高岡氏が苗字の地とした高岡村は塩冶郷北側を西流する斐伊川沿いに新たな開発地として成立した所領であった。同じく成立した荻原村を譲られた一族は荻原氏を称している。そして、高岡宗泰は、父泰清と兄時清のもとで隠岐国守護代を務め、時清が鎌倉幕府評定衆となると、隠岐国守護となるとともに、出雲佐々木氏内の長老として重要な位置を占めた。
 高岡氏系図によると、宗泰は建長7年(1255)に京都で誕生した。文永11年(1274)には異国警固番役で筑前国黒崎へ赴いている。国造家も黒崎で番役を勤めたことが知られ、出雲・隠岐国人は黒崎防衛にあたったのだろう。弘安10年(1287)に父泰清が死亡すると、塩冶郷内高岡村を配分され、以後高岡氏を称する。
 守護佐々木氏と鰐淵寺との関係は緊密で、泰清・頼泰・貞清と代々の守護が所領を寄進しているが、宗泰も永仁5年(1297)には高岡村の田1町を寄進している。そして、嘉暦元年(1326)2月に鰐淵寺が炎上すると、6月には再建への協力を述べた書状を送っている。宗泰の甥で出雲佐々木氏惣領貞清(守護)は、この年3月に死亡している(佐々木系図)。そしてその後を追うように7月15日に宗泰(覚念)も72才の生涯を終えた(高岡氏系図)。
 宗泰には養子宗義がいたが、「八郎」のままで任官しておらず、養父宗泰に先立ち死亡した可能性が大きい。そのため、鰐淵寺再建や出雲佐々木氏の命運は、貞清の子高貞と宗義の子師宗など次の世代に託された。