益田兼見が惣領となったのは2度にわたる南朝による京都占領が失敗した時期であろうという点と、兼見の父兼方について、その父兼弘は祖母阿忍との対立で、一旦譲られた阿忍領伊甘郷を悔い返されたが、兼弘の子兼方は阿忍領の相続者から除かれず、それが兼見が永安氏と弥富名をめぐり対立した際に、自らの権利は阿忍が孫子に与えた所領を継承するものであると述べていたことを説いたが、もう少し詰めてみたい。
益田兼弘の嫡子は次郎兼世であり、両者とも益田氏惣領であったことが確認できる。兼世の子には嫡子兼忠(直)と庶子兼行・兼利がいたが、益田氏惣領の地位は兼忠から弟の兼利に譲られ、系図ではこの両者が大谷城で寺戸某によって殺害されたことが記される。
大谷城は益田本郷内にあり、寺戸氏は永享7年7月25日に益田兼理の死亡をうけて、一族・家臣が兼理の子息松寿を惣領・主人として忠節を尽くすことを誓っているが、その筆頭に「寺戸豊前入道禅幸」が署名し、且つ総勢105名の中で寺戸氏が最多の10名を占めていることから、益田氏家臣の筆頭の地位にあった家であることがわかる(益田家文書)。南北朝動乱の中での益田氏の選択において対立が生じ、家臣が主人を殺害することとなったのであろう。その中で庶家であった益田兼見も寺戸氏と同一歩調を取り、新たな惣領となったと考えられる。問題はその時期であるが、それに関係すると思われるのが、年未詳の9月18日仁科盛宗書状である。豊田郷地頭内田氏の一族である「内田三郎」に充てて、石見国凶徒退治のため、自らが三隅に派遣され、近日中に「誉田」に発向することを述べ、参陣を命じている(内田家文書)。写しであり、「誉田」は「益田」であると考えられ、三隅氏と益田氏の選択が異なり、足利直冬の側近である仁科が派遣され、三隅氏とともに益田氏を攻撃する事態となり、益田庄に隣接する長野庄豊田郷の内田氏に対して、益田氏攻撃に参加することを求めている。そしてこの攻撃の中で、有力家臣寺戸氏や益田兼見は仁科氏と三隅氏方となり、益田氏惣領兼世とその弟で後継者となった兼利が殺害されたのだろう。
問題はその時期であるが、観応3年(1352)8月日俣賀左衛門三郎致治軍忠状(益田金吾家文書、久留島科研報告書)によると、反幕府方である(吉見ヵ)式部七郎頼直を大将として三隅次郎入道・益田助二郎・高津余次長幸らが8月11日に宮尾陣を攻撃してきたのに対して21日夜の合戦で忠節をあげたとして証判を求めている。直接の関連史料は残っていないが、当時の幕府方の中心は吉見三郎範直であった。ともあれ、この時点では三隅兼連と益田助二郎兼利は同一歩調をとっている。
 次に、書状を出した仁科盛宗についてであるが、信濃国の有力国人で、延元元年には建武政権の武者所の役人にも名を連ねていたが、その後幕府方へ転じて九州探題の役人となったのか、少弐氏が幕府方国人の軍忠を仁科盛宗に取り次いでいる。それが足利直冬が中国探題に補任された段階では、長門国守護でもある直冬の代官としての役割を担っている(長門国守護代記)。これで直冬との関係が生まれ、以後はその側近として活躍している。問題はいつ石見国へ派遣されたかであるが、直冬とともに観応3年12月末に九州から長門国豊田城に移ったと思われ、石見国での活動が確認できるのは正平9年(文和3)4月に河原太郎右衛門尉に角井村・松武名を恩賞として預け置く直冬の奉書を出したことと(益田家文書)、同年6月の吉川経兼軍忠状に証判を加えている(吉川家文書)ことのみである。 これにより盛宗書状は観応3年8月以降、文和3年4月以前となる。正平8年5月には直冬が南朝年号を使い、南朝勢力が京都を占領したが、9月には幕府方に奪回されている。次いで正平9年5月に足利直冬が石見国から兵を率いて上洛し、正平10年1月には都を占領したが、これもまたすぐに奪還されている。これらを併せると、仁科盛宗が石見国凶徒退治のため三隅郷に到着し、その後益田を攻撃したとすれば、正平8年のこととなる。南朝の京都占領が失敗する中で、石見国内の反幕府派の国人に動揺が起こり、それに対処するための攻撃で益田氏の惣領が交替し、後の憂いをなくした上で、正平9年の上洛が行われたこととなる。
 正平9年8月13日足利直冬御判御教書でも吉川経兼に対して「石見国西方凶徒退治事」について守護人が下向することが伝えられ、正平10年10月にも高津城付近で合戦が行われているので、なお緊張が続いていることがわかる。ただし、仁科盛宗の動きと、文和2年10月5日乙吉・土田村内検目録が「北朝年号」で記されているなど、この時期の益田氏惣領が幕府方に復帰しようとしたことを示しているのではないか。
   以上、これまで年次の比定が不十分であった点について、関係史料を検討すると、正平8年後半~9年初めの時点で益田攻撃がなされ、益田氏惣領が殺害され、新たに阿忍領の一部を譲られていた益田兼見が新たな惣領となったと思われる。それが史料的に確認できるのは正平14年5月2日の足利直冬書下(益田家文書)であり、益田越中守(兼見)に対して石見国本領の守護使入部停止が認められている。この時期は幕府により御方となれば本領を安堵するとの義詮の御判御教書が周布氏にも出されており(萩閥周布)、これに対抗する形で、守護使不入を認めたのであろう。
 益田兼見の登場時期について補足を行う。
 観応元年末から2年初めにかけて足利直義・直冬方が勝利したことで、石見国内には足利直冬の勢力が伸張し政治の安定がみられた。大宰府の直冬の下へ馳参じて所領の安堵を受けるものが増えた。出雲国でもそれまで幕府方であった三刀屋氏も庶子貞助を大宰府に派遣するとともに、山名氏との関係を強めた。ところが同年8月に直義が尊氏と義詮の挟撃をさけるため北陸へ逃れると、出雲国守護には京極氏が復活し、大宰府の直冬の立場も弱くなった。それでも観応3年8月までは、正平6年7月段階で南朝方の出雲国守護となっていた富田秀貞も幕府方の美作国守護の地位にあり、山名氏と結ぶ出雲国人と京極氏との関係も問題とはならなかった。
 これに対して石見国では、観応2年8月に尊氏が直冬派の国人の切り崩しを行い、これに対抗する直冬は凶徒退治のため吉見頼直を派遣した。観応3年閏2月10日の直冬側近仁科盛宗書状では、凶徒蜂起の際に御方に動揺があったが、吉川経兼が忠節を示して事なきを得たとし、三隅兼連に同心して三隅城の警固を行うことを求めている。観応3年6月20日足利直冬軍勢催促状では、長門国守護厚東武直以下の凶徒誅伐を命じたのに、内田致世が未だに発向していないことが述べられている。一方、8月12日には幕府方の吉見範直の注進に基づき、足利義詮が内田氏庶子俣賀左衛門三郎致治の忠節を賞している。そして、8月日俣賀左衛門三郎致治軍忠状によると、幕府方の俣賀致治は8月11日に敵(吉見ヵ)式部七郎頼直・三隅兼連・益田兼利・高津長幸らと宮尾陣で戦っている。
暦応4年7月日内田熊若丸代藤原兼家軍忠状では豊田城から吉田宮尾之城までで合戦をしたことを述べているように、長野庄内吉田郷内宮尾であろう。
 周防国では貞和6年10月には大内惣領家弘世(弘幸の子)や庶子の鷲頭弘員(長弘の子)が直冬方となり、周防国人内藤氏もその下で高師泰と戦った。それに対して観応3年8月の段階では、惣領家の弘世のみが直冬方で、鷲頭家の弘直(弘員の弟、周防国守護)と厚東氏(長門国守護)は幕府方となり、内藤氏も大内弘世と戦っている。この影響が石見国にも及び、直冬方から幕府方へ転じる国人が生じたのであろう。文和元年(一三五二)10月17日には沙弥某(石橋和義)が出羽上下郷を君谷弾正忠に預け置き、翌日には幕府が小笠原左近将監と土屋備前守に河合南村地頭職を安国寺に沙汰付けるよう命じている。そして11月25日に幕府は石見国守護荒河詮頼の派遣を周布左近将監に伝えるとともに、幕府方として忠節を尽くすことを求めている。直冬が九州から長門国豊田城に入城したのは12月末であった。
 文和2年の1月から2月にかけても幕府方は吉見範直や守護荒河詮頼を通じて西部の俣賀兵庫助・俣賀左衛門三郎、東部の武田伊豆乙に感状を発給したり、所領を預けたりしている。そうした中で2月18日には将軍義詮が荒河の注進に基づき「□田孫三郎」の忠節を賞している。系図には該当する人はみえないが、この人物が益田氏一族の可能性は大きいのではないか。また、2月30日には幕府方が直冬派であった内田致世の代官三和彦三郎の西黒谷城での軍忠を賞している。その一方で久利郷一分地頭赤波重房は、正月から3月にかけて、久利次郎左衛門尉・土屋備前守、並びに守護荒河氏の家臣である高山修理亮らとともに、仁万弥太郎・山名刑部少輔・佐波善四郎左衛門尉と戦っている。「山名刑部少輔」の存在は山名氏と直冬ならびに大内氏惣領との連携を示すのだろう。石見国における直冬派と幕府派の対立が強まっていることがわかる。この年の6月には南朝が山名氏と組んで京都を占領した時期にあたるが、9月には幕府によって奪回される。
 同年5月になると、直冬は南朝の年号「正平8年」を使うようになるが、石見国内では幕府との対立が続いていた。5月22日直冬感状は宛名が切り取られているが「白上合戦」での軍忠を賞している。一方で幕府方守護の活動は続き、文和2年5月25日には石見国守護荒河詮頼が井尻八郎太郎に対して大家庄内井尻地頭職を安堵し、その際の証人として従来から幕府方であった小笠原左近将監と並んで、福光又太郎の名がみえる。井尻氏と福光氏は共に御神本氏の一族であるが、その中に幕府方となるものがあったのである。次いで6月5日には4月5日に勲功之賞として君谷弾正忠実祐に出羽上下郷地頭職を与えた将軍義詮下文が、守護荒河により遵行されている。出羽上下郷は前年10月には永久・福屋・久利・用田に替えて園城寺造営料に寄進されている。
 文和2年6月1日には義詮は美作国青柳庄地頭職を園城寺に寄進している。青柳庄は観応3年8月の段階では幕府方の美作国守護であった富田秀貞領であった。秀貞が山名氏とともに反幕府方に転じたことにより、没収されたのだろう。翌年4月8日には富田庄・青柳庄をはじめとする秀貞領が出雲国守護京極導誉に勲功之賞として与えられている。
 話を石見国に戻すと、南朝と結んだ直冬は文和2年6月23日には義詮追討の綸旨を得たとして岩田彦三郎に軍勢催促を行っている。次いで25日には内田左衛門三郎致世に対して豊田郷での忠節を賞している。内田氏惣領致世に対しては幕府・反幕府の両側から働きかけがなされていた。9月25日には直冬は再度白上合戦の感状を出しているが、これまた宛名が切り取られている。年未詳9月18日仁科盛宗軍勢催促状をこの時期に比定したが、石見国西部でも幕府・反幕府派の対立が続いていた。そうした中で、北朝年号である文和2年10月5日付で益田本郷と深い関わりを持つ乙吉・土田村の内検目録が作成されているのである。
 12月27日には仁科盛宗奉書により、周布左近将監兼氏と三隅石見前司入道信性に、対立する周布氏一族内兼成を退け、内田致世に貞松村を沙汰付ることが命じられ、翌正平9年5月20日には豊田郷地頭内田致世の勲功に対し、恩賞が与えられたにもかかわらず、悉く相違ありとして致世が歎申したとして、三隅信性が直冬の奉行所に対して挙状を提出している。貞松をめぐる内氏との対立など未解決の問題はあるが、この時点で内田氏惣領致世は直冬方となっており、間もなく直冬の石見国からの上洛が開始されることが、山名師義と富田秀貞、さらには秀貞の一族でその代官を務めていた覚照により、三刀屋氏に伝えられている。この時点までには、益田惣領兼世と兼利が殺害され、益田氏内部の対立も解決していたであろう。以上、年未詳9月18日仁科盛宗軍勢催促状が正平8年のものであることについて、その裏付けを示した。