論文「鎌倉幕府の成立と出雲国」の中で、佐々木泰清の跡は嫡子二郎時清が隠岐国守護を、庶子三郎頼泰が出雲国守護を継承したとの通説に対して、当初は時清が出雲・隠岐両国守護を譲られ、出雲国は頼泰が、隠岐国は宗泰がそれぞれ守護名代となり、時清が評定衆になった弘安6年の時点で、弟二人が守護正員となったとの説を示した。これを再検討する。
というのは、頼泰が守護となったことの根拠とした弘安7年9月7日頼泰の発給文書が直状ではなく奉書となっているのである。北条時輔とその子が経廻していることを記した8月20日関東御教書を鰐淵寺に伝達しているのであるが、守護正員であるならば直状で命じたはずである。弘安6年に時清が評定衆に就任した時点でも、なお守護正員は時清であった。そして、頼泰は兄時清(嘉元3年死亡)に先だって死亡している。すなわち、乾元2年4月11日に頼泰の嫡子貞清が鰐淵寺北院三重塔修理料田として生馬郷内一町を寄進しているが、そこに亡祖父信州禅門とともに、亡父金吾禅門の名が記されている。この時点ですでに貞清が出雲国守護となっていた可能性は大きいが、それが確実となるのは延慶元年12月10日関東御教書の中で貞清が出雲大社造営について申状を提出し、それが幕府から国造に伝えられていることである。父頼泰は三郎左衛門尉であったが、貞清は祖父泰清(次郎左衛門尉・隠岐守・信濃守)の後継者として「佐々木信濃孫次郎左衛門尉貞清」と名乗っているのである。
 貞清は塩冶氏初代となった頼泰と比べて知名度は低いが、彼の時代に守護領が拡大し、その娘(覚日)が国造義孝の子泰孝(「泰」は守護泰清の諱による)と結婚するなど、出雲国内の政治的・経済的基盤が拡大している。また、貞清の嫡子高貞の母については「二郎左衛門女」と記すのみであるが、「塩冶高貞の母」の記事で、これを時清女子であるとの説を提示した。 時清の子には宗清がおり、その子清高が幕府滅亡時の隠岐国守護となるが、宗清自身が出雲・隠岐両国の守護となったことを示す史料はない。父時清のように引付衆や評定衆に進んだことも確認できず、系図に「左衛門尉・隠岐守・豊前守」と記されるのみである。原因は不明だが、頼泰の嫡子貞清が時清の娘と結婚してバランスをとって、出雲国守護を継承したのだろう。一方の隠岐国守護は時清の代行を勤めていた弟宗泰が守護正員となったと思われる。宗泰は嘉暦元年7月26日に72才で死亡するが、その嫡子は早世しており、一族の佐々木(富田)義泰の子宗義を養子に迎えた。宗泰の娘が義泰の嫡子師泰と結婚していたのである。そのためか、あるいは、隠岐に流された後醍醐の監視のためか、隠岐国守護は宗泰養子宗義ではなく、時清の嫡孫清高が継承した。
以上、以前に提示した説を一部修正した。出雲国守護についての最近の研究としては、伊藤邦彦氏の『鎌倉幕府守護の基礎的研究【国別考証編】』(2010年)がある。大変な力作ではあるが、こと出雲国については、個々の守護人の論証の詰め(根拠)が十分ではなく、守護の相承に関しては佐藤進一氏の説を前進させるまでには至っていないというのが現在の自分の評価である。