「やあ」
「なんで」
前から決めていたことで、間違いなく成し遂げるためにも邪魔が入らないよう、しっかり計画をたてたと思っていただけに、彼女の衝撃は大きかった。飄々と普段どおりの表情で笑って手を上げる彼を心の底から殴り倒したいと思った。
「やっと私のことだけ考えてくれる気になったね」
「誰のことも考えられなくなるのよ」
「つれないなあ、相変わらず」
手を、爪の跡がつくほど握り締めて、厳しい眼差しのまま、自分よりずっと高い位置にある顔を睨みつける彼女の様子に気付かない筈も無いのに、その表情は崩れない。
いつもと変わらない会話。
いつもと変わらない態度。
いつもと違いすぎる場所で。
いつもと違いすぎる状況で。
「何しに来たの」
「攫いに」
「今日だけは攫われてあげられないわ」
「今日だから攫われてくれる筈だけど」
思えば、今まで何度同じ会話を交わしたことだろうと思う。今日、この時に、こんなに重い響きで繰り返されるとは思いもよらないで。
「主上」
片方は睨んだままで、片方は笑みを絶やさぬままで、膠着してしまった空気を変えたのは、彼女の傍らに常にあった忠実なる半身で、常ならば遮る事も無い2人の間へ割って入った。
膝を突くのも辛そうな訳を3人とも知っている。その身を犯す病魔を癒す術が少ないことも。
その術の1つを求めて主従はこの地までやってきたというのに、主の為に半身は膝を折る。結果、誰の為にもならないことを知りながら。
「どうか」
「ダメよ!」
声を限りに叫んだ。
そんな声音に聞こえる。
彼女の唇から発せられたとは思えないほど悲痛な響きを伴った。
「絶対ダメ!あと扉1つなのよ!!せっかくここまで来たのに。 何で邪魔するの!!」
こんな時にも泣かない彼女を愛しく思おう。
こんな時だからこそ泣かない彼女を愛しく思う。
同じだけ。
「珠晶の望まないことにはならないよ」
静かに、静かに告げられる言葉は優しくて、厳しくて、彼女の張り詰めた空気を、ほんの少し、和らげた。
「何で、来たの」
ばれていない筈だと思っていたのに。
気付いた頃にはもう取り返しがつかないことになってる筈だったのに。
ちゃんと言わなかったのは悪かったのかもしれないけど。
他国の人なんだから。
「関係ないでしょう、利広には」
一時の激昂が収まり、彼女はやっと疑問を口にする。本当はもうそんなことはどうでもいい事だと思っていたのに、そんなことを訪ねる余裕が顔を出す。
彼が好ましく思ってやまない彼女の一面が。
「冷たいね」
何も様子が変わらなかったからきっと来ると思った。
今回ばかりは出し抜かれる訳にいかないから。
何も言ってくれない事は知っていたし。
離れているから。
「待っていたんだよ」
ゆっくり近づいて、彼女と同じ高さになるために膝を折る。
驚かさないように、払いのけられないように、そっと手を伸ばした。
触れた手は、少し冷たかったが、震えてはいなかった。
「この扉の向うに行った結果と、私の手をとった結果が変わらないようにすると言ったら、珠晶は、
私の手を選んでくれる?」
「何、言ってるの・・・」
驚いてとられた手を引くと、呆気ないほど簡単に彼女の手は開放された。
彼女の前にある顔は真剣で、彼の本気が珍しくはっきりと分かる。言われた意味ぐらいは分かった。冗談でも言える内容ではないことも。
驚きが納まれば、湧き上がるのは怒りで・・・
最期まで静かにさせてくれないで、最期まで振り回す彼に腹が立って仕様がない。
「奏まで一緒に滅ぼす気!」
全身の血が沸騰するかと思うくらい腹が立つのに、身の内は氷のような冷たさを感じる。身体全体が痛かった。
「私の成すことで国が滅びるとしても、滅ぶのは奏だけだよ」
まで、というのは言い掛かりだね、と彼女の思いを知らぬ訳ではないのに、そんな軽口を叩いてみせる。軽い口調で言われるにしては含むものは重い。
「第一、「国」が滅ぶことはないよ。精々、王の首が挿げ変わるだけだろう」
『もしも』
そんなはっきりしない問いかけに答えられない。
『もしも』
そんなはっきりしない答えあっても。
「何言ってるの、何で邪魔するの!?時間が惜しいのよ!少しでも無駄にしたくないの!!
知ってるくせにっ・・・!何でよ!!」
王のいない国は荒れる。王が荒らせばその荒廃は酷くなる。意図して荒らさずとも、天意を失った王が統治し続ける限りは荒れていく。荒廃が少ないうちに次王が起つことが誰にとっても望ましい。 分かっていても、長く生きているだけに、誰より分かっている筈なのに、引き下がる気が、彼にはなかった。
「君の命が欲しいだけだよ。扉の向うにくれてやる気にはならない」
柳眉を逆立てて声を荒げる彼女が、おそらく登極前から決めていた事だと、彼は知っていた。
邪魔する気はなかった。
それでも
渡すつもりも無かった。
「君が手に入る最初で最期の機会だから」
唇を震わせ、耐え続けた彼女の気が、不意に抜ける。
同じ事を考えた時があったから。
戯れのように繰り返される、軽口の中に含まれていたことを思い出したから。
「私も一緒にいくから、大丈夫」
きっとそんなことを言い出すだろうと、途中で気がついていた。
真面目に受け取ったことはなかったが、これも今まで、戯れのように繰り返されてきた言葉だったから。
今思えば、何と縁起でもないようなことを2人、話題にしてきたのだろうかと呆れる。
いつか、必ず訪れる終焉に思いを馳せない場所に、2人ともいなかった。そのせいかもしれない、と何処か人事のように彼女は思った。
常ではない場所で、常と同じに、ふ、と笑った。
「主上・・・」
震える声が彼女の足元で聞こえた。見下ろせば途方にくれたような紫と出会う。泣きそうなほど彼の顔が歪んだ。
例え主彼女を永遠に失うという結果は変わらなくても、ただ失くしてしまう己に比べて、手に入れるのだと言い切れる彼が妬ましい。やりきれない気持ちをもてあまし、主の前に同じように跪いたままの、彼の主を攫っていくだろう相手を睨みつける。
この数百年の間に一度も無かったことだった。
「無駄なことはしない方がいい、供麒」
瞳を珠晶から外さず、静かな空気はそのままで、彼女も、供麒も聞いた事がない厳しい声で、再度、本気を告げる。
「この場で使令と一緒にお前を切り捨てても私は一向に構わない」
押されるように供麒が座り込む。
彼女がひとつ息を吐いた。
「それは、ダメ」
もう、逃げられない。
きっと逃がしてくれない。
逃げたくないのかもしれない。
「ダメよ、供麒を殺しては。連れて行かないために、ここまで来たんだから」
麒麟を殺したくなければ自分と一緒に来い、と聞こえるように彼は言う。
珠晶にそんな言い訳など要らないのに、王としての彼女に理由を与えて。
結局、甘やかすから。
と、より思うのはどちらなのか。
「何で一緒に、なの。あたしを手に入れればすむことでしょう」
「このままいずれ来る時を待つよりも、自分で選んで決められるのは幸せなことだと思うけど?
1000年も過ごせば充分だよ。人の一生を何度も過ごした」
「最後の最期で、あたしから「王であること」を取り上げるのね」
「わがままだからねえ」
諦めて?
そう小さく呟いて、変わらぬ笑顔で、同じように手を差し伸べる。
「おいで」
差し出された手をとることを、誰も疑わなかった。
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