目の前の状況に彼は小さくため息をついた。
薄暗い洞窟、決して充分とは言えない生活環境。ため息をついても何ら不思議ではない状況で、それでも彼にため息をつかせた原因はそんな状況ではなく、嬉しそうに足にすりついて来る猫と、同じく嬉しそうに話しかけながら大きな包みを開いている少女・・・
「・・・ハーマイオニー」
「で、これがカードで、こっちがお花ね」
「ハーマイオニー」
見慣れた情景に、これで何度目だろうか、と詮無い事を考えながらまた細く息を吐く。無邪気に笑っている少女に気付かれない様に。
「何度も言っているように・・・」
「何度も聞いたけど、それでも今日だけは来ないといけなかったの」
手にカードと、「花束」と呼ぶにはささやかな花を携えたままで悠然と微笑んで見せた彼女は、危険だから来てはいけないと、いつもの台詞を繰り返そうとしたシリウスの言葉を、絶妙なタイミングで遮った。
「今日だけ?」
「そうよ。だって特別な日ですからね」
咎める様に、少し語尾に力を入れて繰り返してみるが、彼女はバツが悪そうにするでもなく、かえって胸を張って言い切られる。
「特別?」
「今日は2月14日なの」
「それが?」
「バレンタインデイじゃない!」
誇らしげにそう告げられても、彼には何と言われたのか理解するのに時間がいった。
それは、嘗ては確かに彼の身近に存在していたはずの世界で・・・
縁遠くなってからの時間が、もうかなりの時を刻んでいて・・・
それでも、嘗てと同じ世界へ今いることを思い出させてくれるのは、やはり彼女で・・・
「―――ああ、それで」
彼女が、ハリーからの伝言を携えてくることはあった。食料や、必要と思われるものを届けてくれることもあった。彼女に、ここを訪れることを再三禁じてはいたが、最低限の範囲内で過ごしている彼の元へ潤いをもたらすのが「彼女の訪問」だけだったことは確かで。
それを気にしてくれた訳ではないとは思うものの、理由をつけて「花」を届けてくれた、その心遣いが嬉しかった。
「発案者は君だね」
流されてはいけないと思いつつも、ようやく気難しい顔を改め笑顔を向けた彼に、今度は彼女が分からないと言いたげに眉を寄せる。
「その、花の」
彼が受け取りそびれ、未だ彼女の手の内にあるささやかな花束を指す。
「これは、私からよ」
「え?」
「だから、これは私個人からなの」
大変だったんだから、と機嫌を損ねた声で彼女は呟く。
どうやら、ホグズミードで思いつき、彼女の忠実なる使い魔に買いに行ってもらって、ようやく手に入れた品らしい。魔法使いしかいない村で、魔術用ではなく、魔法使いしか知らないような花でもなく、ごく普通の観賞用の花をわざわざ選んでくれていた。
ぷっと頬を膨らませ、心外なことを言われて拗ねながら、それでも少し照れた様に顔を赤くして彼女はそっぽを向いた。その様子が愛らしい。
頭も切れて、しっかりした印象の強い彼女がふと見せた年相応の少女らしさに、彼は笑みが零れて止まらない。
差し出され、そのままだった花を受け取り、前髪に軽く唇で触れた。
「ありがとう、ハーマイオニー」
礼を言いながらシリウスが離れると、ハーマイオニーは弾かれたように顔を上げ、不思議そうに目を瞬かせた。
そのあどけない仕草に軽く笑い、再び、少し押し付けるように触れる。今度は、頬に。
僅かに音をさせてから唇を離すと、真っ赤な顔で、口を開閉させている彼女と目が合った。
予想外の反応に彼が面食らったのは僅かの間で、次の瞬間には、つい吹き出してしまう。
「シリウス!」
不本意な笑われ方を咎めるように名を呼びながらも変わらない赤い顔に、笑い声を抑えられなくなる。
「そんなに笑わないでもいいでしょう!」
半分は本気で怒りながら、何とかシリウスの笑いを止めようと軽く叩いてみても、あっさり往なされてしまうだけで、笑い声は収まらない。
「可愛いな、ハーマイオニーは」
本気でそう思い、彼は素直に褒めただけなのに、これも彼女のお気に召さなかった。
「もう!」
今度は強く、両の拳を叩きつけた。
本気で怒らせてしまった彼女をなだめる為に、彼は少しよろめいた体勢と痛みを整えて、今度は穏やかに微笑んで、再び、前髪に軽く唇で触れる。
「からかってる訳じゃないんだ」
意外に真剣みを帯びて聞こえたシリウスの声に、瞬間ハーマイオニーの心臓が跳ねる。
望むべくもないことを言われた気がした。
「それもちょっと・・・」
「困る?」
「そうじゃなくて」
言うべき事を探しても、何をどう言っていいか纏まらず、結局、彼女はひとつため息をついて諦めてしまった。
「まあいいわ、宿題にするから」
「わたしの宿題かい?」
「私にとってもよ」
顔を見合わせて、今度は二人で笑い出した。
送って行こうという申し出を断って、洞窟を出て行きかけたハーマイオニーは、ふと立ち止まって振り返る。
シリウスが、どうしたのかと問いかけるよりも早く、小さな身体が抱きついてきた。
首に腕が回され、優しい髪の感触と香りに戸惑う間も無く、彼の頬に柔らかい温もりが触れる。
触れたものが何かを彼が認識する前に、温もりをもたらした少女は、さよならを言い、軽やかに身を翻す。
「ハ、ハーマイ・・・っ」
固まって、さよならさえ言えずにいた彼が、慌てて彼女の名を呼ぼうとした時には、彼女の姿は完全に彼の視界から消え去った後だった。
既に温みも消え去り、それをもたらした少女もいない今、さっきの出来事はよもや夢だったかと思い始めた彼に、手にしたままだった花の香りが届く。
夢かと思うには鮮やかに過ぎる程、ハーマイオニーの髪の香りが蘇ってきた。夢ではなかったと自覚した途端に座り込んでしまう。
「やれやれ」
頭へ手をやり、少々乱暴にかき回した。
娘といっておかしくない女の子にしてやられた気がして、深く、長く息を吐き出す。自身に呆れたように眉を寄せてみても、見事にやられたのがおかしくてすぐに表情が緩んでしまう。
「年かな?」
小さく呟いて立ち上がり、ほこりを払ってシリウスは洞窟の奥へ戻っていった。
二人が宿題を提出するのは、もう少し先のお話―――――
・END・
|