バラックから復興 広島被爆後の四半世紀

  昭和20年
 戦時中の疎開家屋、28,144戸、原爆前日74,165戸あった。一発の原爆で完全破壊56,147戸(400万坪 48,222戸が灰になった)半壊3,750戸で僅かに周囲に8,400戸残った。
 焼失をまぬかれたのは、東は比治山東部の段原・南蟹屋・曙町・片河・矢賀方面、東南は翠町・宇品・仁保方面、南部は南千田・吉島・江波・観音、西部は己斐・古田・庚午等、北部は牛田・楠木・三滝方面である。

 右の地図は帝国書院 広島県郷土社会科地図より

 原子砂漠といわれ、川と中心部に若干の鉄筋コンクリートの残骸を残すのみで、デルタの周辺の山は、市内のどこからでもさえぎるものなく眺められた。400万坪は、死骸がいたるところに散乱し、住宅はおろか道路も通じない。75年間生物も生えないと言われた。
 福屋も原爆でガラン洞、2年間営業閉鎖、原爆症が伝染病と思い隔離病舎となった。
 9月頃から第五師団のあとに越冬バラック700戸が立ち始め、これが基町住宅の元祖となる。一部の学校で授業が始まる。
 広島駅前に8月荷物預かり所のバラックが立ち、8月下旬にミカン箱を並べた露店ができ、ヤミ市・青空市といい、駅前の繁華街のめばえとなる。10月から一部食料品の統制緩和でヤミ市は一層栄えた。12月には400店に達し、夜通し焚き火に浮浪者のむれであった。

  昭和21年
 焼け跡に瓦をひろい、焼けトタンを集めて素人づくりの住宅があちこちに出来始める。
本通りや京橋通り、えんこう橋通りにもバラック住宅ができる。鉄筋のために残った中心部の本川・袋町小学校を開校した。備品は箒数本で、バケツは貴重品で教師の補充も困難な状況で、床の上にひざまずいて字を書いた。
 1月市に復興局ができ、学識経験者・市会議員・連合町内会など30名で復興審議会を結成した。県庁は、焼失後東洋工業内にあったが、この年から10年間霞町の旧陸軍兵器廠内においた。7月末、21,040戸で内18,018戸は被害をまぬかれたものである。
 8月6日戦災復興一周年に基町の旧護国神社境内で平和復興祭が開かれた。
 11月には、復興都市計画が決まり、中心部全焼全壊400万坪の土地区画整理が始まる。
 鉄道が唯一に近い交通機関で、駅前の交通量が多く、1月に露店が1,000店に達し、6月13日ヤミ市の大手入れが実施された。
  昭和22年
 4月公選浜井市長当選し、8月6日には「平和都市に建設することを宣言」した。
 2月に駅前の火事で21戸焼失した。広島駅に陸橋が着工され、原爆復興第一期工事として、駅本屋の鉄筋を修理し、12月天皇来広のため応急工事を急いだ。
 この年からえんこう川沿いに不法家屋が立ち、被爆者や引揚者が一時しのぎに遊んでいる市有地にバラックを立てた。最初ヤミ市的存在から卸・小売商店街として栄えて行った。
  昭和23年
 若草町市営住宅が本年から27年まで、市営住宅279戸(うち鉄筋アパート6棟)建設。
 学校平屋の本建築工事の校舎が建ち始めた。5月児童文化会館が建設され開所した。
  昭和24年
 広島駅正面に張り出し出札所完成。駅前の区画整理実施が決定した。3月27日ヤミ市が大火、65戸焼失。
 

 広島地方高等裁判所の2階が完成、市民病院がこの年から27年にかけて建築される。
 学校はこの頃までは、急造校舎補修整備改築であったが、2階校舎も建ち始める。
 5月広島平和記念都市建設法が成立、住民投票が7月7日、公布は8月6日である。これで国有財産の無償譲与がされる。
 6月末の統計によると、住宅49,514戸、銀行・会社・飲食店・商店等合わせると6万戸となり、これらの8割は簡易な木造バラックの応急建築であった。
 本通り金座街などの中心部は、換地の決定と共に、建築様式の近代化で農協ビル、紙屋町北側の生命保険会社、ガス会社、官公庁、会社、商店街の本建築化が目立った。特にガスビルは、2階建のモダンな外観でバラック時代にはすぐれた建築であったが、セメントの統制時代で中央階段のみセメントを用いた。市役所前には農協ビルが建設される。
 基町の太田川東岸一帯、庚午地区は一大庶民住宅街となり、8月の同居世帯6,000世帯と推定された。反面料飲再開、建築規制緩和などは料亭、キャバレー、喫茶店の濫立、映画館もぞくぞく立ち消費都市の様相を示した。

  昭和25年
 広島平和都市建設をこの年から5年計画でスタートした。広島駅前に移転すべき家屋が1,300戸もできた。大須賀踏切から愛宕踏切まで25,000坪の整備を急ぎ、立ち退きの折衝も始める。
 10月1日広鉄局が完成し、駅北口の開業で二葉山方面が便利となった。
 8月東警察署が山口町から移転し、幟町に世界平和記念堂が着工され(45m)ビルの少ない時代特異な景観であった。
 牛田中学校の敷地が決定した。昭和19年浅野家から譲り受け、暁部隊の開墾、戦後地元民が只で耕作していたもの。
 学校の建築がモルタル校舎や鉄筋コンクリート校舎に変わる。2部授業70余人のスシヅメ授業も行われPTAの負担も多かった。
 市政要覧によると、市民個人の建設した住宅は、昭和23年以降25年9月末まで約8,900戸(月平均120戸)であり、戦前から25年末まで市営住宅3,377戸、県営住宅355戸である。市営住宅を年度別にみると、21年528戸、22年710戸、23年657戸、24年1,157戸、25年325戸となっている。このうち鉄筋144戸、ブロック22戸がある。県営住宅は市内のみで23年142戸、24年133戸、25年80戸このうち鉄筋コンクリート144戸、ブロック100戸であった。住宅金融公庫が7月1日業務を開始した。
  昭和26年
 国体が広島で行われ、戦災復興事業で幹線道路の応急的な舗装が行われる。駅前の街娼目立ち取り締まる。
 3月平和記念資料館を着工した。27年3月骨格が出来上がり、3年間工事をストップした。
 宅地の値上がりが急ピッチで30年秋に一般価格に追いつく。ビルがこの年から年毎に増加していく。26年38棟、27年50棟、28年107棟、29年97棟
  昭和27年
 
国鉄の団地が順次に建ち、東練兵場に33棟、548世帯ができる。 広鉄新庁舎の完成後、鉄道病院、職員会館、運動場新設と大きく変わった。
 鉄筋やブロックの耐火建築が増加し、木造との比が14%に達した。
 紙屋町バスターミナル用地の17戸に立ち退きを勧告し、28年とつづく。
 
宇品に競輪場ができ、12月スタートする。
  昭和28年
 9月の調査によると、住宅71,890戸(80,330世帯)の6分の1抽出して調べると、畳14畳(昭和10年は30畳)、持家 60%(昭和16年27%)、借家28%(昭和16年72%)、給与住宅 12%(昭和16年2%)、建築時代 明治7.4%、大正7.9%、戦前19%、戦時中4.8%、戦後60.9%
 市営住宅は4,000戸に達し、家賃は90円から3,000円で、今後は鉄筋アパートに重点を置く。庚午方面にも大住宅団地を計画し、公園敷地のため立ち退きの運命にある基町市営住宅1,766戸の移転については、4階建の鉄筋アパートを計画する。吉島本町には県営アパート8棟60戸が入る。
 7月鉄筋コンクリート建築物は、工事中を含め120で銀行・保険会社が7〜8割で、学校・アパート・病院・赤十字平和聖堂・鉄道局庁舎など特に目立っている。
 パチンコ店が多くなり、26年50軒、27年140軒、28年130軒となつた。
  昭和29年
 耐火建築のビルブームとなり、木造との比が27%となる。用途別には3割近くが事務所・アパート・学校である。高層ビルの濫立時代という言葉も新聞が報じた。地代の高騰もあり、建築投資の有利ということが重なったためで、紙屋町から八丁堀まで500mに3階以上のビルは、1月現在東洋座、中国銀行、福屋、信用金庫、商工組合中央金庫、富士電機、大和銀行、日本海上火災のほかに建築中のものに、太陽館の姉妹館の映画館、毎日会館、富士火災、紫惣ビル、尚計画中のものに旧福屋あとに8階の貸しビル等がある。
 県庁も着工され、31年4月まで2カ年を要した。4月基町付近の不法建築は、2,500に達した。この辺の区画整理地区内は、東部復興事務所で、市役所財務課、緑地課、大蔵省、文部省と監督機関がまちまちで統一して取り締まりにくい。中島地区にも立退き者が160世帯ある。このうち50世帯は家主で基町へ、40世帯は吉島その他へ行く。
 中央百貨を買収し5月1日から新しく経営し、7月に天満屋と名乗る。二葉山上に仏舎利塔のコンクリート造りが完工した。

 右の写真は、広島百貨からえんこう川南望
昭和29年11月、駅前大橋工事中とコンクリート舗装中
えんこう橋、、荒神橋、大正橋と南に下がり、遠景は黄金山
右下人だかりは何か反物を青空市で競り合っているような光景


  昭和30年
 1月建設中のビルの主なものに公会堂、浅野図書館、県庁舎、バスターミナルなどがある。戦前広島で見られなかった3階、4階のアパートが林立した。中央部で銀行、会社、デパート、商店など高層ビルが増加し、近代都市に変容してきた。
 福屋の増築、平和記念館、資料館の完成、別院の着工、黄金山の北方に住宅地造成のため地主68戸と話し合いが終わる。
 東洋工業が対岸の淵崎に移転が本決まりとなり、耕作者と正式調印が済み6月には着工した。
 10月1日国勢調査によると、87,233世帯、79,240戸で約8,000戸の住宅が不足であった。
 2月本通りのオーニングが建設後間もなく積雪の重みで崩れた。小学校で宇品東と大洲の2小学校が発足した。
 耐火建築は、30年には延24,000坪、木造に比し21%に当たった。3割近くが事務所、アパートである。3年前の27年をみると、延14,000坪、木造比14%に比しかなり耐火建築の増加がわかる。

  昭和31年
 完成したビルの主なものは、浅野図書館、原爆被爆者センター、修道学園科学館、天満屋(エスカレーター)、原爆病院(お年玉年賀はがき)、護国神社。
 家庭電化の波で(洗濯機、冷蔵庫、扇風機、テレビ)電機会社のビルに広告塔(早川電気)、松下電産ビルが建つ。その他のビルで伊予銀行、広相銀行山口支店(後に本店)、信用金庫、神戸銀行、山一証券、大和証券、映画館も毎日会館の東映、地階の洋画と2館を増し、市内37館となり、完全冷暖房の第1号で、32年頃より続々とまねられる。
 21年から31年まで市内の移転すべき建築は、18,600戸であったが、その7割13,000戸が移転し、全般的に86%すすんだことになる。駅前は9月までに640戸移転が終り、尚700戸が残った。
 基町団地の95棟の鉄筋化が7年計画でこの年から始まる。基町には、3,000戸をこえる老朽住宅と不法建築の立ち退き問題をかかえ、旧軍用地132,000平方メートルの半分を住宅団地に変更し、1,894戸の不燃住宅の建設や小中学校建設を計画した。ここは戦後間もなく緊急住宅対策として1,783戸の市営住宅と、1,000戸の不法建築が立ち並んだ。バラック建が多く、耐用年限が過ぎたものが多く、次第にスラム化し家賃も安くタバコ1個の家賃である。2部隊跡に合同庁舎が計画され、8月にボーリングして地下23mから24mに6、7階に耐える地層があることが判った。市営バレーコートには、4月から護国神社が着工された。基町を高層アパート化することは、都心の再開発という意義もあった。年末から32年にかけ公民館を移転したが、これはナイター建設予定のためである。
 都市計画税が土地家屋の価格の100分の0.2がかせられるようになった。
 慰霊碑に平和の池の着工、護国神社が秋に完成、原爆病院がお年玉年賀はがきで完成、比治山の千本松原に仏舎利塔建設のため地鎮祭がおこなわれた。南竹屋に三育小学校ができ、南千田の新埋立地で大動物博覧会が行われた。黄金山北方に本浦団地が着工された。
 駅前一帯の立退き家屋のため国鉄用地大須賀1,764坪を市が5,270万円で購入した。
 10月1日現在で、市の住宅白書が発表された。これによると、自家42,000、借家26,000、官舎・社宅7,500など75,937戸 世帯数90,755であるが、田舎から通勤しているものもいるので18,000戸の住宅が必要とされている。年間3,650戸建設されたが、7割が自己資金で、3割が金融公庫か市営住宅である。

  昭和32年
 この年に着工されたものに広島郵便局合同庁舎、基町アパート(8棟230戸)、中国電電ビル、完成したものに市民球場、バスターミナル、海田町新開にブロック県営アパート19棟76戸。住宅団地の造成で、府中城ケ丘50,000平方メートルが完成して、付近の山畑は1年半たらずで坪1,000円から7〜8,000円となった。団地の売買は、2〜3,000円で行われた。黄金山北側の宅地造成も約50,000平方メートル夏には完成した。戸坂町や中山町にも計画された。
 鷹匠町に民営高層アパート1号として和田アパートが完成した。家賃は5,500円から9,000円で当時はかなり高いものと感じられた。
 市内軍用地の1,774,244坪(約500万平方メートル)は、特別都市法で小中高(白島小・江波中・二葉中・似島小中・宇品東小)、水道施設7件、厚生施設2件を譲り受け、市民病院、競輪場、上下水道作業場、基町と宇品の市営住宅を借用した。土地使用料は1,032万円となる。
 年末の未整理家屋の統計をみると、駅前 一般500 緑地400 今年度立ち退き90
以下同順で、愛宕 153 0 22、的場 68 315 29、皆実 63 153 35、白島 58 869 26、泉邸 27 120 15、原爆ドーム 71 155 64、千田 90 10 36、蟹屋 300 0 0
 広島駅前整備は大きな支障で、大須賀踏切から愛宕踏切を結ぶ5万坪の整理は、約3割進んだだけで、あと700戸の立退き対象がある。
 平和記念都市計画はバラックが無秩序に並び、32年まで13,000戸が移転したが、不法建築が河岸に2,000戸もあって大きな障害となっている。
 ナイター建設敷地内にある官庁舎の移転したものに、中央公民館、市下水課分室、市東部復興事務所、県土木出張所がある。となりのバスセンターは7月に発足した。4年計画で宇品に1万トンバース東側に114,000坪の埋め立てが計画されている。工費2億3千万で漁業補償は1億3千万といわれた。
 2月に駅前に大火がありえんこう橋町53戸が焼け、8月には焼跡地区に新道路計画を進めるため66戸に期限付きで移転を勧告した。
 市営住宅は、年とともに老朽化し家賃の半分は修繕費に食われる。5,000戸のうち木造3,938戸、鉄筋640戸、ブロック422戸であるが、毎月50戸位の修繕希望があり、30年の修理費300万円、31年436.5万円、32年500万円にのぼった。老朽化のものに基町1,804戸、庚午546戸、江波61戸、河原町26戸 家賃に90円のものもある。
 9月末の市内飲食店数は、2,600軒にも増加し、広島の「呑み倒れ」ぶりを示した。バー・キャバレー 320、スタンドバー 100、料亭 150、純喫茶 700

  昭和33年
 ビルラッシュの言葉がでた。駅前に広島郵便局合同庁舎が4億5千万円で落成した。その他完成したものに5階の労働会館、4階の電電ビル、9階の朝日ビルなどである。基町にアパート3棟も出来上がる。
 着工されたものに、宇品女子短大の鉄筋化(38/5完成)、地元と百数十回も交渉してできた東雲町ゴミ焼き場が着工した。広島港東部埋め立てを9月県会で承認した。33年から4年計画で後に6年計画に伸び、坪5,000円の計画が8,300円と変わった。
 基町に大官庁街8万坪を60官公庁、職員9,000人、50億7千万円の計画がえがかれた。吉島木材センター県有地を払い下げて中小企業団地とし、坪当たり3,400円で売る計画とする。
 3月強制執行の整理計画によると、原爆ドーム付近公園化72戸、駅ー呉街道200戸、えんこう橋の荒神マーケット23戸、家庭裁判所南1戸。
 戦災復興事業320万坪の86%が進んだことになる。立退き対象は2,300戸で、内駅前に650戸ある。愛宕地区2万坪の区画整理は、立退き300戸と踏切の立体交差をするものである。
 3月の調べによると、住宅で持家55%、借家36%、給与住宅9%。4月1日に売春防止法が施行され、転業してバー、飲食店、簡易旅館に変わる。市内の遊興場はキャバレー・カフェ317、高級料理67、小料理店192、大衆飲食店1,300、旅館690。200人に1軒の飲み屋で1年に32億円の売り上げといわれた。
 11月に広島市周辺14か所の埋め立て計画、7.19平方キロメートル、217万4千坪、90億7千9百万円。市の埋め立て歴史をみると、1589年築城以降20.06平方キロメートル、全市の40.12平方キロメートルの50.01%を占める。井口団地龍神山も着工された。

  昭和34年                                          下は昭和34年1月元安橋からドーム望む

 ビルの建築が多くなり、5月の調査によると工事中のもの5階建6棟、3・4階のもの10数棟に及んだ。すなわち駅前に郵便局、住友銀行、若草アパート、紙屋町から八丁堀にかけて広相本店、昭和ビル、広電ビル、基町1番地に合同庁舎、市営アパート34年度分2棟、星型アパート7棟の計画、市役所付近で増築庁舎、中電本社、太陽生命、サンヨー電気、NHK放送局、宇品方面で海上ビル(6月着工)、県病院、その他県立図書館、尾長と福島地区に鉄筋コンクリートアパート1棟。
 その他、高天原の火葬場は地元の反対にあいながら4月から着工、福島総合病院が10月に完成、宇品に移出入用専用貯木場の着工、ユースホステル着工、9月基町に市営アパート6棟、星型1棟が完成し付近の景観が大きく変わった。
 都市改造で己斐地区の整備計画で450戸の移転を必要とし、福島地区で100m道路を放水路まで400m延長で600戸の移転を必要とした。新己斐橋の新設工事に並行して福島・己斐地区39万平方メートルの市街地改造、街路整備を行う調査設計をはじめたわけである。
 2月の調査によると、人口42万人、住宅の不足1万2千戸、都心部の土地は値上がり華々しく、金座街30年14万2千円、32年18万円、34年25万円。数年前まで翠町、牛田、庚午方面は2〜3千円の田畑が1万5千円〜2万5千円と10倍に値上がりした。宮島、可部線、府中方面が広島市のベットタウンとして国道沿いに2万円以下の土地がなくなる。田畑も坪1万円となる。住宅は10人に1人は困っているため団地は周辺部に向っていく。
 3月パチンコ店が市内に60業者と数は減少してきたが、大規模なものが多くなった。
 生活水準も上昇し、推計によると10世帯につき、電気洗濯機4台、テレビ2台と言われた。

  昭和35年
 完工したものに県立図書館、総合庁舎、日本生命ビル、NHK放送会館、中電ビル、中国電電ビル(33年度建築学会賞)、江波沖応急貯木場、旭橋、放水路の鉄橋、山手トンネル、東雲町のゴミ焼却場の試運転をはじめ、ユースホステルも営業を始める。
 着工したものや工事中のものに、音楽高校、己斐橋、南大橋、観音橋、広大病院新病舎(アメリカ余剰農産物見返り資金1.1億円)、西警察署、吉島本町へ少年鑑別所、鉄筋5階建の東洋工業病院。ケロイド庁舎のまま長く我慢してきた市庁舎の改装を始め36年3月にクリーム色のタイル張りになった。
 宇品の大和紡績跡33万平方メートルは、戦後15年むなしく過ごしたが、東洋工業が買収した。
 東練兵場開拓農地33.7ha、36万3千平方メートルの転用をめぐって県市が訴訟を起こした。牛田中学校の敷地の浅野山を自衛隊の手で2万平方メートルを切り開く、牛田の団地づくりが、35年から始まり38年まで失対22万人を動員して山林を開く、6万平方メートルの団地は38年に完成。府中に千代団地造成、緑ケ丘団地も県の事業で4万6千平方メートルが生まれた。
 計画として県立体育館建設を決定、河川の整備と運河計画も発表された。21億円で河川18か所を100万平方メートル埋め立てる。よどみのできる所、川中が高く洪水の影響のない所で商工用に65万平方メートル、公用に21万平方メートル、住宅用14万平方メートルとする。川の一番下流にある橋まで100t〜200tの船が上るようにする。
 川岸には、不法建築が1,300戸うち基町に600戸あると言われた。保健所は61か所で水の検査をしたが、大腸菌1万以下の無害は11か所、危険な1万から5万が5か所、5万以上の水泳禁止区域は27か所にのほった。学校にプール建設が大きな課題となる。
 広島空港の工事を急ぎブルドーザーがうなっている。中国電力の8階ビルは付近の3〜4階の建物をすっかり小さくした感じで景観が大きく変わる。
 原爆前の古い住宅街の比治山東部の段原方面にも鉄筋の建物が見られるようになる。段原中学校も35年に一部着工し、女子商も34年に一部着工、霞町警察学校もそびえた。

  昭和36年
 
市の周辺の山麓を削り、階段状の住宅がつぎつぎつくられる。平坦地が住宅で充足となり宅地を山に求めることがめっきり増加した。11月現在46ケ所100万平方メートル、この内9割近くが民間の宅地業者でずさんなものもある。公共団地の場合は、3分の1の価格であり、広島開発公社も発足した。
 東では鹿籠の府中南小学校付近から船越峠付近、安芸町温品の高尾山のふもと、二葉山麓尾長山西部、牛田不動院の北方と東方、牛田中学校の南方、三滝付近、新庄付近、己斐橋西側のふもと、大河十軒屋付近と白い肌を各地でむき出した。近くによるとブルドーザーのうなりが耳をつんざく。大内峠の中山側に35年頃より多くの住宅が建った。高天原の火葬場建設は地元の反対で思うように進まないが、自動車道は35年までに完成した。中山と戸坂との境に35年頃精神病院が出来、赤バスも通うようになり、36年ごろに宅地造成が進んだ。牛田中学が発足し、なお拡張されつつある。
 完成したビルに西警察署、県病院、改装した市庁、金座街アーケード、ラジオ中国放送会館、基町に合計11棟のアパート、東洋工業の病院、少年鑑別所、医学部、比治山高校などがある。
 着工したものに、鉄道局病院、高天原火葬場、広島高裁の合同庁舎(高・地・簡易)、吉島ゴミ焼却場、別院、荒神の立体交差、東大橋の改築、国鉄の電化の柱、本通りのオーニング、県立体育館の建設のため住宅の取り壊しを開始した。電気通信学園、郵政研修所などのくい打ちに地元が工法の変更を申し入れている。瓦が滑り落ちる、赤子が寝ない、ノイローゼになるというものである。
 放水路の取水口の工事が進行中で、祇園大橋は南たもとの立ち退きが終わらず。南大橋は開通し、観音橋は進行中、新己斐橋も完成したが、両側が立ち退き終わらず役目を果たせない。
 自動車の洪水で交通安全の問題が叫ばれる。念願の空港が完成して夏から発着を始めた。スーパーマーケットが多くなったのが目立つ。

  昭和37年
 完成したものグランドホテル、県立体育館、胡町通りのオーニング、荒神橋陸橋、観音橋、三原ー広島間の山陽本線電化、黄金山上の広島テレビ塔、三滝橋、可部線も新線に移転した。
 工事中のものに店舗付き若草アパート、太田川東部の工業用水、市商業高校神田山へ着工、中国電通局、二葉山と尾長山鞍部に松本商業高校の女子部の校舎、広島信用組合ビル(西魚屋町)、三菱団地が五日市・廿日市に、県営住宅建設のモデルケースとして可部上原団地が建つ、広大の尚志館や鷹野橋付近に高層建築がそびえる。市住宅課が1月に14,200戸の住宅不足と推定した。倉庫、仮小屋、防空壕等の非住宅に住んでいるもの500世帯、複数世帯(親類でなく同居)3,400世帯と推定した。
 37年の市営住宅申し込みも49倍に達した。広島市開発公社が宅地造成のため地主と個別に折衝し、くるめ木14万平方メートル、南観音6,600平方メートルを買収した。二葉土地区画整理で山を削り、東練兵場の34万平方メートルを埋め立て、平地部が坪4〜6万円、山腹3万円前後で取引される。
 えんこう川東大橋の下流の左岸大洲をゴミで埋め立て、護岸整備・土地改良と一石三鳥の工事が進み長さ750mの土地が出来る。
 鉄道電化にともない横川付近の重架線工事が急ピッチで進む。
 高尾山麓には、年末には驚くほど多くの住宅が並んだ。安芸町の中学校も鉄筋でそびえた。市内にも鉄筋が各地に建立された。

  昭和38年
 完成したものに、広鉄病院、吉島ゴミ焼却場、横川高架線、新庄橋、山手橋、牛田山の家、東消防署、広大寮(千田町2丁目元の山中高女敷地)、広島市信用組合のスカイパーキング(立体駐車場)、下流川にアイススケート場(550平方メートルの新冷凍装置)、市営住宅109戸(入居申し込み63倍)、若草アパート、高天原墓のアパート、白島・基町地区の水洗便所が下水道と直結した。
 着工されたものガスビルを取り壊し千代田生命ビル、舟入病院、広銀本店、黄金山の登山道を6mから8mとする。戸坂地区に新団地(買収地15万5千平方メートルが1億4千万円、それに8千5百万円かけて仕上げる桜ケ丘)、市工が3年計画で着工、広電会社ターミナル起工、黄金山北部に配水地のきりとり工事着工、宇品東部の埋立地に県社会福祉センター、宇品警察署(南署)、県警察官待機宿舎、中電の南部変電所など。
 安芸門徒のメッカ寺町付近の寺が異国情緒豊かなパゴダ風の殿堂、新しい型の仏殿で近代化していく寺町で、外観的「宗教革命」といわれた。
 市の住宅増加で、二葉地区に5つの町が生まれた。光が丘、光町、山根町、尾長町、二葉の里。
 ポリエチレン製のゴミ箱が普及して3月に1万2千世帯、11月末に6万5千世帯、市内の3分の2に及び、コンクリート箱が姿を消した。この年はスーパーマーケットが県下に90出来たが、広島市はその2分の1である。憩いの場であるべき比治山は深夜(11から5時)立ち入り禁止になった。南千田の先端と宇品の西に埋め立て工事中。

  昭和39年                   写真は昭和39年1月広島駅前、左奥鉄筋が郵便局、右奥鉄筋が旧駅舎
 

 落成をとげたものに、宇品東部埋立地に下水処理場第一期工事、翠町に保健所、戸坂くるめ木の桜ケ丘団地の造成(17万平方メートル)、不動院楼門の改築解体修理、戸坂に建具センター、打越町に国際観光キャバレー「ホノルル」、牛田浄水場本館、舟入病院、己斐町に市営住宅4階建アパート、若草町にショッピングセンター、市立商業高校浅野山に第二期工事、中山団地、台屋町に繊維問屋「ヤマニシ」の新社屋、市立工業高校4月に発足し新校舎第一期工事、己斐広電ビル(3億1千万円、デパート形式のショッピングセンター)
 着工・工事中に三篠橋東詰にマンモスアパート(日本住宅公団)、民衆駅、屋内温水プール、市役所の南庁舎、商工会議所、黄金山上水道配水地などである。9月中の新築ビルは基町、紙屋町、大手町方面に特に大きいものが多い。第一広電ビル、広銀本店、千代田生命ビル(ガスビルの跡)、商工会議所、中電の変電所(基町)、日本生命ビル、不動産ビル、日本住宅公社ビルなどが主なもので、家主は金融機関が多く、貸事務所や中央機関の出先機関になっている。
 出島町と仁保沖町の新しい2町が生まれて、市内に127町となる。出島町は広島港西港区埋立地の台形で、67万平方メートルを中小企業団地に分譲し東部製鋼と三菱セメント2社の進出が決定する。この台形の土地は16億3千万円を要したもので、この39万平方メートルを中小企業団地として97企業を入れる予定で、23mの幹線道路を通す。39年に44企業が進出した。
 12月の調べによると、市の管理する公共用地の不法建築は2,281戸で、内京橋川岸768戸、基町の公園予定地516戸、えんこう川275戸、県の管理する基町の土手に1,000戸といわれた。えんこう川沿いの不法住居は立ち退きを40年1月20日までにと通告した。大部分が衣料品・家庭用品の問屋、小売店、飲食店、小料理屋、スタンドバー、ボート屋である。店の2階や川側の部屋を住居とする。
 市営住宅が293戸出来たが、47倍の競争率で、建て替えや立退き者用が半数を占める。6,000戸の市営住宅のうち約700件の修理申し込みがある。鉄筋コンクリート住宅は4〜5千万円が必要であるがしかも土地がない、木造アパートを借りても数千円がいり、100年済んでも自分のものにならない。
 仁保沖町は、94万平方メートルで33年秋から埋め立て39年に完成し、83万平方メートルを東洋工業が買い占めた。
 南千田町地先の埋立地も38年6月開発公社がはじめた6万1千平方メートルで、漁業補償を含めて1億7千万円、下水施設や水道局資材置き場にする。
 駅前橋から大正橋まで450m東側緑地帯45戸(市道15m)、西側緑地帯101戸(市道36m)の不法住宅がある。
 都市の最高地価は、人口と照合、50万円であるべきだが、6月八丁堀の地価が80万円といわれたが、実の取引は100万円。

  昭和40年                                        昭和40年3月えんこう橋と駅前大橋

 市役所南庁舎が完成、千代田生命ビル落成、市民病院の増築工事完成、年中泳げる青少年のための屋内プール完成、元宇品海水浴場装いを新たに開場、中山小学校新校舎落成、広島民衆駅デビュー、己斐ショッピングセンター開店、青少年センター完成、戸坂桜ケ丘住宅団地造成完了、商工会議所工事完了、白島長寿園一帯14万平方メートルが埋め立て住宅公団アパート完成、鷹野橋にアーケード完成、府中南小学校付近の宅地が完成し住居建ち始める、温品の土手付近に工場が多く目立ち、山麓に宅地も増える、NHK会館に日本生命ビル、大手町住宅ビルなど高層化が進む。
 広島西税務署新庁舎が水主町に落成。
 己斐商店街の立退き、己斐の「ふじはいつ」団地造成中
 不法建築立退き促進協議会発足、市内不法住居2,400戸といわれる。県住宅公社井口に大住宅団地計画。
 4月住居表示(第一次)164町を125町とする。

  昭和41年
 昭和41年12月鷹匠町(本川2丁目)から基町望む 後ろ市民球場


 大建築で完成したもの、香港国際観光ホテル、100m道路に信用金庫、アリーナスケート場、青少年センターなどが目立った。
 建築中の大きい建物には、中電話局(国泰寺中付近)、農林中央金庫(NHKの北側)、新工場として東洋工業が仁保沖町に完成、出島町に多くの中小工場が並ぶ。
 住宅団地は、中山、戸坂、牛田、己斐フジハイツ、府中南小学校付近の増加が目立つ。二葉山の南麓、黄金山北東麓、新庄の西の山地にも多く建設された。鈴が台団地の造成も始まる。
 バッティングセンターが乱立し、年の暮れには閑古鳥の鳴くように衰えた。東雲町に3、新海田橋付近、吉島、新明治橋東、舟入幸町、愛宕踏切西、東練兵場、旭橋東など。6月から10月にかけて17か所、4か月の寿命で貸しガレージ、ゴルフ練習場に変わり、機械やネットで大きな赤字が出た。
 不法住居の立ち退きが大きく進んだ年である。駅前、的場付近、平野橋の東の京橋河岸、原爆ドーム付近(41戸96世帯)、河原町の神崎小学校の北側、工兵橋西詰の河岸。
下写真は、昭和41年4月えんこう橋から的場南望、河岸立退き直前

 京橋町・的場町の不法住居立ち退き跡の整備が遅れ、駐車場代わりになる。
 原爆スラムが市内に5,449戸6,256世帯といわれ、被爆者はこのうち1,906戸2,160世帯、この半数が基町に集中している。
 市内住宅不足2万3千世帯、市内総世帯数の約15%が住宅難にあっている。
 大学の新増設、比治山大学、経済大学
 原爆ドーム保存を決定し広く募金
 40年度の住宅5,085棟建築、41年10月末3,550棟で、農地が最近5年間で220haも宅地化された。観音、戸坂、己斐、井口など市内の代表的農耕地区が最近5年間で30%前後も減った。戸坂市営住宅だけで5年間800戸建った。
 農地転用後は、@周辺町村の安い農地を買い出作りする。A土地代金で貸家を建て、家賃収入で農業所得減少を補う。
 市が住宅5カ年計画で、5万3千戸必要、市営住宅は5千戸建つ見込み。
 住宅表示、3月より段原、比治山、皆実(第二次)、9月より仁保、東雲(第三次)

  昭和42年                                昭和42年2月広瀬町北望 天満川沿いの河岸住宅立退き中

 山を切り開いた団地各地で多くみられる。大野、地御前、井口(鈴が台)、矢野、祇園殖産住宅、フジハイツの北西部、戸坂山、松笠山ふもと、鯉城学園付近、尾長山東、牛田奥、矢口、岩の上、府中午王田、上温品、馬木やすらぎ丘、福田寺分、鈴峯高校の西と北。
 目立った大きいビル、天満町住宅公団ビル工事完成近し、駅ビル東の「イズミ」完成、大学病院歯学部完成近し、九栄商店、出汐病院など目に当たる。
 原爆ドームへ接着剤流入による補強工事(41年8月よびかけ、42年初めから募金)、翠町小学校皆実より分かれる、西白島に市営住宅7階建(公団住宅南)はじまる。
 立退き不法住居 比治山橋東詰ーつるみ橋、つるみ橋ー東広島橋ー柳橋ー稲荷橋、駅前橋ー栄橋、基町火災後放水路付近に2年の期限で移住、空鞘橋東詰付近
 河岸 駅前橋東の立ち退き跡に世界青少年会議記念の公園新設、的場上柳橋河岸に春、樹が多く植えられたが、夏の干天で枯死したものが多かった。
 川底に廃船42か所、川の汚れがひどい、ダストボックス90か所、川を取り戻そうと金網柵も12か所に設けられた。「カキ船」5隻水害の時は、橋をいためるので立ち退きを要求されたが、結局5年の許可で許されたが、将来は下流に移る計画である。

  昭和43年(明治100年)
 大きく目立ったビルに、明治橋西詰めに太平住宅、大学病院の新館完成、美術館完成、中電第二ビル工事中、観音橋西詰めに海苔ビル、中国新聞社百メートル道路に改築工事、専売公社の事務所が竹屋町付近の40m道路に沿い完成、新観音橋西詰めに医師会館工事中、八木水源地、出島町西に倉庫が多く並ぶ、牛田に盲学校第二小学校建設中、昨年のカキ中毒事件で新しい衛生的なカキ処理場が各地の海岸に新築された。
 住宅団地造成、馬木、上温品、矢野、井口西、皆賀、船越峠、府中、比治山短大の南の丘、牛田桜ケ丘、尾長山西麓など。
 住宅が多く増加した所、フジハイツ、祇園殖産住宅、ドーナツ化現象で周辺町村人口増加し緑井、原、山本各小学校など生徒増で鉄筋校舎できる。
 不法住居3,853戸(4,382世帯)、仮設住宅1,040戸(大洲、えんこう川左岸、大洲橋北方、牛田大芝橋東)、基町に2,862戸(3,142世帯)で74.3%にあたる。
 観音飛行場拡張工事始まる、常盤橋下の埋め立て河岸立退きすみ、廿日市の埋め立て完成、淵崎の埋め立て(入江)東洋工業の宿舎ビルがバイパスに沿い建設中。
 出島町西岸埋め立て巾約100mで南方三菱生コン付近に至る。南方の鉄の陸揚げ場や倉庫建設される。出島の東は、埋め立てて船着き場(砂などを揚げる)が出来る。
 不法住宅立ち退きが進む一方、仮設住宅増加し、一時は100m道路上にもつくられた。大洲の埋立地、牛田の放水路の埋立地に増加した。立退きは、柳橋西、比治山橋に至る地域と京橋東河岸や西岸、縮景園付近と対岸(常盤橋南)、えんこう川武市病院付近、東広島橋西詰めと大きく進展した。

  昭和44年
 大きい建築物で完成したものに、中国新聞社(9/23移転)、医師会館、専売広島地方局舎完成(2.2億円、地上5階地下2階)、鷹野橋ビアビアンカ、東洋工業体育館、盲学校(9月に比治山本町より移る)、牛田新町の小学校。
 建設中のものに、第百生命ビル(東広島橋西詰)、住友ビル(県下で最高の建物)、基町高層アパート7月着工、県庁北館、東警察移転の工事、県産業会館が9月より着工、宇品に海運関係の合同庁舎が凱旋館の西に工事始まる。原爆被爆者養護ホーム。
 44年は、ビル建設のラッシュといわれた。市内の建築で3階以上2,665、5階以上381、1年間に3割増加したといわれる。ビルは5〜6年前まで銀行、保険会社、官公庁が多かったが、喫茶、レストラン、ボーリング、映画館、展望浴場、ホテルなどレジャーが増加し、多様化したことと、特定の地域のみでなく広域化した。
 宅地造成計画及び進行中 矢野団地、鈴が台団地、小田のフジランド、虹山団地(大毛寺)、安田短大付近の弘億団地、戸坂の流谷付近東浄団地、牛田の女学院大学の北方、黄金山の水源地付近、府中中学校の西、府中船越峠東方、安古市大町付近の山、八木の別所16万平方メートル500戸、上原、地御前
 計画として発表されたもの、五日市高井団地3,500戸、1万5千人、250億円の計画、山田地区、坪井地区16.5ha(広電が45年1月着工)、阿品10ha、伴、矢口、三入
 立退き 縮景園南東栄橋付近、神田橋西詰、西バイパス予定地旭橋西の山、広島城の堀の周辺。
 市政80周年、人口55万人、新全国総合開発で中枢管理機能都市となる。公害問題全国的に大きな問題となる。
 極楽寺山と高陽町の宋に「いこいの森」をつくる。西部開発鈴が峰に用地買収交渉成立する。船越に東部卸売市場決定。市議会に広域行政特別委員会発足。緑井浄水場完成(46年に拡大)、千田下水処理場完工。
 44年住居表示変更 牛田、高須、古江、田方、山田、大須賀、二葉の里、光町、松原町、若草町、段原地区
 段原地区再開発基本構想まとまり、地元に説明会開く、@都市改造事業(市) A住宅地区改良事業(市) B日本住宅公団市街地住宅事業(住公) C住宅金融公庫中高層融資制度 D市街地再開発事業など。

  昭和45年
 完成したビル、大手町に農協ビル(黒い高層のもの)、宇品の海上総合庁舎、庚午小学校発足、ホームテレビ、産業会館、中広橋西詰のビル、住友生命ビル、原爆養護ホーム。
 建設中のビルとして、基町高層住宅(一部年末入居できる)、長寿園高層ビル着工(春)、江波下水処理場、比治山南方の電信電話ビル、第二合同庁舎着工、新明治橋東詰の高層アパート、明治生命ビル、鈴が台ビル、池田勇人の銅像。
 立退き 常盤橋西詰北(8月終了)東詰南河岸整備、比治山南の山麓、41年的場から始めた不法住居強制撤去は45年まで1,013戸、1,631世帯終了、河岸公園1億5千万円要した。基町地区は49年度まで事業完了の計画。
 進んでいる宅地造成 東浄団地、船越峠付近の府中、黄金山配水地付近、温品旭が丘団地、府中午王田配水地付近、八木峠の別所、虹山団地、五日市広電団地、小茶臼南東部、小茶臼北部、大茶臼西南、沼田町大塚、三滝山、弘億団地、武田山北斜面、温品蛇ぬけ付近、馬木鮎信火葬場付近、馬木やすらぎ丘、牛田新町被爆者療養センター(神田山)の造成中
 埋め立て 出島南東突堤付近。 段原再開発決定。
 海の汚れひどく、白魚の休漁、元宇品海水浴場の禁止。
 新住居表示 5月10日牛田の一部、霞、出汐、旭、堀越町、9月1日井口、鈴が台、草津、11月1日新庄、三滝本町、三滝山、竜王町、山手町
  故大段徳市の遺稿メモ・写真を編集 2009年4月10日 大段徳行

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