2010年02月01日(月) 天気  
父(1911-2008)の終戦
 
8月14日12時、天皇陛下の重大放送があるというので、青島埠頭の山東鉱業の倉庫の事務所に皆集合して、汗だくだくで起立して聞いた。玉音は極めて不明瞭で1億火の玉となって決戦を励まされたようにとった。夕方宿舎に帰って、敗戦の詔勅であると知って石段に腰を下ろして色々と残念がった話を皆でかわした。10日も前頃、宋苦力頭が職場で戦争も「快完了」直ちに終わると言った事を思い出す。正しい外国の放送ではよく分かっていたことに違いない。15日教育招集にかかっていたので種々の話をした。第2小学校の校庭に集合したが、即刻解散した。
 大連に疎開した家族の事など今後が思いやられる。船の連絡もすっかり止り、鉄道も不通となる。日本人の新聞社も支那側に接収され、ラジオも殆ど入らず、時々悲観すべきニュースを僅か送るばかりとなる。日本の飲食館、警察もすっかり用をなさず、無警察の生命の危険を感ずるようになる。