佐々木泰清は六波羅探題評定衆を務める一方で、出雲・隠岐国守護並びに隠岐守・信濃守にもなっている。その長子義重は「隠岐太郎左衞門入道」とみえるが、その名前は泰清の父義清と六波羅探題北条重時にちなむものであろう。宝治元年五月の新日吉社小五月会の時点では宝治合戦の前であり、重時は流鏑馬の一番を務め、泰清・義重父子は四番を務めている。宝治合戦後、重時は鎌倉へ帰って連署に就任する。
 次子時清は建長二年に「隠岐新左衛門尉時清」とみえ、文応元年正月には「信濃次郎左衛門尉」(時清)とともに三子頼泰が「信濃三郎左衞門」としてみえるが、正嘉二年に父泰清が信濃守に補任されたことによる。両者の名前は父泰清と北条時頼にちなむものであろう。
 四子義泰(弘安八年但馬国大田文では信濃四郎左衞門尉泰義)の名は祖父義清と父泰清にちなむものであろう。五子茂清の名は北条重時の子で六波羅探題となった時茂と父泰清にちなむものであろう。六子基顕は六波羅評定衆の同僚後藤基政の養子に入ったことによる。
 七子頼清の「頼」については誰にちなむか不明である。建長三年(1251)の生まれで、元服したのは北条時頼の死亡(1263)後である可能性が高い。大伴氏系図では湯清綱の養子に入ったかに記されるが、実際は清綱の後継者湯左衞門四郎(文永八年)の跡を継承している。
 八子宗泰は建長七年の生まれで、文永六年に一五才で元服している。その名は父と北条時宗にちなむものであろう。鎌倉には泰清の嫡子時清がおり、その仲介を果たしたのではないか。九子ないしは十子である義信の「信」については成案がないが、義信は四郎左衛門尉義泰女子を室としているように、泰清晩年の子で他の兄弟より一世代下(孫世代と同じ)となる。七郎左衞門尉頼清の子は湯泰信、佐世清信と「信」を付けている。泰信と清信の兄宗清についても誰にちなむか不明である。
 義信の兄か弟か不明であるが十郎左衞門尉清村は「駒崎」を苗字としている。詳細は不明だが。「駒崎」の地名は陸奥国にみられ、その地を所領とする有力御家人に養子に入ったのであろうか。「村」は北条政村の子で建治三年に六波羅探題となった時村によるものか。  泰清の子の名前について述べたが、その孫の一部についても言及しておく。義重の子は重泰・季義・頼重・重宗の四人の男子がおり、重泰は不明だが、以下は順に二郎・三郎・四郎と記されている。ところが、重泰について正嘉元年の新日吉社小五月会の流鏑馬四番を祖父泰清が務める中で射手として「左衞門次郎重泰」とみえる。宝治元年の父義重に続いてその子重泰もまた射手を務めているのは、重泰が義重の嫡子であったためだと思われる。父義重は太郎であったが、その嫡子重泰は二郎であった。それは三郎頼泰の嫡子貞清が二郎であったのと同じである。貞清の場合は祖父泰清の後継者として「信濃次郎左衞門尉」と称している。父頼泰は信濃守には補任されていない。
 泰清の長子義重は次子で嫡子となった時清の同母兄で、その母は大井太郎朝光女子である。朝光は小笠原長清の子で、承久の乱の恩賞として八条院領信濃国大井庄を与えられた。後に実朝に仕えた叔母大弐局から出羽国由利郷を譲られた。その子次郎朝氏(小笠原氏系図では朝光の子は光長のみであるが、清和源氏信濃国大井之略系にあり)は弘安三年と正応四年の新日吉社小五月会の流鏑馬を務めており、六波羅探題評定衆であった。
 三子頼泰以下の子の多くは葛西清親女子が母である。千葉氏の一族であるが、弘安七年の新日吉社小五月会の流鏑馬三番に清親の孫「葛西三郎平宗清」がみえているように、在京人であった。六波羅探題での関わりの中で婚姻関係が結ばれたと思われる。三郎頼泰の嫡子貞清は得宗で執権でもあった北条貞時の諱名によると思われる。四郎義泰の嫡子師泰は貞時の後任の執権北条師時にちなむものであろう。とりあえず、北条氏との関係がうかがわれるのは以上である。