朝山日乗が史料に登場するのは弘治元(天文24)年(1555)のことである。この年「作州朝山」が上洛し、遁世するとともに上人号を授けられた。なぜ、この年なのか、そして、なぜ作州(美作国)なのだろうか。
 朝山氏は平安末期以来の出雲国の最有力在庁官人であり、幕府打倒時の恩賞として、建武政権では備後国守護の地位を与えられ、室町幕府の初期までその地位を維持した。その後、出雲国に帰り、朝山義景は塩冶氏とともに幕府方の中心として活躍したが、14世紀後半には義景の嫡子師綱が、将軍義満の家臣となり、その本拠を畿内とその周辺に移した。師綱は連歌師梵灯としても活躍し、義満から九州島津氏へ使者として派遣されたこともあった。
 朝山氏が出雲国へ本拠を移すのは、幕府が衰退した15世紀末の利綱の代であった。利綱は白川神道家から朝山氏に養子に入り、さらには朝山氏の同族であった佐陀神社神主家を相続した。そのため、朝山氏は中央にも人脈を持っていた。利綱の孫が日乗である。
 以前考えた際には、朝山氏は南北朝期に備後国に所領を持っており、その関係で隣接する美作国にも所領があったのだろうと考えていたが、尼子氏の美作国支配との関係で所領を得たのだろう。天文9年の竹生島奉加帳には「奉公の末」として利綱がみえており、その孫善茂(日乗)が尼子氏のもとを離れるのはそれ以後のことであろう。
 尼子氏の美作国支配の中心となったのは朝山氏と同族(勝部)である宇山氏である。宇山氏は本来、大原郡木次周辺を本拠とする国人であったと思われるが尼子氏直臣の富田衆に組み込まれていた。享禄5年(1532)には美作国で尼子氏から所領を与えられている。尼子氏の美作国支配が強化されるのは、天文21年の幕府からの守護補任前後からで、西部の三浦氏をその支配下に置いた。その際に中心となったのは、尼子国久の嫡子誠久と牛尾幸清であった。幸清は尼子氏直属の富田衆湯原氏の惣領であったが、出雲州衆牛尾氏惣領が晴久に背いて大内氏方となって没落した跡を継承した人物である。朝山氏の美作国進出もそうした中で実現したのだろう。
 しかし、天文22年には備後国をめぐり尼子氏と大内・毛利方で激しい戦闘が行われ、尼子氏は敗北する。そして翌23年に晴久による尼子国久とその一族=新宮党討滅事件が発生し、美作国支配を担った尼子誠久も死亡するのである。このことが、日乗に大きく影響し、尼子氏のもとを去ることになったのではなかろうか。

(続)

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