2010年02月07日(日) 天気  
父(1911-2008)の終戦
 
蒋介石をはじめ要路の人は、敵仇に報いるに徳をもってせよといった感情であった。しかし王の部下が田舎から婦人等含めて随分の数になり、我々の獲得した食料をどんどん食べられ、持ち出して売ることも禁ぜられ、常に衝突の不運や気分もみなぎってきた。水洗式便所は汚れ、風呂も1日交替にゆずり、ついに階下は華人に渡して階上に縮小した。応接間に置いた炊事道具や写真等いつのまにかすっかり取られる。福田さん名立ての子龍一君(中学4年卒)は支那人に対してとても悪く取り組んだので衝突も起こる。日本人の店もストックを無くするためか売り出すので、日中は買い物あさりした。終戦後、物価も幾分下がり、家内、子供のものと思って靴下やきれ等買った。キャラコ一疋1万6千円であった。日本人の酒屋も持ち米を売ったので、食糧獲得の意で4斗俵3万円で買ったように覚えている。布団をといてタオルやネル、キャラコなどを綿の中へ入れたり、シーツを新しく縫い直したり、初めてミシンも使った。