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   修 驗 道 と 不 動 院   

(中興四世春覚を中心に)----新中瑛亮

役行者は修験道の祖と仰がれ、約千三百年前に奈良大峯山を開きました。大峯山は役行者の後、山岳信仰の根本道場として、古来多くの山林修行者を生み出し、お大師さまも 「或るときは金厳に登って雪に遇うて坎らんたり」と、大峯山系での若き穂の修行を伝えておられます。

大峯山はまた、古歌に
「神のます こがねの峰は  法説きし 鷲のみ山の 跡 とこそきけ」 と詠まれるとおり、釈迦説法の地として名高い王舎城の東北の聖地、霊鷲山が飛来してきたものという伝説があり、釈迦常住の浄土として、さまざまな祈祷も行われてきたようです。
世に有名な藤原道長の御岳詣は、その代表的なものです。

[大峯登山と不動院]
 時代は下り、江戸時代、広島藩では藩主浅野公の大峯祈祷が行われるようになり、その役を第四世住職、春覚の代より不動院が仰せつかることになりました。不動院の歴代住職の行持については、第八世覚憧が心を込めて書き遺しました。その覚憧が書き遺した「新山雑記」には、春覚について、おおよそ次のように誌されています。


[木喰の弟子 春覚]
 賢宥法印は、字を春覚といい、高野山の木喰上人の弟子と伝えられています。(木喰応其は秀吉の高野山攻撃を回避させたことで有名で、その後は安国寺恵瓊とともに秀吉の使僧として活躍した。) 春覚は京都三条通りの寿徳寺の住僧であった。学才はそれほどのこともなかったが、道義を重んじる人であったといわれる。


[不動院への入寺]
 清光院様(浅野幸長)の恩遇が厚く、毎度軍陣につきそい身堅の加持をおこなった。清光院様の死後も引き続き自得院様(浅野長晟)に重んじられ、紀州と芸州を往きかいする内、当時無住であった不動院への入寺を求められた。 ところが春覚は、自分の学識の浅いことを理由に固辞した。するとしばらくして、無住にしておくのは惜しいとして、禅僧の雲嶺が入寺することになった。これに対して春覚は、不動院は宥珍、宥弁のような高徳が住持してきたので、そのような真言僧が住持するのがふさわしいと思って辞退した。それなのに禅僧が入寺するというのであれば、むしろ不才ながら真言僧である自分が入寺したいといって、その禅僧に直接交渉し、真情を吐露して諒解を得たという。


[清貧な春覚]
藩主から寄附の申し出があったが、過分の知行があることは僧侶の墜落の基であるとして断ったという。しばらく無住であったために道具も世間並にはなかったが、春覚の徳を慕うものが処々より持ち来り、不足することはなかったという。
 「士は道を志す。而うして悪衣悪食を恥づる者は、未だ與に議るに足らず。」とは、「論語」の有名な言葉ですが、覚憧は、師の覚盛の物語りを通して、「学才は左までの事もなかりけれども道義重かりし」という、春覚の志の深かったことを伝えています。


[広島藩の修驗道支配]
不動院は、春覚の代に大峯祈祷を行うと同時に、芸藩の山伏を統括支配するようになり、これは明治五年の修験道廃止令まで続くこととなります。江戸期の不動院文書は、明治新政府の政策によって失われた修験道の歴史を復元するための資料を、わたしたちに提供してくれます。
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