園で生物の進化コンボが鉄板だな。 で。一八時閉館なところを知ったこっちゃねーよと一九時まで粘り続けたところで追い出された。 そうなれば当然、ほかの博物館だの美術館も閉まってる。そうなればさしたる展望もなくなるので、とっとと知人と合流することにする。 合流をしようと思えば品川の時点から可能だったのだろうけど、まあ旅の基本はあくまで一人旅だしな。 秋葉原で合流後、ゲーセン。後にラーメン。 睡眠不足にひたすら歩き回り体力の底が見えている状態で、しかも朝から胃に重い物ばかりを抱えた上で摂取するにはあんまりな重量で、 胃が重力に従い破けちまうんじゃねーのと思ったけどもさらに替え玉追加するぼくの健啖っぷり。 というよりその辺の体調よりも食い意地が優る卑しい人間なんです。あるいは体調管理もままならない阿呆か。 後、ひとんちにあがって無電源ゲーム。更にスマブラ。勧められるままにPCのFPSもさわって、さて寝るかと判断されたのは起床予定時刻の五時間ほど前。 イベント前日はなぜかいつも睡眠時間が必要基準量を満たさないのだけど、これもきっと神の意志。 ・コミティア。 駆け込みセーフでサークル入場。 毎度のことだけど普通に動いているエスカレーターが妙に物珍しい。 でも机にどっちゃり乗った広告物は相変わらず。 手際悪くもそもそと開店準備をすすめれば、いつも通りテーブルクロスを忘れたことに気がつき、これまたいつも通りにクロスの代わりに頒布物を敷き詰める。 今回の表紙絵は足跡が斜めに横切っているだけの素っ気ないものだったので、せっかくなのでその足跡をスペースの端から端まで繋げてみた。 ![]() ![]() 苦肉の策だったけども案外好評で、これをきっかけに足を止めてくださる方がけっこういらっしゃった。怪我の功名。 行きすがりの人様と無駄話をするためにサークル参加をしているよーなウチは、足を止めてくださった方に毎度その理由を尋ねたりする。 今回の内訳はだいたい、 ・展示の仕方が面白かったが三割。 ・サークルカットが目を引いたで三割。 ・前々からウチを知ってくださってたが2・5割くらい。 サークルカットな。windows のデスクトップのアイコンをあしらったもので。それだけ見ると大したもんじゃないんだけども、 確かにイラストの並ぶ中にぽつんとあれば見覚えも手伝ってか悪目立ちするみたい。 と、人様の購入したティアズマガジンのサークルカットをぱらぱらと眺めれば、絵の上手なひとはもはや珍しくなく、 あんまし指標(一般参加側)や看板(出展側)にもならないのだなと気がつく。 コミティアみたくオリジナル限定のジャンル分けの希薄なイベントだと尚のことだろう。 それでもまあ、絵には好みが存在するから。まだ目印にはなり得て看板たり得るのだけども、 これが小説となるとほんとに何の手がかりも存在しなくなってしまう。 ある程度文字を読み慣れた人間ならば、文体から絵以上の「好み」を見いだせたりもするんだけど、あらゆるお客様にそれを求めるわけにもいくまい。 それでも、そのうえで、通りすがる人々になんとか手にとって貰わねば話にならないわけで。 そーかー。 だからこそ挿し絵か。 私はついつい毛嫌いしちゃうけど、ラノベの表紙絵・挿し絵偏重の戦略もなるほど当然で至極納得のいく物なのであるな。 とか。たったこれだけの気付きのためにどんだけ回り道をしとんのか。 ウチも今度あたり、誰か様に勇気を振り絞って挿し絵をお願いしてみようかしら。 とはいえ「読み手に色々妄想して貰いたい」という書き手のエゴもなかなかに捨てがたく。 んー。 まあ刷った数が三〇部で、なおそれを余らせて持って帰るサークルがそんなこと考えてもな。 それはそれとして、イベント参加で直接に本を持ってって貰えるてのは単純かつ素朴かつ強力に嬉しいものである。 「二年くらい前のコミティアで、千字一話て本をだされてて、それが面白かったから記憶に残ってたんです」 て方がいらして。はい。大変嬉しゅうございました。 ゴールデンウィークのコミティア参加は定例にしようかしらと思えるぐらい! とかで。上記のももちろんイベントの本意であるが、本意はまだあるのだ。 最初に書いたとおり、出張持ち込み所への吶喊である。 単純に、私にとっての就職活動。 一般入場と同時に並んで。整理番号はたしか三一だったと思う。 そこそこ長い待ち時間。緊張に跳ねる心臓がきっぱりと滑稽である。 空腹と睡眠不足とも手伝って気持ち悪くなってきた。 マイクを突きつけられて今のお気持ちはと訪ねられれば迷わず「帰りたい」と答えるだろう。でも何処へ。 フリーターで就労訓練もなしにふらふらしている私には最早、割と。小説家になるという崖っぷちに狭い道しか活路がない。 夢を追って生きるという宣言は、要するに食うに詰めて道ばたで餓えて死んでも構うもんかという宣言だ。 んだから。今、ぼんやりとパイプ椅子に背を丸めている私は、命を晒してここにいるのだ。 私が提げている薄っぺらいコピー本に詰められているこの文字が、プロの目から見てズダボロで、例えば「才能の欠片一切無し」とでも感想を述べられれば、 それは死刑宣告なのだな。 等と自己演出気味に考えたら醒めた。 とはいえ気負うのもしょうがないか。しょうがないけど今更だ。まあ見ていただこう。 で、見ていただいた結果を要約すれば以下の二項になる。 1.文芸にはなり得ている。 2.しかしラノベにはなってない。 上述した項から要点のみをとりだせば、 つまり「会話が足りない」「ラノベがターゲットにしている中高生向けとしてはハイブロウすぎる」とのこと。 うむ。はい。痛いところを虫ピンでピンポイントに刺された感覚です。 会話を組み立てるのが苦手だから地の文に逃げたりしてるんだもんな儂は。 「ライトノベルの客層はキャラクターの動きを一番の楽しみにしている。だから地の文が並びすぎると読み疲れる。 ライトノベルというモノはおおむね会話文だけを読んでも話が分かるようにするのが基本」 ご高説至極ごもっともです。 そうな。会話な。 ……とは思えども。異論は浮かぶのだ。 まず、ラノベも購読層の年齢は地道に上昇してる or していくと思うし。 今の中高生のみをターゲットとして絞るのは自らマーケットを縮小しているのに等しいのではないか。 まあそれは。大学生になろうが社会人になろうが文字を読み慣れてない人って居るみたいだからともかくとしても。 なんというか。 読むという行為の敷居を下げていっても、最終的には他媒体に敵わないのではないか。 確かに今現在、娯楽に支払うコストはどんどん低落の傾向にある。 ここで云うコストとは消費者の視点にたったもので、金銭のみならず労力や所要時間だとか入手手段なども含めている。 その傾向は表層化してすでにずいぶん経過してて、小説に限らず、テレビ、映画、スポーツ、世の娯楽のほぼ全てにそれは当てはまる。 けれどもココでは、アニメをさえ比較対象に置けばそれで十分に足りる。 会話や簡易平易な表現だけで構成される文章。 読むための敷居を徹底的に下げ、登場人物の描写も挿し絵に譲ったようなそれは、要するにアニメの廉価な代替物なのだ。 ただ。まあ。それが「代替物」である限りは存在意義はあり続けるのだけれども。 しかし、アニメそのものもまた廉価な方向へ向かいつつある。 HDDレコーダーでの録画で時間帯による視聴制限もなくなり、無料配信という手段も目立ち始め、 それどころか youtube やニコニコなどの動画配信サイトでの視聴手段が急速に広まりつつある。 つまり、無料で、家にいるだけで、それどころか出先でさえも、ほぼノーウェイトで視聴を開始できる手段がアニメにはすでに整っているのだ。 アニメ自体がとっくに廉価なのだ。そうなれば「廉価な代替物」 の存在意義もずいぶんとあやしいモノにならないか? そもそも、楽しむための労力という点で比較するに「読み進む」という行為がどうしたって必要な文章が、 眺めてるだけで楽しめる映像に簡単さで敵うはずがないのだ。 敷居を下げていくレースでは、アニメにどうしたってお株を持って行かれてしまうだろう。 ならば多少文学という傾向を帯びようとも、文字が持つ力にこそ注力すべきなのではないか。 読みすすみ、想像を働かせ、脳内に自分だけの映像を広げて楽しむ。 つまりそれこそが文学なのではないか。 いまこそ何かの代替物などという地位を捨て、ラノベそのものがもつ存在意義をこそ主張すべきなのではあるまいか。 どうなのか。 どうなんだろうなあ。 私なんかはそう思っちゃうんだけど。 でもまあ、何にせよ会話文を上手にする越したことはないので。うん。今後はその方向も視野にいれてだな。 いれて。 さて。 どうしようかなあ。 いずれにせよ満喫できたことには違いないけれど、ただ残念なのが買い手としてあまりうろちょろできなかった点か。 編集さんのご意見をいただいた時点ですでに体力のほとんどを使っちゃったし。売り子もやっぱりしたかったし。 とはいえ帰宅後に「嘘ォこのサークルさん来てたのォ?」と後悔したのが片手に余る。 売り子の手も余ってたのだし、そちらにお願いして買い子に行って貰うのが選択として最善だったろうけど。ああ。 事前のサークルチェックはやはり必要だなというお話。 ・オフ。もしくはアフター。 コミティア最中に、せっかくついったでフォローを頂いているのだからとご挨拶に伺った方にオフ会へのお誘いをいただけたのでありがたくほいほいついていった。 まず腹ごなしにサイゼリヤ。 ……すげー。ビッグサイト側のサイゼリヤて初めて入ったよ。実績解除されたかな。そもそも地方者の儂は初サイゼリヤなのだけど。 飲み会では 「ふとましいキャラの時代がくるね。そして今はそこまで描ける力を備えた人がいないが、貧乳かつふとましいキャラがいつか来るね」だとか 「北方三国志にはなぜ卵料理がでないのか」だとか 「図書館戦争は正味な話どうなの」みたいな話をしていた気がする。 いずれにせようまい酒であった。夜行バスの時間があったから、中座で失礼する必要があってたいへん残念。 余談なのだけど、以前から素敵文章を書かれる方だわーと拝読してたサイト持ちさんに自己紹介したらば 「ああ、宵待月黒猫塔のひとだ」と個体認識されてて盛大に吹いた。まあ嬉しかったのだけども。 ちと冷静になればたぶんあんまし良い認識のされかたじゃねえような気がするぞ。 で。そうした美味い酒を捨ててまで余裕のうちに向かったつもりの夜行バスだったけどもこれまた神の意志が働き例によってぎりぎりだった。 一八切符のない期間に乗り遅れるのは洒落にならん。まあ助かった。 品川バスターミナルよりも浜松町バスターミナルのが駅と同じ建物だし出発時間が遅いしで今後は浜松町一択だなとか。 耳栓の効果はばかにならんなとか思いつつ。 実りの多い旅であったかなと反芻しつつ。 帰って少し寝て、即バイト。 |
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