藤原宗兼は平忠盛の後妻(正室)池禅尼の父として知られているが、その関係史料をみていく。前に保安五年(一一二四)三月の鳥羽院第二皇子通仁親王の御七夜の諸国所課について触れたが、御三夜と御五夜の所課(饗)について確認する。
 三夜からみると、上達部二〇前と殿上人二〇前はいずれも藤原清隆(讃岐国)が、侍所二〇前は藤原顕頼(丹波国、顕隆子)が負担している。女房衝重六〇前は平実親と日野資光が三〇前ずつ負担しているが、両者ともこの時点ではいずれの国の国守でもない。庁二〇前を負担している源憲盛(蔵人等雑色)についても同様である。三夜については国守というよりは中宮璋子の関係者に負担を課していると考えられる。饗以外では御前物は中宮大夫(源能俊)が、児御衣は中宮権大夫(西園寺通季)と花山院忠宗が負担している。
 同年(天治元年と改元)一一月に中宮から院号を与えられ待賢門院庁が成立した時点で大夫能俊、権大夫通季、亮顕隆(顕頼の父)、権亮家保・忠宗が待賢門院庁別当となり、権大進実親、少進資光と権少進高階通憲(後の信西入道)が判官代になっている。
 これに対して五夜は七夜と同様諸国に課している。御前物は藤原敦兼(備中守)が、威儀御膳は源有賢(三河守)、御膳用の餅・菓子は藤原顕盛(伯耆国)・源雅職(甲斐守)・藤原憲方(出雲国)・藤原為忠(安芸国)が、御衣は藤原顕盛が負担している。饗は上達部二〇前を藤原宗兼(近江守)、殿上人二〇前を藤原実信(備後守)、侍所三〇前を藤原季輔(紀伊守)、庁三〇前を藤原範隆(和泉守)、女房衝重三〇ずつを藤原隆頼(若狭守)と源顕定(越中守)が負担し、饗全体の担当は藤原顕頼(丹波守)である。その他屯食三〇具は平忠盛(越前守)が、禄は藤原顕能(備前守、顕隆子)が負担している。
  備中守藤原敦兼は父敦家とその姪(顕綱娘)で堀河天皇の乳母となった兼子の間に生まれ、大治三年(一一二八)一二月待賢門院庁牒の署判者としてみえる。三河守有賢は雅楽の家の出であったが白河院に接近して受領を歴任し、自らは院庁の四位別当、その子資賢(母は高階為家娘)は判官代となった。その後、親子は鳥羽院の近臣となる。有賢は平正盛の娘との間に子宗賢をなしているが、永久五年(一一一七)一一月に璋子の家司が定められた際には正盛・忠盛父子は政所の五位別当としてみえる。伯耆守顕盛は白河院近臣長実と院が寵愛した娘郁芳門院女房との間に生まれ、璋子の侍所の五位別当としてみえる。

 出雲守憲方は父為隆と藤原有佐娘の間に生まれている。有佐の姉妹が堀河乳母で敦兼の母となった兼子である。大治三年造営の待賢門院御願寺法金剛院の東新造御所の造営にあたったのは周防守憲方であった。保延元年(一一三五)三月二七日には鳥羽院による初渡が行われている。保延二年二月一一日以降は鳥羽院庁下文の署判者としてみえ、永治元年(一一四一)一二月に近衛天皇が即位したことにともない母得子が皇后に立后されると皇后宮大進となっている。その一方で、康治二年七月一一日に待賢門院の子で前斎院統子内親王が新造された三条室町殿に移徒した際には大蔵卿藤原通基、越中守源資賢とともに職事としてみえ、待賢門院との関係も維持していた。
甲斐守雅職の祖父高実と父清実は受領を歴任しているが、その姉妹は藤原顕頼の室となっている。安芸守為忠は藤原知信と藤原有佐の娘との間に生まれており、憲方とは従兄弟となる。母は藤原敦兼の従姉妹となる。安芸守から三河守へ遷任し、さらに丹後守に遷任して受領を歴任した。三河守は源有賢の後任であり、丹後守は有賢の子資賢と相博する形であった。為忠の母と資賢の母はともに高階為家の娘であり、両者は従兄弟であった。また両者の従姉妹には白河院尾張、待賢門院女房遠江内侍、藤原清隆の妻もいる。

 宗兼は隆宗の子でその姉妹は藤原家保の妻で家成の母である宗子で、崇德天皇の乳母でもあった。家保の兄が白河院の寵臣で、その晩年の娘得子であるため、池禅尼と美福門院得子との関係が指摘されるが、禅尼の父宗兼が通仁親王五夜の負担を課されているように、より待賢門院-崇德との関係が深かった。それにゆえに崇德の子重仁の乳母となった。乳母となったので、保元の乱で選択に迷ったわけではない。忠盛は待賢門院庁の別当の一人であった。

 備後守実信は待賢門院の父公実の兄弟保実の子、紀伊守季輔は同じく兄弟である仲実の子である。和泉守範隆は清隆の弟で中宮権少進から待賢門院判官代を務めた。若狭守隆頼は白河院の近臣から待賢門院別当となった藤原基隆の子である。越中守顕定は源雅俊の子で、父の甥にあたる雅定(久我家二代目当主)の養子となった。母は源(藤原)国明の娘であり、安芸守為忠の姉妹となる。為忠より一世代下となるが、越中守以外の受領歴は確認できず、長承二年(一一三三)七月一六日には越中前司とみえる。「権弁太郎童」の元服で加冠者藤原宗忠、理髪者憲俊(兄=国明子で鳥羽院職事)とともに立ち会い「指燭」(明かりをかざす役?)を務めている。顕定の子で東寺長者となった定遍も長承二年の生まれであるが、雅定の養子に入っている。定遍が成人する前に父顕定が死亡した可能性が高い。
 池禅尼は平忠盛の妻で頼盛の母であるのみならず、平治の乱後に頼朝の助命をし、それが実現したことで知られているが、その生没年代や母については確実な情報を欠いている。実物を確認していないが、系図一本には長治元年(一一〇四)生まれで長寛二年(一一六四)に六一才で死亡したとあり、日野有信の娘が母とあるようだ。禅尼の長子家盛が一一二三年頃の生まれ(一一四九年に一七才?で死亡。『平治物語』では二三才とあるが、それなら一一一七年の生まれとなり、一一一八年生の清盛の兄となってしまう)、次子頼盛は長承二年(一一三三)の生まれである。
 禅尼の兄と思われる宗長については有信娘が母であると系図に明記されているが、同母兄の可能性が高いのではないか。日野有信は崇德院の近臣資憲の祖父であるが、その兄弟有綱の娘が義家の妻として産んだのが為義であることはすでに述べた。また資憲の母は有信の兄弟有定の娘である。禅尼の母が有信娘ならば、禅尼と為義並びに資憲の母は従姉妹の関係にあったことになる。『平治物語』では頼朝が禅尼の子で早世した家盛に生き写しであったころから助命を行ったとされるが、一方、元木泰雄氏は頼朝が仕えていた上西門院(待賢門院の子統子内親王)関係者や頼朝の母の実家で待賢門院女房が複数確認できる熱田大神宮家の働きかけによるとの説を提示し、五味文彦氏は頼朝の祖父為義の妻=義朝の母(藤原忠清の娘)が待賢門院女房であった可能性が強いことを説いているが、禅尼は母親との関係で頼朝を以前から知っていた可能性が高い。  日野有信の子資光は待賢門院の皇子出産に関する行事で頻出(学問の関係のみではない)しているが、中宮大夫進から待賢門院庁判官代となり実務をとり仕切っていた。この資光は長承元年(一一三二)二月一七日に五〇才で死亡した(『中右記』)。一〇七三年の生まれとなる。九才年長の藤原宗忠(一〇六二年生)は年来父子の契約を結んでおり大変哀しいことだとコメントしている。ここ三年は風病により籠居していたとも記している。
 この資光の後継者として待賢門院判官代として実務を担当したのが宗長であった。大治五年一月三日には若君(頼長)が鳥羽院ならびに待賢門院を訪問・対面しているが、鳥羽院は五位判官代出雲守経隆を通じて奏し、女院は五位判官代宗長を通している。(『中右記』)。長承三年二月六日には鳥羽院と待賢門院が熊野参詣から還御しているが、女院の池田御所には判官代和泉守宗長が勤仕していた。
 父宗兼は近江守とともに和泉守を歴任していた。一度目は保安二年(一一二一)から天治元年(一一二四)初めにかけてで、日野実光の跡をうけて近江守に遷任し、その七年後の天承元年(一一三二)二月には近江守から二度目の和泉守に遷任している。長承三年閏一二月に重任した某が宗兼と思われるが、それに次いで確認できるのは保延三年(一一三七)一二月二九日に宗兼の子宗長が、石見守卜部兼仲と相博していることである。宗兼の没年は不明であるが、重任任期の途中で宗長に交替したと思われる。
 卜部兼仲は出産時の祈祷などを通じて待賢門院の信任を得て、大治四年八月二八日に石見守に補任され、公家社会の人々を驚かせた(『長秋記』)。また、藤原頼長は久安三年(一一四七)五月に橘氏氏院である学官院を作ることを条件に、本来の支配者であった橘氏氏長者に代わって兼仲・基仲兄弟に梅宮社領宇多庄の支配権を認めたが、それに関して鳥羽院の意見を求めたところ、待賢門院が死亡する際に卜部兼仲に宇多庄を与えることを遺言していたとして、賛意を表した(『台記』)。兼仲が待賢門院庁の役人になったことは確認できないが、久安元年に院が死亡するまで兼仲に対する院の信頼は変わらなかったことが確認できる。 卜部兼仲がいつまで和泉守であったかを示す史料はないが、康治元年正月二三日には日野実光の子で資憲・資長の弟光盛が和泉守に補任されており、重任することなく一期四年で退任したと思われる。光盛は待賢門院・崇德院との関係はうかがわれず、この時点で待賢門院の分国ではなくなったと思われる。兼仲についてもこれ以降国守に補任されたことは確認できない。これに対して、康治元年一二月一三日に日野資憲が下野守に現任していることと、それを天養元年一二月三〇日に辞任していること、さらには、仁平二年(一一五二)八月一四日に藤原頼長が石清水八幡宮に参詣した際に供奉した院殿上人の中に前下野守宗長がみえることが注目される。康治元年正月に石見国に代わって下野国が待賢門院ないしは崇德院分国となり、日野資憲が国守となったのではないか。一方、宗長は石見守を二期八年務め、資憲の後任として下野守に遷任し、代わって久安元年正月二六日には藤原忠実を知行国主としてその家司源清忠が石見守に補任されたのではないか。『本朝世紀』仁平三年(一二五三)六月一五日条に前下野守宗長が最近死亡したことが記されている。
 日野資憲は長承三年(一一三四)三月一九日に藤原忠実の娘泰子が皇后宮とされた際には大夫頼長のもとで権大進に補任されている。日野氏は摂関家との関わりが深かった。保延元年八月二二日には『長秋記』の記主である源師時が夜に鳥羽院のもとに参っているが、資憲と通じて奏している。これが久安五年一〇月一六日には頼長の子師長が昇殿を認められ鳥羽院、崇德院、高陽院、美福門院のもとを訪れているが、崇德院には判官代勘解由次官資憲を通じて名簿を提出している。仁平二年二月一三日には頼長の子隆長が四位に叙せられたことの慶賀として各院を訪問しているが、崇德院については別当資憲を通じて奏している。資憲が実務を行う判官代から別当の一人に昇格したことがわかる。資憲の妻が待賢門院並びに崇德院女房阿波であったことは前に述べた。