2010年02月09日(火) 天気  
父(1911-2008)の終戦
 
いよいよ入船となると荷物の問題である。あれはいけない、これはいけないと言う、一人布団袋1つとボストンバックとトランクの持てる範囲ということになり、刃物等は禁じられ、如何にして多くの物を持ち帰るか思案嘆き、荷物を作ったり入れ替えたりした。結局埠頭での検査で居残りを命ぜられてはと規定通りとし、布団の中にしまったタオルやきれを取りだした。
 入らない余分な荷物は、売りさばくため持ち出すのであるが、日本人の引き揚げ後そのまま没収する予定の王のけらいは、鵜の目鷹の目でなかなか持ち出せず、2階から下の通りに投げて、出る時持ち出して子供の運動靴等露店で売った。その他布地は、藤森のボーイの家の前に網で吊るして落としたり、先に連絡しておいて投げて与えた。
 12月3日ごろか、第1船が来た。七条、末続夫妻は娘の理由で第1便に乗った。送別会も盛大に計画した頃、一寸した風邪と思ったのが、熱が全然下がらず、青島病院に診断してもらったら、山本熱と言われ隔離すべきだが、時が時で家での療養を許され10日ばかりも寝床について送別会にも一人寝ていた。