墓所の今昔

戦国武将の墓

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太閤秀吉の遺髪塚 武田刑部少輔の墓 恵瓊禅師の墓 福島正則公の墓 十三重の塔 宝経印塔
戦争中、
「秀吉公の墓石を削って御守とすれば戦死しない」
とのジンクスにより、多くの人が削ったために、 このような形となっている。

秀吉は九州名古屋城に行く途中、安国寺(不動院)に立ち寄った。

関白であった秀吉が立ち寄ったところを今でも「御所の段」と呼んでいる。
安芸の国守護、武田家の墓。
武田光和の墓か?武田信繁の墓なのか?

判明しないが、名門安芸武田家の出身の安国寺恵瓊はここに墓を建てた。
「清風 明月を払い 明月 清風を払う」恵瓊辞世の句

慶長五年十月一日、京都六条河原で石田三成、小西行長とともに斬首された恵瓊は、名門武田家に生まれながら数奇な人生を歩んだ。

その亡き骸は武田氏の居城銀山城(武田山)を望むふるさと安芸安国寺(不動院)に葬られた。
広島城主であった正則公は、当時無住であった安国寺に尾張より宥珍を住職に迎え、不動明王をおまつりしたために、不動院と呼ばれるようになった。

幼少の時より、正則公は宥珍をそばに置き「こころの師」と仰いでいた。

宥珍は家康公により正則公が改易された時、不動院の住職を辞して川中島に赴き、最後を見届けた。

不動院には正則公が宥珍に宛てた手紙や書簡が残されている。
塔の丘に建てられている塔で明治時代に建立された。

宇治の平等院の前にある中の島にある十三の塔と同じ寄進者によって建立されたもの。

元々ここには五重の塔が建っていた所と言われている。

現在もこの場所を塔の丘とよんでいる。

宝経印塔(室町時代)