当山中興の祖とよばれる恵瓊は鎌倉時代以来の 安芸国守護武田氏の一族に生まれ、大内氏 との戦いで武田氏が滅亡し、安国寺に身を 寄せたのが四、五才の頃と伝えられています。 以後十二年間を当寺でひたすら仏道修行に 精進しました。

やがて、恵瓊が一生の師とたのむ笠雲恵心に めぐり合い、 京に上り、臨済宗の本山東福寺に入りました。 以後、五山禅林の人として修行を重ねてゆきました。 恵瓊三十五才の時、正式に安芸安国寺の住持となりました。 後に東福寺、南禅寺の住持にもなり、 中央禅林最高の位につきましたが当寺の住持 だけは終生手放すことはなく人々からは 安国寺殿とよばれました。

恵瓊が毛利氏の外交僧として活躍を始めたのは 安国寺の住持になる少し前であると推察されています。当時、中国地方一円、北九州に勢力を拡大しつつあった毛利氏の対外交渉を一任され手腕を発揮してゆきました。羽柴秀吉が率いる織田軍が中国地方に進攻して来た際には、恵瓊は毛利氏の使者として秀吉との交渉にあたりました。この交渉を通じて秀吉との繋がりが深まりました。

やがて、天下人となった秀吉は恵瓊を直臣の大名に取り立て伊予和気郡二万三千石、後に六万石を与えました。しかし、恵瓊は依然として、毛利家の顧問であり、当寺及び、後には東福寺の住持を兼ねていました。

世は長い動乱を抜け出て泰平に入ろうとする時代で 豪壮華麗な建築が次々に行われました。
この時代風潮の中で、恵瓊は多くの新建築や旧来の建築の修復に関与しており、当寺に現存する金堂、鐘楼、山門を始め、故郷の芸備地方に残されている数々の建築、又京における東福寺の諸建築、建仁寺の方丈の再建などに大きな功績をのこしています。

恵瓊が秀吉公の命で朝鮮の役に出陣したおりには 収集した木材で当寺の楼門を建造しました。朝鮮の役の痕跡を残す貴重な遺構となっています。秀吉公が没し、やがて戦国乱世の終りを告げる天下分け目の関が原の戦いにおいて恵瓊は毛利氏と西軍に組して敗れ、石田三成、小西行長と共に、京の六条河原で斬首されました。ここに、六十三才の波濫に満ちた生涯を閉じました。
当寺の墓所には豊臣秀吉公遺髮塚と共に恵瓊の 首塚が現存しています。
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