「――珍しいな」
手にしたグラスの氷を揺らしながら男が、隣の女に声を掛けた。
その日は、賞金首を引渡し、珍しく警察で小言を拝聴することなく帰途についた。その途中、どちらから言い出したか、一杯飲んで戻ろうと近場のバーの扉をくぐった。
店内は程よくにぎわっていた。周りが気になる程、混んでも空いてもいない。こういう店独特のほの暗さとざわめきが、静かに流れるナンバーと心地よく交わっている。
カウンターのスツールを引いて腰掛ける。運ばれたグラスを軽く合わせてから、口をつけた。特に何を話すでもなく、グラスを傾けていた矢先に、問われた。
彼女は何の事を言われたのか分からず、小首を傾げて翡翠の瞳を瞬かせた。
「最初は、必ず、マルガリータじゃなかったか?」
驚いた。
以前、飲みに出たことは数えるほどで、二人で飲みに出るような関係になってからは、まだ、今日が初めてだというのに。
――何注文していたか覚えてるなんて
意外だった。そんなことを気に留めていようとは、思いも拠らなかったから。
意外だった。
自分でも。
言われて自覚した。いつも最初は、マルガリータだったことを・・・
ふっと口元が緩む。やや自嘲を含んで。
「嫌いなの」
「・・・嫌いなもの飲んでたのかよ」
「だから、やめたんじゃない」
それきり口を噤んでしまったフェイを、スパイクは眉を上げ暫く見つめていたが、それ以上追求することはしなかった。煙草を取り出して火をつけ、深く吸い込んだ。
酒の勢いもあったのだろう。普段の彼女であれば、決して口にしなかったに違いない。特に、彼の前であれば――――
「ね、由来知ってる?」
「―――ジャックローズの?」
「違うわよ。マルガリータ」
スパイクは少し肩を竦め、ゆっくりと煙を吐き出した。そんな様子をフェイは、意外と柔らかい表情で見つめ、ローズレッドの液体の入ったカクテルグラスを玩びながら、話し始めた。
「『マルガリータ』って、初めてこのカクテルを作った人の、恋人の名前なの。
その恋人は、猟場で流れ弾に当たって、亡くなってしまったんだって。
優秀なバーテンダーだった彼は、亡くなった恋人を偲んで、このカクテルを作った・・・
毎晩、世界中のどこかでその名が呼ばれるわ――」
スパイクの手にあった煙草は、何時の間にか灰皿へ置かれ、再度手に取られることなく灰になっていた。
話し終えてからも彼女は、話し始める前と変わらぬ穏やかな表情のまま、手元の、マルガリータではないカクテルを見つめている。それはまるで、幸せな夢でも見ているような表情に見えた。
そんなフェイを見つめるスパイクは、怖いくらいに静かだった。
「――聞いたのか?」
心ここに在らず、といった風情の彼女に届くには、静かすぎる、小さすぎる、と思われるほどの問いかけが、彼の口から零れた。
「思い出したの」
緩やかに口元を綻ばせ、グラスを傾ける。
「二十歳の誕生日に、大人になったお祝いにって教えてもらったの。洒落た誕生日プレゼントでしょ」
無邪気と言えるほど、無防備な笑顔だった。
隣の男は、無邪気な笑みを向けられているとは思えない、厳しい瞳で、黙って女を見つめていた。色違いの琥珀が、初めて見せる真摯な色で凝っている。
視線が合って、漸く、翠の瞳にスパイクの良く知る表情が戻ってくる。ゆっくりと夢から覚めたフェイは、気まずそうにスパイクから視線を外した。バツが悪いのをごまかすように、ややキツイ口調で毒づいた。
「バカみたい。ホント、バカよね。感傷じゃない、そんなの」
誰に対しての言葉なのか、機嫌が悪そうに、それでもどこか切なげに、翡翠が微かに揺れている。
ずっとマルガリータだった。どこかに残っていたのだろう。そんなロマンティックな話は好きでもなければ、信用もしていない筈なのに・・・
今となっては、そんな話に憬れる柄でもなければ、虚しく響くばかりの内容で、余計に腹立たしかった。思い出してから、一切、死んだ女の名を持つカクテルに、口をつけなかった。そんな女の名を呼ぶのも嫌だったし、作った男の意図に乗るのもご免だった。
「お前さ・・・」
何か言おうと、一旦は口を開いたスパイクだったが、言うべきことを探しあぐね、結局口を噤んでしまった。そんな彼の様子に、彼女は気付きせず、手の内のローズレッドを眺めている。
暫くは、店内のざわめきと音楽が、時間をゆっくりと紡いでいった。
「――フェイ」
それは、聞き逃すかと思うほど小さな声だった。
隣の顔を見上げるが、彼女の名を呼んだ筈の男は、そ知らぬ顔で新しい煙草を銜えていた。本当に空耳だったのかと、首を少し傾げ、自分のグラスに視線を戻した。
「・・・フェイ」
先刻、空耳だと思った声がまた同じように聞こえた。聞き間違いでもなければ、聞き逃しもしなかった。
「何よ」
今度は返事をしながら振り仰ぐ。彼は短くなった煙草を灰皿へ押し付け、口を開いた。
「フェイ――」
「何?」
今度もまた、それだけ。
名を呼ぶ以外、何も言わないスパイクにフェイの瞳がややきつくなる。当のスパイクはフェイの方へ顔も向けず、涼しい顔でバーテンから新しいグラスを受け取っていた。
いくら睨んでも、何を言うこともなく、こちらを見ようともしないスパイクに、もう一度厳しい視線を投げつけ、フェイはグラスに残ったアルコールを呷った。
「フェイ・・・」
「だから何なの!」
フェイの声が流石に高くなる。勢い良くグラスをカウンターへ叩き降ろし、柳眉を逆立てた。スパイクは、怒りに燃える翡翠の瞳を静かに眺め、新しいグラスに口をつけ――
もう一度、初めて、彼女に向かって呼びかけた。
「フェイ」
「煩いわね!用もないならいちいち呼ばないでよ!」
「じゃ、律儀に返事してんなよ」
「あんたがしつこく呼ぶからでしょ!」
眉を吊り上げるフェイを、スパイクは笑いながら見つめている。やはり、何も言う気はないらしい。色違いの琥珀が、悪戯っぽい色を湛えて、鋭く光る翡翠に合わされた。
――何だっての。ホント、ムカつく男ね!
髪が広がる勢いで、腹立たしそうにそっぽを向いてしまった彼女は、気付かなかった。彼が少し残念そうに苦笑したことに。
砕けそうな勢いで叩きつけたグラスは空になっており、フェイにも新しいグラスが運ばれる。気分を変えようと、ローズレッドのグラスに伸ばした手が、途中で止まった。ゆっくりと顔が正面へ戻ってくる。
しっかりとグラスを手にし、一口含んでカウンターへ戻す。
「・・・だから、嫌いなのよ――」
また横を向いてしまったフェイの唇から呟きが零れる。髪の間から見える頬が、心なしか赤く染まっているのが、ほの暗い明かりに透けて見えた。
――あんたなんか
ざわめきに紛れるように紡がれたフェイの声が聞こえたのか、スパイクは薄く口元に笑みを浮かべた。
今度は、満足そうに―――
どこかの席で、死んだ女の名を呼ぶ声が、聞こえた気がした・・・
・END・
|