ある時は政治の道具となり、
ある時は民衆を救うための資財となったこの安国寺肩衝茶入の有為転変をみると、
安国寺恵瓊の数奇な生涯が投影されているような氣がしてならない。

 安国寺恵瓊が所持したことでこの銘があるこの茶入は、もとは有明肩衝と称した。伝来についてははじめ細川幽斎(藤孝)が所持し、その子三斎(忠興)から恵瓊に譲られた。

関が原の役の後、恵瓊の遺品となったこの茶入は徳川家康から津田小平治秀政に渡った。秀政が所持した経緯について「寛政重修諸家譜」に次の様に記されている。

 --秀政茶入を所望

津田秀政が小山評定の最中、三成の挙兵で家康は機嫌が悪かったために、参加した武将はだれも言葉を発する者がいなかったという。

肩衝の茶入(安国寺茶入)ひとつを私に賜ったら、それで茶会を楽しみましょう。」と申し述べた。すると家康は「それはたやすい望み」と言い機嫌が直ったといわれる。そして秀政は関が原の役の後、茶入を家康から賜った。

 --三斎茶入との再会--

ある時、細川三斎が秀政の茶会に招かれ、この茶入に再会した。三斎は懐かしく思い、昔手放した(恵瓊に譲った)ことを非常に悔んで、

 「年たけてまたこゆべしと思いきや、 命なりけり佐夜の中山」西行法師(新古今和歌集)(このように年老いてから再び越えようと思ったろうか、思いもかけなかった。これというのも命があったからのことであるよ。)

この佐夜の中山のうたを残して、黙って茶入を持ち帰った。翌日金二〇〇枚に酒肴を添えて届け、譲渡の承諾を得たという。別名中山肩衝の名はこれによるものである。

 --飢餓を救った茶入--

寛永三年(1626)細川忠利の代に領内(肥後・熊本県)旱魃に当たり、飢饉を救うため、金一八〇〇枚で庄内(秋田県)藩主酒井忠勝に譲り、これを難民救済の資金とした。

庄内藩では酒井忠勝の没後、この茶入を遺品として慶安四年(1651)幕府に献上した。

その後、信州上田城主松平伊賀守の所持となり、幕藩体制崩壊後、資金難に陥った大正二年(1913)、松平家は売立てに出し、実業家であり、茶人としても有名な益田英作(紅艶・益田鈍翁の弟)が落札した。現在は五島美術館が所蔵している。



安国寺恵禅師

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:元和年中(1615-1624)頃より藩主の祈念のため不動院住職は修験道の聖地である大和の大峯山にに毎年参詣していた。また、同時期より芸備の修験者の役所もつとめ、各修験寺院に法度・覚を発布した。

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