不動院 金堂
金堂は香積寺(現在の瑠璃光寺)より移築
恵瓊は普請道楽、建築マニア
真言宗不動院(広島県真言宗教団)の金堂(国宝)は戦国時代末期、当時の往職・安国寺恵瓊(えけい)によって山口市の香積寺(現在の瑠璃光寺)から移されたことが明らかになった。この大事業の背景には、中国地方西部の支配勢力の激動と、政僧と呼ばれた恵瓊の「普請道楽」が垣間見える。  「もし関ケ原の戦いがなく豊臣氏の天下が続いていれば、瑠璃光寺の五童塔(国宝)までも移築されていたかもしれない」と、不動院の二十六代目住職は言う。不動院の境内には「塔の丘」という、五重塔の予定地と伝えられる平地(現在は墓所)があるからだ。  恵瓊は関ケ原の戦いで斬(ざん)殺される前年の一五九九(慶長四)年には、当時臨済宗の不動院にあった豪壮な客殿を京都五山の一つ、建仁寺に移築し、方丈(往職の居所)としている。山口から金堂を持ってくる一方、京都へも巨大建築物を移している。  「挑山時代というのは、巨大建築物を移してしまうほど大きなことを考えた時代」。今回、金堂があった元の寺はどこかという長年のなぞを解明した関口欣也・横浜国立大名誉教授(建築史)は、とりわけ恵瓊を「けた外れの普請道楽、建築マニア」と形容する。
今でも最高峰保つ
「日本の建築史上、移築の例は少なく、金堂や建仁寺の方丈は最大規模。戦国末期の禅宗寺院の中で、不動院金堂は今でも最高峰の出来栄えだ。恵瓊ほどの眼力があれば、一目でいい建物かどうか分かったはず。あれほどのものは新造できないと考え、移築したのだろう」  金堂を移築した背景には、大内氏から毛利氏への支配勢力の大転換がある。 金堂があった香積寺は大内氏の菩提(ぼだい)寺で、五山に次ぐ禅宗の全国十大寺に名を連ねた。五重塔は一四四二(嘉吉二)年、大内義弘の弔いとして建立。金堂は一五四○(天文九)年、四代後の義隆が父・義興の一三回忌に建てたとされる。だが五一(天文二十) 年、陶晴賢に攻められた義隆が自害し、大内氏は事実上、没落した。
背景に大内氏没落
 金堂移築は一五九一(天正十九)年ごろと推測され、建立から約五十年がたっている。「後ろだてを失った香積寺は当時、かなり廃れていた。移築は同寺再輿にも助かるいい話だった可能性かある。恵瓊は立派な金堂が安く手に入ったから移築した」と、不動院文書に詳しい鈴峯女子短大の松井輝昭教授(日本史)。恵瓊が安国寺(不動院)住職になったのは一五六九(永禄十二)年。寺を短期間で整えるには、移築が最も好都合だったとみる。しかし、麻生住職の見方は異なる。「恵瓊の師・恵心は香積寺の住職だった。禅宗は師弟関係を大事にする。ゆかりのある寺の金堂だからこそ移築したのではないか」 移築には以前から、豊巨秀吉が関与したと言われてきた。不動院文書(一七二二年)に「秀吉のうかがいをたて本堂を移築した」とあるためだ。厳島神社の大経堂も、秀吉の命により恵瓊が造営したとされるほど、両者の関係は近い。
高い知行持つ政僧
恵瓊毛利氏の外交僧ながら、備中高松城の水攻めなどの功績で秀吉に急速に近づき、一五九一年には、高野山全山より高い一万千五百石の知行を秀吉から与えられた。松井教授は「実際には十二万石ぐらいの力があり、天下人の秀吉に口ききしてもらうには、恵瓊を通さねば駄目だったほど」と、その政僧ぶりを指摘する。  不動院には、石田三成秀吉の側近から寄付を集めた恵瓊自筆の目録が残っている。松井教授は「寄付の目的は金堂移築費のねん出かもしれない。恵瓊は財力のない毛利氏より、秀吉の権勢を背員に、諸寺を整備したのでは」とみる。  一方、関口名誉教授は「堂塔の移築は寺が独自に決められることではない。移築で最も難しいのは、領主の許可。やはり、いい本堂を広島に持ってきたいという毛利氏の意向が強く働いたと思う」と毛利氏の関与を示唆。「建築と政治、資金などの関係は、解明すべき問題が多い」と、今後の研究に期待する。

←戻る 鐘楼堂のページへ→