**-恵瓊 戦禍の回避を願う-**
 恵瓊は、灰燼と帰した安国寺を一万千五百石の大寺に復興し、西軍として関が原で敗れる まで、禅僧として戦による無益な殺戮を防ごうと尽力しました。

 今、不動院は一段と緑濃い静寂の中に幾百年変わらぬ風情をたたえ佇んでおりますが、今から四百年前に、当山から日本の舞台に登場していった人物がいます。それは、戦国の世に大大名の毛利氏外交僧として名を馳せ、又、秀吉の家臣として活躍し、伊予六万石の大名となった安国寺恵瓊です。もとは、安芸国守護であった武田氏の遺児であり、武田氏滅亡後安国寺(不動院)に逃れたといわれています。


 恵瓊は、大永年間に武田氏と大内氏の戦火により灰塵と帰した安国寺の伽藍を復興し、高野山や京都諸寺院にまさる一万千五百石の寺領にしました。秀吉の歿後、関が原の戦いがおこり、恵瓊は毛利氏とともに西軍に組した後、東軍に敗北をきし、京都へと落ちのびた後、本願寺内、端坊に匿われていました。当時、本願寺端坊は周防、安芸を中心に布教活動を展開し、毛利氏に庇護されていました。恵瓊は信長の石山本願時攻めの折、毛利氏の使僧として尽力し、本願寺のために物資の援助や毛利氏との交渉をした経緯がありました。秀吉時代に本願寺が京都へ移ってからも深い関係が続いていたのです。


 ところで、天下人の家康は端坊が恵瓊をかくまっていたことに不快の念を抱き、門主である准如にも弁解の余地すら許しませんでした。一方、秀吉によって本願寺門主の地位を追われていた前門主の教如を庇護し寺領の寄進をしました。これがもとで、本願寺は西本願寺と東本願寺に分かれる事になったのです。広島は安芸門徒といわれる熱心な真宗の門徒の多い地方ですが、浄土真宗の本願寺の歴史の中にも、安国寺恵瓊の存在が浮かびあがってきます。


 恵瓊は、戦国時代を生きた禅僧として合戦のたびに良民が巻き込まれ、田畑を荒らされ、無残な戦いで人々が死に至らしめられることに、心を痛めていたのです。禅僧として精力的に活動した恵瓊禅師の胸中には、無益な戦禍の広がりを防ごうという、強い願いが込め られていたのかもしれません。


関が原の戦いから四百年が過ぎようとしている今、不動院の墓地にはひっそりと安国寺恵瓊の墓がおまつりされています。

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