交通でたどる広島の復興 被爆後四半世紀

 350余年の歴史の町が、ピカドンで一瞬にして廃墟の町にかわった。75年生物も育たないといわれた原子砂漠が、四半世紀で世界を驚かすほどの復興をとげた。
 都市の交通は、血液の流れに相当する。都心部が瓦礫の町となって、中心部交通機関は一切停止した。しかし鉄道は交戦中で、原爆を受けて54時間後の8月8日午後2時には、試運転が本線を通された。8月7日には、宇品線が開通し、8月9日には、芸備線が開通した。
 電車は、己斐から天満橋までは原爆後数日で通じた。バス木炭車10台あまりが、9月には走り始めた。
 デルタの都市交通を妨げたものの一つに、橋を失った事がある。戦災前54の橋が7つの川に架かっていたが、原爆で焼失破壊10橋、9月17日の大雨で流失破壊したもの20橋で、合計30橋を失った事である。市西部の木橋が流され、己斐・古田方面へ横川橋を渡り、山手川の東岸を南下した。水害対策も大きい課題となり、仮橋も請負う業者がいなかった。
 都心部を失い、周辺部が焼失をまぬがれ、応急処置で居住でき、鉄道の復旧で広島駅・横川駅・己斐駅を核として、近辺から多くの鉄道利用者が出入りした。男子は、戦闘帽に軍服、軍靴、雑嚢、リュックサックの姿がほとんどで、女子はモンペ姿である。
 駅前では、8月下旬にはみかん箱を並べた露店が出来、繁華街のめばえ、10月から一部食料品の統制緩和でヤミ市が増加し、20年12月400店、夜通し焚く火に浮浪者の群れがあった。翌21年1月の露店は、1,000店に達し、6月13日にはヤミ市の大手入れがあった。ヤミ市を核として、駅前から京橋町・八丁堀・紙屋町に至る地に、バラック建ての商店が徐々に増え、街路に沿って建てられた。無秩序・無計画なもので、これが復興計画の区画整理事業の実施を阻害し、街路事業の障害物となった。
 比治山東部、段原方面は焼失をまぬがれて、大修理によって居住できた。ここの宇品線に沿い、兵器廠跡に県庁、電信隊の跡に進徳、被服廠跡に有朋高校、その他女子商業、比治山高女等の学校が多く出来て、狭い段原付近は交通が多くなった。下肥を取る大八車や牛車、馬車、配給車などでの運搬も見られ、歩くことが一番でよく歩いたものだ。
 郊外の府中や温品方面から広島へ通勤・通学も芸備線矢賀駅まで歩いて汽車を利用した。汽車に乗る距離より、歩く距離の方が長い者も多かった。自転車も手に入り難く、ゴムが悪くよくパンクした。
 昭和21年10月4日、内閣告示で、広島市に南北7本、東西6本の幹線道路をつける計画が出来る。
 昭和22年駅前の区画整理計画をたてる。露天の密集、マーケット街が立ち並び容易ではない。第一期の原爆復興工事として、広島駅本屋鉄筋修理、陸橋の着工、構内タクシー営業などがあり、天皇の来広もあって、応急工事も急ピッチで進んだが、毎夜貨物列車が停車すると、広島操車場に30〜40人の強盗が出没した。ヤミ市の縄張り争いからピストル事件も起きる。
 昭和23年広島港は、乙種貿易港に指定され、5年計画1億2千万円で長さ260m,巾75mの陸揚場をつくる。
 広島駅は、原爆復興第二期工事の本屋化粧工事ができて、陸橋も新設された。
 23年末になると、バス会社の進出も目立ち10社となり、トレーラーバスも走る。市内交通難ピークは、23、24年ごろで、殺人電車の言葉も24年夏に使用された。24年8月電車96輌、運転は76輌(戦前123輌)で、白島線を除いて全線が復活した。バス96台、運転75台で交通地獄が大分緩和される傾向にある。
 昭和24年8月には、100m道路が天満川以東で大体形がついた。幹線街路15年計画の約1割が進行した。道路舗装が13,630m、マッカーサー道路、金屋町通りの地上物が地下埋設舗装をして、つくろいから脱したとみられる道路が生まれ恒久的な都市建設が始まる。旧旭橋で市が己斐西町と福島町を結んだ。長さ70m、巾5.5mこれが1級国道2号線として、35年新旭橋が下流に完成するまで大動脈の役目を果たす。
 県土木課で稲荷橋建設中、市内は5年計画で次の橋を8.8億円で計画した。住吉・明治・新大橋・駅前・新旭・新柳・東大橋・新観音・南大橋・横川橋
 駅前の区画整理実施も決定し、駅正面に張り出し出札所を完成した。
 昭和25年駅前の立退き折衝がはじまる。大須賀踏切から愛宕踏切まで駅前2万5千坪の整備を急ぐ(本格的には29年末から)、3月1、2等の待合室を廃止し、5月には急行安芸が走る。10月広鉄局完成、駅北口が開業して便利となった。市内の自動車も増加して4,500台といわれた。
 以上終戦後5年間の交通は、市内も周辺部との交通も共に困難を極め、市民の日常生活も不便であった。しかし昭和23、24年ごろから交通機関が改善され、昭和25年に至り電鉄・国鉄のほかに広島バス、一畑バス、合同バス、郊外バス、芸陽バスなど大型快適バスが運行を始め、バス時代に入った事が感じられる。
 鉄道市内の各駅乗客数合計をみると(市政要覧) 昭和22年 63,564人 昭和23年 71,176人 昭和24年 62,355人 昭和25年 51,692人と23年がピークになっており、バス交通の進出のためである。
 広島港 昭和8年宇品港西側に、商業港の築造に着手、昭和22年11月竣工 防砂堤1,824m 防波堤500mは昭和23年1月開港に指定された。昭和23年4月 広島港修築計画樹立、11月27日起工式挙行。25年3月3日、輸入食糧船第一回弥彦丸入港する。
  昭和26年
 26年から戦災復興事業で幹線道路の応急的な舗装が行われている。本年度より幹線街路に、街路樹を植え市街地の緑化に資している。宇品が重要港として指定され、1万トン級の船をつける築港も行われる。
 橋は、安芸大橋2,400万円、140m、平和大橋がアメリカ見返資金4,900万円、イサムノグチの設計で出来、平和都市広島の名所となる。新明治橋もその下流にできたが、巾7.5mが後新国道となり、自動車洪水のネックの橋となる。
 国体が広島市で行われ、各面で整備が急がれた。駅前の街娼が目立っていたが、取締りが強化された。
 26年2月1日現在の市内在籍自動者数は、3,478台、内乗用1,238台(内バス185台)、貨物2,123台、その他117台。3,478台のうち、営業用686台、官公署用527台、自家用2,265台。
  昭和27年
 8月庚午橋の着工をした。長さ330m、巾6mの放水路をまたぐもので、29年12月27日完工した。広島港の旧軍用桟橋まで8千坪の埋め立てをする。
  昭和28年
 昭和25年から進められた幹線街路27本、延長95キロメートルをつくる計画の80%の整地が進んだ。100m道路4.1kmのうち西観音町まで3.2km通じたが舗装もしてなく、道路としての役割を果たしていない。幹線の市内延長86キロメートルの95%が未舗装である。天下の悪路、河原のようで雨が降ればどろんこ、照ればほこりがたった。バスもこの年になると1日439台が市内を土ほこりを立てて走る。
 稲荷大橋から紙屋町に至る幹線には、交通量激しく28年8月現在福屋の北側にあった旧福屋を取り壊し、9月下水管整備、11月から電車軌道を1.5km2千万円かけて移設した。この間水たまり、砂埃と整備がおもわしくなく幼稚園児がマンホールに落ちて死亡という事故もあった。
 駅前50m道路の完成を急ぎ、第二マーケット59戸と飲食店街33戸の立ち退きを迫る。愛宕の踏切の混雑ぶりは、9月の調査によると通行人1万5千人、自動車1,846台、自転車・牛馬車6,432台、国鉄12本線遮断時間9時間、精神修養のチャンスといわれる。
 橋は、6月駅前大橋が第一期工事着工、緑大橋が三菱造船で全部溶接によって完成した。28年7月現在市内の橋は、木橋17、永久橋21の38橋である。今後の幹線道路木橋6と新設32とこれまた合計38を鉄筋にする計画である。このうち住吉橋は架橋中である。
 広島港では、外貿地帯1万トンバース着工、水深10mに浚渫してこの土砂で10万坪の埋め立てを運輸省直轄工事で着工、臨港道路1.2キロメートルの臨港線が1,203万円で完成した。
  昭和29年度
 5月には、稲荷大橋から紙屋町へ至る電車軌道の移設が完了した。年末に県・市・商工会議所で組織した広島空港設置期成同盟が連動を始めた。
 広島駅60周年を6月にむかえ、客車110本、貨物列車170本を通した。3月に駅前橋第一期工事終り、90数戸の立退きもでき道路が新設された。
 橋は、1月に新旭橋と大正橋が着工、庚午橋は12月に完工した。この庚午橋は長さ330mの長いもので工費は8,700万円。
  昭和30年度
 駅付近が駅前橋から百貨店横まで43戸整理して、道路ができる。駅前橋の第二期工事も4月に着工した。同じく4月駅前大火で48戸100世帯1,500坪焼ける。7月末には国道建設予定地の70戸80世帯600坪が焼けた。整理の第一歩としてシネマ通りの通行を禁じた。広鉄から大須賀町の1,764坪を譲り受ける。また駅前地下商店街も計画された。30年度末の駅前整理はこのように進んだようでも30%に達した程度である。
 向洋と府中の間にトンネルが8月に着工、31年2月に完工した。
 愛宕踏切の10月の調査によると、1日列車290本、入れ替え170本で、区画整理に310戸立退き補償3,100万円、街路の整備や水道移設を行う。
 市内観光も増加し、28年139万人が、30年度には185万人にのぼった。
 横川の新橋を年末に着工した。この年の3月橋で危険な状態のもの柳橋、南大橋、東大橋、中央橋等である。広瀬橋、大正橋は、各4,000万円の予算が計上され、観船橋も完工が近い。
  昭和31年度
 区画整理による土地の確保が殆んど済み、幹線道路27本延長95キロメートルの平和都市建設事業の用地確保も進んだ。7月紙屋町から鷹野橋まで1,200mの電車移設ができ、巾40mの一級国道が完成し、11月には旧路線を取り除き年末までに紙屋町から中電まで700mを舗装し、残りは32年3月頃まで450mを完成した。電車軌道の移設は、外に鷹野橋から貯金局までと寺町も実施された。
 舗装工事は、11年たっても進行率が12%位で、巾20m以上の幹線道路をはじめ、市内道路800キロメートルの舗装は70キロメートルが出来上がった。主なものは紙屋町から中電、八丁堀から東保健所、大洲ガード下の補修、稲荷橋西側、十日市交差点等でコンクリート1,700m、アスファルト1,200mである。
 橋は、玄関の駅前橋が完成したが、工事中のものは新旭、横川新、広瀬、大正橋等 老朽で荷重制限のものに東大橋、中央、広瀬、中広、旭橋等で、中心部の最老朽は柳橋である。

    右の写真は、昭和31年12月撮影
 右下山陽本線と清心学園に至る道。山手川に己斐橋、その下流に電車専用橋、さらに下流に木造旭橋、その南方で福島川と合流


 広島駅付近をみると駅前マーケット80世帯が焼ける。8がつには駅前橋の渡り初め式も行われたが、38万都市の玄関としては、みすぼらしく都市美観のガンとなっていて、八丁堀付近のたくましい復興に比し劣る。25年から6年間大須賀踏切から愛宕踏切までの2万5千坪の整備を急いだが、立退きははかどらず、720戸の立ち退きが必要であるのに、行き先のなく困っているもの350戸もあった。


  昭和32年度
 これまでの2年間に舗装したもののうち、市は八丁堀から百メートル道路まで400m、白島電停から八丁堀まで225m、土橋から舟入本町まで1,320m、県は紙屋町から鷹野橋、紙屋町から十日市まで実施した。厚さ20cmで1平方キロメートル1,700円、25年耐用、アスファルト800円10年耐用といわれた。
 市は県へ市内幹線道路の改良と舗装を望んだ。52,000mのうちその3分の1の14,100mの早期改良舗装と補修を申し入れる。7月の調べによると幹線道路27本、延長95キロメートルの整理を終わったものは、44キロメートルが済んだ所である。
 2月の改修舗装をみると、1級国道 新大洲橋西方300mから呉方面へ2,000m、鷹野橋から観音1,000m、己斐消防署付近1,000m。2級国道 横川駅から横川新橋1,000m。県道 比治山下から皆実町3丁目2,000m、にき津から常盤橋ガード2,000m、三篠橋から常盤橋900m、己斐橋から己斐小学校800m。
 立体交差の10年計画も立てられ、愛宕陸橋、白島ガードが立案された。太田川放水路のために5カ年計画で本線の移転、横川己斐間にトンネル、高架立体交差、386mの鉄橋を、可部線も移転し306mの鉄橋、三滝駅の廃止、トンネル一本つくることにする。
 郊外に行くバスの発着場が各社まちまちで、乗り遅れると2時間も次の車まで待ったり、他の発着場に行ったりする不便があり、バスターミナルのことが懸案になっていたが、4月5日着工し、7月23日には落成式をした。敷地は1,645坪、10社410台が発着するようになる。自動車も市内に増加して、7月1日騒音防止の県条例が出た。
 平和大通りの緑化がこの年から2カ年計画で進められ、県下に献木運動をおこした。しかし平和通りの両端には1,000mが未舗装である。市内の道路別をみると、国道17,3km、県道42.5km、市道808kmで舗装は20%である。
 橋で完成したもの、駅前橋、広瀬橋、大正橋、工事中は旭橋、横川新橋で、着工したものに新柳橋(東広島橋)が10月、東側不法住宅を片づける。新己斐橋着工8月。広瀬橋の完成は十日市から上天満町の30m幹線道路を結ぶもので、市の東西交通の緩和に役立った。
 橋の本年より10年計画をみると、第一期 新旭橋、新己斐橋。第二期 南千田、舟入、南大橋、第三期 鶴見橋、空鞘橋、三滝橋、上柳橋、新神田橋。
 広島港の東に10万坪の埋め立てが始まる。
 2月駅の建物のコンクリートにひびが出て民衆駅の計画も出る。駅前マーケット70世帯が焼ける。4月駅前に郵便局合同庁舎が着工した。駅前、えんこう橋、荒神マーケット街立ち退きの乱闘事件がおきる。本年度の立退きは2割強の90戸が完成したにとどまる。10月に大須賀町鉄道用地1,760坪の商店街が着工した。

  昭和33年度
 自動車がいちじるしく増加し、12月市内自動車1万台(25年4,500台)、市内タクシー700台といわれた。10月15日午前7時から24時間の自動車交通は次の通り、大洲ー広島駅5,652、広島駅ー八丁堀18,931、紙屋町ー鷹野橋6,000、井口4,949、新庄4,271。7月1日からノークラクション運動をする。本通りや広極通りの時間制限、流川、袋町等の一方通行、山口町から相生橋、紙屋町から革屋町まで転回禁止とする。12月朝日ビル前を通る車は、午前7時から午後7時まで約1万9千台の車の洪水で、ラッシュ時は2秒に1台の割といわれる。
 道路整備の重点は、白島から東保健所、駅前、東警察署から比治山方面の道路等である。市道1,200キロメートルの舗装の済んだものは90キロメートルである。細切れ舗装と言われた。牛田、吉島、江波の幹線道路の用地買収にかかる。戦災にあわず狭い道にどんどん家が建ち、交通が動脈硬化の現象となる。3地区に600戸以上の家屋の立ち退きと用地買収が必要であった。
 12月の調査によると、市内のバスと電車が1,000台で、12.3万人運んだ。国鉄宇品線はこれと反対に客も減り、赤字4千万円、人件費の半分もない。従業員90人を半減して46人にした。この鉄道は5.9km、さる31年に県庁が中心に移ったこと、バスの増加が目立ってきたため。
 中国地方建設局は、市内の国道の混雑のため、新広島国道を着手した。海田大正通りから庚午北町まで11キロメートル、巾18mから40mまで、向洋山から黄金山北方、市役所の南方を通るものである。
 長い間の懸案の空港が軌道に乗った。運輸省が南観音町県有地時価10億円、30万平方キロメートルを第二種F型空港に指定し、3,500万円の埋め立て工事費を組み、350万円の漁業補償で解決した。34年から10年計画となる。
 広島港では、第二1万トンバースの建設に着手した。

  昭和34年度
 道路整備の重点、中島ー吉島、横川ー江波、白島ー牛田の用地の買収が進む。己斐駅前付近を4年計画、2億5千万円、450戸の移転計画をたてて、暮れから立ち退き交渉に入る。福島、南三篠町を5年計画で都市改造、4億4千万円、1,170戸の立退き移転を始める。百メートル道路を観音町から放水路まで延長した。
 34年度から中国地方建設局で10年計画、46億円で決まり、この年は80万円で実測調査をする。
 広島駅を中心とし、荒神に至る1級国道2号線280mの敷地内に180戸のうち77戸が一旦立ち退いたが、行き先がないと元の土地に仮店舗を立てて住み着いて、34年暮れには、警官を導入して立ち退かす。
 東広島橋が3月完成し、平和大通り鷹野橋方面に対角線状に幹線が通じた。
 駅には客車206本、貨車35本、1日乗降客6万5千人であった。駅西商業センター166の商店が入居したが営業は振るわない。
 大芝地区の区画整理4年計画で2級国道54号線の一部路線の変更工事に伴い、13万坪の整理がされた。
 国鉄は、28年から土盛り式の方針で、用地25万坪の買収が終わったが、路線下に商店街の計画にかえる。
 2月の調べによると、市内の国・県道の未改良は36.7%で、未舗装は88.8%でこれから整備に140億円が必要といわれた。市内に登録した自動車は、19,110台で、昭和29年の2.8倍となった。バスの貸し切りが多くなり、一躍スターになる。長距離が多く、阪神のみならず、宮崎方面まで行く。長距離トラックも多くなり、大阪、神戸、下関などへ向かった。バスセンターも1日発着830台にのぼる。
 広島港は、3月1万トンバースが完成した。江田島との貨物フェリーが始まる。
 橋は、34年2月の調べによると、永久橋21、木橋が13、計41。今後永久橋に架け替えの必要なもの8、新設の必要なもの20橋である。周辺部の小川の橋を合わせると木橋が全体の18%ある。交通不能や重量制限のもの22%。新観音橋と南大橋が予算計上され夏に着工された。坂町から黄金山南方の埋立地へ、長さ1,000m、高さ30mのバイパスの橋も計画された。

  昭和35年度 
 空港が4月に着工、秋には埋め立て工事が終り、滑走路は12月に着工し、次の年の4月に終了した。空港の総事業費は、2億6千6百万円で、国が1億5千3百万円、地元の市3千数百万円、財界寄付1億円といわれた。
 立ち退き問題は、吉島、江波、牛田の幹線道路は20mから30mで、道路移設のため600戸の立退きで買収に当惑する。
 己斐駅前の立退きは、3月と4月、前年の12月3回期限付きで142戸の立ち退きを通告した。8月までには強制立ち退きでもしたい考えであるが、地元は10数年も住み着いた生活をおびやかすと、次のような要求を出す。@適当な換地を提供 A立ち退き補償金を出す B商業センターを市が立ててくれる
 新広島国道は、35年度に東端535mを買収、35年度には2割を進行予定で、海田大正通りから出汐町まで道路6.4キロメートルの改良舗装費26億円を予定された。
 35年2月荒神立体交差431mを着工した(37年7月完成)。草津から己斐を通り三滝に至る道路を計画した。
 自動車ブームで大芝の自動車試験場(66ha)には、1日200人がおしよせる。1月から4月末まで20,917人受験した。多い時は1日450人が受験した。
 観光客も増加し、30年143万人(国外1.4万)、34年225万人(国外4.5万)
 36年から4年計画で元宇品、三滝公園、比治山、神田山貝塚郡の保護の計画を立てた。
 橋は、東大橋の架け替え計画、新己斐橋の計画、広島大橋のバイパス1,000mの橋と1,800mの有料道路を陳情する。旧旭橋の撤去反対運動がおこる。仁保橋が12月着工。新旭橋が3月完成した。6年の歳月を要し、長さ287m巾17.7mのマンモスブリッジで水都の新名所と大動脈となった。祇園大橋が完成し、建設中のものは己斐橋、南大橋、観音橋であった。
 
                        下の写真は昭和36年12月、完成した祇園大橋から東望。工事中の放水路上流、
                           中景は工事中の大芝橋、遠景牛田新町の団地造成中、右牛田中学。
  渡し船船も次の5か所残っていた。舟入川口町ー吉島刑務所前、基町ー寺町、牛田新町ー長束、向洋ー柞木が2か所。
 広島港は、3月1万トン1号バース完成し、昨年9月伊勢湾台風で、瀬戸内海が外材輸入港として見直され増加する。
 12月東部埋め立て126万8千坪の補償が解決した。
 広島港貯木センターが5月完成した、6万6千平方メートルで、33年6月から34年9月まで漁業補償が920万円で、工費1億5千万円で完成した。

  昭和36年度
 4月空港ビル起工され、9月15日開港した。広島交通の一大革命といえよう。
 広島市開発公社の初仕事として、吉島から中島の幹線道路の用地買収をした。長さ800m、16,000平方メートルが必要で、35年度まで市は4,900平方メートルの買収を終わっていた。25mの道路をつけるもので、36年度に6,000平方メートルを買収した。
 己斐商店街28商店が積立金で土地を買い、共同ビルの青写真をつくる。
 橋で完成したものに、南大橋4月、長さ122m、巾16m。着工したものは、1月三滝橋、9月山手橋、東大橋。
 広島駅前は、歩行者専用道路を3月につける。駅前30m道路には、20戸が最後通告を受ける。12月駅前橋から東警察署にケヤキの並木を植える。駅西商業センターは閑古鳥が鳴く不振さである。

  昭和37年度
 6月1日広島駅以東が電化し、つばめ、宮島等の急行列車が発着し、民衆駅の規模も決定したが、駅を出て左に向うと「第三マーケット」とよばれる所で、百軒をこえる飲食店と安宿が路地を挟んで立ち並び環境が良くなかった。
 荒神町の立体交差が7月完成した。しかし矢賀へ抜ける道が不完全で、踏切をわたる車と人はいこうに減らない。歩行者1万人、車1万1千台、11時間の遮断時間が9月の調査結果である。府中町民はこのため「陸の孤島」となり、遅刻常習犯と烙印を押された。
 10月1日可部線の新線運転が始まる。300mの放水路と堤防が高くなり、31年から横川駅を中心に4.5mのかさ上げが始まり、新線はすぐ鉄橋(301m)を三滝に渡り、トンネル(100m)延長2.5キロメートル旧線より316m長くなった。古い三滝駅を閉鎖し、川向うに三滝駅をひらく。長束駅の南190mの地点で旧線と合流した。
 本線は、20億円で横川駅4.5mかさあげ、三篠鉄橋西側から高架工事を己斐東側まで2.47キロメートル、380mの鉄橋と105mのトンネル、三篠・横川・打越の三つの踏切をなくし、高架商店(30戸、1,270平方メートル、高架北側180m)をつくり、市は国鉄と契約した。
 宇品の電車通りに御幸松石碑が自動車交通の妨害となり、除去して千田公園に移した。市電敷石を整備して歩道2mと車道20mに改造した。
 バスと電車の停留所があるため、車の流れを止める理由で次の廃止運動が起こる。荒神町郊外バス、えんこう橋の市内バス、電車えんこう橋で、地元商店街は反対した。
 12月仁保橋が工事を終わる。
 広島港西港区埋立地の漁業補償も12月31日契約できた。総事業費16億円、うち補償8億2千8百万円、66万平方メートルの土地造成の計画である。

  昭和38年度
 山陽本線が6月に高架線に切り替える。広島から横川、己斐まで2.48キロメートルに処女列車を通した。9月10日横川駅構内高架下店舗が営業を開始した。1戸43平方メートル。
 府中方面が35年頃から急に宅地化した。鹿籠踏切が、歩行者3,000人、自動車2,500台、国道2号線と三差路の危険な状態で立体交差の必要をいわれたが困難な地点である。10月7日岩鼻踏切(芸備線)で広電バスと機関車の衝突事故があった。この踏切は4.5mから4.7m位の狭い旧山陽道で、広電バスが1日190往復あった。37年頃の交通量は1日2,150台。荒神陸橋が37年完成、38年10月この陸橋から550mの道路が完成、踏切は陸橋の予定で大橋まで1,500m延長の計画である。岩鼻踏切まで750m43年度までかかる予定。
 12月1日広島駅から大洲街道に至る懸案の新道が12月14日開通した。自動車も多くなり駅前発着場を変更し、7社101系統2,939往復のバスが発着し、その発着場を23か所に分散した。4月駅の乗降客6万人、3万台の車が発着(内バスは2,600台)といわれた。
 橋で着工したものに、柳橋11月末、新住吉橋も年末に着工、新神田橋11月着工、牛田85戸立退きした。完成したものに11月11日山手橋227m、巾4m、1億2千6百万円で36年9月着工したものである。12月5日に新庄橋が完成、36年9月起工した三篠本町と祇園を結ぶ277m、巾6m、1億9千万円を要したものである。
 広島港1万トンバースが4月完成し、第三の1万トンバースを5月に着工した。

  昭和39年度
 橋の完成したもの柳橋5月鉄筋とする、730万円、巾3mの小さいもので、市内45番目の橋。表御門橋(旧大本営)が12月20日完成、巾5m、長さ26.7m元の姿に鉄筋工事とした。仁保橋が完成し8月3日開通、395m、4億6千万円で都心に向う自動車の混雑を緩和すると大きく期待された。新己斐橋は9月7日電車が開通した。完成後2年も渡れないで血税が泣いている。
 着工したものに、上柳橋11月、黄金橋7月、前者は長さ82.5m、巾22m、車道16m、1億4千万円。後者は長さ513m、巾21m、9億円の計画。工事中のものに国の事業は、新住吉、黄金、己斐、大芝橋で、県の事業は、新神田、市の事業は、上柳橋等でこのほか予定のものに北広瀬橋がある。
 旧己斐橋は、寿命がきてヒヤヒヤしている。毎日1万台の車が通じ、欄干がゆがみ、桁は補強だらけ、巾7m、長さ150mで昭和32年に架け替えたものである。この橋に並行して北側に鉄筋の工事が進んでいる。3億円、巾7m、長さ281m、40年5月に車を通す予定である。
 広島港は1万トンバースを2基からさらに2基増設の5年計画を37億円で43年度まで計画した。39年は、フェリーボートの時代で11社、85往復、フェリーラッシュという言葉が用いられた。4月市営桟橋完成し1千トン級が接岸できるようになる。
 空港も年と共に乗客を増し、大型化し滑走路を1,200mから1,870mまで延長することにする。沖を600m埋め立て43年完成させる計画である。
 自動車の増加と共に、青空駐車に苦情が多く出る。8月1日から青空駐車に厳しい規制が出る。30万以上の都市21市に「青空駐車禁止法」が出て、同じ場所に12時間駐車禁止となる。9月現在市営2か所、田中町と(6月相生橋駐車場)、民営46か所の有料ガレージ収容能力2,600台。秋までには市開発公社経営の有料駐車場を新天地広場につくる(11月6日)。相生橋駐車場は、1,200平方メートル、、乗用車38台、第三番目の新天地は、250万円普通車70台、料金1時間50円、大型車100円。
 8月道路公園緑地帯など不法占用を監視するパトロールカーを走らせる。8月3日仁保橋の開通は、大洲方面の交通を大きく緩和することを期待された。しかし霞町踏切の隘路が動脈硬化を起こした。巾6.5mの150m間である。また柞木と向洋間の最後の渡し船が廃業した。東雲はこの新道の開通で東雲町に1日1万台の車が通り、町を2分して派出所を地元が要求した。9月にはオリンピックを前に、フラワーポット150個を県と中国地方建設局が中心街の電車通りに並べた。たて120cm、よこ60cm、高さ55cmのコンクリート造りである。
 道路の並木も20年近い年月と6千万円の費用を投ぜられたため、国道に千本、県道に二千本、市道に四千本と計七千本が茂ってきた。しかし、排気ガスや繁華街のネオンや広告の邪魔になると切られたりして、数年に2%も減じたといわれた。
 バスセンターは、1日1,400台が発着し、紙屋町の地下道も計画された。その他踏切の立体化計画も立てられ、桜馬場は開かずの踏切で37年の調査でも4万台の自動車、オートバイが通行した。府中、安芸町のベットタウン化でますます交通増加し、遮断時間も350回、11時間といわれた。東蟹屋から矢賀踏切まで760mを巾25mに拡大するため県開発公社が買収に入る。中国地方建設局は本年からバイパス本格的工事に入るため、出汐町立体交差のため500m、淵崎1,000m、海田540mを5億円で用地の買収をする。船越橋250m、黄金橋522m、新住吉橋を着工をし、船越から仁保町2キロメートルの道路の建設は38年から進んでいる。
 11月から緑大橋(天満川)から新己斐橋まで650mを巾16m-32mの舗装を3,200万円で40年にかけて実施される。
 交通増加は、県内の自動車免許の受験者にも表れて、39年26万2千人に達し、合格は35%の9万1千人であった。36年度以降平均20%ずつ増加している。
 広島駅は5月にとりこわし仮駅舎工事をし、6月よりいよいよ民衆駅の着工をした。駅前の広場をえんこう川まで広げる計画、地下道や地下駐車場もつくる計画もされた。大きくは中国縦貫道、山陽新幹線、百万都市の交通体系をいかにするか真剣に計画をねられた。
 昭和39年度は、交通が大きく変わり、広島ー小郡間が電化した。しかし電車製造が間に合わず、貨車は蒸気機関車が多い。バスは長距離路線の申請合戦、また市内にワンマンカーが9月より広島バスが走らせ、広電もやがて実施する。人手不足が目立ってきた。5月22日広島駅の民衆駅が着工され、鉄骨があたりを威圧した。
 海上はフェリーボート時代となり、車と人を運び、水中翼船は海上交通をスピードアップした。

  昭和40年度
 5橋が開通し交通の一大革命になる。新住吉橋3月6日、牛田大橋5月13日、新己斐橋5月14日、大芝橋5月14日。新住吉橋は38年着工、3年計画、2億円、巾22m、4車線。40年2月頃両側道路舗装中。牛田大橋は38年11月着工、40年3月完成予定が少し遅れた。1億2千万円、長さ85m、巾18m、橋の北方に85戸立退き、巾25m、延長665m、41年末完成予定の道路進む。
 道路の整備 府中に至る岩鼻、暁橋付近道路拡張中、中島ー吉島線、比治山ー庚午線道路整備中、二葉の里立体交差拡張工事中。黄金山登山道一部舗装拡張と鉄柵取りつけ。
 広島民衆駅12月1日デビューする。駅ビル身動きできないほどの混雑ぶり。
 東洋工業大橋開通。

  昭和41年度
 府中街道 府中から旧国道芸備線踏切、岩鼻、片河、三本松に至る旧国道は狭く、矢賀・府中方面の住民が増加の一途で、大型バス、自家用車で混雑する魔の踏切の拡張までに至らなかったが、岩鼻の交差点の拡大、曙町から斜めに荒神陸橋へ至るバイパスがほぼ開通し、大きく交通革命を起こす。
 白島ガード拡大 山陽本線は白島土盛りの高架で、そこを通り抜けけるガード5か所があり、西端は長寿園の土手で平面交差する道があった。ガード3か所、拡大工事が43急ピッチ、にき津ガード拡大工事中。
 黄金山登山道に完全舗装・ガードレール完成。
 宇品線の存続決まる。39年ごろ赤字で利用減少と廃線を決められていたが、40年頃政治問題となり遂に存続し、時間表にないダイヤで通勤定期客のみ利用され、上大河に1日数往復残される。

左の写真は昭和41年11月、出汐町で国道2号線と国鉄宇品線が交差する踏切で、道幅せまく大型車も多く、一時停止で大混乱が続いた。

 バイパス完成 12月20日海田より観音に至る9.5キロメートルの新バイパス完成し交通緩和の切り札として登場した。海田から向洋まで一方のみ完成し、堀越橋と黄金橋は半分が開通した。黄金橋西詰めは買収が遅れて初めての淵崎インターチェンジは未完成のまま開通した。バイパス沿いにガソリンスタンドや中古車売買の店が多く並んだ。年の暮れの開通で、自動車の洪水が続いた。海田から黄金橋まで信号や平面の横断歩道もなく実に快適である。沿道は騒音に悩まされ、進徳高校、盲学校、浅野図書館から不平の声が上がる。近辺の人々は、道路の横断に不便を感じた。
 牛田小学校その他歩道橋を通学のため要望する。バイパスは都市の中心部を通さなくとも「迂回路」という本来の性格より、幹線道としての性格が強い、10年前よりの計画でバイパス幹線道と一石二鳥を狙ったものである。開通直後の通行量を1日2万台と予想した。そのうち10%程度広島に用の無い通過車とみられた。34年買収が始まり8年かかる。道幅22mから40m、6車線であるが、出汐町から新観音橋までバイクや自転車の通る後速道が2車線で合わせて8車線、総事業費68億円、1m当たり72万円かかり「東京、大阪周辺ならともかく国道改修にこれ程装備をこらす道路はない」と中国地建は自慢する。バイパスの特徴として、第一点淵崎インターチェンジを1億4千万円かけて柞木広島線を立体交差で連絡する。黄金橋は500m、9億1千万円かけた。バイパス9.5キロメートルの間には6つの歩道橋がかけられた。41年9月大洲付近の1日の車交通量3万4千台のろのろ、いらいら道路で、ラッシュ時はこの界隈数キロを1時間も要している。41年10月排気ガスが2号線の青崎で朝のラッシュ時、空気中の一酸化炭素許容量の3倍もあった。車の運行量よりも交通渋滞によるエンジンの空ふかしが原因といわれた。
 橋 バイパスの新明治橋が在来の橋の上と下に平行してつくられ3本の橋となって12月完工した。平野橋は、2本並行して12月に完工し、東たもとの河岸住宅も立ち退きになった。黄金橋は北側のみ12月に開通し、東の向洋山の掘割と西詰めの淵崎インターチェンジも年内に大体の形が出来る。
 バイパスの上に陸橋が多く、東より向洋の山地に3本、東雲に1本、出汐町に1本、皆実町に1本、加古町に1本、庚午に2本。
 上柳橋開通、駅前から基町方面への近道で交通の一大革命となる。1.4億円(国の補助3分の2)長さ84m、巾22m、中広宇品線の都市計画道36m、的場京橋町一帯で不法住居165戸立ち退かせる。
 年度中に着工されたもの空鞘橋(本川)、北広瀬橋(天満川)。東洋大橋は長さ560m、桁下23m、両側に伸びた2.7キロメートルの施設ハイウェイ、工場の総面積173万平方メートルを結ぶ。
 工事中の橋 安芸大橋の橋脚工事が進む、広瀬中広橋完成近し。
 着工した橋 舟入橋、空鞘橋。補修として昭和大橋。山陽本線新鉄橋工事(三篠、白島間)、観音橋の古いのが、傷みがひどく車の通行を禁止した。
 41年6月調べの交通量(午前7時ー午後7時) 相生橋27,680台、青崎・草津24,000台(36年の5倍) 38年には広島を20分で通過したが、たっぷり1時間はかかる。動脈硬化道路・いらいら道路という。
 海田大正町から青崎1丁目までマヒ国道で巾11m、2.8kmひどい時は40分かかる。時速4.2km車の歩く道といわれた。
 電車江波線に下水工事の配管工事つづく。
 バイパスが都心を通ることや、自動車交通量増加につれ、学区の再編成や交通安全施設を望む声が大きくなる。段原小学校の約50人は、駅前大通、的場町と金屋町がはさむ電車通りを横切る。京橋町地区では上柳橋開通で、大きい通りで分断されたので幟町小学校へ学区変更を陳情した。地元民の反対もあり審議会通りには実施されない。
 千田小学校は、バイパスで20%が横断された。神崎小学校は陸橋が地元の反対で中断。中島小学校は740人のうち600人がバイパスを渡るので地元の陳情で加古陸橋が出来る。その他小学校付近には多くの陸橋が次々とできた。
 宇品線5.9km、赤字線で廃止問題が起こる。南北に走りバイパスとの交点が大きい問題である。結局広島ー上大河2.4kmは旅客営業続ける。宇品ー上大河3.5kmは12月19日で旅客車を廃止し、夜間のみ貨物1便とする。
 下の写真は昭和45年3月、上大河駅南望、溝の右側に駅舎と広場があった。

 昭和42年度
橋 工事中のものとして、広瀬中広橋、舟入大橋、空鞘橋、安芸大橋、(東洋工業の私用の橋で大洲埋立地を結ぶもの完成)、黄金橋の下流側半分が5月に殆んど出来上がる、北大橋橋脚工事。
鉄橋 山陽本線の常盤橋、三篠橋とも完成し、古い鉄橋の撤去作業。
にき津ガード完成(5月)、ガード工事 新三篠鉄橋西詰、白島妙風寺付近拡大。
42年は昨年末東バイパスが開通し、これの仕上げの年で柵、電燈、舗装、歩道橋(舟入神崎、三育小学校、仁保、進徳など) 仁保インターチェンジ、黄金山橋南半分、堀越橋半分、黄金山橋から堀越橋まで南半分の舗装完成。バイパスは住吉橋が混雑し、加古町交差点までひびく。
昭和大橋の老朽化で町内が新築運動を起こす、44年度付け替える予定といわれた。 陸橋 海田、仁保、庚午、井口(鈴峯)、舟入、神崎、三育学園前、進徳、段原小学校南。
 府中から岩鼻に至る道路立退き拡大中、立退きはほとんど終わり、岩鼻付近拡大。祇園国道もラッシュ時は飽和状態、八木踏切でマヒ状態、緑井の狭い道路もネック、バイパスを着工する。草津付近2号線マヒ寸前、魚市場の南にトラックを入れるようにする案が立てられた。旧国道己斐、古江方面の松並木枯死はなはだしい。
 マイカー時代となり、1年間に23%増加した。市内の車10万台、青空駐車増加する。百メートル道路の富士見町、田中町方面で緑地をいためる苦情も出る。100m道路にバス路線。
 広島大橋のボーリング開始、交通量調査等で670万円計上され、70億円と見積もる。大芝に交通公園。黄金橋西詰めの宇品へ至るインターチェンジ4月まで完成。
 宇品港の周辺に1m-2mの堤防コンクリート工事。めがね橋から南水族館付近まで道路拡大(数メートルから10m位)、仁保沖町、黄金橋に至る宇品道整備中。
 広島港の新工事5月までに殆んど完成、県営桟橋電車を南に曲げて約100m延長、自動車、バスの発着場を変える。宇品の埋め立て、出島町西部と1万トンバース東。緑井、八木峠に至る国道バイパス建設中。
 下の写真は昭和41年7月、1万トンバース建設工事東望。海底に鉄パイプを打ち込む。仁保沖町(埋立地)に東洋工業の建設ラッシュ。遠景黄金山、楠那、日宇那。

  昭和43年度
 橋 安芸大橋完成し、吊り橋は取り除く(8月)、舟入橋や空鞘橋は橋脚のみ出来上がる。北大橋着工、電車土橋も唯一の木造であるが永久橋にするため下流側に仮橋を作り、鉄橋着工。
 八木バイパスの緑井、八木峠付近の工事が進み、太田川橋の西詰の橋脚工事中、また八木峠付近の跨線橋も工事中。
 右下の写真は、昭和43年10月 八木、佐東バイパス北望、中景右太田川橋で新太田川橋はまだ、遠景可部高松山。
               

バイパスのネックは、新住吉橋西詰めの信号で、ラッシュ時に西行きの自動車の行列が、加古町交差点にはみ出る、歩行者も不便で、下流に舟入橋(刑務所北西)の工事を進めてもらいたい要求が起こる。住吉橋西で南下と北上のため混雑がひどい。
 草津方面の狭い国道がラッシュ時のネックとなり、大きな問題となる。このため西バイパス着工、鈴峯高校北方から東竹藪までブルドーザーが活躍する。
 国道54号線の混雑ひどく、祇園大橋南詰の右折、左折で大混乱を起こしている。
 歩道橋も駅前、流川、白島、中山、府中、口田小、常盤橋東、舟入高校、曙、観音等次々と完成した。
 明治橋が取り除かれる(新明治橋の中の橋)。
 下の写真は昭和43年7月 新明治橋中央撤去工事東望、中景市役所と農協ビル

  今年は、インターハイのための各地の道路舗装など良くなった。昭和大橋西詰めより北の河岸道路、専売局の土手、平野町から比治山橋、観音グランド付近の整備も大きく進んだ。大芝町に交通公園が完成した(5月)。
 既に開通したバイパスにバス停留所をつけるため歩道に食い込んで、バイパスを広げる。道路では、江波電車線の舗装工事が完了。電車線の排水工事は大体終了したが、バイパスの北側は続行中。
 岩鼻から府中大橋に至る拡張工事も大きく進んだ。立退きは完了したが、砂漠や泥の海になる。
 己斐から伴、大塚を結ぶ峯越林道2,395mが完成した。己斐町の奥深く祇園に抜ける峠から西にカーブして上がる、丸山と大茶臼の谷の畑峠にのぼる。広島バスセンターから沼田町役場まで10km、己斐上町より大塚まで5.6km、工事は36年沼田町から着工し、7年間5千9百万円といわれた。
 紙屋町交差点に、交通コントロールタワーが出来る。広島港桟橋の新装なる。

  昭和44年度(市政80年)
 橋 空鞘橋、舟入橋工事進む、八木跨線橋完成(3月末)、8月一部開通。東大橋の上流側に歩道橋をつける。祇園大橋の南側に拡張工事。海老橋下流側に歩道橋、八幡橋上流側に歩道橋、その他歩道橋に袋町小、栄橋東、平塚町、南観音(小学校付近)、矢賀新町。
 道路 八木バイパス緑井3月開通、8月8日2車線(片側)開通。西バイパス工事続行中。
 3月1日より東広島駅発足(貨物駅)、己斐駅を西広島駅とする。新幹線工事計画発表。
 府中行きバス通り舗装拡大。坂町の埋め立て、鯛尾付近から一周道路完成。

  昭和45年(万博の年)
 新幹線起工式安芸トンネル、府中トンネル西入口、己斐トンネル、保井田トンネル。
 西バイパス急ピッチ、己斐跨線橋の橋脚に橋げたを渡す工事、鈴峯トンネル進む。
 県庁周辺の駐車禁止、空鞘から城の前まで整備、12月より祇園の国道54号線を朝ラッシュ時一方通行とする(古市以南)。
 工兵橋から牛田新町付近の県道に分離帯を加え拡大舗装整備、比治山短大付近まで。比治山南東端に登山道着工。
 権現山に登山道工事中、県民の森として整備、ラジオ中国、NHK、広島テレビ塔工事。
 次の橋に歩道上を分けて自転車道をつくる 駅前橋(6m歩道の一部)、上柳橋、東広島橋(3m歩道の一部)、南大橋2.5mの歩道の半分。橋 舟入橋3月完成開通式、空鞘橋完成、北大橋12月完成。祇園大橋2mばかり南方へ拡張する。牛田大橋東詰を拡大。己斐バイパス跨線橋工事進行。五日市の跨線橋完成。井口病院付近に跨線橋工事進む、鈴ケ峰を崩し埋め立ての為。
己斐駅東の跨線橋付近の立退き、廿日市地御前跨線橋ほぼ完了。旧明治橋に歩道橋とりつけ(上流側)
 故大段徳市の遺稿メモと写真を編集  2009年4月26日 大段徳行

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