都野氏は河上氏・都治氏・出羽(君谷)氏などと同様、石見国衙の有力在庁官人伴氏の一族で、江川西岸の都野郷ならびに加志岐別府(有福)を支配した。石見国大田文では、都野郷の田数が21町1反60歩、かじきが3町5反120歩。西で境を接している波子は中世の宇津郷に比定できる。東では都治郷と境を接している。都野郷内を流れる敬川の上流域が加志岐別府(有福)であった。
鎌倉時代に分割相続が進みんでいた。有福伴三郎実長の所領は、建治元年には後家妙蓮・庶子道智領五分四と嫡子実保領五分一に分かれていた。嫡子実保の所領が少なく疑問とする意見があるが、都野郷内の別の所領も譲られていたと思われる。健治元年以後に、実保が所領を没収され、その跡が勲功の賞として狩野貞親に与えられたが、有福氏からすれば、所領の没収に不満があり、狩野氏との間にトラブルが絶えなかったのだろう。徳治2年には有福氏側が狩野氏を訴えた訴訟の和与が成立し、両者の所領が再確認されたが、問題の解決には至らず、正和元年7月には狩野貞親が、越生光氏との間に所領の交換を行った。
越生氏にとっては苗字の地である武蔵国越生郷内岡崎村をなぜ、石見国の所領と交換するのかというのが素朴な疑問であろうが、越生光氏の曾祖父有政(鎌倉初期に来原別府を獲得した東国御家人田村氏から越生氏に養子に入る)が都野郷に隣接する宇津郷を承久の乱の勲功の賞として獲得していたことを知れば、納得がいくであろう。光氏の兄重氏が石見国宇津郷を譲られ、光氏が岡崎村を譲られていたのである。また、光氏の兄弟(女子)が周布郷地頭兼宗と結婚していた。狩野氏にとっては長年のトラブルを解消できるが、有福氏にとってみれば、石見国に拠点を置く東国御家人越生氏領となったことは、何の問題の解決にもならない。南北朝の動乱でも、周布氏や都野氏の一族が南朝方となったのに対して、越生氏は幕府方となった。
そして、南北朝動乱が実質的に終了した後の至徳2年7月22日に大内新介は有福村・宇豆(津)郷・佐野別府を周布因幡入道兼氏に預けた。有福・宇津郷は越生氏並びに都野氏領(有福5分4)であり、佐野別府は河上氏領であった。ただし、これは一時的な措置であり、周布氏が一定期間支配できたのは有福5分1越生分のみで、宇津郷は不明で、佐野別府は河上氏領に戻っている(石州諸郡段銭注文)。
 都野氏の苗字の地である都野郷については、幕府が地頭職を没収し、吉良氏に与え、吉良氏はそれを東福寺に寄進した。ところが、そこに波祢時継が介入している。貞和4年に東福寺の訴えをうけて幕府の命令が出されたが、遵行すべき石見国守護上野頼兼は、都野郷は敵方所領であって、遵行できないことを東福寺に伝えている。敵方=波祢氏ではなく、都野氏のことであると思われる。波祢時継は建武3年9月には、幕府方として、大田北郷地頭土屋氏、河合郷地頭金子氏、久利郷一分地頭赤波氏とともに安濃郡稲用郷金剛山に楯籠もって南朝方である河上氏や三隅氏と戦っており、貞和4年段階でも幕府方であった可能性が高い。
波祢氏が都野郷に介入する背景として、西田氏は、波祢氏の本拠地である波祢郷と都野郷がいずれも水運の拠点であったことを指摘されているが、それ以上に波祢氏が都野郷ないしはその隣接地に権益を得ていたことがあるのではないか。幕府方であった金子氏は建武4年10月に勲功の賞として白上郷を与えられ、時期は不明だが、土屋氏も桜井庄地頭職を獲得している。同様に波祢氏も恩賞を得ていた可能性が高いのである。波祢氏は貞治3年にも東福寺から都野郷への介入について訴えられている。とはいえ、最大の問題は都野氏である。永徳元年に都野郷嘉久志村半分が幕府によって和田士貞坊に与えられているが、これは地頭職が東福寺領であることと矛盾しており、東福寺には別の所領が与えられたのではないか。
西田氏は戦国期に至るまで都野氏の勢力は振るわなかったとされ、その上に永正年間以降に三隅氏が都野郷内江要害に進出して、対立するようになったとされた。前者についてはデータがなく不明であるが、後者については、三隅氏の都野郷への進出はもう少し早い時期からみられている。そのきっかけは、三隅氏が益田氏領であった府中国衙=伊甘郷へ進出したことである。これにより益田氏との間の対立が発生し、文明9年9月27日には三隅氏老臣と益田氏老臣が大浜で会い、和与を申し合わせている。三隅氏老臣が益田氏側へ送った起請文の本文には「殊に庄内之事」とあるが、その「封書ウハ書」に益田氏側が「三隅此方庄内・都野之事について、老者中書違」とあり、庄内とともに都野郷をめぐり対立が生じていることがわかる。
その具体的経過は一部を除き不明だが、西田氏も指摘されるように天文21年には益田氏が「都野内神主分」・「同所内上村分」・「有福」・「江津」を三隅氏の不知行地と主張している。三隅氏と都野氏の直接的関係は確認できないが、小笠原長定(長隆父)の子長弼が都野氏を継承しているのと同様に、三隅貞信女子が小笠原長定の妻となっており、都野長弼の母であった可能性が高い。