ドームと松の木('00年)HP版
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ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれないに 水くくるとは。

'00年さんすい会登山記録及び会員登山記録
1 1月1日 弥山 みせん 大社町(平田市境)
2 1月3日 船通山 せんつうざん 横田町
3 1月9日 高瀬山 たかせやま 斐川町
4 1月16日 鼻高山 はなたかせん 出雲市(平田市)
5 1月22日 大万木山 おおよろぎさん 頓原町
6 2月5日 万ヶ丸山 まんがまるやま 大社町
7 2月6日 太々山、高尾山 だいたいやま、たかおさん 大社町
8 2月12日 鼻高山 はなたかせん 出雲市(平田市)
9 2月11,12日 三瓶山 さんべさん 大田市
10 2 月13日 鼻高山 はなたかせん 出雲市(平田市)
11 2月19日 大万木山 おおよろぎさん 頓原町
12 2月20日 大万木山 おおよろぎさん 頓原町
13 3月3日 龍、西龍 りゅう 大社町
14 3月11日 大万木山 おおよろぎさん 頓原町
15 3月18日 三群山 さんぐんざん 仁多郡
16 3月19日 三群山 さんぐんざん 仁多郡
17 3月26日 鼻高山 はなたかせん 出雲市(平田市)
18 4月1日 鼻高山 はなたいかせん 出雲市(平田市)
19 4月2日 沖の郷山 おきのごうやま 頓原町
20 4月2日 鼻高山 はなたかせん 出雲市(平田市)
21 4月8日 大江高山 おおえたかやま 大田市
22 4月9日 鼻高山 はなたかせん 出雲市(平田市)
23 4月9日 天王山花見 てんのさん 出雲市
24 4月16日 鯛ノ巣山、大万木山 たいのすやま 頓原町
25 4月22日 鼻高山 はなたかせん 出雲市(平田市)
26 4月23日 鼻高山 はなたかせん 出雲市(平田市)
27 4月29日 船通山 せんつうざん 横田町
28 4月30日 毛無山 けなしがせん 岡山県
29 5月3日 八国見山、三沢要害山 やくにみやま 岡山県、仁多町
30 5月4日 鼻高山 はなたかせん 出雲市(平田市)
31 5月4日 鼻高山 はなたかせん 出雲市(平田市)
32 5月6日 鼻高山 はなたかせん 出雲市(平田市)
33 5月13日 大万木山 おおよろぎさん 頓原町
34 5月25日 津和野城址 つわの 津和野町
35 5月27,28日 聖山、高岳、三段峡 広島県
36 5月28日 大万木山 おおよろぎさん 頓原町
37 6月3日 烏ヶ山 からすがせん 鳥取県
38 6月11日 三瓶山 さんべさん 大田市
39 6月18日 櫃ヶ山 ひつがせん
40 6月18日 鼻高山 はなたかせん 出雲市(平田市)
41 7月2日 一兵山家山、中野冠山 広島県芸北町
42 7月8日 鼻高山 はなたかせん 出雲市(平田市)
43 7月13〜16日 富士山 ふじさん 日本
44 7月20日 三鈷峰 さんこほう 鳥取県
45 7月23日 鼻高山 はなたかせん 出雲市(平田市)
46 7月19〜23日 尾瀬、燧ヶ岳、至仏山 おぜ
47 8月 5日 大万木山 おおよろぎさん 頓原町
48 8月13日 鼻高山 はなたかせん 出雲市(平田市)
49 滑落
50 8月15日 三瓶山 さんべさん 大田市
51 8月20日 大山 だいせん 鳥取県
52 8月21日 鼻高山 はなたかせん 出雲市(平田市)
53 9月15日 出雲峠、毛無山 いずもとうげ、けなしやま 広島県
54 9月16日 大国山 だいこくやま 斐川町
55 9月16日 鼻高山 はなたかせん 出雲市(平田市)
56 9月17日 葦嶽山 あしだけやま 広島県
57 9月24日 鼻高山 はなたかせん 出雲市(平田市)
58 10月1日 旅伏山 たぶしさん 平田市
59 10月6日 御嶽山 おんたけさん 木曾
60 10月10日 10月10日の青い空
61 10月13日 峨眉山 がびさん 中国
62 10月12日 人形仙 にんぎょうせん 岡山県
63 10月28日 大万木山 おおよろぎさん 頓原町
64 10月29日 蒜山縦走 ひるぜん 岡山県
65 11月3日 千丈渓 せんじょうけい
66 11月4日 三瓶山 さんべさん 大田市
67 11月5日 三瓶山 さんべさん 大田市
68 11月12日 銀山街道 ぎんざんかいどう 大田市
69 11月23日 鯛ノ巣山〜大万木 たいのすやま、おおよろぎさん 仁多郡飯石郡
70 11月25日 大万木山 おおよろぎさん 頓原町
71 11月26日 鼻高山 はなたかせん 出雲市(平田市)
72 12月3日 和久羅山、嵩山 わくら、だけさん 松江市
73 12月17日 大平山 おおひらやま 出雲市乙立町
74 12月17日 忘年会 さんすい会 矢野集会所
75 12月23日 北山縦走 きたやま 出雲市
読み物 恙虫
編集後記
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富士は日本一の山

日本を代表する山はと聞けば殆どの人が富士山と答える。高さはもちろんだがその山の姿も日本を代表する山に相応しい。太平洋戦争中サイパンを飛び立ったB29はまずはこの山を目指し飛行し、これを見つけると右に大きく旋回し東京の空に向かったという。地上からはもちろん、遥か1万メートルの高さからも目立つ山なのだ。山に登って遥か彼方の山並みを見て一番初めに目に止まるのはやはり富士山によく似た山である。或いは無意識の内にその姿を探しているかも知れない。

日本各地に、その土地の名が頭につく富士がたくさんある。蝦夷富士(羊蹄山)、津軽富士(岩木山)薩摩富士(開聞岳)等。私の身近には江津市にある浅利富士(室神山)が有る。この山は高さこそ低いがどの方向から見ても富士山の姿をしている。

広島(口和町)に八国見山(やくにみやま)と言う山が有る。この山は大万木山から南東に富士山型をしたなんとなく気にかかる山である。登山口の案内板を見ると同心円状に等高線が描いてあった。残念ながら周囲が山ばかりの所なので地元で○○富士とは呼ばないかも知れないが、遠くの高い山から見るとなんとなく登りたくなる山の姿である。

また出雲市内からもその姿が気になる山が有る。山の名前も場所も分からないが、中電出雲営業所から国道に向け道路を南に走ると、その道路の直線上に富士山型の山が見える。標高は低いし周囲の山も高いし、見る方向が違えば山の形もそうでないかも知れないが、一度登ってみたくなる山の姿である。

ところで日本で反対に一番低い山は何処だろうか。国土地理院の2万5千分の1の地形図に山ということで載っている一番低い山は大阪港区の天保山(4.5m)だそうだ。これは天保2年に近くの堀や川を掘り直したときの土をここに積み上げたものらしい。

当時は20mほどの高さがあり大阪湾の船からは目印となる大切な山だったらしい。勿論今は周囲の高い建物に囲まれその面影は無い。ところがそこには山小屋もあり(喫茶店の名前)、天保山山岳会も有る。会員は地元の有志、今でも夜な夜なネオンに誘われて行方不明になる輩を捜索に出るらしい。

これに登頂すると記念に登山認定証がこの天保山山岳会より貰える。その認定証には"日本サイテーの山(天保山4.5米)に無事登頂されました・・・・と書いてあるそうだ。この山の頂上には2等三角点がある。しかし名前から判断すると、もっと低い山がある。

大分県山国町と日田市の境に"一尺八寸"と言う名前の山があり、これを換算すると約50cmの高さとなる。しかし実際は707mもあり"みおもやま"と読む。更に奈良県には4等三角点がある"六寸山"があり換算すると約20センチとなる。また秋田県の八郎潟には某 大潟富士 という山があって、干拓地の為、標高はマイナスだそうだからこれにはかなわない。日本語では周囲より高くなったところを山と定義している訳だから致し方ない。

話は横に逸れてしまったが、何はともあれ富士山は良くも悪くも全てが日本一の山である。宇宙に行った毛利さんが雲の上に頭を出した富士山を見つけあそこが日本だ!と感激したいう。やはり日本人の心に染み付いた山である。今年はその富士山に登る機会があった。2度目である。 最初は相模原に半年研修に行っていた十九歳の時だった。それまで山に登った事など無く富士山と言う言葉に釣られて五合目まで車で行き、帰るつもりでいたが、急に登ると言う友達の一声で登り始めた。当然普通の服装である。半袖で普通の革靴であった。

頂上付近で我々の服装を見た中高年の見知らぬおばさんに止められ、"山を甘く見たらダメヨ!"と長時間説教を頂いたことを今でも思い出す。その時の登った感想は、日本で一番高い山に登ったからにはもう他の山には登る意味が無い、最初で最後の山登りが日本一の富士山だ!。その言葉通りそれから20年以上山に登ることはなかった。

ひょんな事からさんすい会にお世話になり5年になる。今回の感想は前回と異なりなぜか、有名な山でもなく、高い低いでも無く、また行きたくなる普通の山(・・・・)でもいいのではと感じた。それに富士山が世界遺産になれない悲しい山である事も実感した。 何はともあれ一日も早く自分の心の中に裾野を広げる日本一の山を見つけたいものですね。




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初日の出弥山登山  さんすい会本年最初の山行 : 弥山広場:5:05>頂上>6:25
今年の初日の出はいかに?
 2000年のメモリアルは夜半より雨が降っていた。小雨の中4時30分ドームに集合。5時5分弥山広場より登山開始。小雨の中をゆっくり登る。私より先の人はどんどん登っていく、先日整備をしておいたので登りやすいと思う。雨はどうやら上がったようだが星は見えない。今年は昨年と異なり出雲大社からの笛が聞こえてくる。6時25分頂上に着いたが、この雨の中でも登る人が結構いて、ここはもう既に多くの人が居られた。

私はいつもの通り出雲ドームを入れて出雲の夜景を撮る。いつ見ても綺麗である。まずは祠の前に陣取り、近くにいた北村さんとビールで乾杯、ここに武田さんいないのが寂しいものだ。すごく汗をかいたが着替えたので寒くない。今年は雑煮はやめて御神酒と、スルメなどをいただきながら東の空を眺めていたがすっかり雲に覆われ日の出は望めそうにないと思っていた。

初日の出の代わりに大森さん持参の日の丸の旗に皆でサインして写真を撮った。そのうち定刻は過ぎたけれど突然!ほんの少しの雲の切れ目から朝日を望むことが出来た。バンザーイ!皆いい笑顔である。今年は是非良い年でありますように。さんすい会関係者19名で記念写真を撮り8時下山開始する。登山口で解散、10名で大社に参拝して帰る。ドームへは10時前に戻る。(お)


船通山   1143m:横田町:1月3日:曇時々晴:参加者(7名)土江 島田 勝部 北村 落部 持田 梶谷

天気予報は良くなく、夜中も雨だったらしいが朝起きてみると雨の心配はない天気になっていた。3台の車で出発、鳥髪の滝コースから登る。雪の為いつもの登山口までは行けず少し手前の空き地に止める。ここも雪の為難儀したが梶谷さんの四駆の車で踏み固め、また人の手で押したりしてどうにか止めることが出来た。 9時45分登山開始するが雪の為歩きにくい。昨年より少し多い。それでも毎年横田山の会の人が元旦に登られ道が出来ているので助かる。

登り始めは寒かったが、やがて暑くなり一枚ずつ脱いでいく。頂上は風が強く雪も飛ばされ少ないが、少し手前では40〜70センチの積雪であった。寒いのですぐ避難小屋に入り着替えをする。 早速ガスストーブを点火し温かい食事にかかる。寒くてもプシューと音がするものを飲む人がいる。元旦には横田山の会の人達が8人で初日の出登山に来た旨がノートに記されていた。今日は我々だけであった。頂上で記念写真を撮り12時25分下山開始。ドームへは3時に帰った。(お)

高瀬山 斐川町:1月9日:曇:落部夫婦:登山開始11:37>頂上12:17>下山開始13:25>下山13:55
今日はもし雪でもちらつけば三瓶山にでも登ろうと思っていた。でもその気配もなかったので、遅くまで朝飯も食べず、寝正月といつまでも布団の中にいた。10時30分頃起き出したが動かずに食べるのもどうかと思い、家内と二人でそれならとにかく山に行こうとすぐ決断する。近くでもすぐ登れる山と言うことで高瀬山に決め、すぐ準備をして出かける。朝何も食べていないのでコンビニでお茶とアンパンを求め走る車の中で腹ごしらえをする。

登山口には2台の車が止まっていた。11時37分登山開始。ゆっくり登る。風は全くなし、今の季節にしては本当に穏やかな天気である。登る途中下山される2組の人に出会った。頂上へは40分でついた。今日はあいにく曇っており北山も、ドームも霞んで見えた。 ここは手軽に登れてよい。早速ビールで乾杯,カレイと雑煮 & うどん煮込みが美味しい。頂上に1時間居り1時25分下山開始。約30分で下山。
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鼻高山(御来光登山 1) 536 m :1月16日:曇: 参加者(4名)北村、来原、畑親子:本年始めての挑戦であったが残念ながら日の出は見られず

大万木山 滝見コース 1,218 m:頓原町:1月22日:曇晴:参加者(1名)落部:登山口は40センチの積雪
 出雲発 7:00登山口9:00 頂上12:00下山開始 13:40登山口15:50 出雲15:15

(写真)大万木山の霧氷
ooyorigi 登山口の知り合いからの情報によると、消えていた雪がこの2日間の寒波の為、登山口で40センチ新たに積もったらしい。今日は曇の予報だったので出かけることにした。

三刀屋辺りから道路に雪がある。用心の為に頓原道の駅でタイヤチェーンをつける。養魚場のある所まで行くと広島ナンバーの軽自動車が一台止まっていた。

9時に滝見コースより登山開始、先に登って行った人はスノーシューを履いているようで、それに歩幅が結構広く私より大きい人のようだ。このときはこの人達の足跡をたどりカンジキは着けずに登る。

慣れた登山道ではあるけれど雪道はやはり不安であり、つらい歩きである。駐車場の少し上辺りまで歩きひょいと上を見上げると熊の円座があった。

いつ頃のものか判らないが、やはり大万木山には熊がいたのだ。何かの本で見たけれどこれは熊棚で熊は木の実を食べるとき、自分は太い枝に座り実がなった先端の枝を次々手繰り寄せて折る。そして食べ終わった枝は自分の尻に敷くので鳥の巣のようになるらしい。

滝までははまりながらも登山靴のままだったが、あまりにも歩きにくいので、ここでカンジキをつける。最初の小屋まで1時間かかった。今日は雪の為きつい登りである。それでも先に登った二人ずれのおかげでどうにか登れる。地蔵尊の下辺りで追い着く、この二人ずれは広島の因島から来られた夫婦だった。

本当にタフな奥さんで大きなストライドでグイグイ登る。今日は決して先にならないようにしよう。地蔵尊で休憩をし、先ほどの夫婦と話をする。最近この大万木山にひかれ、登られるようになったらしいが、やはりこの山は多くの人をひきつける魅力があるのだなと思った。

これからは見渡す限りのすばらしい樹氷で頂上も白く輝いて見える。これからが辛いのぼりであるが、楽しみである。スノーシューを履いた奥さんの好意で先に歩いて貰う。今日のような雪質と、これ位の勾配では有効で私もスノーシューが欲しいものだ。ギュツ ギュツと雪を踏みしめながら歩く、その音がまた何ともいえない気持ちになる。

いつもながら夢中で写真を撮りながら登るが、神戸川の源流辺りから道が判らなくなったが、私にはよく知りぬいた大万木山のこと、後ろから時々コースを教えてあげながら先に進む。

この頃から太股が痛み出してきた。雪道はやはりずいぶん脚力がいるもので、日頃の運動不足が身にしみる。避難小屋が見えるところまで来るとほっとした。今日は霧氷というより樹氷である。木には重たく氷が付き枝は下の雪に着く程垂れている。まるでブナの木が柳の木に変わったようである。いつもながら本当に綺麗で、いつもの所より樹氷の景色を撮る。12時丁度に着いた。登り始めてから3時間かかった。

避難小屋の中はマイナス7度である。今日も早速着替えをして、ラーメンで温まる。広島組もラーメンである。カレイの余分があったので広島の夫婦におすそ分けする。2組のコンロの熱で小屋の中は4度上昇したが、それでもまだマイナス3度であった。

登る途中帽子を落としたので帰りに拾おうと思っていたら。後から登ってきた人が拾って持って上がってくれたので助かった。4人の男性であったがそのうち一人の名前は知らないが山でよく会う人だった。この人達は三角点ある頂上で昼食を取っておられたが寒かっただろう。

それでも風がないのが幸いか権現コースに下った所から地蔵尊辺りを撮る。ずっと向こうに大山がまるで霧に浮かぶ白い島のようになって見えた。13時40分過ぎから下山開始、足が痛むのでゆっくり下山する。2時間余り掛かり15時50分登山口に着いた。帰りは佐田町経由で5時15分に家に着いた。明日は雨になりそうなのでよいときに登ったものだ。(お)
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万ケ丸山  480 m :2月5日:快晴:参加者(1名 )北村:遥堪峠から。頂上には雪があり。登山者の足跡あり。

太々山、高尾山 341m 357m大:社町: 2月 6日:雨:参加者(6名) 土江、勝部、北村、落部、島田 武田
ドーム集合 9:00太々山登山開始9:42 尾根 10:12 頂上10:27 下山開始 10:37下山11:20高尾山登山口11:40 頂上12:25 昼食 12:40下山開始13:35 下山14:00 ドーム14:30

今朝は鼻高山御来光登山(2)の予定日である。しかし5時過ぎに北村氏から電話があった時かなり雨が降っていた為中止にした。おそらく太々山の計画も中止になるだろうと再度床についた。8時前に空を見上げると雨はあがり今にも日が射して来るかと思うほど回復していた。ところが9時前に集合して準備をしているとポツリ、ポツリと落ちてきた。それでも登り初める頃には止むだろうと気に止めず出発する。

しかし雨は止むどころか次第に強くなり登山口に着いた時は雨具を着ないとどうにもならない程の雨になった。この場に及んでも登山中には晴れるだろうと誰もが思うほど最近のさんすい会の山行は天気に恵まれていたかも知れない。 この太々山は近くにあっても知らない山である。出雲大社境内の西脇を鷺峠に向かい頂上付近の三叉路に出る。右に下りると猪目。ここを直進し鷺浦方面に下りる。

葛折の道を下り切り鷺浦の家並みが始まる手前から左折し新しく日御碕街道の中山に抜ける道路に入り、1,2分走ると左に大きな岩の(木立の中なので注意をしないと見逃す)前に木で作った鳥居が見える。車は道路の反対側に数台置ける。この鳥居の横から微かに登山道と思える道がありこれを進むが、すぐに道は下草と杉の落ち葉に埋もれ消えてしまう。後は動物的感覚を働かせ正面の杉の木立の急斜面を尾根に向けてひたすらに進む。

30分程ヤブコギをして尾根に出ると大きな松の木があった。尾根の岩場を頂上に向けて10分程登るとピークに出る。周囲は全く眺望は無いがここが山頂だ。ここから尾根伝いに進むと坪背山に行くらしい。その途中10分程歩いた辺りに眺望の開けた場所があるらしいが今日は天候が悪く頂上で休憩をした後、登った道を引き返す。先程の岩だらけの尾根を下り大松から斜面を下る。途中までは登ってきた道を下りていたが途中道を見失い登る時には分からなかった。

登山道らしき道も歩いたがこれも途中で消えてしまいヤブコギで舗装道路まで下りる。道路に出ると車を置いた場所よりかなり奥の方に下りていた。途中小雨になったこともあったが結局雨具は着たままだった。 今日はこれで終わらない。冷え切った体に鞭を打ち次の高尾山に向かう。車に乗り、先程の道を中山に向け高尾トンネルを越える。下り坂の途中から近道があるそうで本日はここから挑戦する。以前北村氏とはもう少し下りた簡易水道のコンクリートのタンク付近から登り宇竜地区へつながる峠道から右に折れて登った記憶がある。

民家の入口の広場に車を置き家の人に挨拶をするとこんな日に山に登られますか!と先程から心の中に芽生えだした同じ言葉を言われてしまった。気を取り直して鹿のフェンスを潜り、先日の雪で飴の様に曲がった竹藪の中の登り坂を進むと梅畑がある。前回はこの梅の畑の中を直進したそうだが雪のため倒木が多いということで右手の急斜面をヤブコギで15分直登すると平坦な登山道に出た。この山にしてはなぜか広い道である。この緩やかな道をひたすら登り続けると登り切ったと思う辺りから下りになる。この手前の別れを右に2,3分登ると展望の開けた頂上に出る。

ここは旧日本軍が作った施設の跡があり丁度頂上にはコンクリートの基礎がある。これにアンカーボルトが10本近く打ち込んであったが今でもネジ山がきっちりと残り50数年前の物とは思え無いほどだ。残念ながら頂上からの眺望は雨のため全くなし。少し下りたところにタープを張りその下で雨を避けそれぞれが遅くなった昼食をとる。頂上近くには先程の旧日本軍の施設跡と思われるコンクリートの残骸が所々にある。

宇竜に住む知り合いの小父さんに話を聞いた。戦時中は丁度小学生だったらしいが、この施設を作るため駆り出され煉瓦を袋に入れて何度も持ち上げたそうだ。そして施設は完成したが何分にも敗戦色が濃くなった頃であり、当初の目的は果たせぬ間に終戦を迎えたらしい。

これが何の目的で何を作っていたか正確には分からないが当時若い技術関係の兵隊さんが数多く来ていたとのことだった。少なくなった太平洋戦争の遺物がこんな所にもあった。1時間ここに居て、来た道を引き返す。結局最後まで雨具を着たままだった。4年ほど前に登った時も雨にたたられた。どうも高尾山には縁が無いようだ。本日は手頃な二つの山を登った。両方とも低い山で特に太々山は頂上の眺望は全くなく繁った雑木で薄暗い。

無名峰であっても仕方ない様な山だ。しかしこんな山でも登って見ると明らかに誰かが登った形跡がある。私が目にした書物の中では唯一 出雲の山々 の本の坪背山の記事と一緒に紹介があったぐらいだと思う。それも"坪背山からの縦走路があるが何年も人が歩いたことがないので止めた方が良い"という程度の記事だったと思う。しかしそれでも登る人がいるからおもしろい。人が登らない山に登りたいという気持ちは山の高さに関係なく山登りする人の気持ちのどこかにあるかも知れない。

そんな山を雨の中、しかも登り初めからヤブコギをしながら登った6人の中の誰がそんなに物好きだろうかと弁当を食べながら一人一人の顔を改めて見つめ直し該当する人を数えていくと開いた手が丁度 グー  になった。アアースエオソロシヤ (+_+)   (た)
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鼻高山(御来光登山 2) 536 m:2月12日:曇: 参加者(3名)北村、畑親子: 雲のため視界不良。当然時間が来ても太陽で出ず。次回に期待

三瓶山 1,126 m:大田市:2月11日〜12日:曇晴参:加者(4名)島田、山根、勝部、落部
出雲発10:00 登山開始(姫逃池)12:30 頂上15:10勝部氏登頂17:30 下山開始8:30 下山10:10 出雲着11:30

10時に出発,9号線から大田経由で三瓶山北の原へ着く。ここでカレー、蕎麦で昼食を済ませ、三瓶自然館で三瓶の模型を見て今日登るコースを確認したりして食後の休憩をする。ここには500円でスノーシュウとかの貸し出しがあったが、以前借りた経験から今日の登山には向かないと止める。 姫逃池より登山開始。今日は頂上小屋で泊まるので、背負うザックの中身が多くその重さがずっしり肩に食い込む(朝重さを計ったら17キロあった)。

ここで雪が20センチ位あり、登るにつれ多くなることを予想して3人とも最初からカンジキを付けて登る。2人か、3人の足跡があり有難い。この人達は泊まるのだろうか?それとも下山される途中で出会うのだろうか。しばらくはカンジキの跡をたどって登る。3合目辺りにあるカラマツ林の中で雪に座って昼食をとっていた3人連れに出会った。聞くと少し先まで登ったが雪の為道が判らなかったので引き返して来たとの事。そしてそれから先は誰も登っていないから気を付けて登ってくださいとの答えが返ってきた。

我々3人はカラマツ林の中の東屋で休憩し、上着を脱いだりザックを整えたりし再び出発する。やはりここからは足跡もなく、ひたすらラッセルすることになる。雪の為登山道が分らず時々立ち止まり、先のルートを確認することが度々あった。しかし今日は泊まるので急がず標高50メートル毎の標識で休憩する。それでも思ったほどの雪でもなく、天候にも恵まれていたのでどうにか登れるが、もし吹雪いていたりすると、即リタイヤである。 1000メートルを過ぎた辺りからは雪が60センチくらいあり、木々に氷が付き霧氷が素晴らしい。

残念ながら青空でないのが惜しまれる。ここは今までと違い強い風が吹いている。いつ登ってもあと5分の標識からの登りがつらい、それでも霧氷の木々の下で写真を撮ると、疲れた顔の中にも満足そうな表情があった。頂上まで2時間40分かった。ここは何時もながら凄い風で、雪が飛ばされ地面が出ているところもあったが一面の雪景色だった。 ガスの出ていない内に3人で記念撮影を撮る。やはり今日登ったのは我々だけの様で足跡もない。小屋へたどり着き、入る前に写真を撮るがその床下には長いツララが下がっていた。

小屋の中には雪が吹き込んでいて、2階からも一部水滴が落ちており、夜が不安になる。まず小屋の中を掃除し、雪を取り除き着替えを済ませ暗くなるまでにランタン等、夜に備えて準備を済ませる。そしてまずは今日この雪の中を無事頑張って登った事にビールで乾杯!おいしい!最高である。みんな本当にいい顔である。 窓の外を見ると白一色で何も見えない。もちろん夕日も見えない。

4個のランタンの灯りだけが頼りの ながーい夜の始まりである。もうこうなると食べることと、飲むことしかなくてビールの乾杯が呼び水になり ながーい ながーい 飲み会の始まりである。各自のザックからいろいろなものが出てくる。酒、焼酎、ヒレ酒等。あっという間に月桂冠900ccが空になる。まだ箱の中に酒が残っているのではと騒動していたら、燗していた酒が突然青い炎を出して燃えたのにはびっくりした。

そうこうしていたら何か外で音がしたので出てみるとなんと勝部さんであった。出発が遅れたがその後一人で登って来られたのだ。バンザーイである。大歓迎で迎え再びビールで大きくカンパーイ。丁度17時30分だった。ウィスキーにチョコレートも加わり、モツ鍋、ラーメン、そしておでんも出て盛り上がった。冷えるのと飲んだことでトイレが近くなり代わり代わる寒い外に出るのがつらい。それに身の回りもの全てが冷え込んで冷たい。いったい何度なのだろうか?靴下の中にホッカイロを入れて暖を取る。

20時過ぎに飲みくたびれたので片付けをして一旦各自寝袋の入る。暫くしてコンロのガソリンを追加しに起きたら、窓から月が見えたので外に出て写真を撮ったりしたらまた飲みたくなり、残り物で2次会が始まった。結局寝たのは22時だった。以前あまりにも寒くて眠れなかったので今回はしっかり着込んで、ホッカイロを身に付け眠りにつく。疲れと飲みすぎでイビキが凄かったと思う。そして夜はやはり寒かった。

翌朝は7時に起きる。外はいい天気の様で、窓は凍り付いて開かなかった。ラーメン等で朝食を済ませる。外は風が強く寒いので雨具をつけて小屋を後にする。頂上の標識の前で記念写真を撮る。勝部さんは苦労して登られたので思い残すことがないようしっかり撮っておられた。ゆっくり下山する。途中950メートル辺りで休憩している昨日の人に出会った。今日は2人で5時に松江を出て再挑戦することにしたそうだ。昨日と変わって今日は私たちの歩いた跡なのでずいぶん楽だったと話しておられた。 
10時10分下山。11時30分家に帰り片付け後風呂に入り山登りの疲れを癒した。(お)
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鼻高    536 m:2月13日:曇:参加者(2名)武田、貞子: 天王山 11:40 頂上 12:50 下山開始 13:40 天王山 14:30

忙中閑有とはよく言ったもので、仕事の都合で帰れないと思っていた三連休が思いの外順調に物事が進み休めることになった。これも日頃の精進のおかげと低山歩き三昧をするつもりで喜んでいたが最初の休日は町内の新年会、次の日は中学校の同窓会とすぐに埋まってしまう。

体調は絶好調であったがこの2日間で体力を使い果たしてしまった。今日はまた浜田に帰らねばならない。今朝天候が良ければ鼻高山御来光登山を予定していたが天候が思わしくなく取りやめる。天気予報はそんなに悪く無かったが9時を廻ってもはっきりしない空模様が続く。

そういえば昨夜の同窓会で久しぶりにあった同級生が顔を見た途端に武田はさんすい会に入って山に登っているそうだなといきなり突っ込んできた。話を聞くと私と同様近隣の山を登っているらしい。誰から聞いたかと質問する前に彼の職業を思いだし察しが付いた。彼はさんすい会の誰かと同じ〒マークに勤務していた。色々話を聞いたが芯からの山好きになってしまったようだ。

そんなことを思い出し遅くなったがやはり近くの山に登ることにする。知恵ある人なら選んで登るだろうが当てもないまま天王山に向かう。久しぶりにポチを連れて登る。犬と戯れながら登ると1時間10分かかってしまった。途中一口水で犬は給水した。今日はおかげで久しぶりにオチラトと山を見ながら登ることが出来た。昨年の春頃から感じているが天王山から鼻高山への登山道の周囲が荒れて来た。次第に醜い山姿になってきた。

鹿の被害と山の手入れが皆無の為、カズラの様なものが木々を覆い尽くし、その結果樹勢を無くした木が昨年の台風で一気に倒れ、ひどいところは連なってぽっかり地面が開けている所がある。それに周囲の竹が枯れ、先程のカズラの不規則で不気味な姿がやけに目立つようになってしまった。手前の斜面の竹も殆どが枯れ地面がむき出しになった。その地面を見るとやけに鹿の爪跡が残る。

里山が荒れる と最近テレビ番組で時々目にするがそれがそのままこの山にも当てはまる気配になってきた。昨年の大晦日に御来光登山で登った際に、雪で枯れ木や生木が折れて登山道に落ちていたのを片付けながら、同じ事を感じた。35年ほど前この辺りでアケビ採り、栗拾いをした豊かな山の幸は何処に行ってしまったのか。当時からは想像できないほど荒れてしまった。植林をし、そのまま何の手入れもせずに、20年30年の月日が過ぎるとこれほど山が荒れるものかとしみじみ感じる。

しかし北山は今も昔も自然林ではない。昔は近くの出雲平野に住む人達の燃料を補給する里山そのものだった。薪になりそうな雑木は切られ、今よりもっと明るい山だったろう。私も小さい頃、親に付いて薪を採りに登ったことがある。それぞれの地区に管理する山があり私の四絡地区は遥堪峠下の辺りがテリトリーで、霊山寺(101段々)から登った。

みんな楽して薪を採りたいもので山の下の方から、道に近い方からと木を切り才の神辺りまでの登山道に近い辺りは殆どそれらしい木は無くなり鎌ではとても切れそうにない大きな木と、反対にとても薪にならない小さな木、小さくても将来値打ちが出る松の木、それとハゼの木だけが残り、今とは比べものにならないほど明るい森だったと記憶する。切った雑木の株から新芽が出て、何年か後には立派な薪になり、常に需要と供給のバランスが取れて決して禿げ山にならなかったから不思議である。

明るい山には適当に日が射し込み赤松の根元には今は想像もできないほどの松茸が生えていたことだろう。おそらく旅伏山から弥山の先の日御碕まで北山の殆どがこの里山と呼ばれる人の出入りが多かった山だったと思う。木を大切にしながら木を切り出していた頃は木を痛めるカズラや茨の類は無意識のうちに切り取っていたに違いない。北山周辺に限らず今どこの地区の道を走っても道のすぐ横の木にはこのカズラが木を覆い尽くし、その木以上に太陽の恵みを受けている。特に今の葉を落とした時期には木にからみついて、不気味な曲線を描きながらその木の幹の形が分からないほど太くなったものが目立つ。

有史以来、人が入り込んだ山に、ほんの数十年前の燃料革命と共に人の姿が消えた。それと前後し、その人の入らなくなったその山に植林事業ブームが押し寄せた。日本全国で針葉樹の植林が始まった。建築用材となる杉や檜、松の植林である。この期間には沢山の人が通常的に山に入り、以前にもまして賑やかになるかと思えた頃が確かにあった。

丁度その頃小学校の美術の時間に山に木を植えよう! 題した戦時中のプロパガンダの様なポスターを描かせられた思い出がある。あれから40余年たちその頃植えた木はそろそろ日本家屋の用材としてその利用が始まった頃だろう。しかし幸か不幸か大国になった日本は海外から加工済みの用材を輸入し、もうそれを必要としなくなった。(1950年農林産業振興の為全国植樹祭が始まる。木材の輸入を制限し国内の森林産業を振興保護する積りであったが早くも50年代に住宅ブームが来て木材が足らなくなり木材輸入の規制を緩和する。今は80%が輸入) 

生活様式も変わり田舎でも杉や檜の柱が一本もない家が多くなりつつある。植林をした山は荒れて山の姿を変え、植林をしなかった(正確には出来なかったかも知れない)山はもてはやされている。山陰でも人気のある山は全てと言っていい程、広葉樹林の山である。確かに季節を問わず広葉樹林の中を歩くと気持ちがいい。春の若葉も良し、夏の木漏れ陽もよい。秋の紅葉はもとより葉を落とした冬の姿も捨てがたく、これに吹雪の後の樹氷が見えれば一日中雪の中を歩き廻りたい気持ちにさせる。

この冊子(ドームと松の木)の名前はある人が言った次の言葉から付けた。 ドームが見える山と松の木が生えている山は嫌い これを私なりに解釈するとドームが見えると言うことは近くの低山であり、松の木があると言うことは標高が低いことも意味するが、松・杉に代表される針葉樹が植林された山のこと。これはこの時期に植林をした山を意味する。ドームが見える見えないは別として、確かに広葉樹林の中を歩くと気持ちが良く、疲れを感じない。

反対に植林されてその後手入れをしていない林の中は薄暗く、枯れた下枝がきれいに食べたサンマの骨のように見える姿は戴けない。植林が全て悪いのではない。早い時期に植林され、その後ある程度、大きくなるまで手入れをした林は明るく、また別の趣がある。真っ直ぐに伸びた赤松林や京都北山に代表される杉や檜には広葉樹林と違った美しさがある。日本の山も、あと20年いや10年ほど手入れを続けていたらもっと美しい、楽しい山になったろうと思うと残念である。

里山だった北山はもう過去のこと、本来の人が全く入らない自然林の植生に戻るまで数百年かそれ以上の年月がかかるだろう。先の事は分からない、温暖化の為の海面上昇で何処かの埋め立てに利用されて陰も形も無くなっているかも知れない。あの頃、全国の子供たちが一心不乱で描き続けたポスターにより日本の山は全て木曽や京都北山杉の様な美しい森林になるはずだった。何処でどう歯車が狂ったかは知るよしもないがインベーダーのようなカズラに征服されつつある姿を見るに付け、当時 山に銭にならない広葉樹を植えよう! と描いた子供が居たら、それこそ先見の明のある大天才であったかも知れない。

ただし戦前生まれの担任の先生はそれを見て憤慨し、おそらくその生徒は廊下で立ちっぱなしのお仕置きが待っていたことだろう。しかし歴史は繰り返す。今のまま伐採を続ければ世界の森林は半減するだろう。そしてその時、小さな子供たちが、 一心不乱に山に木を植えよう とポスターを描く姿がまた見えるかも知れない。などと勝手に根拠のまるでない想いを巡らせながらの古里の低山歩きもまた楽しいものだ。

【今日の鼻高山語録】ゴジラはビルの街を派手に破壊するが、カズラは深く静かに思い出の里山を消す。 (^_^)/~   (た)

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大万木山 1,218 m:頓原町:2月19日:曇:参加者(1名)落部:渓谷コース
     出雲発8:00 登山開始9:15 下の小屋10:15 地蔵尊10:55頂上12:15 下山開始13:25 下山15:00 出雲17:00

今日は家でゆっくりするつもりであった。朝食も済ませ朝寝と洒落込こもうとしてまずは今日の天気予報を見たら夕方まで雨はなし、それに南の空が明るかったので急いで支度、行く先は明日登る予定にしている大万木山である。 買い物をしたり忘れ物もあったりしたが8時過ぎに出発する。

養魚場まで除雪してありここから登山開始。滝見コースから登る。途中から見た大万木山は頂上付近は木々が白く見える。霧氷でなくても木に雪が付いているのは確かである。雪が40センチくらいあり、最初からカンジキを着けて登る。もし登れなかったら引き返すつもりでひたすらラッセルである。

最初の小屋まで1時間かかる。ここまで登ったので先に行くことにする。やはりここからは雪が多く難儀する。50分で地蔵尊につく。この間が一番つらい登りで、いつ止めようかと常に思う。雪は1メートルを超えている、ここで記念写真を撮る。ここからはいつもの登山コースでなく、直登することにする。登りやすいところを捜し捜し登る。以前付けた赤いテープがあり助かる。

最初のピークまで登りほぼ平らになるとほっとする。しかし雪道で辛い事には変わりない。明日の為にも頑張って喘ぎ喘ぎのラッセルである。 神戸川の 源流の上では珍しく雪をかぶった大山と烏ヶ山が綺麗に見えた。登り始めて3時間で頂上へ。頂上小屋は屋根に雪を乗せている。小屋の鍵が壊れていて戸が開いており中に雪が吹き込んでいた。小屋の中はマイナス5度だった。早速ラーメンで体の中から暖を取る。

今日は急いで出かけたのと、前回三瓶山に登りザックを変えていたので箸を忘れて困ったがブナの木の枝で箸を作ったので事なきを得た。今日はさすがに誰も登ってこず。私一人の大万木山である。外の雪は軽く1メートルを越えている。三角点のある頂上には行かず下山する。雪がチラチラ舞っていた。明日はどうだろうか?佐田町を過ぎたら雪は雨に変わっていた。5時に家に付く。(お)
(写真)権現滝 
大万木山 1,218 m:渓谷コース:頓原町:2月20日:曇:参加者(5名)落部、山内夫婦、竹下、吉井
  出雲合丁集合7:30 登山開始9:15 下の小屋10:00 地蔵尊頂上12:00 下山開始13:15 下山14:37 出雲17:00

雪の斜面には昨日登った跡がついているので登りやすかった。

、西龍 312 m:大社町鷺:3月 3日:晴:参加者(5名)総勢45名 土江、北村、落部、梶谷、武田   (大社町鷺銅山を訪ねる会に参加)
大社町図書館9:00 鷺港 登山開始10:15 龍頂上12:45昼食 西龍頂上 下山

出発前新装された大社図書館入口に集合し本日のオリエンテーションを受ける。鷺銅山の資料と、そして一人一枚ずつに向の蒲鉾屋さんの揚げたての天ぷらを貰った。揚げたてをすぐにでも食べたい気持ちであるがこれは今日の昼食まで我慢のようである。

大社町長の挨拶で始まった。続いて梶谷氏から本日の予定と鷺銅山の概略の説明があった。各自車で出発し、先ず初めに鷺港に行く。改めてみると良港である。ここから精錬した銅を積み出したそうで、遠い昔まだ大森銀山が発見されるずっと前から海路を利用し今の福岡県辺りへ移出していたそうである。ここの銅には銀がかなり含まれており、持ち帰り精錬し直すとかなりの銀が取れたそうである。ここからの買い付けもそれが目的のひとつだったかも知れない。それは石見銀山が発見された後はここからの買い付けは無くなった事にも現れている。

しかし明治になり富国強兵の旗印に全国の鉱物資源の見直しがあり、この鷺銅山もその時再度掘り直すことになったらしい。これから戦後暫く採掘していたらしい。今日の参加者の中には地元の高齢者がたくさんおられたので、当時の話を聞くと、戦後も鉱山会社の事務所があり賑やかだったそうである。精錬の時出る毒物の為、その周囲の木々はほとんどなく、川は汚れ、当時は異様な風景であったそうだ。公害そのものである。それが社会問題になるのはもう少し後のことである。

しかし公害が問題となった頃には既に閉山になり直接ニュースで取り上げられた記憶はない。 登山口は鷺港から鷺峠へ進と右に新しく高尾トンネルを経由し中山に向ける三叉路がある。これをまっすぐ峠方面に2〜3分進と右に車が数台置ける空き地があり、この反対側にある。木立の中を注意して見渡すと石垣があり当時この上に鉱山の事務所があったそうである。登山道は上まで続くと思うが途中古い鉱山跡、精錬場跡等を見ながら迂回しながら登ったので実際の登山道の様子は分からない。

どちらにしても、途中から特に急になり左手にこれも史跡なのか30〜40センチくらいの石だらけの崖がありこの下を斜めに登る。今にも崩れそうで危険である。ここらから30分近く崖の下やら急斜面を登ると鞍部に出る。 左が龍、右が西龍だ。左に5分少々登ると龍の頂上に着く。頂上は一方だけ開けていて真下に鷺港が見える。この近辺では珍しく高さの割には登り概のある山だ。それでも登山口から寄り道せず登れば45分くらいで登れるようだ。帰りは先程の鞍部まで帰り右に下りず、直進し西龍を経由し登山口に下りる。

参加した地元の古老に話を聞いた。この登山口にあった鉱山の事務所から先には民家が無く、徴兵され入営する時には村人がここまで見送りに来たそうである。

ところで主催者の梶谷氏は遠い昔この鷺銅山から出土した銅により今の出雲大社で銅剣、銅矛、銅鐸を作ったとの説を実証すべき活動中である。勿論それは荒神谷、加茂岩倉遺跡のそれと結びつくのである。何はともあれ、いつもと少し違う山登りであった。(*_*)   (た)
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大万木山 1,218 m:渓谷コース:頓原町:3月11日:曇後小雪:参加者(6名)島田、落部、勝部、持田、北村、武田 (児玉夫婦)
  出雲ドーム集合7:00 登山開始8:25 下の小屋9:00 地蔵尊9:45頂上10:50 下山開始12:10 登山口13:30 出雲着15:00

7時のドーム集合には4人、途中の頓原道の駅で勝部、持田の両氏を加え6名の参加。雪の為養魚場の別れに車を置き登山開始。雪が硬い様なのでカンジキを付け登り始める。 地蔵尊からは斜面を直登する。頂上小屋にザックを置き三角点のある頂上に向かう途中から雪が降ってきた。頂上には150センチ程の雪がある。避難小屋で食事をする。小屋の中でもマイナス3度である。

勝部さんは水を忘れたので雪を溶かしてラーメンを作り始め、それぞれが思い思いの昼食が始まる。ストーブの為気温が5度まで上がってきた。片付けて下山する頃になって止めたはずの児玉さん夫婦が登って来られた。帰りに やまなみ で土産を買いドームに3時前に着いた(お)

三郡山 806 m:亀嵩側:能儀、大原、飯石郡:3月18日:参加者(2名)土江、落部
    出雲発8:00 登山口(亀嵩)9:45 頂上 10:55下山開始12:00 下山12:35 出雲14:00

快晴で天気の心配は全くなし、明日はさんすい会の定例会で三郡山の予定である。しかし明日は気圧の谷が通過する様で限りなく雨の様である。今日は北山に登ろうと思ったが鹿の駆除をしているので南の山に行くことにする。いろいろ考えた据え、明日昇る予定の三郡山に向かう。

亀嵩から登り始めるが雪が多くカンジキを採りに車まで引き返すと、土江さんがやって来た。これなら心強い。 頂上からは霞みがかかっていたが雲ひとつなく雪をいただいた大山、南には船通山から吾妻山、昨年のこの時期に登った猿政山、そして私の大万木山まではっきり見えた。(お)

三群山 806 m:亀嵩側:能儀、大原、飯石郡:3月19日:快晴:参加者(10名)土江、北村、島田夫婦、勝部、持田、岡、浜崎 落部夫婦
      ドーム集合8:00>登山口(亀嵩)10:10>頂上11:15>下山開始12:30>下山後(亀嵩温泉経)> 出雲16:00

天候は怪しいが誰も電話してこないので決行と決め準備を進める。昨日と同じ亀嵩から登山開始。いつ雨が降ってもおかしくない。登りつくまで降らないでほしい。ゆっくりペースで登るが土江さんは早い、何処にあのパワーがあるのだろうか。

雨を予想して今日はタープの持ってきているが、これも一人で持っているがそれでも先頭を進む。登山道脇にはマンサクの花が咲いており歓迎してくれているようだ。頂上に近づくに連れて小雨が降ってきた。勝部さんは傘をさしてしんがりから、頂上はまだですかと声掛られる。北さんと私も傘をさす。

所々雪庇のあるところは雪が多い。頂上には既に松江ハイキングの人達が20人程おられ、全員カッパを着けてこれから下山の様だ。中によく山で会う人が二人居られた。この人達を追い出すようにタープを皆で張る。おかげで全員雨をしのぐことが出来た。これもタープを持ちあげてくれた土江さんのおかげである。

この頃より本格的に雨が降り出した。でもタープの下で楽しい食事が始まる。もちろんビールで乾杯。登る途中で採ったフキノトウをゆでてマヨネーズで美味しく食べている人もいた。勝部さんの焼きたての小さいメザシがとても美味しかった。雪の中で記念写真を撮り雨具を着けて12時30分より下山開始。下りて長寿の滝まで行ってみる。帰りに亀嵩温泉の玉峰の湯に入り今日の山登りの疲れを癒す。

山に登って温泉に入るパターンは女性には好評の様で次回もとのリクエストがあった。4時過ぎにドームに着き今日は久しぶりに反省会をすることになり、持田さんと始めての浜崎さんは帰られたが、代わりに島田さんの息子と福庭さんを加え10人で近くの吉兆で行った。おおいに盛り上がり山の話に花が咲いた。山よりも反省会の方がよけい疲れた。(お)

鼻高山 536.5 m:出雲市(平田市境):3月26日:曇 :参加者 (1名)武田、ポチ

御来光登山に集合するも他の会員の姿は見えず。星も出ていないので家に引き返す。テレビを見ていたが11時前にリュックの中に折角作って貰った弁当があることを思い出す。急な思い立ちだが愛妻弁当消化目的鼻高山登山作戦を試みる。11時過ぎ天王山から登ると頂上直下で先日の同窓会で話をしていた同級生の夫婦ずれが下りてきた。

はまったようで連続で出掛けているらしい。頂上にはたくさんに人が居るとのことなので、ポチを登山道脇の木につなぐ。頂上では2組10人ほどが昼食を食べ終わった頃だった。13時前だったので10分もしない内に下山され一人で弁当を食べる。見晴らしはさほど良くなく食べ終わるとすぐに下山。

連れていったポチがあまりにも痒がるので掻いているところを見ると2ミリぐらいの丸いダニが3匹ほどいた。帰ってからダニ取りの薬を付けてやると治まったようだ。北山は鹿が多くダニが季節を問わずいるようなので気を付けよう。(た)
【今日の鼻高山語録】 怖いのは鹿のダニより社会のダニ

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鼻高山 536.5 m:出雲市、平田市:4月1日:快晴:参加者(1名)落部:天気が良く大山、沖の郷山、大万木山、大江高山に隠岐の島も良く見えた
登山口(天王山) 9:25 >頂上> 10:20

沖の郷957 m:頓原町:4月2日:曇時々晴:参加者(4名)岡、福潤A落部夫婦、土江
出雲ドーム 8:00 登山口 9:20頂上 10:30下山開始12:10 出雲ドーム着 15:00

先週の大山を中止したのでその代わりに雪が残っているかも知れないが楽なこの山に決めた。4人が集合。土江さんは種まきで間に合えば来ると言っていたが姿はなし。

佐田経由、頓原道の駅でトイレ休憩。この山は久しぶりである。雪で登山道が分らないのではと思ったがその心配は全く無し、稜線まで35分かかる。今日は時間があるのでここから左に160メートル先の沖の郷神社まで行き展望を楽しむ。引き返し先ほどの道を今度は右に取り頂上に向けて600メートルほど歩く。頂上には雪は無し、北斜面と登山道にわずかに残っているだけだった。

昼飯にはずいぶん早いけれど、雪のある大万木山を眺めながらの食事にかかる。朝は寒くて途中の道路の温度表示は3度で頂上はさぞ寒いと思ったが、さにあらず穏やかで暖かかった。暫くすると土江さんが登ってきた。かなり急いだと思う。休憩もせず35分で登ってきたらしい。暫くぶりに頂上でゆっくりすごし、土江さんの食事が済むのを待って下山する。

帰りはコースを変え途中の竜頭ヶ滝を散策して帰った。今日はほんとうにゆっくりで余裕のある山登りで、ドームへは3時に着いた。(お)

鼻高山(御来光登山 3) 536 m:4月 2日:晴:参加者(4名)北村親子(3)、武田
ドーム集合>4:50日の出>5:55 日の出位置は大山と嵩山の間に 

昨年はこの時期にはもう14回も御来光登山に参加していたが、今年は低調で今日は3回目。しかもこの第3回目も何度も企画したが、それぞれの都合が悪く足並みが揃わなかった。

今日はもう4月、たるんだ気持ちにむち打ち登り始める。55分で頂上へ。朝日は大山と嵩山の中間辺りから登り始めた。冬至の頃、大国山辺りから登っていた事を思うと大きく東へ移動したものだ。この日の出位置の移動に季節の変化が直接結びついているのだろうが普段の生活では感じない。それどころか"暦の上では"との表現をよく使う通り、半月も、1ヶ月も遅れてその季節を感じるのがその常である。

昔は二十四節気で季節の細かな変化も見逃さなかった日本人の自然への細かな気使いが、季節を春夏秋冬の四つの呼び方にしてしまった時、消えてしまった。私の大好きな言葉に" 旬 "がある。この言葉も21世紀の早いうちに消えて無くなる言葉の一つだと思っている。 野菜や果物にも今は季節感がなくなった。それどころか海の魚でさえ気象の変化で取れる時期が変わってしまったと、地元の漁師さんが嘆いていたのをずいぶん前から聞いている。

飽食の時代の最後はこの旬の味を楽しむ為、金と手間暇を掛けるのが、最高の贅沢になるかも知れない。春先の近くの土手からこの旬が始まる。カラシナ、カンゾウ、ヨモギ、セリ。少し遅れて、タラノメ、ワラビ、ゼンマイ、ウド、ワサビ、ミツバ、タケノコ。初夏は若鮎、土用のシジミ、秋は焼けば脂の飛び散るサンマ、山にはアケビ、サルナシ、キノコ、冬は近海から上がる脂のたっぷりのった魚。宍道湖のワカサギ、シラウオ・・・などその季節の旬の食材を口にすることが最高の贅沢になる時代がやがて来るだろう。

しかし私の小さい頃はそれが当たり前のことだった。小さい頃宍道湖のワカサギを自転車で売りに来る小父さんがいた。その夜はワカサギの砂糖醤油付焼きが皿一杯に出た。七輪で、しかも炭で焼いた物だ。これを熱いご飯の上にのせて食べた味は今も忘れない。当時、自然は貧しい農民にも、その季節の旬を分け与えていた事がこれで感じ取れる。

しかし幸か不幸か、この程度の楽しみしか無かったのも現実である。時代が進み得た物のもたくさんあるが、失った物もたくさんあることに気付く、しかしその無くなった物だけを今の時代に持ってきても始まらない、良かったこと以上に悪かったこともあっただろうし、その両者を含めた全てのものがその時代なのだから・・・。

昨年この鼻高山登山道の中寺跡付近でアケビをたくさん取った。大変懐かしかったが、若い人は種ばかりだとあまり食べなかった。持ち帰り知人に配ったが懐かしがった割には旨く食べていないだろうと思う。それは口に含んだ種を吐き出す場所も無いほど住宅事情さえも変わってしまっているのだからしょうがない。

綺麗になった庭には吐き出せず、ジュウタンの上に新聞紙を敷いて弱々しく吐き出しても美味しくはないだろう。やはりアケビは口一杯に含んだ種を全力で大空に向けて45度の打ち上げ角で日頃の恨み辛みと共に吐き出してこそ美味しいものだ。

残念ながら今日登った2人の子供達には私たちが小さい頃この山で得た山の幸の思い出を残してあげられない。それでも小山の小父さんとふるさとの鼻高山に登った事は大きくなっても忘れないでほしい。【今日の鼻高山語録】シラウオを採る漁師の手は決してシラウオの様な指ではない(た)
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大江高山 808 m:山田側:大田市:4月8日:快晴:参加者(1名) 落部
  登山開始 9:10最初のピーク休憩所10:30 頂上1:05下山開始12:30 下山13:50 出雲15:30

kobaimo 家の近くは何処も桜の花が満開である。今日はイズモコバイモの花を撮るために大江高山へ向かう。大田祖式の町では桜はまだ蕾であった。山田側より登る。登山口には2台の車が止まっていた。

9時10分登山開始。登山口からすぐの杉林に入る手前のいつもの所に咲いているのを見つける。少し遅かった感がする。小さい花なので腹ばいになって息を殺して撮るのだが、何しろ風もありクローズアップなのでブレそうで写真の出来具合が心配だ。小さい三脚がほしいものだ。ここでしばらく時間をかけ花を探して撮影を続ける。撮ったあとは見つからないよう隠しておいた。来年もまた咲いた姿を見せてほしいものだ。

今日は春霞と言うより黄砂のため最初のピーク休憩所と書いた看板に書いてある山々もはっきり見えなかった。ここからの尾根には昨年なかったイズモコバイモがひっそり咲いていた。小さい花なのでつい見落としそうだ。今日はじっくり撮っていても誰も登って来ない。ミスミソウも咲いていたが少し早いようだ。頂上には誰もいない。

カレイとピラフで食事をしていたら暫くして、二組の夫婦、3人の男女、単独で4人、その他1グループが登ってこられた。尾道からの人、写真をとりに登ってきたという神西の人と暫く話をする。

12時30分下山開始。下りる途中稜線に登るときには見なかった春を告げる女神のギフチョウを見ることが出来た。それも一瞬であったが止まったので望遠で撮る事が出来た。13時50分下山、家には15時30分に着いた (お)               
(写真)イズモコバイモ
               

鼻高山(御来光登山 4) 536 m:4月9日:晴:参加者(4名)来原、畑夫婦、武田
集合4:30 >登山開始4:55> 頂上 5:45> 日の出 5:45> 下山開始6:45

一名の姿が見えず出発が遅れた。55分に登山開始。途中4路別れで小休止。霞の為視界が悪い。諦めていたが真っ赤な太陽が出てきた。今日はさんすい会定例の花見。その時間に合わせて北山を歩き回った後、会に参加する予定であったが、北村氏不参加の為他の人と一緒に下山する。彼岸花の緑の葉が登山道横にたくさん出ていた。この花は変わっていて夏に葉が枯れ秋の彼岸頃花だけが出て咲く。

花見 天王山4月9日: 参加者(13名)土江、島田夫婦、岡福庭、落部夫婦、持田夫婦、今岡 飯塚、日下、武田
ドーム集合10:00> 天王山 10:50>開始11:00> 片付終了15:00

毎年第2週目の日曜が花見だ。いつも少々遅い感じがするが今年は今日に合わせたかのように開花が重なった。快晴で何年ぶりの花見日和であった。後から貰った写真には調子を出している姿がはっきり写っていた。この日の為に列車で浜田から帰った甲斐があったが、帰りの列車の中でもまだ酔っていた。無事浜田駅下車。一安心
鯛ノ巣山〜大万木山縦走仁多町、 頓原町:4月16日:曇一時雪:参加者(10名)土江、落部、島田夫婦、勝部、北村、福庭、浜崎、武田夫婦
ドーム集合 7:30>登山開始10:00> コウモリ岩>鯛ノ巣頂上11:05> 頂上発11:20>鉄屋山> 毛無山14:00> 峠(竹下氏石碑)14:40> ドーム17:00
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前夜は浜田から帰り小山町の割烹 まないた で知り合いとの久しぶりの会合は盛り上がり、おまけに帰りに妹の家に寄って帰ると12時をとっくに回っていた。 今朝は御来光登山の予定日で4時過ぎに北村氏が迎えに来たが二日酔いどころかまだ完全に酔っていた為断念。7時のドーム集合には何とかたどり着けた。

本日は10人の参加、3台に分乗して鯛ノ巣山登山口まで行き乗員を下ろし3台とも下山予定の杉戸林道の峠まで車を回す。残った者はとりあえず上の駐車場まで歩く。9時10分頃上の駐車場に着き回送した3人を待つ。私はあまりにも喉が渇くので近くの沢に水を汲みにいく。

その間に女性軍は先に登ったらしく帰ると島田、勝部氏の2人だけ。運転して行った3人が帰るまで暫く待つ。揃ったので10時に登山開始。下山予定地までは車でも結構時間がかかるようだ。(往復45分)その分歩く距離も半端なものでは無い。

最初は植林され手入れの行き届いた杉の木立の中を歩く。昨夜の疲れの為足が重い。昨年秋にコウモリ岩まで一気に登ったのが嘘のようだ。コウモリ岩前のベンチで暫く休憩、早い人はここで先発の女性軍に追い着いたそうだが私が着いた時はすでに出発した後だった。コウモリ岩を左に巻き尾根まで急登する。岩の陰には残雪があった。

途中枯れ木の中に白い花が咲いている。コブシとばかり思っていたが落部さんに言わすとあれはタムシバでコブシはここらには自生していないそうだ。しかし枯れ木の中に慎ましく咲く姿はおそらくコブシのそれと変わりない。

尾根に出て左に進むとすぐに頂上だ。当然一番最後である。記念写真を撮ってから縦走開始。4,5分で正面に猿政山が見える断崖に出る。いい景色だ。ここから更に尾根を進む、昨年高校の山岳部の大会用に新たに整備をされた道だそうで、ここから暫く左に猿政山を見ながらの尾根歩きが続く。大きなブナの木の中を歩いたり、膝まで笹の中を歩いたり、そして左後ろを振り返れば猿政山がいつもそこにあった。

今はまったく葉が出ていないがやがて半月ほどすれば若葉越しに見える猿政山もまたいいのではないかと思う。ブナの木も大きく、大万木山にも引けを取らない。むしろ猿政山の雄大な景色が見える分こちらの方が一枚上のような気がする。私の数少ない山行の中で大山周辺の山は別格としてこれまで一番いいところだと感じた。

この山陰で私の好きな山行のシーンは、大山周辺は別格として、大万木山の5月の若葉が出始めた渓谷コースの下り、紅葉時期の猿政山林道から見た鯛ノ巣、大万木山々塊の遠望、秋の北山の尾根歩き、雪の三瓶山頂上等、しかし今日からはこのコースを新たに付け加えておきたい。

先を急ぐと、あるピークで木にすがりながら、立ったままで弁当を食べている人がいた。これから鯛ノ巣まで行って帰るとのこと、時間がないといっても別に立ったままで弁当を食べなくてもいいような気がするが、人にはそれぞれのスタイルがあり他人がとやかく言う事ではないかもしれない。何はともあれ12時はとっくに回っているのに昼食がまだの我々は少々うらやましい。

何度かアップダウンを繰り返し鉄屋山のピークで遅くなった昼食にする。ところが昼食が終りかけた頃から、もう4月の半ば過ぎというのに雪が降り始めた。雨具を着た人もいたが、私は持参していたがそのままで早々に出発する。どうにか大事に至らず暫くすると雪は止んだ。

毛無山を14時に通過、雪でまだまだ白い大万木山が目の前に近づいてきた。急坂を下り何度かアップダウンを繰り返し14時40分車を廻しておいた峠に到着。土江会長は大万木山への縦走路を確かめに切通しの斜面に登って行った。いつかこのコースも歩く機会があるだろうが今日はここでおしまい。置いていた2台に分乗して今朝の鯛ノ巣山の登り口まで引き返す。

車の中では久々に歩きがいがある楽しいコースであったと話が弾んだ。帰りに掛合道の駅に寄りドームには5時に着いた。(た)

鼻高 536 m:4月22日:曇時々晴:参加者(1)落部:   天王山10:50>頂上11:37>下山開始12:30>下山13:20

鼻高536 m:4月23日:快晴:参加者(1+1)  落部、武田

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伊怒谷峠登山口11:00> 伊怒谷峠11:40> 鼻高山頂上12:10> 伊怒谷 13:17>登山口14:00

御来光登山に4時15分集合するも待ち人来ず中止。満天の星空に月が煌煌と出ていたが諦め帰る。折角の弁当を無駄に出来ずポチを連れて再度鼻高山を目指す。人の少ない伊怒谷より登る。ポチは頂上東の急坂も一気に登る。頂上手前で鎖を掛け、上がると、なぜか落部さんがいた。他に山内夫婦とその仲間。類は友を呼ぶ(た)

鳶ヶ巣本陣上林道9:45 >林道終点10:08> 伊怒谷10:20> 心臓破りの坂10:38> 頂上10:55> 下山開始 12:55> 伊怒谷峠13:17

鳶ヶ巣本陣の上の林道の広場に車を置き歩く、今日は風が強く快適な縦走路である。ほとんど雲のない天気なのに頂上からは大山も隠岐の島も見えない。何人か登ってこられる中に山内さん夫婦が居られた。この人達もこの山が好きなのだ。お互いにこの山で出会ったことを笑っていた。すると暫くしたらポチを連れた武田さんが突然現れ、これにもびっくりした。(お)       
今年初めての   ~>〜〜〜 に遭遇

船通山1,143 m:仁多郡横田町:4月29日:参加者(2名)島田、落部 カタクリの花には少し早かった
  出雲(矢野町)発7:30 >登山口8:50> 頂上9:50>下山開始11:30> 下山12:25> 出雲着14:00

毎年4月29日はこの山にカタクリ登山である。今年はまだ早いかなと思いながら、良い天気なので島田さんと自宅を出発する。簸乃上荘近くには自然観察会があるようでたくさんの人が集まっていた。亀石コースの駐車場にも多くの車が止っていた。

花を見ながらゆっくり登る。ハシリドコロ、ミヤマカタバミがたくさん咲いていた。横手コースには所々に残雪があった。ここに残雪があるとカタクリの開花は遅いらしい。既に頂上にはたくさんの人が登っていたが、やはり開花には少し早く、数える程しか咲いていなかった。

広場を背に蕾のカタクリを見ながら、南の吾妻連邦を眺めつつ少し早い昼食をとっていたら、知らない間に広場は超満員なっていた。何枚か写真をとり下山する。降りる途中にもたくさんの人が次々と登って来られた。家族ずれが多く、中には腰の曲がったおばあさんも見かけた。木次のフジハラの焼さばで一杯やり、明日の毛無山の天気を期待する。(お)

毛無山(岡山)1,218 m:岡山県新庄村:4月30日:曇後雨:参加者(12名)土江親娘、島田、勝部、福庭、岡、持田夫婦、飯塚、田辺、落部夫婦
ドーム集合7:30 >登山開始 9:50>大岩(6合目)10:35>頂上11:05> 下山12:10> 出雲ドーム15:10

天気は下り坂模様で、西から雨になりそうである。しかし昼過ぎまでは持ってほしい。今日は前回とルートを変え鳥取県側より登る。登山口は結構高く展望のある所で、大山と烏ヶ山が一望である。登山口にはたくさんの車が止っていた。いきなり階段の急な登りから暫く登るとタムシバ、オオカメの木の花が咲いていた。

5合目の標識のある所にはまだ蕾のカタクリ,そして一輪 紫のショウジョウバカマが咲いていた。7合目から9合目にかけては登山道の脇に沢山のカタクリの花が見られた。頂上は予想に反してさんすい会だけだった。頂上は寒くて下山してから食事をしたが食事が終わる頃にはついに雨が降りだしやがて本降りになってきた。(お)

八国見山  三沢要害山:快晴:広島県口和町>島根県仁多町:5月3日:参加者(5名)山内夫婦、溝端、落部、武田
  ドーム発7:30> 登山口9:30> 頂上10:22>下山開始11:50> 登山口 12:25

  (八つの国とは備後、安芸、出雲、隠岐、石見、備中 伊予、伯耆) 大万木山に登ると南にスッキリと綺麗な三角錐の独立峰が見える。ずいぶん前から機会があれば是非登ってみたいと思っていた。仁多町から高野町に抜け高原の中の狭い道を走る。

特に標識らしき物もないが広島からの帰りに下見をしていたおかげで狭い道ながらすんなり登山口に着く。登山口の看板を見るといかにも整備してある山かと思ったがその先は標識もないほど手が加えてなくうれしかった。

頂上からの展望は良くない様だが幸い今の時期はあまり葉も茂ってなく木の間から大万木山を眺めることが出来た。ここからの大万木山はなだらかな大きな山に見えた。帰りに君田の道の駅による。

時間の余裕があったので仁多町の三沢要害山に登る。名前の通り尼子時代の三沢氏の城があった所。頂上からは先日縦走した鯛の巣山から大万木山もはっきり見え、雪の残る大山も見えた。15時40分ドーム着。往復200キロのドライブだった。(お)

三沢要害山(みざわようがいさん) (418.5m)は三沢氏の城で別名 鴨倉山 と呼ばれ中世の山城跡で石垣が当時のまま残っている。北に斐伊川、南に阿井川があり、中国山地が一望できる。この日は見通しがよく大山が見えた。その昔尼子の配下に出雲十旗といわれる国人がいて、白鹿、三沢、三刀屋、赤穴、牛尾、高瀬、神西、熊野、真木、大西と出雲の各地の拠点にそれぞれ難攻不落の要塞を構えていた。しかしこの三沢城も尼子氏が毛利氏に服してからは廃城となったらしい。

各地に要害山と名の付く山があるが何処も同じ様な運命をたどっているようだ。出雲市の神西湖の南側高倉山にもこの城跡が残る。(龍王山竹尾城、高倉城とも呼ばれる)初代城主は鎌倉幕府の地頭として来た小野高道。

その後地名の神西を性とし、代々神西三郎左衛門を名乗り、尼子の時代には西の石見方面からの侵入者の突破を許さぬ難攻不落の頼り甲斐のある城だったようだ。この山には十数年前から"神西まつり"の夜、山の上に電球を城型に組み上げ点灯させると幻の一夜城が再現される。(た)

鼻高 536 m:5月4日:快晴:参加者(1)落部:
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天王山10:30>頂上11:48>下山開始12:26>下山13:00

鼻高山 536 m:5月4日:快晴:参加者(3)武田,板倉夫婦,ポチ: 今日は伊怒谷から。天王山に車を回すと落部さんの車があった

鼻高山 536 m:5月6日:晴:参加者(1)落部: 連休収めの鼻高山登山ゆっくりりした山登りを楽しむ。

大万木 滝見コース:1,218 m:頓原町:5月13日:晴:参加者(1名) 落部
  登山口(滝見コース)9:20>避難小屋(下)9:45> 地蔵尊10:35>頂上10:55> 下山開始12:20> 登山口13:30

今日は少し早いかなと思いつつもサンカヨウの花を見に大万木山へ.この山は安心して登れる。今年もまだ5月なのにずいぶん登った気がする。膝が心配なのでいつもよりゆっくり登る。イチリンソウ、ユキザサ、チゴユリ、ムシカリ(オオカメノキ)の花が綺麗であった。 権現滝の直ぐ上に通行禁止のバリケードがあった。いきなりなのでかまわず登ることにする。

一服岩を過ぎた辺りより林道工事の為、山の木々が伐採されており登山道はその木の為にふさがれていた。ひどいものであるこんなところに車が通る林道が出来るのかと思うと悲しくなる。 地蔵尊で休憩していたら直ぐ下の林道から男性一人、女性4人のグループが登って来られた。思わずさっきの愚痴を言うと、まったく同じですとの返事が返ってきた。木々の緑は色とりどりで逆光で見る葉は特に綺麗だった。草花の開花時期に合わせて登るのは難しいが今日は良かったかもしれない。

頂上小屋の前でサンカヨウの花を撮る。頂上広場には何組かの人が先に登っていた。頂上の標識は私の背たきの170センチありこの前登ったときにはこの辺りに120センチの雪があったようだ。広島から犬を連れた夫婦と話したが、もうマムシが出ているらしい。以前登った時犬がかまれたが少し腫れただけですんだらしい。頂上でゆっくりし下山する。滝の所からは写真を撮る為沢を下る。(お)

津和野城址 5月25日:晴:参加者 武田:<久しぶりに津和野の街を歩いた。>

ヨハ イワミノヒト モリリンタロウ トシテ シセント・・・・・・

上の言葉は森鴎外(モリ オウガイ 本名:森林太郎 モリ リンタロウ)の遺書の書き出しである。もともとこの人は陸軍の軍医であり、軍医としては最高位の陸軍軍医総監まで上り詰めた人である。しかし軍内外のしがらみにより九州小倉に左遷される。九州に行く前から片手間で書いた小説が世の中に認められ今では文豪 森鴎外 と呼ばれる。

まあ早い話が世間のしがらみにもまれ己の人生が自分の意図しない方向に進んでしまいせめて死ぬ時は普通の一人の人間として人生を終えたい。と言う気持ちを差し障りが無いよう表現した言葉だと理解している。解りやすく書くと、「もともと私は石見の片田舎に生まれた森林太郎と言う男です、皆さんには色々とお世話になりまぁしたが、死ぬ時ぐらい自分の好きなようにさせてくださらんか。」と言うことになろうか。

この人の墓が津和野にある。心有る人が建てたのかその墓には 森林太郎 の文字しか書いてない。昭和30年代に、その津和野にも国道の改修の話が持ち上がる。出雲に当てはめると今市から高西を通り知井宮に向かう旧道に替えて新しく渡橋から白枝に抜ける9号線ができた頃の話である。

この時、役所の計画は今と同じく街中を通らず近くの山の中腹を通っていた。地元で反対意見が出た。「そんな山の上を国道が通ればこの津和野の町に来る人はいなくなる。お上のすることは地元無視のことばかりだ。」それでも国道は街中を通らなかった。当初の計画通り山の中腹を通る。

しかし今、津和野が全国版の観光都市になったのは国道が街中を通らず古い町並みがそのままま残ったからこそ叶えられたものであり、その結果、昔の人が想像し心配した事と反対に今は全国からたくさんの観光客が訪れる全国版の観光都市になってしまった。おまけに山陰の小京都の名前まで付けて貰った。役人がそこまでの事を考えて決めたものかは別として、その結果は先見の明そのものである。

津和野町の役場の入り口は昔の武家屋敷風の門である。近くから移築したらしい。それを見てもそれが役場の玄関と気付く観光客は殆どいない。有名な鯉がたくさん泳ぐ溝のすぐ近くにあるのに関わらず。。。。。      ここの出身者にもう一人 西周(にし あまね)という人がいる。

何をした人か分からないが切手になるほどの人であるから偉い人であったろう。ただしその記念切手がシリーズで売り出された時、国内でもその人を知る人が少なく記念として保管せずに使ってしまった人が多く、今に残る枚数が他の人の切手に比べて極端に少なく現在の値段はそのシリーズの中では他を圧倒してダントツで高額だ。

二人とも明治に活躍した人だが生まれは江戸時代である。幕末の津和野藩は財力も気力も無く、長州の倒幕軍が山陰道を京都へ向け進軍を始めた時、幕府方の津和野藩の領内に入れば長期の戦になるだろうと覚悟していたが、いざ国境の峠を越えると津和野藩の兵隊は城に立てこもったきり何もせず倒幕軍の通過を唯見ているだけだった。

この情けない話は後世の語り草になっている。ちなみにその時浜田藩は一応戦らしきものはしたらしいが、その前の第2次長州征伐の為に財力兵力共使い果たし、また時代の追い風を受けた倒幕軍には、その敵でなかったらしい。(自らの城に火を放って逃げた)

数年前さんすい会で十種ヶ峰(とくさがみね)に登った帰りに、この津和野城址に登って見た。今は石垣しか残っていないが、そこから見える津和野の町は箱庭のようで、その中を蒸気機関車が走る風景は印象的で、また行って見たい所のひとつである 。

森鴎外から学んだ事 : 鴎外の鴎の字は正式には鳥の字の左に 區 という字を書くが私のパソコンはいくら打っても出てこなかった。子供に付ける名前は読めない当て字でもせめてパソコンで打てる漢字にしよう。(津和野町役場町民課戸籍係推奨?)(た)
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聖山、高岳縦走、三段峡  頓原町:5月27日〜5月28日:曇後雨〜曇:参加者:(9名) 土江、山根、今岡夫婦、福庭、岡、森山 山田、浜崎
         ドーム集合7:30 >大佐山スキー場> 登山口> 聖山頂上12:00> 高岳13:30>下山開始15:00> 下山16:00> いこいの村ひろしま16:00> 宿舎発 8:30>出雲ドーム 17:00

今日は さんすい会 恒例の1泊の山行き。当初15名位の参加者だったが間際になり都合が悪くなった人が続出し、9名の参加になる。西に向かうに連れ心配していた空模様もどうやら大丈夫のようで、大佐山スキー場に10時過ぎに着いた。ここでトイレタイムの休憩を済ませ登山口には11時、先に下山口まで車の移動を済ませ登山開始は11時15分。しかし先程と違い何時降ってくるか判らない空模様になった。念のため雨具の下だけは着用して出発する。 

登山道にはかわいい山野草が多く、特に多くのチゴユリが咲いていた。この頃より小雨になり、聖山頂上には12時過ぎに着いた。ここはガスにつつまれ展望も無く記念写真のみでお腹もすいていたけれど先を急ぐ。整備された道で歩き易いけれどアップダウンの登山道をブヨにさされながらも(やはりこの時期にはカヨワイ(@_@)人は虫除けが必要です)1時間30分の縦走で2時過ぎに高岳頂上に着いた。

頂上の少し手前で雨足が強くなり全員雨具を着用。強風の中難儀しながら土江会長が持参したタープを張る。今年はこのタープが大活躍をする。この下でとり急いで昼食を取る。こんな時にもいつものお供は忘れない人がいる。晴れていれば聖湖とその向こうにそびえる臥竜山に、深入山が見えるのに残念ながら今日はガスで全く見えない。何年か前に蒜山を縦走した時を思い出した。雨風が強くなりカミナリも鳴り出し急いでタープを片付けて15時下山開始16時に下山口へ着いても相変わらず雨は降り続いている。

今日泊まる いこいの村ひろしま には17時に着き、直ぐに温泉に入る。6時30分より生ビールでまずはカンパーイ!!いつもなら二次会、三次会と続くのだが皆さん今日は疲れたのかいつになく早いお休み。女性たちは修学旅行気分でおしゃべり。あまり早く寝たので朝早く目が覚めて暗いうちからゴソゴソしている人もいたようだ。

シンプルで美味しい朝食を済ませ8時30分出発。天気は曇りながらとてもさわやかでまずは新緑の綺麗な三段峡を散策する。ここにも多くの山野草が咲いていて、チャルメラ草、エビネ、ヒトリシズカ、フタリシズカは直ぐに判った。

予定していた登山は止めて八幡湿原を散策し、帰りは天気の回復する中、もう一日ずれていてくれたら良かったのにと思いつつ浜田お魚センターに寄り土産物を買って帰る。ドームへは16時に着いた。(順)

大万木山 1,218 m:渓谷コース:頓原町:5月28日:曇後晴:参加者(3名) 落部 、山内夫婦
市役所8:00 >登山開始 9:15>頂上10:45>下山開始12:00> 下山13:53
ヶ山 1,448 m:鳥取県:6月3日:晴薄曇:参加者(1名) 落部
出発 7:00>登山開始 9:25>文殊超9:55> 鳥越峠10:20> 頂上11:35>下山開始12:40> 鳥越峠13:55> 登山口14:50> 大山発 16:15>出雲着18:30  
    若いカップルの親切がうれしかった一日だった。先週より行きたいと思っていた烏ヶ山にイワカガミの花を撮りに行く。今日はガスコンロも止めてコンビニの食事にする。登山口の少し手前の大平原には新しく出来たビール工場がありそこには奥大山の原水が噴出ていた。

ペットボトルに汲んだのが少しの時間だったのに冷たくて手がちぎれそうだった。今日はいつもの鏡ヶ成とはコースを変えて近くの健康の森より登る。これは昨年の秋、武田夫婦と途中まで登った道である。ここで標高900mある。曇であ

るが非常に蒸し暑く虫が沢山飛んでいる。虫除けでしっかりガードして歩く。 文殊越まで30分やはりユキザサ、チゴユリが沢山咲いていた。鳥越峠の下では花は散ってしまっていたが、サンカヨウが群生していた。近くにヤブレガサがあり、先日の大万木山の雹で敗れたサンカヨウを思い出した。峠には10時20分に着いた。標高1235M ここから右の尾根を登る。始めてのコースになる。

腰までの笹薮の中を歩く、最初は涼しい風があり喜んでいたが、やがてそれもなくなり蒸し暑い上に非常に小さい虫が飛んでいてやりきれない。そして藪は深くなりかすかに残る踏み跡をアップダウンをしながらの辛いのぼりが続く。それでも目の前に烏ヶ山の頂きが見えると頑張って登らなければと思う。そして沢山咲いているイワカガミの花、烏ヶ山を撮りながら登る。頂上直下には危ないところがいたるところにあり慎重に登った。

頂上には11時35分、登り始めて2時間10分掛かった。いつもなら多くの人が居るのだが今日は第一土曜日の為かそれとも大山の山開きに向かったのか?いずれにしても私一人だけである。大岩の上に腰掛け大山を目の前に眺めビールで疲れを癒す。ガスが流れて行く。ここにも虫が居るが払いのける程でもない、シンとした静けさの中カッコウが鳴き、遠くではジュウイチがジュウイチと鳴いているのが聞こえる。そしてホトトギスの声が時折聞こえて来た。

昼を過ぎても誰も登って来ない、鏡ヶ成コースの方に少し下り大山をバックに烏ヶ山を撮る。12時40分下山開始。登る時以上に辛い下山は今日の天候のせいだろうが峠までの下りが長かった。峠には13時55分、上る時より多くの時間が掛かった。そこから登山口までに何人かの人に出会ったが時間はもう2時、これからどうされるだろうか。登山口には14時50分。登りと同じ時間が掛かった。

ここで思いがけない事が起こった。汗で濡れたシャツを着替えてトランクを閉めたら、なんとキーを中に入れたままだった事に気付く。どうしよう!通りかかった若いカップルが止まったので携帯電話を借りJAFを呼ぼうとしたがここは電波の届かない所で、2キロ下がって上るとき水を汲んだビール工場まで乗せて貰い、その上電話代として230円までもらいJAFに連絡した。

 何処の人か知らないが親切なカップルのおかげで助かった。本当に有難かった。待つこと50分,やって来たJAFのサービスに鍵を開けてもらい6時15分帰途に着く。この頃にはすっかりガスが立ちこめ、大山寺まではライトが必要だった。ここには多くの人達がいた。(お)
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三瓶 1,126 m:大田市:6月11日:参加者(4名)落部夫婦、福秩A山田
     ドーム集合8:00 >登山開始 9:22>男、女三瓶別れ 9:56>頂上11:12> 下山開始12:10> 下山13:15
本日はさんすい会定例の山行の予定だったが次週に変更になった為救急で参加者を募る。大田経由で三瓶自然館側から登り始める。蒸し暑く汗が滴り落ちる。登る人が少なく頂上の小屋は独り占めだった。姫逃池辺りを散策し車に戻った途端大粒の雨が降り出す。(お)
櫃ヶ 1,448 m:岡山県湯原:6月18日:晴後曇:参加者(10名) 土江、落部夫婦、増原親子、福庭、岡、持田夫婦、飯塚、
ドーム集合7:00 >登山開始 9:17> 五合目10:10> 東の肩分岐点10:40> 鞍部11:20>頂上11:40> 下山開始12:35> 下山14:15 >温泉発 15:10>ドーム着17:30

一週間延期になった今日の定例会も梅雨の中てっきり雨と思っていたが天気はどうやら持ちそうである。10名の参加。車3台で出発。米子道を走り湯原インターに近づくと急峻な山が見えあれがこれから登る山だと話していたが、やはりその通りでインターを下りて少し走るとすぐに登山口があった。天候は快晴になる。9時17分登山開始。(標高270m)駐車場にはすでに車があり、先に登っている人、これから登る人もいて、やはり人気のある山のようだ。

今日の空模様を見て折畳み傘だけを残し雨具は下ろす。非常に蒸し暑く上り始めてすぐに汗が滴り落ちる。10時10分5合目(600m)で休憩する。目指す頂上はまだ先、以前すごい汗をかいて登り、足がつって辛い思いをしたので用意しておいた梅干で塩分補給をする。普段あまり汗をかかない人も今日はすごい汗である。ここから頂上が見えるが急な登りのようだ。

東の肩の分岐には10時40分(790m)ザックはここに置いて2分の銀冷水の出ている所に行く。女性たちは疲れたのかここで暫く休憩していた。冷たい水がとてもおいしく、水の補給をする人もいた。それにしても蒸し暑さが堪える。ここからは日陰のない急登の道を避け回り道で天狗の森経由を行く。ここはブナの木のあるところで10分くらいで着いたが、上から吹いてくる風がすごく涼しくて今までの暑さが嘘のようであった。元気百倍とはまさしくこの事である。

汗をかいたシャツが冷たく感じるほどであった。少し上には神様を祭った祠があり、なぜか沢山の酒のビンがあった。地元の人たちと思われるがいつ祭りがあるのだろうか。少し離れたところにトイレがあり利用する。思いの外綺麗だったらしい。ひと時の涼しさを堪能して再び登りにかかる。そして鞍部に11時20分(845m)に着く。ここで外のコースから登ってこられた人に出会う。

ここからは木陰のない急な登りであえぎながら登る。暑い中皆よく頑張って頂上に11時40分に着いた。登り始めて2時間20分かかった。頂上には呉から来られた数人のグループがおられた。早速ビールで乾いた喉を潤した。それはことのほか美味しかった。頂上からは大山が見え360度の展望だった。暫くしたら雲が広がり座って食事をしていても時折吹く風がとても気持ちよかった。

12時35分記念写真を撮り下山開始。下山のコースは急な斜面で所々ロープが張ってあった。ほとんどの人が滑って転び尻餅をついていた。私も一番後で下りたが不覚にも下りる人を見ていたら突然滑って転んだ。お尻はすごい汚れになったが、坂を下りた所に谷川があり汚れた手を洗い汗で塩を吹いた顔を洗いすっきりした。帰って次の日に気が付いたが左足の太股が青アザになっていた。疲れきって下山したのが14時15分、すぐ近くにある温泉で汗を流す。ここで今日の疲れを癒し15時10分帰途に着く。

ドームには17時30分に帰った。ここには7月の尾瀬行きの打ち合わせがあり島田夫婦、山田、田辺さんが来ていた。今日は午後から武田夫婦、島田夫婦は鼻高山に登ったらしい。(お)


鼻高山 536 m:6月18日:晴:参加者(4名)島田夫婦、武田夫婦   天王山14:30>頂上15:30>下山開始15:50>下山16:40

朝8時より師匠寺の庭木の摘み入れ、その後親睦グランドゴルフ大会。12時50分からは四絡公民館の前で旬の集会。その集会で島田夫婦に出会う。遅くなったが本日の定例会に出られなかった事もあり鼻高山に登る事になった。

空梅雨の中の晴れ間は蒸し暑い。時間も遅かった為、誰にも会わなかった。気持ち良い汗をかき何か得をした気分だった。(た)
(写真:モクセイ往還)(たまには天王山下のモクセイ往還を歩いてみよう)

一兵山家山,中野冠山 広島県芸北:7月2日:晴:参加者(11名)土江、山根、島田夫婦、福庭、岡、持田夫婦、浜崎、落部夫婦
登山開始9:25> 一兵家山(951m) 10:00>ノベリ山 (940m)10:50>中野冠山(1,002m)12:05> 下山開始13:05> 登山口12:35
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梅雨の最中で少し前の天気予報では雨であったが、晴れに変わってきた。7時ドーム集合。11人の参加。下山口まで車を回しておき9時25分登山開始。(800m)沢山の車が止まっていたが我々より反対側の天狗石山へ向かう人が多かった。今日も蒸し暑くて縦走は大変そうである。私はノートに登山の記録をしたりして最後尾で登る。 登り始めて暫くしたら多くのササユリが私たちを迎えてくれる。

下界ではもうすでに花の時期は過ぎているのだろうがここではまだ蕾の花もあった。登るにつれて汗が吹き出てくる。道の右は草木が生い茂り、左は笹が刈ってあるようで背丈も低くその中にササユリがあった。登山道のササユリにはそっと顔を近づけ花の香りを楽しんだ。こうしてササユリの香りを味わうのは本当にひさしぶりである。

最初の一兵山家山には10時丁度に着いた。ここからはノコギリの歯の形をした大江高山の山群がくっきり見えた。ここでは先を急ぐので記念写真を撮りすぐに出発する。下ってまた登り返す中、木陰があると立ち止まり束の間の涼しさを楽しむ。そして冠山までのほぼ中程にあるノベリ山(939m)に10時50分着く。ここは陰もなく、風もなく暑いので、暫く先の木陰で休む。ここもさすが1000m近い標高なので陰で風があれば涼しい。これから最後のピークででもあり昼食をとる目的地の中野冠山までは1時間以上あるが頑張って進む。

皆すごい汗である。私は体調を悪くしないように以前の経験から干し梅をフィルムケースに入れて持参し、塩分補給の足しにする。最後の坂はそれこそ皆あえぎながら登る。ここでは体調の悪い人には辛い登りである。12時5分頂上に着く。登り始めから2時間40分かかった。直前に足がつって苦しむ人もいた。私も何年か前、汗をかきすぎて体内のミネラル分が少なくなり足がつり痛み苦しんだ苦い経験がある。

ここの頂上は何も遮る物がなく今日は遠くの山まで見渡せる。まさに山座同定にうってつけの山である。まずは会長とビールで乾杯、失った水分を補う。暑いので日を背にして食事にかかる。疲れすぎて食欲のない人が多かった。北西の方向に向いて座るが、正面には以前登った雲月山がやさしい緑の山肌を見せており、東の遥か彼方には大山も見え、暫くは登った事のあるあの山この山の名前談義に花が咲く。

下山後温泉入浴を予定しているので12時5分下山開始する。約30分で車を回している所につく。女性の希望で山の帰りに温泉に入り汗を流すのはこれからの定番になりそうである。ドームには5時に着いた。今日は暑くて大変だったが前回に続いて温泉に入り汗を流しすっきりして帰ったので特に女性には人気だったようである。(お)

鼻高 (御来光登山 5) :536 m:7月8日:曇:参加者(2名)北村、武田:久々の御来光は雲の中から顔を出す(富士足慣らし登山)
富士 3,776 m:河口湖口登山口より:7月13日〜16日: 晴 曇:参加者  武田 (総勢12名)
    出雲市駅発(13日)19:01> 熱海駅(14日)5:42> 河口湖口10:30> スバルライン5合目> 5合目発11:40> 6合目12:30> 7合目着13:35> 7合目発13:50> 8合目着(夕食,仮眠)16:45>8合目発(15日)2:35> 頂上着4:25> 頂上発(下山開始) 5:10> 8合目着(朝食)5:45> 8合目発6:15> 5合目着(下山終了)9:05> 東京(宿泊)12:50> 出雲(JAS) (16日)13:00
【登り:6時間55分(5時間5分+1時間50分)下り:3時間25分】

ヒョンな事から富士へ
知合いがある集まりで富士山に登る事になったそうで気にかけていた。何しろ年齢は40、50代で鼻高山に何年か前に一度登った人が2人いるだけで山とは全く無縁な人達の集団だった。その予定日が迫るに連れて不安になったらしく、私が山歩きをしていると言うので持って行くものやら、着て行くものとかを色々と聞いてきた。

しかし余りにも簡単に考えていて相談を受けた方が不安になってしまった。そこでA4にぎっしりと登山心得を書いて渡した。それが聞いたのか毎晩歩き始めた人やら鼻高山に訓練に登る人、歩いて会社に通勤する人まで出始める。少々大げさに書きすぎたかと反省もしたが、反対にそれでも不足ではなかったかと心配もした。

それも忘れかけた頃、突然に欠員が出たので代わって参加してほしいと言われ急々に富士山登山に参加する事になった。私の登山心得がどの程度通用するかの楽しみもあり、またこの機会を逃すとおそらくこのあと登る機会はないようにも思え参加を決めた。

準備と言っても今の富士山は出雲地方の真夏と真冬の気候が一緒にある山だと思えば間違いなく、登山中の暑さと、早朝御来光登山時の1〜2度の温度を想定すれば十分であると思ったので新しく用意する物はなかった。金曜日の夕方浜田から帰り準備に掛かる。 愛用の木の枝の杖はさすがに不似合いで家にあった伸縮するパイプの杖にした。出発前に北村氏がやってきて来て夜行列車の中ででも飲めと冷えた吟醸酒をおいていった。出る寸前まで冷蔵庫で冷やしておく。今晩が楽しみだ。

駅には12人が集まった。登山の心得書が利いたのか素人にしては皆立派な構えだ。まずは初めて乗るサンライズ出雲で熱海まで行く。豪華な列車で個室寝台に横になれば北村氏の酒が効いたのかぐっすり眠れた。熱海からはバスで箱根、富士吉田、スバルラインを走り河口湖口登山口の5合目に着く。

途中車窓からみえる富士山はとても大きく見えた。5合目は既に標高2,300m。人によっては高山病の症状が出るそうだ。1時間ぐらいこの高さに体を慣らすと良いようだ。今回はガイドが同行する。待ち合わせの時間よりかなり早く着いたのでレストランで少し早い昼食をゆっくりとる。ガイドと合流し登山の注意を聞く。やはり一番注意する事は高山病だそうだ。他にたくさんの注意事項を聞いたが、高山病以外は他の山と変わりはなかった。

いよいよ富士山へ。
行きますよ!の掛け声で登山開始。6合目までは山腹を時計回りに回り込むようにトラバース。緩やかな幅広い直線に近い道をゆっくり登る。時々富士の頂上が見えるがそれは優雅な富士の姿ではなく荒々しい姿である。 5合目あたりが樹木の限界らしく次第に瓦礫の地肌になる。ガイドは10分か15分くらいで皆を止め3分間の立ったままの休憩、その前後に10回の深呼吸を行う。高山病予防にはこれが一番良いそうだ。火事で焼けた山小屋の後が6合目、ここからいよいよ頂上に向けて歩き始める。

瓦礫の幅広い道は思ったほど足をとられる事もなく、登りやすい。休憩の間隔が短く調子が出ないが、ここはガイドの指示に従う。既に1万人の人を頂上に連れて行ったと言うほどのベテランだそうで "私より先に登らない事、先に行った人は必ずダウンする"と決して先に行かせなかった。 天候は曇(実際は富士に雲が掛かっている状態かもしれない)の為直射日光はほとんど当たらず吹く風は冷たく長袖を着ていても殆ど汗が出ない。

高山病の症状が出てない今は大胆不敵にも鼻高山よりも楽だと言う人が出るほどきつくはない。ただ上を見上げれば道は天まで続く。登る方向に小さく山小屋が直線的に点在する。ここから見上げて頂上の様に見えるところは実は8合目だそうで、もうここからは頂上は見えない。

しかしこの場に及んでは頂上など何処でも良く、ただひたすらに目の前に続く急峻な登山道を下を向きながら一歩ずつ黙々と前に進むだけである。 今日は8合目のトモエ館で仮眠を取る予定だ。同じトモエ館が7合目にありここで15分の休憩。ガイドはここまでの体調を判断し頂上が無理と思えた人はここでリタイヤし翌朝皆が下山するまでここで待機する事になっていたが、全員元気でここを無事通過する。登り始めて丁度2時間になる。

しかしこれまでは足慣らし。これからが本当の富士登山の始まりだそうで、ここまでは順調に合数を重ねて来たが目指す今晩の宿の8合目トモエ館にはなかなか着かない。 8合目の表示があっても暫く進むと、本8合目になり、やがてそれは8合5勺となりいつまでも8合目から抜け出せない。

それでも登り始めてから5時間で予定した8合目トモエ館に着いた。出発時間が早くなった事もあったが予定よりずいぶん早く5時前に着いた。夕食は名物のカレーライス(レトルト)には無料の一杯のお茶が付いていた。

早々に食事(下界ではこれを食事とは言わないかもしれない)を済ませ案内された部屋に入る。殆ど地上に出てない建物は高さも低く頭を打つ人が沢山いた。狭い部屋には12枚のふとんがぎっしり敷いてある、幸い今日は人が少なく一人一枚づつで寝られるようだ。多い日は一枚のふとんに頭と足を交互に二人づつ眠ると言うからすさまじい。

外に出て上から見ると屋根の上には石が置かれてありその下に小屋があることは想像できない。明日は天候が悪くなりそうでご来光は望めないのでゆっくり寝ていてくださいとのガイドの言葉でふとんにもぐりこんだが、天候は夜半に回復し急に予定通り2時過ぎにたたき起こされた。

2時半に小屋を出発。小屋のすぐ横の登山道はぎっしり人の行列。ヘッドライトの灯りがはるか頂上の方までつながる。人の流れは横から入り込む隙間もないほどだ。これほどの人が今まで何処にいたのか不思議である。今日はまだいいほうで多い日はその列が2列、3列と並んでいるそうだ。丁度昔の今市の土曜夜市の賑わいである。服装は冬支度、霧雨か霧か天候ははっきりしないが時折星がはっきり見える。全員上下の雨具をつけた。ヘッドライトを頼りに先を急ぐ。

しばらくは人の流れと一緒に歩いたが高山病の症状もなかったのでもたもたする人達を追い抜き先に進む。鳥居をくぐり頂上を目指し急ごうとするともうそこは頂上だった。日の出前の4時25分に着く。次々と人が続き頂上の神社の広場は一杯の人になる。ご来光を拝み全員で万歳。火口を覗くと真反対に気象レーダーのドームが見えた。登頂の余韻を味わう間もなく早々に下山する。登山道と別に下山専用の道がありジグザクの道を降りる。苦労して1時間50分も掛かった今朝の登りも下りは35分で出発した山小屋に着いた。

用意してあった朝食は、レトルトの牛丼、400円の味噌汁を一緒に無理やり流し込む。情けなく涙が出そうだ。30分程ここにいていよいよ長いくだりの始まり。下り専用のジグザグをひたすら歩く。6合目から5合目まですぐそこに見えるが歩くと40分も掛かった。頂上からは合計3時間半ほど掛かった。

全員高山病の症状も現われず何とか目的を達成できた。私を含めた素人全員が余裕を持って登れた事はガイドの的を射た指導のおかげと、それにも増して登りやすかった天候のおかげと思う。晴天で直射日光が照り付ければこうも楽には登れなかったろうし、反対に雨、風になれば8合目までも行けなかったと思う。降りて5合目から見上げる富士は頂上こそ雲に隠れていたが、それぞれが頑張って登って良かったと満足して見上げたに違いない。中央高速を東京に向かう帰路は頂上に雲をかぶった富士山の全景がいつまでも後ろにあった。(た)
 
富士に一度も登らぬ馬鹿! 二度も登る馬鹿!  作者不明


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三鈷峰 1,516 m:鳥取県:7月20日:晴:参加者(3名) 落部,山内,藤原
        出雲合庁6:30> 登山開始(中の原) 8:10>上宝珠山10:15> ユートピア稜線10:45>三鈷峰10:50> 下山開始13:00> 登山口 15:15
梅雨明けの山陰地方、さんすい会のメンバーは昨夜より尾瀬に出発しているが今回はどうやら好天に恵まれそうであり良かった。今日は海の日であるが三鈷峰に向かう。

6時30分出雲合庁集合。暑さに慣らす為に車の冷房を切って走る。今日の山行はユートピア小屋付近のお花畑に咲くナンゴククガイソウの花が目的である。中の原スキー場より登山開始。雨の少ない今年の梅雨で今日も暑くなりそうである。

一面草原の中ひたすら登る。大神山神社から登りの合流点、下宝珠超えには登り始めてから1時間で着く。ここで北山でよく会う梶谷さんグループ3人に出会った。

登るにつれて多くの人が登ってこられ、山内さんは4日前に弥山で知り合った岡山の夫婦と話しておられた。下山の時も一緒だったけれど山好きのご夫婦らしいのできっとまたどこかの山で会うかもしれない。  

上宝珠山には10時40分に着いた。ここにはたくさんの人が休憩しておられた。何年か前この時期に登った事を思い出した。足がつってしまいこれまでの山登りで一番辛い思いをしたのだ。この事を今は幻となってしまったが さんすい会の文集に載せるつもりであった。

今日は梅干を食べ塩分補給をして来たので大丈夫と思う。ユートピア小屋への稜線には10時40分、此処には目指していたクガイソウが一面に咲いておりさらに三鈷峰までの登山道はまるで花回廊であり辛かったが登って良かったと思った。

此処にもたくさんの人がおられた。すごく喉が渇いていたので350ccを一気に空けたが本当にうまい。それに冷たいトマトも美味しかった。此処からは崩れ行く大山の荒々しさが見える。そして烏ヶ山、矢筈ヶ山から船上山まではっきり見る事が出来た。 食事を済ませ、写真を撮りながら頂上で出会った人達と感激を語り合い1550mの像ヶ鼻を目指す。そしてそこにザックを置いて上を目指して登るがきりがなく1600mを超えた辺りからこれ以上は危険なようなので引き返す。

途中一人の女性が遠くの山を見ながら大きな声を張り上げ気持ちよさそうに歌い自分の世界に浸っておられてきつい山登りであったが、たくさんの花に出会うことが出来て本当に登ってよかった。 13時下山開始。下山途中で足がつって座り込んで休んでいる女性がおられた。アドバイスと梅干をあげたがその後どうだっただろうか。15時15分登山口に着く。今日は1500ccの水を飲んだ。帰る途中大山の湧水がある淀江でさらに水分を補った。(お)

鼻高 快晴:  7月23日:10:55〜12:10 ・ 12:45〜13:25:参加者(1名)武田: 富士登山御礼:強風、猛暑それでも中寺跡で物好き登山者一人に遭遇
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尾瀬(燧ケ岳、至仏山) :福島、群馬:7月19〜23日 参加者(11名) 土江、島田夫婦、福庭、岡、山田、田辺、持田、浜崎、森山、勝部

<<<7月19日>>>出雲市駅発19:01:サンライズ出雲><<< 7月20日>>>東京着7:08> 東部浅草駅発8:10:快速 >会津高原駅着11:25 >会津高原駅発12:40:会津バス >沼山峠着14:35 >尾瀬入山14:40:徒歩> 尾瀬沼着15:40: 国民宿舎尾瀬沼ヒュッテ:一泊二食付:\8,500、弁当:\700 入浴有り

<<<7月22日 >>>起床6:00 朝食 6:30 出発7:30:三条ノ滝・平滑ノ(尾瀬ヶ原散策コース):下滝田代〜中田代〜上田代 (至仏山登山コース)山ノ鼻キャンプ場〜至仏山山頂(2,228)〜下山 尾瀬ロッジ:一泊二食付:\8,500 弁当:\700 入浴なし

<<<7月23日>>>起床6:00> 朝食6:30> 出発7:15:植物見本園,鳩待峠> 鳩待峠発10:10:関越バス> 上毛高原駅着12:58> 上毛高原駅発 13:24:谷川442> 東京着14:40> 東京発15:07 :ひかり125> 岡山着19:00 >岡山発19:18:やくも25> 出雲市駅着22:08

<<<7月21日>>>起床6:00 >朝食6:30> 出発7:15:燧ヶ岳:長英新道 >燧ヶ岳山頂(2,356)10:15> 下山開始12:30> 温泉小屋到着16:00> 温泉小屋:一泊二食付き\ 8,500,弁当:\850 相部屋 温泉有り
尾瀬・花と山と湿原の旅
98,99年と会のメンバーから毎年湿原に群生する「ミズバショウ」やヨッピ橋がテレビで紹介され一度は是非と・・・いつも思っていたが、まさかこんなに早く実現するとは・・・ ・・・

7月19日 19:01発サンライズ出雲号へ11名が乗り込む。この列車で東京は始めてである。各自個室(B)寝台はなかなかのもの、早速備え付けの寝巻きに着替え、天候に恵まれる事と安全登山を祈り「カンパイ」予定通り 7:08東京着

 山手線に乗り換え神田で下車 営団地下鉄 浅草まで。8:10発快速 会津高原駅行き乗車まで少し時間があり各自弁当を買って朝食とした。幸い天気は良いし都心を離れ夏の車窓より見える景色を追う。

鬼怒川温泉を抜けたあたり景色も夏山の匂い(此処までに車掌交代3人目・鉄道会社3社とか)11:30 会津高原駅到着 地元の山菜そば・山菜うどんで昼食を済ませ会津バスに乗り込む。

一路沼山峠(福島県)へ狭い県道をバスで登る。「オオシラビソ」や「ブナ」や「ダケカンバ」の樹林の中を後に 14:30 沼山峠着 下車 余りにも登山者の多さにビックリ、売店・休憩所・公衆トイレがある。

身支度を整え、いよいよ尾瀬入山。木道を登り始める。行き交う人また人、さすが湿原植物の日本を代表する景勝地、老若男女さまざまだ。沼山峠展望台から尾瀬沼を見下ろし、そして一面「ワタスゲ」や「ニッコウキスゲ」の黄色のお花畑を歩くこと一時間やっと国民宿舎・尾瀬沼ヒュッテに到着。

入浴、夕食のあわただしいこと(人が多い為)時間はたっぷり有る、明日登る燧ケ岳が良く見える。7:00 サブレンジャーの人達が尾瀬とサブレンジャーの活躍ぶりをスライドを使い更に手振り身振りで面白く説明され楽しいひと時を過ごした。

ざわめいて寝難い、しかし昨夜の夜行列車の為か眠りに着く。山小屋の朝はさすがに早い、4:00 ぐらいから物音がする、6:00 起床 6:30 朝食 予定通り 7:15 出発 弁当を貰い大江湿原へ 木道を歩くこと30分余りで燧ケ岳登山口。ここを右折し少し歩くと木道が切れ、水を含む山道は足元が悪い。長英新道を5.4キロ 登ること3時間で俎ー山頂(2,346m) 俎ー山頂途中で柴安ー山頂がよく見えたが今はガスって来て柴安ー山頂が見えない。

小休止して隣のピークに行く、一旦くだり登り返す、30から40分で柴安ー山頂(2,356m)到着 新潟の高校生やら一般登山客がいっぱい 山頂が狭い。缶ビールでカンパイ! ホット一息 弁当 記念写真を撮る。12:30 下山開始 当初の計画を変更し「見晴」方面へ向かって下山(昨夜の宿の管理人らしき人から聞き少し長いが整備しているから無難との事)さすが長い下り4km 「見晴」の標高は 1,415m 燧ケ岳が 2,356m だから 941m 下がったことになる。 

やっと平地の湿原。更に木道約2キロ延べ3時間歩く、16:00 やっと二日目の宿・温泉小屋到着 今日は歩いた!! 早速風呂で汗を流し疲れを癒す。なんと言っても夕食が一番楽しい、明朝の滝見物は 4:00 起床  6:30 の朝食迄に帰ってくると言う事で打ち合わせ済み、希望者6名が予定通り出発 平滑の滝と三条の滝 宿から片道1時間 行きは下り、帰りは登り。

平滑の滝は名の通り岩盤上をすべるように流れ落ち、三条の滝は楽さ90mの断崖から一気に落下している。今年は例年の3倍の水量と何回か来られた人が話しておられた。予定通り宿へ帰り朝食を終えた。出発 7:15 下田代>東電小屋>ヨッピ橋>尾瀬ヶ原>三叉路>牛首>上田代と約8キロを歩く。

三日目の宿泊地尾瀬ロッジに到着、此処にザックを預け至仏山へ・・・・・目の前の至仏山は見た目には三瓶山か、上り始めたら大山か、近年開通された登山道とかで岩山の難所(一般的には鳩待峠から小至仏山を往復らしい)急斜面で高山植物を見る余裕も無くひたすら登る。3時間でやっと頂上。ガスって眺望はきかない。

弁当、水分補給、記念写真パチリ(至仏山山頂2,228)下山は「ジョウシュウアズマギク」「タカネシオガマ」「チングルマ」「ホソバヒナウスユキソウ」「キバナイカリソウ」「ホソバシュロソウ」等々さすが高山植物の宝庫、目を楽しませてくれる。話も弾む。2時間余りで下山。宿泊地・尾瀬ロッジは今日は風呂無しの日とか、汗だらけの体を拭く。それにしても水の冷たいこと。

一安心しゆっくり夕食を取る。ビール、酒と進む。夕方のひと時全員が至仏山を見ながら話もはずむ・・・。明日はまた早起きをして散策をする。4日目の朝 今日も快晴だ。湿原特有の朝霧が立ち込めて尾瀬独特の景観を呈し、幻想的な雰囲気に包まれる。7:00 尾瀬ロッジを出発。ビジターセンターで尾瀬の全てを見学。

尾瀬の四季・高山植物・生息する動物の模型・湿原地帯に敷かれている木道総延長は約40キロ、材質は外国産のカラマツとか、その木道4キロ緩やかに登る。鳩待峠からの入山者も多い事! 行き交う挨拶も切れ間無し。

予定通り 8:30 鳩待峠到着。此処からはタクシー・バス・電車と乗り継ぎ尾瀬とも分かれる。各自買い物。上毛高原駅で昼食、上越新幹線で東京へ、岡山・出雲と予定通り 22:08着。 全行程元気で踏破し天候にも恵まれ楽しい尾瀬・花・山と湿原の旅でした。(島)
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大万木山 1,218 m:杉戸林道,滝見コース:頓原町:8月5日:晴:参加者(1名) 落部
    登山開始 9:45>地蔵尊9:55> 頂上小屋10:30>下山開始 12:15
朝早く盆前の墓掃除を済ませて大万木山頂上小屋のドアとトイレのドアを修理する為出発する。吉田からの杉戸林道を行き今工事中の手前、地蔵尊のすぐ下から登山開始。 このコースは登り始めて直ぐ木陰になり、今日のように暑い日は助かる。約10分で地蔵尊に着いた。神戸川源流のすぐ上でマムシに出会った。逃がそうとしたがなかなか逃げないので近くの地面を思い切り叩いたら、さらにその近くに別のマムシがいてびっくりした。

少し物足りなかったがいつもの滝見コースの半分の時間で登れた。早速ドアの修理にかかる。修理といってもバラバラになった板を釘で打ち付けるだけである。すぐり終わったが枯れたブナの木の直撃で歪んだトイレ小屋は戸の建付けが悪くなっており、私のテコに合わず取り敢えず使用できるようにしておいた。

ヒヨドリソウが群生しておりその花にはトンボと蝶(アサギマダラ)が群れをなす。その他にも2種類いた。こんなに多くの蝶を見たのは初めてである。下山すると同じ所にまたマムシがいた。今日は本当によく会う日だ。一服岩まで工事が進んだ林道に行ってみた。殆ど利用する事のないこの道、大万木山を傷つけるだけなのに悲しくなる。吉田辺りまで下りたら大粒の雨が降りだしてきた。(お)
鼻高山花火鑑賞 536 m:8月13日:快晴:参加者(5)落部、山内夫婦、土江(卓)、武田
  天王山17:45>頂上19:05>花火19:50下山開始21:30>下山22:20
今年もやってきた。定刻通り7時50分から打ち上げ開始。適当に風もあり快適な花火鑑賞日和。サザエのつぼ焼きを肴にビールが進む。いつもの事ながら夜景が一番のご馳走だ。玉造辺りと、多伎町辺りでも花火が見えたが音は聞こえない。

音の聞こえない花火は焼酎が利いてない奈良漬かビール飲み競争の無い四絡区民体育会かスーパードライを忘れた落部さんのようでなんとなく盛り上がらない。

北村氏は仕事の為遅れて登リ始めたが鹿の柵の所でヘッドランプが分解状態で落ちてしまい真っ暗の中手探りで捜したが(暗中模索)散乱した部品が集まらず登頂を断念した模様。今回始めて同行した土江氏は登り始めは元気が良かったが途中で長時間の休憩。15分遅れて登頂。何度か登ったが花火の内容も天候も今年が一番良かった(た)
(写真)鼻高山から見える花火でなく松江水郷祭の花火です
            
三瓶山 536 m : 参加者(1):落部: 8月15日:  晴: 北の原9:00 頂上10:20

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滑落

世の中には何処の誰の話だと知って聞くと面白い話とそんなこと一切解らなくても面白い話がある。面白いといっても腹を抱えて笑う可笑しさもあれば趣のある面白さもある。もっとも面白いかそうで無いかは読む人が判断することであるから筆者はお構いなく話を始める。

それは私より2つばかり年が上のそれもその人が大学の頃の話であるからもう30年も昔の話になる。彼は高校の頃から山登りが好きで事ある毎に山に登っていた。高校の2年の夏休みにアルバイトをして貯めたお金で一人北海道の礼文島、羊蹄山、ニセコアンナプリ連邦に登った。そのとき北海道の山にすっかり虜になり北海道の大学に是が非でも行きたくなった。そこそこの成績だったので難なく札幌のとある大学に入った。

4年間の内に北海道の山を歩き回り登山三昧をした。今の登山ブームには珍しくはないかもしれないが当時は世間から多少変わり者で見られていたに違いない。やがて就職先も地元の島根に決まり、主だった荷物を島根の実家に送り出す。もちろんこの北海道で使っていた沢山の登山道具も送り返した。 住み慣れたアパートも荷物が少なくなると広く感じる。北海道の冬は早い。紅葉が始まったと思う頃には周囲の高い山には初雪が降る。

そんなある日、友達からマージャンの誘いを受ける。朝から学生寮で一日中マージャンをするとの事、もうこれからそんな機会もないだろうと快く引き受けた。 ところが翌朝アパートから外に出た時あまりの青空に急に晩秋の山に行きたくなり友人に断りの電話を入れる。友人は当てにしていたようで盛んに誘った。友人はどうせ山にでも登るのだろうが今の時期はもう山には雪があり止めたほうがいいと執拗に誘った。彼がもう北海道の山も最後だから近くの山にでも登りたいと言う一言で友人はあきらめた。

電話を切り、送り残していた防寒具とズックを取り出し近くの1500m程の名もない山に向かった。この山はさほど有名な山でもないが春夏秋冬と年に何度となく登ってきた山である。しかし、この山を選んだのはそんな理由からでは無くもうこの時期他の高い山は雪で覆われ、登山道具を送り返した彼にはどうしようもなかったからである。

しかし通いなれた山は楽しかった。登りながらこの4年間で登った北海道の山を思い起こしながら真っ赤に紅葉した登山道を一人登り続けた。8合目辺りから高い木はなくなり瓦礫交じりの登山道は真っ青な空に向かって続く。遥か彼方には雪をいただいた日高の山々が見える。頂上で遅くなった昼飯を食べ下山にかかる。

15分ほど下った頃、瓦礫の中の石ころを避けようと右足に力を入れたとたん滑り出し、咄嗟に何気なく掴んだ山手側の小さな木は其の拍子に根ごと抜け落ち、バランスを失ってしまった。勢いとは恐ろしいもので体は一回転し到底落ちそうもない広さの登山道から谷に滑落してしまった。残念ながら彼の記憶は此処までしかない。

其の日の夜、友人が彼のアパートに行った。もちろん帰っていない。翌朝早く行って見たが帰っていない。これは何かがあったと感じた友人は他の友人に連絡を取る。登山道具一式を送り返す手伝いをしていた友人もいたので泊りがけの山行でない事はすぐに分かった。

昼前になり警察に連絡をした。大学の山岳部の友人たちも集まった。そして昨日の朝、電話で話していた内容をその山岳部の仲間に言うと、はっきりしないがどうも思い当たる山が浮かんできた。警察と山岳部の人達の捜索が始まった。

そして次の日の昼過ぎ彼は見つかった。友人に言った一言が決め手になった。この時期山好きが軽装備で登る山は此処しかないと山岳部員が言った山だった。彼は登山道から150mも滑落していた。助け出される一時間前まで気を失っており、右足骨折、肋骨6本骨折、両肩脱臼で全く動けなかった。疲労と脱水状態で衰弱はしていたが幸い生命には別状はなかった。

 しかし左顔面は、四谷怪談のお岩さんのような顔になっていた。それは打撲をしたせいもあるだろうが、気絶している40時間の間、上を向いていた左顔面に折からの晴天の太陽光をまともに受けた為の強烈な日焼けによる腫れだった。 奇跡だと地元の新聞が伝えた。島根からは心配した両親が飛んで来た。ベッドに横たわるお岩さんになってしまった我が子をじっと見つめる。

一ヶ月半近く札幌の病院で入院していたが松葉杖を突きながらも卒業式に出席しどうにか4年間の北海道の生活を終えた。

実家で暫く静養するうちにすっかり元気になり近くの山にでも出かけようと山道具を探す。どうしたことか何もなかった。一緒に送った他の物はあるのに肝心の登山用具がない。

靴、リュックはもとよりコンパス、地図の類までない。如何したものか。暫くしてその原因がわかった。それは入院をしている間に、父親が登山道具一式を捨ててしまっていたのである。

我が子をお岩さんにして命を奪おうとした山に関連するもの全てを怒りと憎しみを込めて焼き、焼け残ったものは危険物として処分してしまったそうだ。まだ彼が病院のベッドで苦しんでいる頃である。

彼は父親の気持ちが痛いほど分かったし、その行為を問い詰めることは出来なかった。そして今日まで其のことを口にしたことはない。 その思い出話の最後に 山に行く前に友人に何気なく言った言い訳に近い一言で自分は発見され助けられたと 話しを終えた。


これは私が山歩きを始めた頃、三鈷峰に登る途中にあるケルンの事を話した時しみじみと語ってくれた話である。そしてその話しが終わりどうしても聞きたい事があった。

それで今あなたは山に登っていますか?と下種な質問をすると、彼は笑っているだけで答えてくれなかった。今はある町村の山の施設で支配人として働いている。

私の会社の西側(出雲市江田町)にやわらかトンカツの店がある、この看板を見る度にその名の響きがこの話を思い出させてくれる。そういえば暫くこのトンカツを口にした事がない(た)
(写真)三鈷峰のケルン 後ろは大山北壁
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大山 1,711 m:鳥取県:8月20日:晴:参加者(11名)土江、島田夫婦、北村、 今岡夫婦、増原親子、勝部、落部夫婦
    出雲ドーム4:00 >登山開始6:00> 6合目7:20> 8合目>頂上 8:20>下山開始9:15> 下山11:10
この季節は日中の山登りは暑いので、朝方登る事にして朝4時にドームに集合。4台の車で出発。それにしても朝から蒸し暑い、こんな日はとても家に居られないので高い山に登っているのが正解である。

9号線から見える大山は南の後ろに雲はあるものの、全容を表していた。登山口の駐車場はもう既に多くの車が止っていた。どうにか停められたが、これから見ても既に登っている人が大勢いるようだ。6時に登山開始するが、この頃には頂上付近はガスに覆われて来た。登るに連れて風も無く,蒸し暑く汗が噴出してくる。多くのグループと先になり、後になりして登る。相変わらず中高年の登山者が多い。

6合目に1時間20分で着いた。いつもならここから陰も無く暑いのだが今日はガスがかかっており風もあり涼しくなる。8合目のすぐ上からいきなり木道になった。崩壊が進む為の安全対策か,植生保護の為か解らないが、以前は無かったのにいつの間にか出来ていた。木道両側には多くの花が咲いており、トラオノ、シモツケソウ、シコクフウロ等々、下の方にはツリガネニンジンなどが登山する人達を楽しませてくれる。

頂上には8時30分に着き、ここで暫く遅れた人を待っていたら肌寒くなってきた。気温は19度だった。ガスのせいで手のうぶ毛、髪の毛などは露をもってきた。皆で記念写真だけを撮りすぐ下の避難小屋で遅い朝食にする。いつもの物(プシュと音の出るやつ)はどんな時でも皆忘れていない。あの伝説の1000が今度は人を変えて出てきたのには驚いた。

9時15分立ち込める霧の中を下山開始、翔平君は相変わらず元気で、周りの人を笑わしたり疲れて登ってくる人を元気付けたりしていた。6合目まで下りるとガスは無くなり再び暑くなってくる。この時間帯には夏休みも終わりに近づいたので子供ずれの家族が多い、この子達が山や自然が好きで、大切にしながら大きくなってほしいとおもった。

11時10分全員無事下山。帰りはさぎの湯温泉に入り汗を流し昼食を済ませドームに3時頃着いた。ここはまるで蒸し風呂のように暑く大山の頂上で寒かった事がうその様だ。帰ってテレビ゙ニュースで知ったが、今日大山では地域起しの大山烏天狗伝説イベントが開かれており、400メートルのジャンボソウメン流し等もあったらしい。(お)
鼻高山 536 m:8月21日:晴(時々にわか雨):参加者(1)武田,ポチ:12:40天王山より: 雨上がりの蒸し暑さですごい汗
通いなれた山こそポチポチと行こう (写真:トリカブトの中のポチ)

浜田に移り住んで丁度1年になった。久しぶりに机の中を整理していると沢山の写真が出て来た。アルバムに張ろうと思ったまま置いていた物である。これももう1年以上になる。どんな写真かと改めて見直すと鼻高山御来光登山の写真が20枚近くあった。ほとんど北村、畑氏が一緒に写っていた。

珍しいのは積雪の鼻高山の頂上で雨具に身を固めた完全装備姿の5人の写真があった。その中にM苑の森山さんの顔がある。雪が降っていた様で手前に降る雪がフラッシュを受けて白く大きく写っている。日の出時間前か或いは雪の為かバックは薄暗い。足元は一面の雪、ラーメンを食べた後らしく北村氏のガスコンロと鍋が見える。

頂上の枯れた松ノ木もまだ切る前だったようで無残な姿で写る。日付を見ると89:01:15とある。(注:北村氏のカメラは沖縄海洋博の時に購入したもので残念ながら年号の十の桁が8までしかない。Y2K問題以上に深刻な問題だ。)

早速昨年のドームと松ノ木を読んでみると、この日は残念ながら日の出は見えなかったようだ。(気の毒なことにこの年、森山さんは3回登られたが一度もご来光を拝めなかったらしい)驚いたことにこの年は1月15日までに既に2回も登っている。昨年は合計36回も登ったと書いてある。それに引き換え今年の御来光登山は低調であった。現時点で僅か5回しか登っていない。

それにしても昨年のそのパワーは何処から出て来たものだろうかと我ながら信じられない。夏の夜の手ボタン花火が落ちる寸前に最後の一花を咲かせた瞬間だったろうか、などと考えると1年の時の流れを感じられずにはいられない。参加メンバーにそれぞれの都合がありその都合が良いほうに重なり合ったのが昨年だったかもしれない。保険屋のおばさんが持って来るバイオリズムのグラフの様に全てが重なる年が昨年だったかも知れない。まあ無理をせず次回のバイオリズムが重なる時を待とう。どちらにしてももう ひと花も、ふた花も咲かせなくてはいけない。

更に写真を見ていくと鼻高山三角点の横で落部氏とビールを片手に持ちながら二人並んだ写真が出て来た。その三角点の上には灯りを点けたコールマンのランタンが乗っている。これには日付が無く、いつか分からないが斐伊川花火祭りの夜かそれとも愛犬ポチが見えなくなった夕日登山のどちらかだ。この日は写真から見ると落部氏はアサヒドライ(500)私は麒麟淡麗生(350)だったらしい。

思えば、恥ずかしながら、この頃はまだビールも発泡酒も同じものかと思っていた。味については今も解らない。ビール党出雲支部会長心得を自負していた頃は何種類もの中からサッポロ黒ラベルだけは当てる自信があり、飲んだ席でこれをすると皆を驚かせたものだが今はビール党の役職全てを返上し日本酒の冷をちびりちびりと嗜む程度に落ちてしまった。

次の写真は皆の後ろの竹の先に灯りの点いたランタンがぶら下がっている。これにも日付が無いがおそらく斐伊川花火祭りの夜のようだ。花火祭りの夜鼻高山に明かりを点して6年になるが残念ながらその灯りをまだ一度も下から眺めたことが無い。どんな風に見えるか一度見てみたいものだ。 それにしても落部氏と北村氏がこまめに写真を撮っていてくれたおかげで何年か後でもこうして楽しめる。当分アルバムの整理はできそうに無いからこのまま机の上の透明なシートの下に挿んでおこう。(た)
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出雲峠〜毛無山  9月15日:晴:参加者(1名)落部:出雲発 7:30登山開始(六の原)9:25 出雲峠10:05 毛無山頂上10:40 登山口11:30
天気予報と違い晴れている。今日は一人でマツムシソウを撮りに7時半過ぎに出かける。夏の暑さがやっと終わった途端に、今度は次々とやってくる台風の為蒸し暑さの連続で昨夜も寝苦しかった。晴れていたのに横田町に入ると、空は熱い雲に覆われてくる。4年前よりここに来ているが、晴れたのは昨年だけだ。いつ降ってきてもおかしくない空模様になってきた。

六の原より9:25登山開始。歩き始めてすぐに、広島の瀬戸内からこられ、おそろいのTシャツをきた昔の若い人も同時に登られたがコースは別で、どこかで出会うだろう。キャンプ゚をしている人はいたけれど誰も他に登る様子はない。歩き始めは風もあり涼しかったが、やがて蒸し暑く汗が噴き出してくる。

出雲峠には10:05に着いた。今年は秋の花が咲くのが早いようで、マツムシソウも盛りは過ぎていた。カメラの三脚も要らない。昨年もあんなにあった色々の花もなぜか見当たらない。今日はいつもとコースを変えて、キキョウガ丘経由で毛無山に登る事にする。この頃より雨が降り出して来たので傘をさして歩く。15分程で石がゴロゴロした、キキョウガ丘らしき所を通過したら烏帽子より下ってきた道に出た。ここからもよく整備された道を傘をさして歩く。

10:40毛無山頂上に着いた。雨まじりの風が強く視界はほんの周りしかない、先に進むことはあきらめてここで少し休憩して下山する事にした。木の陰で傘をさしてカンビールを空ける。汗をかいた後なので雨が降っていてもおいしい。下りは最短コースをたどる。途中先ほどの二人に出会った。キノコを採りながらゆっくり登られたらしい。

11:30登山口に着いた。雨を避けて六角堂の建物で昼食にした。帰りかけたら又広島の福山からこられた夫婦に出会い山の話をする。 広島には高い山がないのでどうしても県境まで来るとのこと。出雲大社の上の弥山のことを聞かれたので、ついでに鼻高山も紹介しておいた。帰りは比和町経由でかえった。(お)
大黒 315 m :9月16日晴参加者(1)武田,ポチ:農道登山口16:00 頂上16:30 登山道が暗く気持ち悪く興ざめ
鼻高 536 m:9月16日:晴時々曇:参加者(1)落部 :天王山より55分: 頂上直下で緑と赤のど派手な色の蛇に遭遇
葦嶽山 (日本ピラミッド)816 m:広島県:9月17日:晴:参加者(12名)土江、島田夫婦、勝部 福庭、森山、山田、増原親子、落部夫婦、武田
    ドーム集合 7:30>登山口10:08> 下山口(車回送)10:25> 登山口10:35>鞍部11:25>鬼叫山散策> 鞍部11:40> 頂上11:50> 下山開始 12:40 > 下山 13:15
下から見上げても、登山口を登り始めても、頂上からの眺望も他の山のそれと特に変わることはない。向かいの鬼叫山の奇岩も特に驚く程でもない。 それでもどうした事か聞きなれない日本のピラミッドと呼ばれるからには何か面白い話しがあるかも知れないと、それを調べてみるとやはり楽しい話しが出てきた。

近年日本のピラミッドと呼ばれる直接の原因は約十年前サンデー毎日が記事にこの山を取り上げたことに始まる。 もともとこの山を世に出したのは酒井勝軍という人で、1934年にこの山は22300年前の帝王の墓であると発表した。それ以来日本ピラミッドと言う名で世に出たらしい。それをサンデー毎日が約10年前に、日本に残る異説怪説の特集をしたことから再び世に出ることになる。

内容は日本に残る伝説として、青森のキリストの墓、長野の某ピラミッド、幻の日本オオカミ、ツチノコ、ヒバゴンそしてこの葦嶽山の日本ピラッミド説等と、本当かうそかわからない様な記事を毎週特集し続けた。 これが結構馬鹿受けで売れに売れた。この機会を逃すまいと地元は早速登山道の整備をしたり案内板を立てたりして、当時はその筋では結構有名になったらしい。今も日本のピラミッドとして全国版の山である。その週刊誌にどんな記事が書いてあったのかは知るところではないが、どうせウサン臭い記事であったろうと想像できる。

考古学の類はもともと凡人から見ればウサン臭い学問で鷺の銅山から取れた銅で銅剣、銅鉾、銅鐸を出雲大社で作ったと言う説も生まれるし、50m近い出雲大社の本殿の高さも生まれてくる。 ただそんな学術的に裏打ちされた見方でなく凡人の目にもいかにもどうだと言わんばかりに人が並べたような奇岩にも見える、しかし人が並べたように見えること自体が 自然の持つ不思議な力 と考えた方がこの山の場合は賢明なよう思える。何はともあれ816mの山はその山の高さ以上に有名なごく普通の山であった。

帰りは皆と別れて中国縦貫庄原インターより浜田に向かう。便利なもので丁度一時間半で浜田の住処に着いた。空港の整備とか鉄道の整備とか社会のインフラ整備にいろいろあるが一般人が一番恩恵を受けるのはやはり新しい便利な道路がつくことが一番と思う。やがては中国横断道路が陰陽を結ぶようになるであろう、それに向けて工事は進んでいる。出来上がれば今日の出雲からの時間は半分近くに短縮されると思う。

しかしその道路のためにたくさんの自然が壊される。現在鯛ノ巣山から猿政山の景色は雲南では一番というほどの景色である。これを初めて見た時に、まだこんな景色が残っていたのかとやけに感心したものだ。しかし計画によるとこの鯛の巣山の麓にその高速道路が通る。おそらく今の景色とはまったく趣の違う景色になってしまうだろう。

しかし便利になることの裏側にはこんな犠牲があることも現実である。この事の良い悪いの議論は別としておそらく多くの人達が一日も早い完成を望んでいるには間違いないし、私もその一人である。せめて今の景色をそれぞれが自分の心に留めておく事ぐらいしか凡人には出来ないかも知れ無い。

道路も作らず空港の整備もせず日本の原風景を今に伝える日本のふるさと島根県という方向に進む道も過去にはあったかもしれないが、おくばせながら近代化の道を進んだからにはもう引き返せない。他県との遅れを一日も早く取り戻すことにしか生き残る道は無い気もする。それとの引き換えに自然破壊はまだまだ続くと思えば間違いない。

しかし身近な自然は何もそんな大きな事でばかりで壊される訳ではない。私達の身近にある川は道路をつけた為でもなく、大工場が出来た為でもないのにすっかり汚れている。それは普通の人が無意識の内に都会的な便利さとの引き換えに川を汚してしまった結果である。私たちが小さい頃遊んだ川はもう汚くて入れない。

それでも時々、そんな川に対して"この綺麗なこの川を子や孫の時代に残そう"などともっともな話を耳にする、今もそんなきれいな川があるのかと行って見ると残念ながら私の思っている綺麗な川では無い。

私の年代で言うきれいな川とは飲むところまでも行かなくてもせめて泳げる位の綺麗な川の事を想像する。 残念ながら今はとりあえずごみが落ちていない川の事をきれいな川と言うらしい。科学的な数値を満足していればそれはきれいな川である。

山に登って川の話に、こだわる事はないが、そのまま飲めるほどきれいな沢の水は川を下りながら次第に汚れていく。汚して飲めなくなった水をその下流で改めて浄化し飲み水にする。矛盾だらけではあるが仕方ない。

中国に飲水思源と言う言葉がある。本来は別の意味であるが、とりあえず今は"せめて水をのむ時ぐらい自然の恵みを考える"と言う意味にしておこう。(た)     
(写真)向いの 鬼呼山にある巨石
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鼻高 536 m:9月24日: 曇:参加者(2)落部夫婦
天王山 10:51 頂上 11:58 下山開始 12:50 下山13:35
今日は10月の山に向けてトレーニングを兼ね二人で出かける。少しもの足りないが一番行き易い山のなので鼻高山にした。今日は少しぐらいの雨でも登るつもりでいた。雨が降りそうな雲が広がっている。 天王山より登山開始。後からこられた男の人が一人登る支度をしておられた。登山口には鹿の駆除の為の注意看板があったが、いつものことなのでかまわず登る。ゆっくり登ったので途中追いつかれると思ったが、なぜか先に頂上に着いてしまった。

頂上には誰もいず、遠くの山々は見えず斐川町の山、出雲の北山しか見えなかった。私達が食事を始めていた暫くして先ほどの人が登ってこられたがこの山は初めてらしくて迷われたらしい。8月に斐伊川の花火を見に登りよかったが、もしも北神立の河川敷で花火の打ち上げがあればどんなに素晴らしいだろうと思った。そんなこと思うのは私だけなのかも? 下山する頃になっても今日は誰も登ってこない、鼻高山大好き人間、武田、北村、佐藤、山内夫婦も姿を見せなかった。(お)
伏山 456 m:平田市:10月1日:晴:参加者(4名)落部夫婦、武田夫婦 、 ポチ
  伊怒谷から久しぶりに尾根をポチと一緒に1時間余り旅伏山まで歩く。頂上広場の東屋で昼食。ここは昔、烽火を焚いた山だそうだ。おそらく今の神社がある辺りだろう。それにしても犬は元気だ。


インデアン餅つかない

古代の日本に限らず遠く中国のシルクロードでも風雲急を告げる連絡をする場合、烽火を焚いた。これは遠くはなれたアメリカ大陸にもあったらしく西部劇等でインデアンが出る映画にこれを見ることが出来る。もちろん情報を伝えるにはいろいろな方法があった。送り手側が受け手側に直接言う事から始まりやがて文字が出来れば第三者がこれを運ぶことが出来た。

文字になればそれはその時だけで無く、後の世代にまで伝えることが出来た。次第に文明が発達するとその情報を早く遠くに伝える必要が生じる。おそらくその必要が一番あったのは戦争であろう。

人の集まりが村になり町になり国になると、その大きさに比例し争いが次第に大きくなる。それに生き残るには敵に勝つこと。それには敵の情報をいち早く知ることだった。これは古代中国でも同じ事で、一番重要な事は攻めて来る敵の情報をいち早く正確に知る事だったろう。それなら敵の襲来に備え常にその構えをしていれば良い。

しかし兵隊は常にその敵の警戒に当たっていた筈だ。しかし兵隊だけででは到底自分の国を守ることは出来ない。普段は他の仕事をしながら、いざとなれば敵を迎え撃って戦う人達が他にたくさんいたのではないか。むしろ殆どがそんな人達だったかも知れない。

だから、その態勢を整える為には一刻も早い正確な情報が必要であったと思う。狭い国土で兵隊同士が短期間に戦う日本の戦からは想像出来ない。日本人の目で中国のこの時代のことを考えると矛盾だらけで一般人には訳が解らない。

その代表的なものが万里の長城である。いくら長くてもその一部が壊されればそれのもつ意味はまったくないと大方の現代人は思うだろうし、多少知恵のある人は、あの大きさは権力を示すもので実戦にはあまり役に立たなかったなどと、いかにも本当らしく言う。

しかし実際に長城を見ると、大きくしかも緻密に作ってあり、遥か地平線の彼方まで続く。権力を示すだけにしてはどう考えてもおかしい。長い中国の歴史のどこかにそれを必要とした時代が必ず有ったはずだ。当時の中国を治めていた者の一番の脅威は北方の異民族だったと思う。羊や馬を飼いながら大草原を大移動していたこの民族が勢力を持ち領土を拡大し始めると周辺の国との戦いが始まる。

この軍隊は日本の戦国時代の軍隊と違い戦が終わっても帰るところは無い。もともとが遊牧の生活の為、家畜にいい土地であれば10年20年と、そこで生活をする。つまり民族そのものが移動しながら戦いを続けていく。

その数は100万、200万人あるいは想像も出来ないそれ以上の数かもしれない。しかしその中には戦い専門の兵隊の数はそんなに多くなかったはずだ。殆どは普通の遊牧の生活者そのものだったと思う。緑の土地を求めて移動する先にそれを拒否する者がいれば、当然そこで戦いになる。 しかしその戦いで得る物はその国を支配する権力ではなく家畜を養うに足りる土地だけだったかも知れない。

広大なモンゴル帝国を作り上げることが出来たのも他と違う統治の方法を執ったからかも知れない。そんな暮らしを何世紀も続けてきた。おそらくその戦いの途中に生まれ転戦しながら一生を終えた人達がほとんどだったと思われる。或いはそんな暮らしを何世代も続けてきた家族が殆どであったかも知れない。

日本人から見れば不思議かもしれないが民族すべてが移動しながら極端に言えば有史以来移動しながら暮らし続けた生活と考え方は、一所懸命と言う諺の通り狭い土地を耕し続けた水呑百姓の住む日本とはまるで異なる。遊牧の民には望郷の念などないに等しい。また日本の戦国時代の合戦のように兵士だけ移動して天下分け目の関が原のような、その後の国の流れを左右する大きなに戦がたった一日で決着することなど有り得ない。

広大な大陸での長期な戦いには軍隊だけでは必要な物資の補給は到底出来無い。結果、家畜全てを含めた民族の大軍団で移動しなければならないところが強いて言えばこの無敵軍団の唯一の弱い部分かも知れない。

そこに万里の長城建設の大きな意図がある。それは北方民族の兵隊の侵入を防ぐこと以上に必要だったのは兵隊の後に続く家畜の移動や遊牧民の移動を防ぐ事、あるいは、それに時間を費やさせる事であったのではないだろうか。

大きな河川の長い堅牢な土手も、その一部が壊れその下流全域が水没してしまうとその役目は果たせず無用の長物となるが、しかし洪水と違って万里の長城はそれを兵隊が通過した後でもその目的は十分果しているのではないかと思う。兵隊が侵入してもその後に続くものたちをくいとめれば補給手段を持たない兵隊は長く戦えない。

こう考えると十分に長城の目的は理解できる。その後、国が滅び新しい国が栄えるたびに新しく長くしたり補強したりして北方の敵に守りを利かせていたのではないか。その後の中国はその敵だった北方の民族に征服されたことも有ったが、その頃には当初の目的と違って権力の象徴としてこれを補修し続けたかも知れない、そう考えると話のつじつまが合ってくる。

簸川平野の築地松にしても今は北西風を防ぐ為の防風林とされているが、風が強いのは何も簸川平野ばかりでない。 おそらく築地松の生い立ちは斐伊川にその流れを受け止める程の土手が無かった頃、度々起こる氾濫の時に生命、家、家財道具を洪水から守る為、家の四方全てに丈夫な木を植えていた。

つまりは洪水で流れてきた流木等から家を守る為、あるいは家の家財道具、あるいは家そのものの用材が流れ出さない様、小高く土を盛りその上に丈夫な松の木を植え住居の周囲を囲ったことに始まる。それほど斐伊川は暴れ川だった。
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やがて時代が進み、次第に河川の改修が進み出すとそれ程の大洪水が起きなくなる。すると家の四方にある木が邪魔になってくる。始めに日当たりを良くする為に南側を切る。水害がいよいよ少なくなると次に東、北と切り、せっかく大きくなったのだからと西は防風の為に役立つかも知れないとの理由をつけて残す。現在の築地松の格好がこの時出来た。

水害が少なくなると次第に水田を作る人たちが増える。新しく斐川平野に移り住む人達、或いは分家をした人達は以前から居る先人達の住まいを参考にする。新しく移り住んだ人達には先人達の築地松のある住居の姿は豊かな安定した生活の象徴として見えたかも知れない。

この人達は最初から西側だけに松を植えた。その結果、現在のように西側に松を植えた築地松住居の姿が簸川平野に増えていった。今、その築地松を説明する時、「防風の為に西側に松を植えたのです。」 との説明は必ずしも的を射ていない。

風が強いのは何も出雲に限ったことでは無いと言う疑問には全くの答えにならない。ところが斐伊川の氾濫時代まで遡ると明快な答えが出てくる。物事の起源を突き止めることは物事を理解する上で大切であり結局は近道かもしれない。

話を元の烽火に戻すと連絡する為に火を焚けば通じるというものではなく双方が決められた規則によって焚くからこそ、その意味が通じるもので、敵の攻撃を知らせる合図にしてもその数やら進む方向、速さ等の情報を送るには、その規則や方法は単純でなかったと推測される。

平和な世の中になっても烽火は使われた。相場の変動をいち早く知らせ莫大な富を得た賢い者もいた。しかし送り手と受け手が規則によって信号をやり取りしているからこそ出来るもので、火を焚けば話が通じたという事では全く無い。

この取り決めは現代の通信にも当てはまり、烽火の上げ方の規則に相当するものがプロトコルと呼ばれる通信方法の約束事である。今のインターネットの通信もこの全世界的なプロトコルで決めた規則に則った信号のやり取りが有るからこそ実現している。

ついでに言えば烽火ひとつは信号の最小単位。これで表現できるのは有るか無いかの二つだけしか出来ない。たとへば敵が来た合図に烽火を上げれば敵の来襲を知らせることは出来るが、その人数までは知らせることは出来ない。しかし一度消して5分経ってまた点ければ500人以上の敵、それを消して5分経過してまた点ければ5000人以上の敵などと取り決めをしておけば攻めてくる敵の人数の情報が送れる。

しかし、たくさんの情報を送ろうとすればそれだけたくさんの時間が掛かる。それがいやなら烽火の数を増やす。2個つければ500人、3個点ければ5000人ということにしておけば時間は掛からない。

この時の烽火一個が情報の最小単位でビットという。火が点いた時を1にし、点けない時を0とすれば烽火が二つあれば 00、01、10、11の4つの情報が送れる。これが3つになれば000、001、010、011、100、101、110、111 の8つの情報が送れる。4つ有れば16の情報が送れる。

数が増えれば 2,4,8,16,32,64,128,256,512と同時に送れる情報は多くなる。最初のように1個の烽火で情報を送ろうとすれば 0、1、の組み合わせを時間を掛けて送り出すことになる。現代の通信はこの二つをうまく使い分けていて、たとえば電話回線を使う通信は烽火一個を使う方法に相当するから時間がかかる。

それを短縮する為ISDNとか同軸ケーブルなどの高速回線を使う。現在では光ケーブルが最も早く、短時間で大量の情報を送れる。仮に各家庭に一回線入ればインターネットはもとよりテレビ、ファックス、電話、通信に関する全てが一本のケーブルでまかなえる。日本の有名なM氏が言うIT革命の究極は光ケーブルの各家庭への敷設である。

またコンピューター内部ではできるだけ早く、大量の信号をやり取りする必要があるので後者であり、8ビット、16ビット、32ビットコンピュターなどと時折耳にする。話は大きくそれてしまったが、烽火(のろし)は狼煙(のろし)とも書き、(狼の糞を乾燥して燃やすと煙がたくさん出たらしい)古事記の時代には 烽(とぶひ)と書いてある。平田の旅伏山、稗原の大袋山の頂上に有ったと伝えられる。ここの烽はどんな使い方をしていたのか想像すると楽しい。

北米大陸のインデアンは食料となるバッファローの移動の情報をこの烽火(狼煙)を使って、その当時世界で一番高度な通信をしていたらしい。本当ですかと問いただすと右手のひらを肩口まで上げ「インデアン嘘つかない」と言ったとか、言わなかったとか。(た)
嶽山 3,067 m:参加者(2)落部夫婦
10月6日:鳥取西部地震のため一日繰上:出雲市発 18:00(バススープーみこと)広島着21:00 発22:00 岡山 着23:00
10月7日:晴れ:岡山 発 8:19(ひかり112号)名古屋着10:16発11:00(しなの15号)木曽福島着12:22発13:25(バスおんたけ交通)八海山着14:31泊(ペンションどんぐり)
10月8日:曇:八海山発 6:30(車)田の原着 6:50発 7:00(御嶽山登山開始)王滝頂上着 9:23(中央アルプススが雲に浮かんで見える)剣ヶ峰着10:00(御嶽山頂上3,067m)発10:15五の池小屋着12:15(2,780m)ここで昼食発12:45小雨振り出すも紅葉が綺麗濁川温泉 着15:40泊まり(朝日荘)
10月9日:曇時々雨:濁川温泉発 8:40(バス)小阪着10:00発11:16(JR普通列車)下呂着11:50発12:02名古屋着13:38 発14:03(光123号) 岡山着16:00(地震でやくも運休の為乗り換える) 発16:11(のぞみ15号)広島着16:48発16:55(JRバススーパーみこと)出雲着20:29
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世界中の青空を全て東京に集めた日

10月10日の青い空
その全てがまったくの偶然であっても、人はその出会いに神懸かりなものを感じ、己の人生劇場の数少ないドラマの起承転結のどこかに結びつけて、それを一生の宝ものとしたり、貧乏神としたりする。 しかし、どう考えてもその偶然としか思えない事から新しい物語が始まる事も確かにあるようだ。仮にそれが千載一遇の劇的なビッグチャンスでなくても。

話は昭和の初めまで遡る。戦争の陰が何処からともなく忍び込んでくる時代であるが、まだ田舎ではその気配さえ感じもしないある秋の日、その小さな山里の真ん中にある小学校の校庭は運動会でにぎわっていた。最後の競技のリレーでは紅白に分かれたそれぞれの応援団がコースに身を乗り出して大きな歓声を上げていた。 それまでは木陰を求めて校庭の隅から競技を見ていた おじいさんや、おばあさんも、紅、白のたすきを頭に巻いた2人の抜きつ抜かれつの競争に誘われ、中央の輪の中に潜り込んでいった。大きな歓声はその輪の中を走る選手と一緒に回る。その歓声に耳を貸すこともなく、遠くを見つめ、その場の雰囲気にはまるでそぐわないが、もう何年もそこに座っているかと思うほどその木陰の主の様な少年がの木の下の石に座っていた。

彼は運動が出来ない。もう何年も、いや小学校に入ってからずっと。体操の時間は自分以外の友達がはしゃぎ回る姿をずっと見ていた。雨の日は体育館の片隅で、晴れた日は今日と同じこの大きな楠の下で。元気な子たちは彼に気使う事無く、時には飛んでいったボールを取ってくれと、ためらいもなく声を掛け、彼もそれに答え足元に回り込んできたボールを彼なりに力一杯返していた。そのボールは弱々しくもなく、かえって力強くさえ感じる事もある。しかし、また石に座り遠くを見つめる。その姿は後ろの大きな楠に影響されてか、一つの風景と感じてしまう程よそよそしさがない。

やがて二十歳になり徴兵検査を受けたが、誰もが予想したとおり不合格だった。それは今では想像もできないほど当時としてはきびしいことだった。周囲の目を気にしながらも、彼は自分で出来るだけのことはやった。きつい仕事は出来ないが、その分時間を掛けて農作業に打ち込んでいた。その山里には朝早くから夕方遅くまで彼の働く姿があった。決して早い動きではないが確実に、そして黙々と。お国のために為に約立たねばと言う気持ちは、食糧増産と言う当時の農家に果せられた使命に形を変え、それを実行していった。

しかし不思議であった。小さい頃からお前は体が悪いから運動は止めたが良いと言われつづけて来た。言われつづけると不思議なもので自分でもそう思い込んでしまう。思えば今まで息が切れるほど走り回った事も、人と競って先を急いだ事もない。確かに医学的に検査をした結果がそうであればそれに従う事しかなかったかも知れない。しかし彼は働き続けることが出来た。それどころか若い者がいなくなった今では村一番の働き者になっていた。 

村の村長の勧めで近くの娘と見合いをした。自分より4つ下の娘でその兄は自分と同じ小学校の同級生だった。働き者で朝早くから二人の働く姿が見られた。やがて戦争が終る。暫くは山里の暮らしは変わることも無く彼の暮らしも特に変わることは無かったが、のどかな山里の暮らしと関係なく世の中は戦後の混乱を乗り越え着実に新しい時代に変わりつつあった。 昭和39年 長男に招かれ始めて東京に出た。乞うて皇居に連れていって貰った。暫く立ちつくし二重橋の奥を見つめる姿は、小さい頃校庭の楠の下で、遠くを見つめる姿のそれと同じだった。

ふと我に返り空を見上げると、青い空に大きな五つの輪が見えた。航空自衛隊のF86が描くその輪は五色に彩られ手に取るように見えた。歓声こそ聞こえないがその下の国立競技場では、オリンピックの祭典がその頂点に達していた。それは小さい頃の山里の運動会と同じく自分以外の人達の物であり、常に門外漢の自分には、昔の小学校の風景と何一つ変わる物ではなかったが、その五つの輪よりもはるか何処までも続く高く青い空に驚いた。

思えば空の青さをこれ程感じた事があっただろうか。田舎でも空は朝昼晩と見ていたが、山里から見上げる空は、今日の空とは違う。朝はその日の天気を想像し、夕には明日の天気を占う為の空であり、それは全てが農作業に結びつく長い間の無意識な習慣でしかなかった。

東京から帰り疲れが出たのか、掛かり付けの医者に行った。久しぶりである。常に体のことは気にしていたが実際に病院を訪れるのは数年ぶりである。その医者は念の為にと市内の病院で精密検査を進めてくれた。体が弱いと言っても実際に入院するのは始めてである。 検査が始まる前の日に入院し、案内された病室に入ると、6人の部屋だった。入口から左右に3つずつベッドがあり、入ってすぐ左が自分のベッドだった。持ってきた身の回りの物を片付けるとすぐに、反対側の真ん中の男の子が声を掛けてきた。それは田舎の子とどことなく違いあか抜けした声である。

話を聞くと生まれは大阪、母親の実家がこの近くだそうだ、もうずいぶん入院している様でその枕もとにはたくさんの雑誌が置いてあった。その雑誌を取り出し説明を始めた。 見るとその殆どは陸上競技の本である。中には写真の切抜きを集めたものもあった。特にマラソンに興味があるらしくその選手の写真がたくさんあった。東京オリンピックも明日が最終日、明日はマラソンの競技が開催されると盛んに説明する。ベッドの上は写真でいっぱいになった。

そのほとんどが陸上競技の写真であった。こんな少年をひきつける魅力がその競技の何処に有るのか信じられなかった。少年が好きなのは陸上競技の中でも長距離、その中でもマラソンが好きで当時はまだ無名に近かった円谷選手の切抜きがたくさんあった。そしてその写真を広げながら 「小父さん円谷選手は絶対金メダルを取るよ!日本選手の中では円谷が一番だ!」 とたくさんの切り抜き帳の写真を次から次へと指差しながら一気にしゃべりまくった。「ボクは何でそんなにマラソンが好きなのか」と問い掛けると、 「僕は小さい頃から陸上が大好きで小学校の頃、大阪長居陸上競技場であった大阪の大会で何度も優勝したんだ。」 と笑顔いっぱいで話した。

しかしその目は輝いていたが顔色は何処となく、くすんでいて気にかかった。急にその笑顔が消えたかと思うとそれまでの甲高い声とは反対に弱々しくポツリ、ポツリと話し始めた。 「だけど僕は病気になってしまったんだ。もう入院して一年半にもなるんだよ。」 話を聞くと今中学2年生で大阪で1年ここで半年も入院しているそうだ。中学2年と聞いて驚いた。体型は小学校の5,6年生かと思えるほど小さくてとても中学2年には思えなかった。そしておじさんはオリンピックに興味があるかと聞いてきた。とっさ質問に「あまり分からないけどこの前東京で開会式の五色の輪をジェット機が描くのを見たんだよ。」とその状況を説明してやると目を輝かせてその話に聞き入った。すると少年は再び甲高い声でオリンピックの開会式からの新聞の切り抜き帳を出して見せた。

そして「本当は僕も東京へ行きたかったんだけど先生に相談すると止めた方がいいと言われたのでいけなくなったんだ。だけど今話しを聞いて嬉しかった。テレビでは見たんだけどやっぱり見た人に話を聞くと嬉しい。僕も行った気持ちになるよ。小父さん明日はオリンピックの最後の日でマラソンがあるよ、大好きな円谷が走るんだ。一緒にテレビで応援しようよ。」

自分のベッドに戻り、横になったがなかなか眠れなかった。自分は小さい頃走る前にそれを止められ、陸上競技などにまったく無縁の子だった。反対にこの少年はその走る楽しさを知ってから走るのを止めさせられた。無念だろう。走る楽しみをまったく知らない自分にはその少年の無念さの半分も分からないかも知れない。

そして次の日東京オリンピックの最終日も快晴だった。検査の合間にロビーに行くとテレビの前にはたくさんの人がマラソンを見つめていた。もちろん少年は一番前に座っている。その横に座り込む。走る前までは日本を代表するのは円谷でなく君原だった。君原が前回のローマで優勝したアベベを何処で追い抜くかが、おおかたの日本人の楽しみだった。しかし君原の調子は悪く次第に遅れて行く。それに引き換え少年が言っていた円谷が次第にテレビ画面に写り始める。そしてアベベに次いで2番手にまでなった。
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少年は画面に写る円谷の動きに合わせ体を微妙に動かす。その目は一心にテレビの円谷の動きを追う。もっともそれは少年に限らずその場の誰もがそうであった。しかし競技場に入りゴールを目前に円谷はイギリスのヒートリーに抜かれてしまう。その瞬間テレビ゙の前の群集は悲鳴にも似た声を出す。円谷は3着でゴールし、そのまま倒れ込んだ。

群集の悔しさは頂点に達し、挙句の果てにもう少し死ぬ気で走れば銀メダルだったのにと捨て台詞を残しその場を立ち去る者さえいた。 しかし少年は画面から目をそらすことなく小さく手を叩き続けていた。そして 「小父さん円谷は頑張ったね。一生懸命応援した甲斐があったよ。」と群衆に目をやることなく満足気にその場を後にした。

彼は3日目に退院をした。それから半月程すると町内の運動会があった。今年は無性に行って見たくなった。校庭に行くと小さい頃見た懐かしい風景がそこにあった。子供達の紅白に分かれたリレーが始まった。抜きつ抜かれつの競争は運動会の最後を飾るにふさわしく盛り上がった。楽しかった。こんな気持ちは初めてでる。思えば運動会を楽しむ為にこの校庭に足を運ぶことさえ不思議に思えた。

余韻を残しながら静かになった校庭を後にし自宅に向かう。急に少年のことを思い出した。どうしているだろうか。今日の運動会のことでも話に明日は病院に見舞いにでも行ってやろうと田圃の中の道を我が家に帰ると庭先に30半ばの知らない女性が立っていた。話を聞くとあの少年の母親だった。 「今日この地区の運動会があって今帰ったところです。この話を明日にでも見舞いに行って少年に話してやろうと思っていたところです、どうぞお上がりください。」 差し出したお茶を一杯口にして母親は急に黙り込んだ。そしておもむろに話し始めた。その言葉を聞いて彼は耳を疑った。

「あの子は死にました。」 この一言を言うとここになぜ来たかを堰を切ったように話し始めた。 「実はあなたが入院されたその晩に珍しく電話をしてきました。『今日入院された小父さんは東京オリンピックの開会式の飛行機が描いた五色の輪を見た人でたくさん話を聞かせて貰ったよ!僕も行きたかったけどおじさんから話を聞いて安心した。明日は円谷選手が走るのをおじさんと一緒に応援するんだ!』とはしゃいでいました。あの子のあんなにはしゃいだ声を久しぶりに聞きました。一度お会いして御礼を言いたいと思っていましたがそれが今日の報告になってしまいました。」

母親は薄らと涙を浮かべ一言一言を噛み締めながらここまで一気に話した。あの少年は一週間も前に亡くなっていた。彼が退院した二日後、様態が急変しその夜にあっけなく死んでしまったそうだ。帰り際母親は小さなガラスの飾り物を差し出した。直径1センチ、高さが3センチぐらいでその口にはしっかりとコルクの栓がしてあった。そのくびれたところにひもが巻いてあり首に掛けられるようになっていた。中には何か砂のようなものが入っていた。

「このびんは沖縄の土産で中には星の砂が入っていたのですが今入っているのは星の砂ではなく、大阪長居陸上競技場のアンツーカーの砂です。あの子がここの大会に出たときトラックの端にたまっていたのを記念に持ち帰りこの小びんに入れたものです。よろしかったら受け取って下さい。」 その言葉に改めて見ると茶色の小さな粒がびんに半分ほど入っている。走りたいという少年の気持ちがこの中にそのまま凝縮されている様な気がした。涙が止まらなかった。お世話になりましたと帰る母親の後ろ姿を見送ってもまだ涙は止まらなかった。

次の朝なぜか急に走って見たくなった。その意味はわからない。彼は走り始めた。少し走って様子を見る。なんともない。その距離は一日づつ長くなって行く。走り始めてから1ヶ月も経つと毎日2キロを走るようになった。体調を気にしながら次第に距離を伸ばし、次第にスピードを上げて行く。何処までもこのまま走れる様な気になってくる。しかし不安もあった。それを繰り返しながらやがてそれは一年になった。走り続けた。苦しさは次第に楽しさに代わって行く。しかし体は何とも無い。やがて3年になり朝晩に村を一周するようになった。走ることは彼の一番の楽しみになってしまった。

子供の頃から運動はいけないと言われつづけていた自分が嘘のようだった。走った後汗をぬぐい、心地よい疲労感に浸りながらあの少年のことをいつも思い出す。あの少年が感じていた、走る楽しみをこの初老にになって初めて感じた。この楽しさはあの少年からの贈り物かも知れない。やがて各地の市民マラソンに参加する様になり、走ることは彼の一生の楽しみになっていた。 それから10年近い時が経ち、大阪でオリンピックを記念する市民マラソンが開かれることになり彼は申し込んだ。出発とゴールはあの長居陸上競技場だった。

あの少年が走った頃のトラックはアンツーカーから新しい素材のトラックに変わっていた。おそらくスタンドも当時のものとは違うかもしれない。しかし少年の夢であったこの長居陸上競技場を走れることは嬉しかった。彼はここを走ることを無意識の内に目標とし毎日走り続けていたかもしれない。 今日は10月10日。あの日の東京の空に負けない一面の青空だった。あの少年に出会わなければおそらくここに来る機会はどう転んでもなかったろうと思うと涙が浮かんでくる。全力で走ろうと思った。それが少年に対する一番のお返しだと思った。やがてスタートの合図でいっせいに走り出す。走りながら少年との出会いから今日まで走りつづけたことを一つ一つ思い出した。ゴールインすると彼の年代のクラスで一番であった。

表彰台に上がると地元のテレビ局が取材に来た。若い女性のアナウンサーはインタビューの最後に彼の首にぶら下がっているペンダントを不思議がり、 「それは何ですか」と聞いてきた。年に不釣合いな気もして右手で隠しながら 「これは 元気の素 が入っているお守りです」と答えた。表彰式が終わり付けていたペンダントを青い空にすかして見ると遠い昔あの少年がこの競技場で拾ってきたアンツーカーの小さな粒が色あせずに輝いていた。(た)
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峨眉  3,077m:  中華人民共和国 : 出雲市日中友好訪問団:参加者:武田

日本食を忘れ本場四川料理に舌鼓 10/11

朝一番にポプラ小山店で旭日紙パック1.8リッターを買い込みカバンに入れこれで準備終了。パスポートと多少の金があれば何となるだろう。救急な準備だったが後は野となれ山となれ! 出国検査も無事終わり(と言ってもパスポートにスタンプを押すだけ)今回は114人の団体なので移動時に何かと時間が掛かると思うがしょうがないだろう。チャーター便の中国北方航空のMD82はこの日中友好訪中団と銘打った団体でほぼ満席となった。

出雲空港を定刻に出発し、2時間飛び南京空港に燃料補給の為一度降り、目的の四川省成都まで更に2時間座席に座り続ける。機内で食事が出る。この食事を食べだけでもう中国に来た様な気持ちになる。数時間前に出雲空港での待ち時間に食べたカツ丼の味がもう恋しくなる。

成都はもう日が暮れ始めていた。この成都も、途中で降りた南京の飛行場も何処までも広い空港である、広い国土のしかも全てが国有の大地の国ではあたりまえの事かも知れない。もっとも中国特有の気候の為霧が掛かり視界が悪い事もそう見える原因かも知れない。 日中友好訪中団ということもあり入国の審査も短時間で終わり待機していたバス4台に分乗する。

車窓から街を見る。行政の組織は日本のそれと単純に比べる事は出来ないかも知れないが成都市は人口400万人の四川省の中心の市である。20,30階のビルはたくさんある。 ここは出雲の中央通り、医大通りとは比較にならない程の大都会。しかし一歩それから外れると一転する。住宅事情は悪く、その連立するビルとは異なり平屋の住宅、4,5階建てのアパートは極端に古く、暗く、恐しく、そして果てしなく続く。

メインストリートは明るくてもその裏通りは暗い。暗い道路の縁にはゴミやら瓦礫や水溜りがありとてもその明るさでは歩けない。そこを無灯火の自転車が走る、明かりを消しているのでは無い、もともとその設備がついていない。それでも大通りはナトリウム灯で明るくしてある。その為か全ての車が明かりを点けているわけではない。街中をたくさん走っている比較的遅い路線バスやトラックは無灯火で走行している。

ある程度のスピードを出している我々の乗っている観光バスはそれでもライトを点けていた。走る速度により点灯をする習慣でもあるかもしれない。 ホテルで最初の夕食が始まった。中華料理は北京、広東、上海、そしてこの四川と大きく四つに分けられる。その中でも一番辛いのがこの四川料理だ。

中華料理特有の廻るテーブルに次から次と料理が並べられる。四川料理はやはり辛い。どれもこれも辛く、途中から口の中が麻痺し何を食べても同じ味に感じる。本場の麻婆豆腐も食べたがあまりにも辛く豆腐自体の味など既に麻痺した舌ではその味など全く分からない。歯ざわりだの、舌ざわりだのと微妙な味を表現する食通の出る幕は無い。ただただどれだけの量を腹に入れるかに挑戦するのみの食事が始まる。

形を変えたサバイバルゲームの始まりだ!などというと、これ程失礼なことは無い。食事はその国の最大の文化でありそれを否定することはその国を否定する事になり、最も失礼なことである。それでもこのホテルに2泊したが、その辛さの麻痺の為か中国4千年の文化に失礼の無い程度は食べた気がする。しかしとうとう皆の舌鼓は聞こえなかった。 (成都市:2300年の歴史ある都市で、三国誌の(魏呉蜀)の蜀の都のあった古都)

杜甫と李白とパンダ 10/12

朝食はバイキング形式の為、各自好みに合ったものを腹いっぱいに食べ観光地めぐりに出発。杜甫が一時住んでいた所が公園になっている杜甫草堂を見学する。なんとなく日本の雰囲気に近いところだ。杜甫と李白が友達だったことを知る。二人とも中国が戦乱の時代に生きた人だったようだ。 次にパンダを見学する。中国でもパンダは人気者の様で小学生と思える元気な集団がたくさんいた。小高い丘全てがこの飼育施設のようで園の小道を15分程歩くと急にパンダがいた。

人が歩く園路と狭い水路で隔てた中に放し飼いにしてあった。15mくらいの間を行ったり来たり、まるでファションショウをしているように誇らしげに同じ所を行き来している。水路を挟んではいるがほんの4、5mのところをパンダが歩く。白い部分は少し茶色く汚れてはいたが大変愛嬌のある動物である。冷暖房が完備された上野動物園とは違いほったらかしの様に思える。 次の区画には見学コースから5mの所で3匹のパンダが笹を食べていた。その猫がじゃれているような仕草はテレビで見るそのままだった。

次に三星堆博物館を見学する。たくさんの仮面の出土品が展示してあった。目が飛び出した仮面は特異なもので独自の文明を持っていたらしいが、近年発見されたそうで、今までに判明している中国の歴史には何の資料も無く、現在研究中だそうだ。それにしても各施設はその内容は別にしても、何処までも続く広大な大地の中に点在している。(熊猫:ナンダ、カンダと言ってもパンダは中国でも人気者だった。)


酸欠で倒れる者続出 10/13


峨眉山は平均標高400mの四川盆地から一気に3000mの高さの独立峰だ。山の麓で登山用のバスに乗り換える。大山登山道のような道を喘ぎながら一気に2500mまで上る。途中乗客は全て降ろされ、一人ずつ写真を撮られ入山者のリストを作られる。その方法は進んでいた。

デジタルビデオカメラの前の椅子に一人ずつ座り、画面の所定の位置に収まると係員がキーを押す、その瞬間の画像データーをパソコンに取り込み入場者の顔写真とする。顔写真が付いたチケットがプリンターから出てくる。何故こんな事をするか不思議であったが、これは後で解る。

バスの終点からロープウエイに乗り換え一気に標高3000mの頂上に上がる。たいした運動もせず短時間の間に標高差2500mを一気に上がった事になる。薄い酸素に慣れる間も無くほんの数十歩動いただけで一人の女性が酸素欠乏症になった。息苦しさを感じやがて椅子に座ることも出来ず倒れられた。

顔面蒼白で直ぐに医務室で酸素吸入を受ける。意識等ははっきりしていて申し訳なさそうにしておられたが、暫くは横になっていた方が良いだろう。 その騒動があった影響からかそのレストランを出て30段程の階段を上ったところで3,4人が呼吸困難に陥るが大事に至らず、下山後は元気になった。

一騒動あった後、元気のいい者はピークにある寺に向かう。霧の為残念ながら見晴らしは全く無く山の形もよく解らない。手摺から下を見ると急な山のようだ。やがて霧が薄くなった時それを見ると驚いた。直角に近い崖は何処までも続いている。霧で見えなかったがおそらくその頂上からの景色はすばらしいものだろうし、反対に足がすくむほど恐ろしく急なピークかもしれない。

ガイドが言うにはここは行方不明者が非常に多い所だそうで、先程の写真撮影はその時の捜索の資料(身元確認等)に使用する為のものだったらしい。 それにしてもこの山では高山病の恐ろしさを現実に目にし教訓となった。(峨眉山: 標高3,077m中国仏教4代聖地の中国全土から参拝に訪れる人が絶えない)

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長江の雄大な流れ 10/14
(写真)楽山大仏
朝から楽山にある岩壁に彫られた大きな大仏を見に行く。いよいよ中国第二の大河、揚子江に船で乗り出す。揚子江とは下流部を表す名前だそうで、その全体は長江と言うそうだ。

船に乗って10分程すると長江本流と支流が合流する所の岩山に大きな大仏が彫ってあった。座っている姿であったが、その高さは70m程あるそうだ。昔からこの付近は大河の合流する所であり水害やら、水難が頻繁に発生し、それを鎮める為にあるお坊さんが一生をかけて岩壁を彫ったものだそうだ。

ガイドは日本観光地と同じく取って付けたような数々の云われを説明していた。大仏の大きさや、その云われよりも長江の雄大さに驚いた。この流れを見るだけでも中国にきた甲斐がある。

  この楽山のホテルも同じ様な中華料理でしかも日本人向けに辛さが控えてあるようである。しかし不思議なもので返って食べ辛く余り食が進まなかった。 (楽山大仏:90年の歳月をかけ803年に完成、71mの高さがあり片足の甲に100人立てる)

アジア最大の過密都市 重慶

楽山からバスで自工を経由し夕方重慶に入る。アジア最大の過密都市は東京でも北京でも南京でもなし、この重慶だ。重慶は内陸部にあるにもかかわらず昔から長江を利用した交通便利な所で今も驚くほどの船が行き交い、広い港がある。超過密都市で、ものすごい人だ。

メインストリートにつながる枝道にはたくさんの古い住宅が連なる。農村部から人口の移動で急激に増えた為、極端に住宅事情が悪く、アパートに15人以上も一緒に住んでいるのも珍しくないそうだ。

道路一杯に群集があふれている。中国人の底力を肌で感じる。反面夜はもちろん、真昼でもとても一人では、あるいは集団でも、日本人にはとても歩けそうに無い恐ろしさもある。そんな路地裏が何処までも続く。

東京の高層ビルにも負けない建物もあれば、その裏にはもう日本国中探しても見つからないような古びた住宅群が果てしなく続く。重慶に限らず中国のどの都市も建物は新旧の差が極端に大きいアンバランスな国だ。これに比例して貧富の差も極端に大きいように思える。

夜景が綺麗というので街を見下ろす小高い丘に登る。電力事情が極端に悪い街の夜景など期待などできないと思っていたが、その思い以上に暗い街だった。多少靄が懸かっていることを差し引いても鼻高山から見る出雲の夜景のほうが数十倍綺麗であった。(重慶:3,000万人の超過密都市。日中戦争の時は日本軍に追われた蒋介石の国民党政府の臨時首都が置かれた。この為、日本軍の前線は一気に拡大し、消耗戦を強いられ敗れた。中国4番目の中央直轄市(政令指定都市の類)。アジア最大の過密都市)

悠久の三峡下り 10/15

重慶のホテルを出て直ぐに三峡くだりの船に乗る。200人ほど乗れるようで船は5階建てで二人部屋でシャワーもついていた。この船で2泊する。朝昼晩の三食とも廻るテーブルの中華料理だ。殆どおなじに見える料理が続く。 長江は重慶を抜けると峡谷に入る。川幅は狭くなるが時折大きな船とすれ違う。両岸の崖は急峻だ。ダムが出来ると水位は175mほど上がるようで遠くはなれたこの重慶近くでも8mも水位が上昇するそうだ。長江は遥か上流に先日降った雨の為褐色の泥水状態である。

デッキに出て両側の峡谷を見ていると同じような景色が続くが、なぜか飽きが来ない。時折開けた所に出ると大都会のような高層ビル群があったりする。新しい建物は全て高台にあり、ダムの完成で水没する古い建物が水辺近くに林立する。ダムが完成すると航行に邪魔にならないようこれらの建物は全て爆破するそうだ。

川を下るにしたがって時折水没するラインの表示板が高い位置に掲げてある。数万人が生活していると思われる古くくすんだアパート群がその標識の下にたくさんあった。その後ろの高台には真新しい高層のアパートが林立している。 三峡ダムはずいぶん前から計画されているようで川の両岸にある住宅、工場、道路の移転が既にかなり進んでいるようだ。途中小さい船に乗り換え支流の渓谷を見て廻る。本流と支流との水の色の違いが良くわかる。支流の笹色の水は長江と合流すると一瞬に褐色の色に変わってしまう。
(写真)小三峡
   
長江には特に狭い峡谷が3箇所あり此れにより三峡と言うらしい。それぞれ峡谷は40kmから50kmもある。日本にもたくさん川くだりの名所があるが日本のそれとはまるで違う。保津峡、木曽川と下ったことがあるがその規模はまったく比較にならない。

驚くのは急峻な両岸の崖に時折道らしきものがある、よく見ると民家と思える小さな家がポツリとあり煙突から食事の準備の為か煙が上がっている。こんな所に何故人がと思う斜面である。

観光の船、石炭やら原材料を満載した船とよくすれ違う。時間によって上りの船、下りの船の優先が決まっているようで、崖の途中にある航行管理小屋のポールに掲げてある旗で表示をしているらしい。

何はともあれ三峡下りは広大な中国大陸のゆっくり流れる時間を満喫するには最高の贅沢かもしれない。中国四千年の文化の結晶である食事を別にすれば。(長江:チベット高原に源を発しその谷を侵食し、平原を貫き流域を潤し上海で海につながる6,300キロの大河。茶色の濁流。三峡ダム工事のため113万人が移転する)

三峡ダム通過 10/16、17

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翌朝うっすらと空が明け始めた頃、船は三峡ダムの建設現場に差し掛かった。朝もやの中から現れるダム本体は大きく神秘的で世界最大の土木工事に相応しかった。ダム本体の工事も順調に進んでいるようで2009年に完成すればこのあたりの景色も一変するだろう。

完成時に水位を利用し船が通れるようにしたゲートが出来ていた。本流を締め切ればもう少しダムらしくなることだろう。もし機会があれば完成した時また来て見たいものだ。(ダムの大きさ:幅1,983m、高さ175m)

ダムを過ぎると下船しバスで6時間かけ長江の中流都市の武漢に向かう。中学の教科書に出ていた武漢大橋をわたる。上が車で下を鉄道が走っている。この橋は戦後すぐにソ連の援助で工事を始めたが、途中で両国の関係が悪くなりソ連の技術者が全て引き上げた後、中国独自で残りを作り上げたことを現地のガイドは今でも自慢していた。 長江はここまで来ると川幅は非常に大きく、大型船もたくさん浮かんでいた。しかし水の色は相変わらず真茶色の泥水に変わりない。

この武漢の町は至る所で工事をしている。丁度道路の拡張工事をしていたが一般の通行人に対しての安全対策は皆無で日本なら即刻指名停止である。もっとも中国は土木作業員も含めて全てに制服(作業服)のような物が無く背広やブレザーを着てスコップを持って作業をしていたりするので、一見すると誰が通行人で誰が作業員かわからない。

この武漢は淡水魚の養殖が盛んで周囲の環境を変えるほど養殖場がたくさんあるそうだ。その為、食事にはその淡水魚の料理がたくさん出てきて、中にはナマズのような魚がそのままの姿で煮込んだり、揚げたりしたものが出てくる。4000年の文化に失礼が無いよう少しずつ箸をつけて見るが、その度にまた日本の食べ物が恋しくなる。(武漢市:700万人、河口から1,125キロ、長江もここまで下ると広い所で2,3キロの幅)

ふるさとはありがたきかな 10/18

翌朝、武漢空港で出国審査を済ませ3時間程飛行機に乗り13時過ぎに出雲空港に着く。中国4000年の文化をどれだけ満喫したかは別にして家に向かう車から見える久しぶりの鼻高山は新鮮だった。



 総括 : 頑張れ中国、ガンバレNIPPON
  
縁あって5度目の中国だった。ウルムチ、トルファン、敦煌と砂漠も見た。遠い昔長安と呼ばれた西安にも、天安門広場も故宮も万里の長城も歩いて見た。今回長江を下って改めて感じることは、この大陸の東の小さな島国がこんな長大な国と何故戦争をしたのだろう、日本が作った戦争のシナリオの最後の章はこの国をどう治めるという結論になっていたのだろうか!知りたいものである。

中国はオリンピックのメダル争いにしても、或いは経済の成長率を見ても次第に世界の桧舞台に上がりつつある。都市に入ると東京以上にビルが林立している。発表される各種のデーターを比べればその殆どは世界の先進国に肩を並べる数値であるかも知れない。

よく現地のガイドが質問して来る。今の中国は日本より何年ぐらい遅れていますか?それにどう答えたら良いのだろうかといつも迷う。北京の真中の高層ビルを見ればもう東京と変わらない。しかし一歩そこから外れれば日本の戦前よりまだ遅れているようにも見える。庶民の生活はとても今の日本とは比較できない。街中にある川はドブそのものであるし、常に霞んだ空はスモッグの為だろう。

日本が60年代、70年代に苦しんだ公害問題はもう既に発生しているのに、まだ都市部と農村部の人口は15:85と農村部が多い。中国が近代国家として効率的に発展する為には先進国並にその割合は逆に85:15にならなければならない。しかし今の中国の都市にその人口を吸収する余裕はない。今でも住宅事情は極端に悪く、もうその人達が飲む飲料水すら不足しているのではないだろうか。

日本人から見ると中国は広大な大地にたくさんの木が生えており材木には不自由しないと思うがこれは全く逆で無計画な伐採により鬱蒼とした森など一度も見たことは無かった。三峡くだりの船から見える両岸も背の低い雑木ばかりで、新たに植林した所などまるでなかった。その為、建築用材となる木材は意外と高価で部分的に残った木を無許可で切って逃げるものが後を絶たず、峨眉山の麓ではそのトラックを取り調べる検問所があった。その為か奥地に行っても木造の民家は無く農家の作業場さえもレンガを積み上げたものだった。

成都市で街中の煙突から毒気たっぷりのドギツイ黄色い色をした大量の煙を出している化学工場の横をバスが通った。その煙は日本では考えられないほど、隣接した周囲の住宅街に流れていた。ガイドにあれはまずいのじゃないの言うと、「大丈夫あれは工場の煙突だから」と的が外れたことをけなげに言ってのけた。

『あれは火事でなく煙突から出ている煙です。』 とでも言いたそうだ。工場から煙が出るのは当り前と思っている。このガイドは国費で2度も日本に留学した事のあるおそらく現地ではエリートと思われる人である。この国ではまだこの人達のレベルでさえ公害の意識は全く無いのである。

日本に昔、煙突の煙を題材にしたコマーシャルがあった。便秘の薬のコマーシャルで3本並んだ煙突のうち2本からは黒い煙が黙々と出ていたが一番左の煙突からは煙が出ず、むずむずしていると"煙突さん苦しそう!"と女優がひとこと言った後で、その薬を飲むと煙を出していなかった煙突から急に黙々と黒い煙を出し始め、目出度し、目出度しで終わるというものである。煙突から黒煙が出るのが当り前であった時代が日本にもあった事が伺える。(もっとも当時の我が家は白黒テレビの為実際には煙の色は不明である。)

このこと一つとっても日本の40年も50年も前のレベルである。水は無い、木も無い、空気は悪い、生活や生産の基本となるエネルギーはどうであろうか、残念ながら石油は殆ど無い、反対に質の悪い石炭が豊富にある。これを熱源として火力発電をしているわけだがまだまだ電力事情は悪い。石炭による火力発電所は炭酸ガスと大量の硫黄分を排出し、CO2 の発生と酸性雨の一番の原因と成る。

先進国並の人口配分に近づく為には今の農村人口の四分の三以上が都市部に移動しなければならない。その増えた人達の住まいや、労働力をまかなう工場を作らねばならない。おそらく発電所は今の数十倍必要であろう。おそらくその燃料は自国に豊富にある質の悪い石炭に頼るしか無いはずだ。その時の空の色、川の色を想像するだけで咳き込んでしまいそうだ。北京秋天といわれた澄み渡った空はもう既に無い。

そして、今と比べものにならないほど多発する公害を処理できるだろうか。やがて訪れる車社会にはどう対応するのか。農村はこの膨れ上がった都市部に食料を補給しなければ成らない。人口が減った農村はもっと集約的な農業に転換し効率的な生産体制に切り替えなければならない。その為には農村の基盤整備も必要となる。

都市部も農村部も想像も出来ないほどの社会資本の投資が必要だ。それらを全て乗り切って豊かになった国と、まだその豊かさだけに目が奪われている国とではまだ比較する段階ではないかも知れない。もっとも日本も100年も前には当時の先進国から同じ様に見られていたのではないかと思うと笑えるものではない。中国を考えると日本が過去に遭遇した問題と、これから遭遇するだろう問題が一緒に見えてくるから不思議である。

何はともあれ、中華人民共和国建国の基本理念であった人民全てが一緒に豊かになる道を諦め、取あえず豊かになれる所から、豊かになれる人から先に豊かになって貰い、その力で遅れた人を救い上げて貰う事に方向転換をしたかも知れない。それが結局は近道か回り道か王道か邪道か解らない。 中国には12億の人が住む、極端に言えば世界の5人に1人は中国人である。このたくさんの人達を養いながら短時間で果たして大きく豊かな国に成長していけるのだろうか。

結論として、豊かさの基準は別にしても国民全ての平均的な豊かさを比較すれば、私は100年経っても今の日本には追いつけないのではと思う。まあその頃の日本が追いつくほどの価値ある素晴らしい国であるかどうかは別にして。。。。

どちらにしても今は名ばかりの共産主義国家は幸か不幸か近代化に向けて歩み出した以上、もう元には戻れないのである。(た)
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人形 1,004 m 10月15日:晴:参加者(9)土江、島田夫婦、勝部 福庭、岡、森山、山田、持田
木山 1,218 m:10月28日:小雨後雨参加者(1)落部
       出雲出発10:00 >登山開始11:20> 地蔵尊11:30>頂上12:03> 下山開始13:00> 下山 13:40

今日の天気は夕方から雨の予報だった。雨の降り出す前に紅葉を撮りに大万木山に登ろうと思った。しかし朝の内に仕事が入り20時前に出発した。早くも小雨が降り出してきた。 吉田側の杉戸林道を行く、峠の広場には車が一台あった。ここでも小雨なので身支度の為直ぐ近くにある東屋に行くと、加茂からこられたご夫婦がおられた。雨が降り出したのでここで休憩し登るのは止めて帰るとの事、見れば二人ともごく軽装であった。挨拶もそこそこに遅くなったので私は地蔵尊の直ぐ下の空き地に車を止める。

予定では少し道路を下った所の滝見コースの合流点から登るつもりであった。しかしブルとーザーの音がし、作業をしているようなのでここから登ることにした。 ここは標高905m。11時20分登山開始する。小雨なのでザックにはカバーを付け風が無いのでいつものように傘を差して登る。小雨に煙る紅葉がすごく綺麗である。

地蔵尊まで10分で着いた。いつものコースなら50分掛かる。ここからは紅葉した木々の向こうに雲海に浮かぶ山々が素敵に見えた。 枯れた落ち葉だが踏みしめて歩くと気持ちがいい、何年か前のある日は紅葉のジュウタンだった。この頃そのチャンスに巡り会わない。写真を撮りながら登るが、殆どいつもの場所になる。下山してこられた二人の男の人に出会ったが,この人達も写真を撮る人のようだった。頂上には12時3分に着いたが少し急いだのでオーバーペースできつかった。非難小屋には広島の福山からこられた3人の男の人がおられた。少し話しをしたがやはりこの山に道路がつくようなので憤慨しておられた。

食事を済まされた後だったのでメニューは解らないが私はいつものメザシとラーメンこれから寒くなると暖かいものが良くなってくる。小屋の中は気温18度だったがコンロのおかげで1度だけ上がった。三角点のある頂上まで行ってみる。ここには松江からこられた男の人8人が盛り上がっていた。

今日は何故か女性の姿は無かった。この人もやはりこの山の林道は必要無しの意見だった。この林道が完成した時の利用はどうなのだろうか。 1時過ぎに下山開始、この頃は止んでおり、35分で下山した。この時左の膝の少し上が痛み、明日予定の蒜山縦走が少し心配である。(お)
山縦走 10月29日:小雨後雨 :参加者(5人)落部、山内夫婦、溝端、藤原
          出雲出発 7:00登>山開始9:40> 中蒜山11:30> 避難小屋発12:05>下蒜山13:55> 登山口 15:30>出雲 6:30

天気予報通り朝から雨である。山内さんに誘われて合庁に6時30分集合。7時に出発する。予定より出発が遅れ私の左足も思わしくなく、女性達の希望もあり、また雨模様の天気なので蒜山三座の縦走は変更して中蒜山より下蒜山の二座縦走にした。

下山する下蒜山登山口に車を回しておき、塩釜の冷泉のある中蒜山より9時40分登山開始する。ここの項の標高は500mくらいである。雨で滑りやすい登山道をゆっくり登る。以前さんすい会で上蒜山より縦走してきて中蒜山から下山したことがあったがその時も雨で、全員何度か転んだ事を昨日のように思い出した。あの時はそれこそ全員汚れたお尻と顔だけをカメラに向け撮った。

きょうはできるだけ汚すまいと気をつけ登る。それにしてもこの雨なのに多くの人が登って下山される。いくらゴアテックスの雨具でも着ると蒸れて暑く大変,出来るだけ脱いで歩く。私は途中傘にしたりして登るが手が空いていないと登りにくいのですぐたたむ。中蒜山には11時30分に着いた。登山開始より1時間50分掛かった。ここには多くの人が登っておられ、そして通過していかれる。

大山は先程の地震で危ないと思われるのか、多くの登山する人がここに集まったのでは。前回と同じく雨で下界はガスって全く見えない。非難小屋はタイミング良く空いた時だったのでここで昼をとることにした。じっとしていると寒くなる。それに私はカンビールをはじめ全て冷たい食べ物なのでよけい寒く感じた。皆さんも暖かいものは無しであった。頂上で記念写真を撮り12時5分に下蒜山に向かう。

遠く東京からこられたバスツアーのグループが先に下っていく。多くの人が歩いた後なので、登山道は荒れ、雨で滑りやすくなっており皆慎重に下っていく。黒い土なので転んだら大変だ、気をつけていても尻餅をつく人はいる。周りはと見るとガスで全くの乳白色である。ただ救いは雨が止んだことである。私はすぐ暑くなるので上はTシャツ一枚でいつもの杖は肩に担ぎ歩いていると、ある人は私の歩く姿を見てまるで やんちゃ坊主 が棒を持って歩いているようだとと言う。

そんなにおもしろい格好だったのか。ここから下蒜山までは一旦下ってまた登っていく。目の前の景色は言葉で言い尽くせないほどきれいだ。笹原の中を歩いていく。色鮮やか雨具なり,ザックカバーの人達が絵になりそうである。無駄になるかもしれないがシャッターを切る。それに紅葉がすばらしく、ここまで登ってきた人で無いと分らないと皆で話す

。多くの人が歩いたドロンコ道で雨具のズボン,靴は真っ黒である。この汚れは歩き方でもずいぶん違うようだ。そして歩くにつれガスも晴れ、すばらしい紅葉が前に、後ろに広がる。見ほれていたら突然滑って転ぶ、滑りやすいクロボクの土は本当に歩きづらい。下蒜山には13時55分に着いた。ここはすばらしい眺めで、今まで歩いてきた中蒜山からの道とガスに覆われた上蒜山、そして雲に浮かんだ大山から矢筈ヶ山、甲ヶ山まで見渡せ、パノラマの世界だった。

展望を楽しんで下山開始、ここから急な下り笹につかまり、鎖につかまりながらで大変である。しかし目の前はずっと開けており、気分はすごく開放的になる。出来ることなら両手を広げて大空に身を投げ出して飛んでみたい気持ちになった。先を行く人達は色もカラフルで笹の原っぱを歩く姿は絵になり、写真になりそうである。ここに居合わせていない人達にはなかなかわかってもらえないだろうが、私達は幸せ気分である。

これからも滑りやすい坂を慎重に下っていく。登山口には15時30分に着いた。誰もそこいらの草むらで汚れを落としていた。中蒜山に車を取りに行って、帰りには1本100円也のダイコンを買い求め出雲へ、6時30分過ぎに合庁に着いた。疲れは2〜3日後に来るだろうか。(お)
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千丈渓 島根県桜江町:11月3日:晴:参加者(11人)土江、島田夫婦+長男、増原夫婦+翔平、福庭、勝部、持田、落部
           ドーム集合7:30 >現地着9:30

先日より大雨のうえ、この時期にしては珍しく台風20号が来ていたが、速度が速く雨雲をつれ去ってくれた。朝方には少しだけ雨が降っていたらしいが7時30分のドーム集合には晴れていた。きょうは山に登るのではなく遊歩道を歩くだけ、昨日までの大雨の為多くある滝は水量が多く見ものである。歩き始めは9時30分、とたんに蛇でびっくりした。今年は暖かいのだなーと思った。紅葉には少し早いけれどそれなりにきれいである。雨上がりで濡れており滑りやすい、特に木道の上は慎重に歩く。途中休憩した時会長差し入れの柿がことにおいしかった。

遊歩道を離れ林道を暫く歩く、11時20分滝の一番の見所で昼にする。ここにはカメラを何台も据えて滝を撮っている人がいた。私達もそれなりに撮ったが出来映えは分からないが、一週間後なら最高かもしれない。そしていつもの昼食シーンになる。このときは滝と色づき始めた紅葉は目に入っていなかった。滝をバックに記念写真を撮り12時20分林道を下る。写真になる所が何箇所かあり撮りまくる。車を置いた所には13時30分頃着いた。帰りには水の国。また最近恒例になったで温泉で汗を流す。(湯谷温泉)ドームには5時過ぎに着いた。(お)
三瓶山 1,126 m:11月4日:快晴 :参加者(1)落部

   三瓶山の紅葉を撮ろうと7時30分出発する。大田経由で行き、朝日を受けた紅葉を撮る為いつもとコースを変えて東の原から登ることにする。割引券もあったので9時にリフトで登る。太平山に依り9時20分女三瓶に向け登山開始する。多くの人が登って行く。グループの人、ひとりの人、やはり夫婦連れが多かった。登るにつれて素晴らしい紅葉の谷が広がって来る。そして遠く大山も姿を現し、知らない人に教えてあげる。余りの素晴らしさにカメラアングルを色々変えて撮りまくり、しっかりカメラに収める。

すごく天気がよく、登って行くと汗が流れる。しかしたち止ると冷たい風が吹き抜けとても気持ちがいい。頂上には10時20分に着いた。やはりここにはたくさんの人が登っておられた。縦走の為に休憩している人、ビールをやっている人、それぞれだ。私は早く着いたので360度の展望を楽しむ事にする。まず大山が雲に浮かんで見え、中国山地の山々、大江高山連山がノコギリのように見え、出雲ドームの向こうには北山が全容を見せ水平線辺りにはまるで島なのではと見える雲らしきものが見えた。

展望を楽しんだら少し早いけれど昼にする。いつものように私がメザシを焼いていたら、どこかの子供達が驚いていた。匂いが行ったらしい。11時30分に下山する頃、紅葉は一段と綺麗になる。そして次々に登ってこられ道を譲るの時間が掛かる。

すれちがう人に"この前はお世話になりました"と声を掛けられた。見たことがあるような気がしたが思い出せない。失礼だったが適当に返事をしておいた。多分ルートでも教えてあげたのでは。女三瓶の下には2時30分に着いた。ここから再びリフトに乗る。今まで歩いていたので暑かったが、冷たい風が吹いてきてとても気持ちよかった。
帰りは佐田町経由にする。家には2時頃帰った。(お)
三瓶山 1,126 m:11月5日:晴時々曇: 番外 参加者(2)落部夫婦

   昨日に続いて三瓶山に紅葉登山、きょうは家内と一緒である。昨日あまりにも綺麗だったので再度登ることにする。昨日より車は多いが登っている人は少ないようだ。 そして昨日より紅葉が進んで見えるのは気のせいか! 頂上には10時30分に着いた。ガスの為、眺めは今ひとつ。四絡公民館主催の家族登山隊が登っているはずなのだがまだ見かけない。

暫くして青年の家方向から3人の男の子がおしゃべりしながら上ってきた。その中にはあの増原翔平君がいて、やはり先頭だった。さすがに格好は他の子供達とは違っている。私達は少し肌寒いので風を避け、非難小屋近くで昼にする。

きょうは焼肉である。やがて次々と登ってこられたが相変わらずツアーの人が多い。食事が済み再び頂上へ、目的は四絡公民館の皆さんの豚汁である。ちゃっかりご馳走になる。12時5分下山開始。女三瓶下には13時15分に着いたリフト終点辺りには多くの人達が散策しておられた。それにしても最近他の国の女性が目立つようになった。(お)
銀山街道 11月12日:雨:参加者(9)土江、島田、福庭、岡、児山、北村 落部夫婦、日下、清水、今岡夫婦
出雲市駅>大田市駅>大森町>降露坂>西田集落>清水集落>温泉津温泉>>>出雲市駅

恙虫騒ぎの為恒例の鰐淵寺ピクニックを急遽変更し銀山街道へ。此処もいよいよ世界遺産だ。
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鯛の巣山〜大万木山縦走 1,218 m:11月23日:晴:参加者(9)落部、山内夫婦、藤原 竹下、児玉、溝端、持田、田辺
    ドーム集合7:00 >登山開始9:05> コウモリ岩(6合目) 9:40>頂上10:25>昼食11:50 > 出発12:35> 毛無山 13:15> 杉戸峠14:05> 出雲ドーム16:20

山内さんに誘われていた山登り、今日は辛い山登りになると思いつつ7時にドームに集合する。それは昨日より右の奥歯が痛み食事もままならず、昨夜も殆ど眠っていなかった。そんな中朝起きて顔を洗おうとして自分の顔にびっくりした。そして妻にはそんな顔して山は止めたらと言われた。しかし天気はよさそうなので、もし家で寝ていたならすごーく長い一日になるのではと思い、山に登っておれば少しでも痛みを忘れている時間があると思い参加した。

9名の参加4台の車で出発し、まずは下山する大万木山の杉戸林道の峠に2台の車を置く。そして最近整備された鯛ノ巣山の登山口駐車場に車を移動する。今朝は放射冷却現象で寒い、途中国道314号の仁多町ではマイナス1度の表示もあった。 雨具の心配は無いので露避けのスパッツだけをつける。コウモリ岩のある号目には9時40分に着きいつものようにここで休憩する。ここからは雪を頂いた大山が見えた。

 休んでいるとすぐに寒くなる、気温は何度だろうか。ここからすこしルートを変え整備された登山道行く。今までよりはきつい登りを避け少し迂回した所に登山道が付けてあった。この登山道のいたるところに今年始めての霜柱を見ることが出来た。気温が低いので解けないらしい。 頂上には10時25分に着く。ドームが見えた。ここにはブルが付けたと見られる林道らしきものがあった。何の為なのか?。

頂上から展望を暫く楽しみ、少し下った断崖絶壁で更に景色を満喫した。今日は空気が澄んでいるので遠くの山々まで見ることが出来た。ここから縦走路が始まる。しばらくアップダウンの笹の道を歩く。とても楽しい縦走路である。昼近くなったので風の当たらない見晴らしの良いところを探して、あるピークで昼にする。

今日は歯の痛みに勝てずビールは無しである。それにしても痛み出さなくて良かった。毛無山には13時15分に着く。ここからは笹も刈り払われ、整備されていた。しかし行き過ぎは困る。下山口には14時5分に着く。帰りに野菜などを買い、ドームには16時20分に着いた。(お) 《山内氏の後日談:顔の腫れは相当にひどく見ていても気の毒そうだったらしい》
大万木山:大袋山 1,218 m:11月25日:曇:参加者(1)落部
           出雲出発10:00 >登山開始11:20> 地蔵尊11:30>頂上12:03> 下山開始13:00> 下山13:40

今日の山で今年50回目の山登りである。それはやはりこだわりの山に決めた。今日はどうやら歯は大丈夫のようだ。いつものように滝見コースから登る事にする。どうやら工事は終わっており通行出来るようになっていた。紅葉は終わりかけていたが中には綺麗に紅葉している木が有りこれはこれでまた綺麗であった。頂上小屋で食事の後下山する。帰りに時間が有ったので写真を撮る為に稗原の大袋山に登って見る。カメラだけもって急いで登ったので20分位で登れた。(お)
536 m11月26日晴曇 番外 参加者(2)武田夫婦 天王山 10:40> 頂上 12:05> 下山開始 12:40>下山13:40

久しぶりに鼻高山で美味い昼飯を食べようその時間に合わせて出発する。(と言ってもコンビニの弁当であるが)途中4路別れで休憩をしていると山内夫婦が降りてこられた。旦那さんは刈込み用の大きな鋏を持って登山者にダニが付かないようにと登山道の下草を刈りながらの登山らしい。先日落部さんと鯛ノ巣山から毛無山へ縦走をした時の話をしておられた。暫く話した後再び頂上に向けて出発する。

山内さんの言われたように登山道の草や細かい枝が綺麗に刈込んであった。有難い事だ。それにしても今日は何故かたくさんの人に出会った。6組13人に出会う事などここ3年の内で無かった事だ。その度にポチを鎖につないだので、我が家の迷犬も多少機嫌が悪かった。しかしこの鼻高山もカズラや松枯れで寂しい山姿になり大変残念だ。

昨年山内さんにも手伝って頂いた万ヶ丸山眺望改良大作戦の様に取り敢えず中寺跡、上中寺跡周辺のカズラを退治せねばいよいよつまらない山になってしまう。近い内に皆さんの協力を得て鼻高山中寺跡周辺葛掃討大作戦を果敢に実行せねばならない。(た)
和久羅山 262 m: 嵩山 330 m  :12月3日: 晴: 松江市: 参加者(8)
大平山、二ツ丸 出雲市乙立町:12月17日:参加者(15)土江、島田夫婦、今岡夫婦、持田夫婦北村、落部、武田、日下、清水、山田、森山、浜崎
9時ドーム集合。9時45分より最初の大平山に向かう、按部から右が大平山、しかし頂上の見晴らしは良くないとの事で太平洋戦争中日本海の艦船を監視したというピークへ向かう。10時15分到着。下山し車で数百メーター奥の二ツ丸に向う。20分で頂上。昼食(た)
忘年会 12月17日:矢野集会所:参加者(19)土江、島田夫婦、落部夫婦、今岡、山田、浜崎、岡、福庭勝部、日下、清水、武田、北村,大森,万代,持田夫婦
北山縦走 (弥山〜矢尾峠) 参加者(7名)落部、北村、武田、畑、山内夫婦、栗原 12月23日 曇雨 子安寺(9:45) 弥山,鼻突峠,樽戸峠,鈴谷峠,矢尾峠,荘厳寺(14:30)
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今朝5時に浜田を出て、8時から寺の掃除をし9時にドームに集合する。本日は弥山から矢尾峠までの北山縦走を4年ぶりに計画した。下山予定の矢尾峠下の荘厳寺に車を置き、乗り換えて弥山下の子安寺横の弥山登山口に向かう。ゲートボール場横から登り始める。ここにも新しく鹿対策用のフェンスが新しく出来ていた。

このフェンスを開けているとすぐ横の家の小父さんが出てこらたので、鹿が出ますかと尋ねると時々出る様で、ある朝起きて見ると庭の草花、垣根が一晩で丸坊主にされていたそうだ。寺の横なので坊主は珍しい事ではないかも知れないが、丹精こめて育てた物が一晩で荒らされるのはやはり頭に来るらしい。その対策として、犬を飼って見たそうだ。

最初は鹿が出ると吠えて知らせてくれるので優秀な犬だと思っていたが、そのうちに頻繁に出る鹿と仲良しになってしまい、番犬の意味を果たさないと盛んに嘆いておられた。用を足さないその犬は盛んに我々に向かって吠えていた。弥山の登り口は最近荒れて登りにくくなった。

1時間15分で頂上に着く。頂上からの眺めは素晴らしい。しかし今朝は久々の綺麗な日の出だったのに、西の方の雲行きが怪しい。今日は矢尾峠まで縦走するつもりだが天気が持つか心配だ。畑氏はソーセージを肴に350ccを軽く開けてしまった。それを待って、縦走に出発する。

三角点を通り東へと向かう。この三角点ではいつも落部さんと論する事がある。それは弥山さんの祠がある西が高いかそれとも三角点のある東が高いか!国土地理院の地形図は東が、地元大社町の地図は西側が高い。東側の急斜面を木を掴みながら下りると鼻突峠。南へも北へも下る道がある。ここは東に真っ直ぐ尾根に向かう。

縦走とは言えこの辺りは急な登りが続く。3つか4つのピークを超えると天台ヶ峰の銘板が縦走路沿いにあった。気を付けて歩かないと見過ごしてしまうほど平坦だ。下から見ると幾らかピークのように見えるが実際は縦走路の左にあったテープが目に入り、その付近を捜すと縦走路右に小さく天台ヶ峰と書いた銘板があった。

昔、万ヶ丸山の頂上にも同じ様な書体の銘板があった様な気がする。途中、直進と右に曲がる分れ道があったが両方とも樽戸峠に出るとの事なので右に下りる。樽戸峠はここ3、4年ですっかり変わってしまった。以前は小さな竹がたくさん生えて居た記憶が有るが今はすっかり無くなってしまった。ここからまたきつい登りが続く。

鈴谷峠を通過し万ヶ丸山の西斜面を直登する。今回一番急な登りだ。しかし10分程で万ヶ丸山の頂上に出た。去年の春の眺望改良大作戦のおかげで鼻高山方向の景色は最高である。ここで遅くなった昼食を食べる。食事を終え遥勘峠辺りから雨がポツリポツリと落ちて来た。今日はここまで。車を止めた荘厳寺に下りる。下の舗装道路に出た辺りから雨脚が強くなり車に乗った途端に雨は本降りとなる。途中から強くなっていた風も一段と激しくなった。

子安寺まで車を廻し本日の北山一部縦走はオシマイ。久しぶりに尾根を歩いた。4、5年前の記憶なんていいかげんのもので所々で道に迷いそうになる。それでも5時間近く山歩きをすると得した気分になる。家から10分でそんな山に登れる事は素晴らしい事だ。出来ればもう少し要所、要所に見晴らしの良い所が有ればもっとこのコースは楽しい縦走になるだろというのが今日参加した全員の気持ちである。(た)


ツツガムシも住める程いい環境

兎追いし彼の山、小鮒釣りし彼の川。夢は今も巡りて忘れ難きふるさと。如何に居ます父母、恙なしや友がき。雨に風につけても想い出ずるふるさと。
この歌の歌詞に出て来る恙なしやとはどんな意味でしょうか。ひょっとして "私の友達は子供の頃から北山を歩くのが好きで大人になっても鼻高山に登っているようだが恙虫に噛まれて苦労しているのではないだろうか!"と言う意味ではないでしょうね。 まさか!

ダニの一種のツツガムシが媒介するツツガムシ病という病気がこの半年前から出雲部で急に注目され始めました。諸悪の根源はツツガムシというダニです。上記の通り恙虫と書きます。たまたまリケッチアという病原体に感染した恙虫が人を噛むと感染してしまうそうです。図の様なサイクルに人が遭遇するとその被害に遭うようです。
全国的には山林に生息している野鼠がこのリケッチアに感染しているとツツガムシの幼虫がこれを吸血した時、病原体が恙虫に移行し、その恙虫が人を刺すと人が感染するそうです。(このサイクルにに鹿が関係しているかは分りません。)

図でも分るように若虫、成虫は土中で生活していますので、むやみやたらと土の上に座り込むのは最もよくない事でしょう。恙虫以外のダニも似たような生活ではないでしょうか。しかしリッケチアという病原体を媒介するのは恙虫だけのようです。

恙虫に限らずダニの類の幼虫は人や獣の血を吸って成長しますから、美味しい獲物が来るのをじっと待っています。土中の卵から出た幼虫は血を求めて地面を徘徊します。

新鮮な血を吸わなければ死んでしまいますので必死です。ほとんどのダニは草や小枝に登り適当な高さの位置でじっと我慢の子です。そこにルンルン気分の中高年登山家が近ずくとそのチャンスを逃さず草や小枝に息を潜め、人が触れた途端 

今だ とばかりに乗り移ります。失敗し地面に落ちても成功するまで何度も繰り返します。犬を連れて山に入ると良く分かります。

我が家の駄犬はまともに登山道を歩かず好んで藪の中を歩きますので30分もしない内にダニが沢山着いてしまいます。そのダニの中にどれだけの恙虫が居てしかもその中のどれ程がリケッチアの病原体に感染している恙虫かは分かりませんが帰って背中の毛の中を見ると1、2ミリのダニが無数に居ますので気持ち悪くなります。犬も知ってか知らずかダニ取り薬を振りかけてやると喜んでいます。

ここでどのような状況で被害に遭うのかその症状はどんな物かまとめて見ますと、野山に入った時、草の生えている座り心地の良さそうな地面などにどっかりと座り込んだりすると、元々そこらじゅうに恙虫を含めたダニが無数に居る訳ですから、人の体温を感じ取りすぐに乗り移ります。露出した肌からは温度を感じ取り易いですので服装にも気をつけることが必要です。

地面に限らず草や枝の先にもかなりのダニが居ますので遭遇するチャンスは無限にあるわけです。コマメにタオルなどで叩き落とし帰ったらすぐに衣服を変えシャワー等で体を洗い流す事が一番だと思います。勿論頭の髪も忘れずに。不幸にしてリケッチアの病原体を持った恙虫に刺された場合、時間が経つと刺口が1センチくらいの大きさに腫れて赤くなった丸い傷口になります。

7〜10日の潜伏期間があるようで、リンパ腺が腫れ、食欲が無くなり熱が出ます。普通刺されてから1週間くらい後のことですのですぐには野山の行動の事は思い浮かばず最初は風邪かなと殆どの人が思うそうです。症状があらわれたら体中を探すと必ず赤く腫れた刺口が一つ見つかります。こうなると本物、すぐに病院へ行きましょう。1年の内、恙虫病の発生が多いのは春と秋で最も多いのは10月と11月だそうです。

ダニがこの時期に多くなるのか人が野山に入りこむ機会が多いのか詳しい事は分かりませんがこの時期は特に気をつけたいと思います。実は私の知り合いが今年の春、原因不明の高熱が出て病院に行ったところ、あなたは山登りをした事が無いかと聞かれ、丁度1週間前に山に行った事を話すと恙虫病の疑いがあると言われ検査の結果も同様でした。結局は4、5日会社を休みましたがすぐに元気になりました。その頃は恙虫病など聞いた事も無く、"災難だったノー"ぐらいな事しか言っていませんが、今思えばその頃は全く無防備で野山の歩いていたものです。

しかし大袈裟に騒いでいるほど気にする必要は無いのではと私は思います。人類を滅ぼす程の怖い敵では無いでしょう。反対にそういうものが住める自然が残っている事に感謝するくらいの元気がある人でないと野山を歩き回る資格はありません。刺されても蚊が噛んだぐらいにしか思わなく成って初めて一人前の自然愛好家でしょうか。おそらくダニが急に増えた訳でもなくその数は変わらないと思います。ただマスコミが取り上げる機会が多くなっただけでは無いかと思います。

恙虫が居るので山に入るのは止めようなどと考えるのは全くのナンセンスでしょう。だってあなたの人生を狂わせるもっと恐ろしい物は山に行かなくても身の回りに沢山あるじゃないでしょうか。(た)
   
(左から1)マダニ (2)恙虫:普通どちらも1ミリから2ミリの大きさですが血をたっぷり吸ったものはその数倍の大きさです
    
 (写真1)恙虫に指されたときの刺口の傷跡      (写真3)直径1センチほどの大きさで盛り上がる


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《編集後記》 

思いで多き20世紀と ドームと松の木 さようなら

20世紀の100年を締めくくる2000年もどうにか残すところ僅かになった。私も来年はいよいよい50歳の大台に乗る。万年青年と言われた事も遠い昔の事になってしまった。この年になるといろんな事を経験したが今年の鳥取西大地震にはびっくりした。幸い出雲、浜田方面にはたいした被害は無かったようだが余震を含めて今まで経験した数以上を短期間の内に経験してしまった。地震、雷、火事、親父と怖いもの筆頭に挙げられるだけの事はある。今年も色々な事があったがいよいよ21世紀を迎える。

遠い昔、21世紀について考えたことがあった。それは中学の頃、大学を卒業されて間もない新任の先生の授業の時、21世紀はどんな時代になっているか、その時自分は何をしているか?想像をして感想文を書けと言われたことがあった。 その時、皆が最初に行った事は2001年には自分は何歳になっているだろうかとの年齢の計算だった。丁度50歳だった。しかし13歳の中学生には自分の親の年よりまだ先のことなど考えたことも無く皆書き倦んでいた。

その歳から考える21世紀は未来そのものであり、漫画やテレビで見る想像の世界であった。21世紀の未来は空には鉄腕アトムのようなロボットが飛び回り、家にはウランちゃんのような家政婦ロボットがいて、月には人が住み、宇宙旅行は当り前でタコに似た火星人が地球に遊びに来ているような時代を想像していた。

科学が進みそれが実現するのも近いかと期待するが、反対に科学が進めば進むほどその夢は遥か遠くの実現不可能な絵空物語である事を教えてくれる。科学は子供の夢を実現してくれるが、夢を根こそぎ壊してもくれる。

そしていよいよその21世紀になる。空にはアトムの姿も家にはウランちゃんに似た家政婦もいないし、月に人は行ったが、唯それだけの事だった。しかしその頃全く想像もしてなかったが実現した嬉しい事もある。コンピュターが子供でも持てる時代になった事だ。大人が子供に教える事が当り前だったが、今はネジリ鉢巻で子供から使い方を教えて貰う世の中になった。

何はともあれ便利な時代になったがその影には綺麗な川をはじめとする大切な自然を失ってきた。落部氏の嘆きが聞こえそうである。結局、あの感想文から40年近く経ち科学が進んで得たものとその為に失ったものをプラスすると結局はゼロに成ってしまうのではないか!本当に世の中は進んだのだろうかと新世紀を目前にして思う。

さてこのドームと松ノ木も予定通り今回で終了します。パソコンのキーボードの練習の積もりで作り始めた様なものだったが、その技術も特に上達したような気がしない。しかし始めた頃は碁や将棋を打つようにポツリ ポツリとキーを打っていたのと比べれば多少は上手くなったかも知れない。

閑話休題、改めて3冊を読み直すと次第に自分で新しく登った山の記事が少なくなってきた事に気付く、元々このドームと松ノ木の名前はある人が思い描く登りたくない山の代名詞であったが、今年登った山を見ると大半はその名前の通り頂上からはドームが見える近くの山だし、標高も低く松食い虫にやられた松ノ木のある山だった。本来は森林限界を遥かに超えた高い山に登ると気持ち良いのだろうがそんな山は殆ど無い。

しかし低い山でも、ドームが見える身近な山でも回を重ねると愛着も湧くし、登る楽しみも湧く。季節の移り変わりも里よりは早く感じるし、一緒に登る人が違えばまた趣も違う。などと書くと体裁は良いが、実際は横着になり登り口までが手っ取り早いところ(殆どが鼻高山)に登っただけの事である。

3年間のデーターをまとめるとおもしろい一番高い山は富士山、遠い山は至仏山、燧ヶ岳辺りか、回数が一番多いのは鼻高山(72回)、2番が大万木山(26回)、その後に船通山(9回)、三瓶山(8回)と続く。一年の内4月(28回)が一番多く、5月(26回)、3月(21回)10月(20回)11月(19回)と続く。反対に少ない月は6月(11回)〜9月の4ヶ月と12月(8回)が少ない。

暑さの為と年の瀬の忙しさの為と思われるが実際若葉が出始める前後の頃と紅葉の頃が一番気持ちいいのも確かだ。個人的には始めは紅葉の時期がいいなと思っていたが、最近は若葉が出る前後の頃の広葉樹の中を歩くのが好きになった。そして3年間に204の山の記事を書いた。おそらく落部さんはそのうち170前後を登られたのではないだろうか。    

それぞれの山には故事やら云われが必ずありそれを調べるとその楽しみも増すだろうが容易い事ではない。ITの時代になり居ながらにして遠くの山の情報を得る事が出来るようになったが身近な山の記事はまだ少ない。IT革命といわれる新しい時代になって、おそらくそう遠くない内にこの分野は想像出来ない程発展するだろう。山に登って左か右か迷ってしまった時携帯電話の画面に即頂上までの道順が出るようになるかも知れない。

ITは次世代の事でなく、今の我々の目の前にある避けて通れない現実である、しかし踏ん張って構える事は無い、鼻高山の登山道にある鹿避けの柵の様なもので紐を解けばすぐに入り込める世界である。

まアこの1、2年の間にコンピューターを単なる道具と考え、多少なりとも使えるようにならなければ21世紀の老後の楽しみは半減するものと思っている。とにかくその世界に首を突っ込んでみる事を勧めたい。その為には今何をすればよいか!まずはキーボードを使うことを会得する事から始めよう。文字盤を見なくても殆どの文字が打てるようになる事が一番の近道だと思う。これには練習しかない。どんな人でも1ヶ月もしないうちに必ず打てるようになる。

おかしなもので毎日続けて行けば次第に打てる様になるのではなく、感じとしては、ある日を境に何故か突然に打てる様になる。反対に言えばその日まではいくら練習しても思うほど上達しない。このある日が人によって10日ぐらいの人もあれば1ヶ月の人もある。要はその日がくるまで根気良く続けることが出来るかだけの問題である。

人とコンピューターが話し合う接点がこのキーボードであるから、これが使えるようになると今度はコンピューターの方から話し掛けてくれる。元々コンピューターは奥深いものでキーボードを自由自在に打てる様になった時点が本来のスタートラインでキーボードの練習はマラソンでいうとスタート前の深呼吸で、走り始める前の段階である。よくキーボードが上手く打てなくてコンピューターは難しく止めたと言う人が居るが、それはマラソンの途中でリタイヤしたのではなく出発前の深呼吸で諦めただけの事であるのにそれに気付かない。

キーボードの練習は何もパソコンを買わなくても良い。キーの配列を書いた紙があればそれで練習すれば良い。繰り返して言うとコンピューターは多機能で難しいが我々が使うのはその多機能のうちのほんの一部分でしか無い。ましてそれを全て理解する必要は全く無い。コンピューターと人の接点であるキーボードが最も取っ付き難いがこれをコンピューターとは別のものと考える。これには電気の知識が要る訳でもなく文字を写した紙が一枚あれば練習が出来る。まア キーボードも100%打てなくても6割方見なくて打てる様になればその後の上達は随分早い筈だ。

それにしても山の話の本の最後がパソコンの話になってしまったのは、せっかく日本国中がIT革命と騒いでいる間に一日も早く皆さんにこの世界に首を突っ込んで貰い、世の中の動きに乗り遅れないようそのきっかけを21世紀の最初の年に考えて貰いたかったからに他ならない。

今の時点でもこの冊子の内容以上の事が既にインターネットの情報として公開されているし、これからも増えていくと思う。これからのITの時代にはこの類の読み物はホームページで公開し会員が自由に読み書きをし、お互いの山行の楽しさを倍増するのが本来の姿ではなかろうかと思う。

最初に鳥取西地震のことを書いたがそれの何倍も驚いたのはIT革命の基礎となる通信基盤の刷新が(計画中の物も含めて)これほど進んだ年はこれまでの日本には無かっただろうということだ。おそらく近いうちに各家庭に光ファイバーが入りテレビや電話、ガスや電気の検針、その他あらゆる物の情報がこれ一本でやり取りできる時が来る筈だ。

その時こんな情報の時代になるきっかけはいつだったかと振り返った時、まさしくそれはこの2000年であったと皆が認めるだろう。まアそれほどこの分野にとって、この年は大きな出発の年であったのではなかろうかと思う。もっともこれもmoriさんの構想のせめて半分以上が実現してからの話しではあるが。

そういう訳で時代遅れのドームと松の木は予定通りこのH12版が最終となります。次回このドームと松ノ木を見かける機会があるとすればどこかのインターネットのホームページかも知れません。原稿を頂いた皆様、真面目に読んで頂いた皆様、笑いながら読んで頂いた皆様、読みかけて捨ててしまった皆様、ありがとうございました。特にたくさんの原稿を頂いた落部さんには大変お世話になりました。原稿が来る度に嬉しくもあり恐怖でもありました。どうにか予定通り今号まで発行できました事を皆様に感謝いたします。

何年か後本棚の片隅でこの本を見つけたらパラパラと読んでみて下さい。そしてその時登ってみたい山が一つでも見つかればこの本を作った甲斐があります。
来年はいよいよ新世紀です。末永く皆さんの安全で楽しい山行をお祈りいたしております。              2000年12月

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平成12年 さんすい会 山歩きの記録 ドームと松の木
 
著者   落部 勝(お) : 武田浩志(た)
    
平成12年12月  第1版発行
平成13年 3月 第2版発行
編集・発行者 武田浩志
印刷・製本 武田浩志
 
これはドームと松の木 (平成12年)版をHP用に再編集したものです。