◆昔、不動院の前は海だった◆---不動院と行基---

不動院に残されている古文書(当山記)には不動院の開基は行基と言い伝えてあると記されています。行基は奈良時代日本各地を行脚し、民衆を救済したと言われています。

行基の活躍した奈良時代の不動院は、今のような川沿いではなく、太田川の河口付近で海に面していたと考えられます。
 
広島はまだその頃三角州はなく大きな湾で、海のそばまで山が迫っていました。太田川は上流の米や木材を運ぶ水運の発達で河口付近は海上航行の舟に荷物を積み替えるためとくに発達していったと考えられます。その安古市や祇園の対岸にある不動院は古くから栄えていました。

不動院は後方、そして南北に山を配し入浜の様になっていました。現在のような広い三角州になったのは戦国時代の頃です。
 奈良時代の安芸の国の中心地は国府のあった府中町です。山陽道は府中町から山づたいに戸坂に行き、川を渡り祇園から大町に出たと言われています。
又、一説には府中より矢賀に至り、牛田から新山(不動院)に出て、不動院の近くから川を渡り長束に行くコースもあったようです。
◆現在の不動院の位置◆←クリックすると写真がご覧になれます

 いずれにしても行基は街道近くの静寂なこの地に庵を結び、病気で苦しむ民衆のために薬師如来を彫り、祈りつづけたのではないでしょうか。そんな思いがします。
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